6月の一般質問ですが、2024年度の退職者の動向と人事異動の状況を見て、鈴鹿市の人事に疑問を持ったことをきっかけに、その点について退職者の動向について情報を収集して、そこから考えられる点について確認しながら、今年度改訂作業中の鈴鹿市人材育成基本計画に対して意見を述べる形にしました。
これを見ると、中長期計画スタートの翌年に「早期(45才以上で、在職11年以上の職員)」の退職者が増加していること、2018年以降に「その他(主に自己都合退職)」の退職者数が増えていることに気づきます。それ以外に気になったところには色を付けています。
みなさんはこの数字の動きからなにを感じ、どのような要因を考えるでしょうか。
自分は、2018年以降、鈴鹿市行政に課題が生じていると考えます。
自分は、以前から一般質問などでも触れていますし、よく行政職員と意見交換で話したりしているのですが、鈴鹿市の西部地域の今後の在り方は、次の100年を考えるときに重要だと考えています。
過去の都市マスタープラン改定の際に、スポーツ施設の視点から農村環境改善センター周辺を、スポーツレクレーションゾーン(エリア)と位置付けることを、都市計画審議会委員の時に意見することから始まり、新名神開通後の在り方へと議会活動で取り上げてきました。
結果として、農村環境改善センターと西部体育館のふたつのスポーツ施設に関して、公共施設マネジメント場も課題でもあるのですが、取り組みはまだ進んでおらず、自分の力不足を感じると同時に、末松市長の鈴鹿市の今後に対する展望に疑問を感じているところです。
それはそれとして。
自分は、これから50年先、100年先を考えるとき、南海トラフ地震による津波もですが、やはり気候変動の影響による海水面上昇も考えられることから、将来世代のリスク回避や持続可能な生活や、人口減少下での再編を考えると、鈴鹿川以西の地域に都市拠点となる地域ができるよう、いまから取り組む必要があると考えています。その候補のひとつが、農村環境改善センター周辺地域なのです。
今ある農村環境改善センターの施設に西部体育館の機能を統合して再編、そこに鈴峰中学校区を統合した学校を設置しながら、多世代で利用できる機能と施設を設置して、そのそばに、2階建て以下の居住エリアを徒歩生活前提で配置するような形を考えます。
いま他の地域であるイメージとしては岩手県紫波町の「オガール紫波」や、静岡県裾野市で取り組まれている「ウーブンシティ」でしょうか。生活エリア内は徒歩もしくは使っても共用のEVでの移動で十分なものとして、それ以上の移動のためにエネルギーを利用する乗り物は、パークアンドライド的な配置でどうかと考えます。
既存市街地については、人口減少によりスポンジ化が加速することが予想されるでしょう。そうなったとき、移動つまりは交通を考えると、駅など交通のハブになるエリアに居住地を集約していくことになるかと考えます。そのときには、標高や地質的な状況も含めながら、よりリスクの低い土地を選択することになるかもしれません。
またこのような再編の動きと合わせて、輪島カブーレのような考えを組み込むことができれば、少子高齢化社会の中での価値も創造できるように考えます。
このようなことを大きな企業にゆだねることなく、少しずつでも地域内の事業者で取り組んでいくことができれば、持続的な公共投資でもあり、次の時代にもつながっていくことができると考えたりします。
自分がそういう立場になったらいいのでしょうが、そうもいかないので、もどかしいところですね。
奥能登の市町の状況や、過去の東日本大震災、熊本地震、中越地震、阪神淡路大震災や、各地の豪雨災害などを振り返って、鈴鹿市のことを考えると、やはり「事前復興」の視点で取り組むことが重要だと再認識しました。今回の奥能登の状況でも、起こった状況に対応しながらでは、どうしても復興までに時間がかかると感じました。
仮設住宅に住まわれた方が、次に住まわれるのはどのようなまちになるのか、もし、その考えを事前に共有できていれば復興ははやいでしょうし、それに向けた動きもでき、人口流出も抑制できるかもしれません。以前に岩沼市や名取市の復興を視察させて頂いた際も、出ていける人から街を離れていくとお聞きしたことがあります。そのようなことは避けるべきでしょう。
また、阪神淡路大震災の際には、仮設住宅に住まうにあたって地域コミュニティを考慮しなかったことで、孤立するなどして災害関連死が多かったという話がありました。そのようなことは考慮されて今の対策に活かされていると思いますが、それでも、復興期にはどれだけ取り組むことができるでしょうか。
地震災害はもちろんですが、気候変動による気象の極端化による災害、海水面上昇も十分に想定される時代に入っている現在、私たちはそれらを踏まえた議論をして、いざというときには即座に対応できるように備え、長期的には復興するための地域へ、無理なく住まい方を変えられるようにしていくことが、今からでもできることだと思います。その点について、今日の段階で、防災機器管理課で意見を話しました。
鈴鹿では南北の動線として、東部の近鉄線と国道23号、中央部にある伊勢鉄道と国道1号、西部の東名阪と新名神と国道306号が考えられますが、今一度、それぞれの沿線上で、事前復興の視点から次のまちの在り方を考えてはどうかと思います。
報道などで「輪島KABULET®カブーレ」の温泉施設が活用されたことなどを目にしていたのですが、地震による市内の状況や、豪雨による山間の状況を見ていて、復旧の進捗などいろいろと気になることがありました。
写真は市役所内にあった輪島塗の支援に関する窓口です。輪島塗も現在のところは、在庫として持っていたものが出ていて、売り上げとして悪くないようでした。しかし、職人の方が被災したことで、工程の中で職人さんが不在となっているところがあり、今後の生産に課題があるようです。
そして市内の状況ですが、地震による影響から立ち直っている最中に、豪雨災害に見舞われ、振り出し以下になったような状況だったということでした。「輪島KABULET®カブーレ」のあたりまで浸水し、カブーレの温浴施設も被災、ですが早急に再開されたとのことで、地震の際も含めて意義があったということです。また、現在も福祉を通じた活動をされていて、地域の支えになっていることを感じました。
■テレ東プラス:「温泉にビール…被災地の灯台のような施設「輪島カブーレ」の復興戦略」
ただ、現時点で公費解体は約6割、下水はところどころでくみ取る形、山間には土砂崩れの跡がまだそのままだったり、その中で、人口は約3割、職員数は約70人減少と、厳しさを感じずにいられません。
隣の輪島市門前町に行くにも国道249号は寸断され、穴水町経由で迂回しなければいけなかったり、主要道路の「のと里山海道」も、崩落しているところがそばにあるところを応急的に開通していたり、道路そのものも輪島市に近いところほど大きくうねっていたりと、交通アクセスに大きな課題を感じました。
輪島高校近くの民宿で一泊したこともあり、そちらから輪島港に向けて歩きながら市内の様子を見て回りました。
道路はあちこちで写真のようになっていますし、電柱が傾いていたり、家屋などが撤去され空き地もあちこちに見られました。火災で焼失した朝市通りは、カブーレ輪島ができる前に視察させて頂いた際に歩いたことがあるのですが、巨大な空間として空いていました。
海側を歩いていると、倒壊した建物に酒造りのタンクがあり、朝市通り側に行くと店舗部分が開いていて、そこに入りお酒を購入しました。酒造りは、小松市の酒造所などに依頼しているということでした。東日本大震災でも酒蔵がダメージを受けたところがありましたが、規模は小さくても造りを継続できるような支援が考えられないかと考えます。
道の駅「千枚田ポケットパーク」はつい最近再開されたとのことで、当日は、県外ナンバーの車はもちろん、石川ナンバーであったり、バイクの方も結構いらっしゃいました。
ドラッグストアやコンビニ、スーパーなどは開いているので、生活に必要なものを手に入れることはできると思いました。ですが、地域産業としての観光を考えると、やはりダメージが大きいことを感じましたし、また、学校敷地内に仮設住宅があったり、被災した市内の景色も含めて、子どもへの心理的影響を考えずにはいられませんでした。
夜は宿のそばで食事ができたので、そちらで食べながら店主の方と話をしていたところ、そばで食事をしていた別の方から話しかけられました。聞くと愛知の方で、能登半島地震の状況を見るために来ているということでした。感想はやはり自分が感じたことと同じで、まだまだということを実感したということでした。
珠洲市から輪島市へは県道26号線を通りました。その前に、国道249号線を使いゴジラ岩の様子を見に行こうとしたのですが、オーバーヒートの症状が出たので無理をせず、「寄り道パーキング若山の庄」でUターンして、もと来た道を通り輪島へと向かいました。その途中には、豪雨災害の際に川に流された家屋がまだそのままで残っていたりもしていました。また、流木も多々残っていました。
26号線沿いは、豪雨災害の際に山崩れを起こした箇所が多々あり、その撤去などがまだ手付かずのところが多かったです。
そこから海岸線の国道249号にまた戻るのですが、そこも山崩れの影響があちこちで見られ、また撤去が終わっていないところも多くありました。
写真は「名舟漁港」ですが、隆起の影響に加えて流木の流れ込みがありました。どこまで復旧できるのか、それともできないのか、とても難しい課題と考えます。
戻りますが、これは見附島そばの建築物です。津波の影響でガラスなどが割れ、構造物にも影響が出ています。ここで、地元のおばさんと少し話をしたのですが、昨年8月に避難先から珠洲に戻ってきたものの、復興住宅暮らしが続いていることがしんどそうでした。また、昔、伊勢神宮に行ったことがあり、その時の思い出の写真は津波で流されるなどして、そのこともしんどいということでした。
珠洲だけでなく輪島でも仮設住宅に住んでいる方々はまだ多いのに、大阪万博ばかりを流すメディアもどうかしているように感じました。
津波も大変ですが、軟弱地盤の上にたっていることによる影響は無視できないことを実感しました。鈴鹿市も沖積平野ですし、海岸線部には湿地などを開発した地域も存在しています。やはり地震動の影響で、家屋にダメージが出ることを想定、その上で事前復興準備の議論を進めることが重要と、あらためて考えました。
発災から1年半が経過した能登半島地震の現場を、自分の目で確かめるために車で周っています。あまり細かくはまわれませんが、国道249号線にそって七尾市から穴水町、能登町、珠洲市をまわり、輪島市の様子を見ました。道路に関してはほぼ繋がり、各市をまわることはできます。ですが印象は、地震の影響でかなり凹凸があり、また場所によっては崖側に落ち込んでいるところもあったりと、とりあえずつなげたという感じです。
走っていて目に付くのは、黒い瓦屋根の棟の上のところにブルーシートがかけられている家を多く見かけることです。昨年1月の地震以降、豪雨災害もありましたが、それだけ修繕に手が回っていないことを感じます。また、倒壊した家屋はもちろん、ゆがんだ家屋や建築物も多く見かけます。また、まちの中を走ると電信柱が傾いているところを多く見かけますし、歩道などもゆがんで側溝のところが大きく壊れていたりもします。
率直に言って、能登半島地震災害から約1年半、豪雨災害から約1年が経過しているのですが、一部の建物撤去だけが進められていて、手つかず、手が付けられない状況の建物がまだまだあり、なおかつ、撤去されるとそこが空き地として存在することになり、復旧でさえまだまだと感じますし、復興はいわずもがなと感じます。
これは穴水町の「道の駅あなみず」そばの建物ですが、駅のすぐそばであるのに、ゆがんだ建物がそのままです。珠洲市でも市役所近くの商店の多い地域では、建物の危険度判定で厳しい結果の出たものが、まだ解体されずに残っていたりもしていました。輪島市でも、朝市の火災だけでなく、街中の建物が倒壊したままだったり、解体されて空き地になっているところが多くありました。
珠洲市では地域経済が動かなければ、商店などの復旧は難しく、避難されている方々が戻ることは難しいでしょうし、人口減少は加速する一方でしょう。輪島市でも、地域経済の中の観光に深刻なダメージを負っている状況が長引けば、それだけ他に仕事を求める人が増え、立て直しが厳しくなるでしょう。
まだこのような状況であるのに、大阪万博のために突っ走った大阪の政治の動きは理解できませんし、国の政治も何を見ているのかと憤りを感じました。
珠洲市の多目的ホール「ラポルトすず」そばの様子です。排水施設は壊れ、港も壊れたままです。
輪島市のマリンタウンそばの様子です。1年半でもこの状態。
政党活動関係のポスターが道路沿いにあったりしたのですが、なんだかむなしく感じました。
4月一臂で鈴鹿市で人事異動が行われましたが、やはり疑問を感じる異動が散見されます。
例えば管理職についてみていると、個人の異動ですが、前職とまったく違う部署になっている場合があったりします。そうなると転職と同じような感じと思いますし、政策について専門性も高くなっている現在、それに対応するために相当な負担があるだろうし、人間関係も含めると相当なストレスだろうと感じます。こういうことが、定年を待たずに退職する要因のひとつにあるかもしれません。
部署で見ると、今年は“鈴鹿市こども条例”が施行される年なのですが、担当部署のこども政策部こども政策課が部長、課長、グループリーダーと退職と異動で総入れ替わりとなりました。次長は変わっていませんが、健康福祉部と兼任となっています。
個人的な考えですが、議会の常任委員会や一般質問でのやり取り、策定過程の議論などの内容をおさえながら、条例がうまく鈴鹿市になじむかを調整するには、属人的でしょうが策定に関わった人材が、その場で少なくとも1年くらいは進捗に取り組むことが大切ではないでしょうか。
それを総入れ替えにしてしまうのは、こども条例に関連するこども政策をどのように見て考えているのか、市の姿勢を表しているようにも感じますし、一つの部署だけではなく、市政全般に通じているのではと危惧します。
五期の2年が過ぎ19年目に入っているわけですが、振り返ってつくづく感じることは、行政の職員の方々にとっても、課題を認識してそれを解決したいと考える動機と行動が、とても大切だなということです。
新潟県中越地震の被害を機に、旧山古志村の復興に取り組んだ方は、地震被害からの復興だけではなくて、中山間地域の課題解決という側面からも取り組まれ、国の補助制度を調べて、一見関係がなさそうなものを、課題とつなげて活用されていたことを思い出します。
いろいろな研修でお会いさせていただいた方々も、疎遠となった今も、ご自分のまちの課題に真摯に取り組む意思をもっていらっしゃたと記憶します。フェイスブックではご活躍の内容を拝読させて頂いたりもします。
もちろん、鈴鹿市役所職員の方々の中にも、熱意をもって行動される方や真摯に取り組まれる方はいらっしゃいますし、いらっしゃいました。しかし、それがうまく市政につながっているかというと、人事異動の関係などもあってか、残念ながら機能不全になっているように思えますし、つながっていないように感じます。
議会は人事面に関わることはできませんが、制度の部分で良い提案ができないかと考えます。