goo blog サービス終了のお知らせ 

ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

幸田露伴

2018-01-28 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

1891(明治24)年11月 幸田露伴、『五重塔』

非は悔い理想五十校。 

1891年 理想主義 『五重塔』幸田露伴


[point]

1.理想主義幸田露伴の代表作は『五重塔』である。

[解説]

1.幸田露伴(1867~1947)は、逍遙の内面尊重を受け継ぎ、東洋哲学を基盤とする理想主義的な作品をあらわした。代表作は『五重塔』『風流仏』。

2015関西学院大・神社済教

 文学では、日露戦争前後から流行した[ b ]に批判的な、志賀直哉らの[ c ]が文壇の中心となり、また新聞読者層の増加の中で、d大衆文学(大衆小説)も多くの読者を獲得した。

問2.空欄b・cに該当する語句の組み合わせとして、正しいものを下記より選びなさい。


 ア.b:ロマン主義 c:新思潮派

 ウ.b:自然主義  c:新思潮派
 イ.b:ロマン主義 c:白樺派
 エ.b:自然主義  c:白樺派

問3.下線部dに関し、大正~昭和初期の大衆文学(大衆小説)作家として適当ではないものを下記より選びなさい.

 
 ア.中里介山  イ.幸田露伴

 ウ.江戸川乱歩 エ.直木三十五」

(答:問2エ、問3イ)〉


2015明大・商

 下図(略)を『蝸牛庵夜譚』のなかで「乍憚口上先以て各々様益々ご機嫌能御座被遊珍重に存じ奉り候…以下略…」と判読したのは、理想主義的作風で明皇帝の動乱の生涯を描いた『運命』などの著作があるC【①坪内逍遙 ②二葉亭四迷 ③幸田露伴 ④山田美妙 ⑤尾崎紅葉】(1867~1947)である。」

(答:③)〉


尾崎紅葉

2018-01-27 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

1897(明治30)年 尾崎紅葉『金色夜叉』。

人焼くなこの 紅葉を

1897年 尾崎紅葉『金色夜叉』



[point]

1.尾崎紅葉の代表作は『金色夜叉』である。

[解説]

1.尾崎紅葉(1867~1903)は、1885年に山田美妙(びみょう)らと文学結社である硯友社(けんゆうしゃ)を結成し、回覧雑誌『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』を発刊した。二葉亭と同じく写実主義をかかげながらも文芸小説の大衆化を進めた。読売新聞に入社し、かつ硯友社の中心として多くの門下を集め、明治20年代の文壇で重きをなす。

2.紅葉は『多情多恨』『金色夜叉』などの風俗小説で多くの読者を獲得した。これらの作品では、言文一致体で写実的に人物の心理や性格を描いており、次代の自然主義文学への橋渡しとなった。


2016明大・経営

問4 下線部エの長岡外史は、日露戦争では大本営勤務であったが、日露戦争について、正しい記述をA~Dの中から一つ選べ。

 A 開戦時の外務大臣は陸奥宗光であった。

 B 開戦後に、硯友社の尾崎紅葉は対露強硬論を主張した。
 C 奉天会戦が起こって、日本軍がロシア軍を撃退した。
 D 講和条約によって、千島列島は日本領となった。」

(答:C〇。※A×外相は小村寿太郎。B×紅葉は開戦前の1903年没。D×樺太千島交換条約ですでに日本領)〉


2015明大・商

 下図(略)を『蝸牛庵夜譚』のなかで「乍憚口上先以て各々様益々ご機嫌能御座被遊珍重に存じ奉り候…以下略…」と判読したのは、理想主義的作風で明皇帝の動乱の生涯を描いた『運命』などの著作があるC【①坪内逍遙 ②二葉亭四迷 ③幸田露伴 ④山田美妙 ⑤尾崎紅葉】(1867~1947)である。」

(答:③)

幸田 露伴(こうだ ろはん、1867年 - 1947年)は、日本小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん[1])、笹のつゆ、雷音洞主、脱天子など多数。江戸(現東京都下谷生れ。帝国学士院会員。帝国芸術院会員。第1回文化勲章受章。娘の幸田文随筆家・小説家。高木卓の伯父。

『風流仏』で評価され、『五重塔』『運命』などの文語体作品で文壇での地位を確立。尾崎紅葉とともに紅露時代と呼ばれる時代を築いた。

2012立教大・現代心理社会コミュ福

問9.小作農民を題材とした小説「土」を著した人物は誰か。次のa~dから1つ選べ。
 a.尾崎紅葉 b.田山花袋

 c.長塚節  d.森鴎外」

(答:c※〈塚〉と〈ツ〉)

※なお「硯友社」は正解が「××社」のダミー選択肢として頻出。


物理学・長岡半太郎

2018-01-08 | 入試問題+ゴロ合わせ

1903年 長岡半太郎、土星型原子模型の理論を発表。

ひどく幼い 原始人。

1903年 長岡半太郎原子模型の理論



[point]

1.物理学の長岡半太郎は、原子構造の研究で知られる。

[解説]

1.長岡半太郎(1865~1950)は、長崎県大村藩士の家に生まれる。東京大学理学部を卒業後、ドイツに留学、帰国後同大学教授に就任。磁気歪現象や、原子構造を研究し、土星型原子模型を発表。また地震波の伝播などの研究に業績を残した。

2017大学入試センター試験日本史A

問6 下線部e東京帝国大学(現在の東京大学)に関連して、この大学やその前身の学校の教員をつとめた人物に関して述べた次の文X・Yと、それに該当する人名a~dとの組合せとして正しいものを、下の1~4のうちから一つ選べ。

 X ドイツ人医師で、医学を教えた。
 Y 物理学者で、原子模型理論を発表した。

 a ベルツ    b モース
 c 長岡半太郎  d 本多光太郎

 1.Ⅹ-a Y-c
 2.Ⅹ-a Y-d
 3.Ⅹ-b Y-c
 4.Ⅹ-b Y-d」

(答:1)〉

2017早大・人間

問6 下線部e日本人の学者による独創的な研究に関連して、正しいものはどれか、1つ選べ。

 ア 大森房吉は、原子摸型理論を発表した。
 イ 木村栄は、地球の緯度変化公式のZ項を発見した。
 ウ 志賀潔は、ペスト菌を発見した。
 エ 鈴木梅太郎は、アドレナリンを抽出した。
 オ 長岡半太郎は、地震計を考案した。

(答:イ〇 ※ア×大森房吉は大森式地震計の発明、ウ×志賀潔は赤痢菌の発見、エ×鈴木梅太郎はオリザニン(ビタミンB₁)の抽出、オ×長岡半太郎は原子構造の研究)〉

 

1902(明治35)年 木村栄(ひさし)、地球の緯度変化公式のZ項を発見した。

引く鬼ひさし Z項。

1902年 木村栄 z項

1897年 志賀潔、赤痢菌発見。

いや苦難志賀 赤痢菌。

1897年 志賀潔、赤痢菌


2016関西学院大・全学部

 日露戦争以降、新聞・雑誌などが発達し、一般勤労者を基盤とする大衆文化が誕生した。そして、大正デモクラシーのもとではh.多様な学問が花開いた。

問7.下線部h多様な学問に関連する説明として、正しいものを下記より選びなさい、

 ア.河上肇の『貧乏物語』が広く読まれるなど、マルクス主義の影響が強まった。
 イ.和辻哲郎は『善の研究』を著し。独自の哲学体系を打ち立てた。
 ウ.柳田国男は民俗学を確立し『風土』を著した。
 エ.長岡半太郎は強力な磁石鋼である、KS磁石鋼を発明した。」

(答:ア〇、※イ×『善の研究』は西田幾太郎、ウ×『風土』は和辻哲郎、エ×KS磁石鋼は本多光太郎)〉

2015明大・経営

問14 下線部(ウ)自然科学では、富国強兵と近代化に役立つ科学や技術の導入が先行したに関して、1903年に土星型原子模型の理論を発表して原子構造の研究に寄与した科学者の氏名を、記入しなさい。」

(答:長岡半太郎)〉


総合・テーマ史 ★★ テーマ-001 英語の歴史 

2018-01-04 | 入試問題+ゴロ合わせ

 06 津田塾大学(学芸) 一部改

【問】次の文を読み、設問に答えなさい。

 大< a >島イングランド地方の主要な言語である英語は、ゲルマン人の中で、< b >世紀に移住してきたとされる、アングロ=サクソン人と呼ばれる諸部族の言語が基になっている。それ以前の住民の多くは、< c >系であるが、彼らの言語は地名を除き英語への影響は大きくないと考えられている。

 この地方ではローマ教会による布教が6世紀末から行なわれ、アングロ=サクソン人たちはキリスト教に改宗していく。それにともないローマ教会で使われる< d >語の宗教用語などが英語に入っていくようになる。その後、北ゲルマン系の< e >人が来襲するようになった。彼らの一部はやがて定着し、アングロ=サクソン人と同化していくが、その言語は、英語の基礎的な部分にも影響を与えている。

 さらに、< f >の北西部に定住した< e >人である< g >が1066年にイングランド王になった。これにより支配層の言語が< f >語になり、この言語から英語は多くの単語を受け入れた。次の< h >王朝も本拠は< f >にあったので、同じ状況が続いた。また< d >語は書きことばとして使われ、(あ).イングランドの最初の憲法とされる大憲章(マグナ=カルタ)もこの言語で書かれた。 
 しばらく< d >語と< f >語に公的な役割を奪われていた英語は、貴族が大陸ヨーロッパへの関心を失ない、(い)都市住民や土着化した騎士が力をもつようになると、表舞台に戻ってくる。14世紀半ばには、議会や法廷での英語の使用が始まった。宗教改革の先駆者とされる< i >は初めて聖書の英訳を試みた。また、英語で文学作品が作者名を明らかにして書かれ始めた。その代表的な作者であるチョーサーは『< j >物語』を書いた。

 15世紀半ばにヨーロッパ大陸で実用化された活版印刷は、比較的短期間でイングランドにも導入された。この世紀の前半には、英語は公用語の地位を固め、書きことばの標準も定まってきたが、こうした書きことばを広めるのに、活版印刷により安価になった書物が役立った。しかし、司法や学術などの分野で< d >語と< f >語も使われ続けた。

問1
空欄< a >~< j >に最も適当と思われる語を入れなさい。
問2
下線部(あ)について、この文書は、課税についてどのようなことを述べていますか。
問3
下線部(い)について、1265年に貴族であるシモン=ド=モンフォールが、国王に認めさせたことは何ですか。それを説明しなさい。
 

解 答 

問1
ブリテン  5    ケ ル ト ラ テ ン ノルマン
フランス ノルマンディ公
ウィリアム
プランタジネット ウィクリフ カンタベリー
問2 新たな課税には高位聖職者と大貴族の会議の承認を必要とすること。
問3 高位聖職者と大貴族の会議に、州の代表の騎士や都市の代表の市民を加えて国政に参加させること。
 
解説.

 <b>.5世紀前半、既に西ローマ帝国ではイタリアやガリアにゲルマン人が侵入し、ラヴェンナの西ローマ政府にはイタリアから遠いブリタニアを維持する力は残っていなかった。

残された属州の住民たちは自分たちで防衛と自治に当たらなければならなかった。このことは410年に皇帝ホノリウスがブリタニアに送った手紙に現れている。

ローマ人の撤退以後、ブリタンニアでは古来からのブリトン人の部族制が復活する。それぞれが王を戴く部族国家が乱立し、政治的統一がされる前にゲルマン系アングロ・サクソン人の侵入を迎える。混迷の暗黒時代の到来である。

< i >「宗教改革の先駆者」で「めて聖書の英訳をした」のはは(うぃ)クリフ。

問2.

1215年 〈大憲章(マグナ=カルタ)〉★★★


日本最初の新聞

2018-01-03 | 入試問題+ゴロ合わせ

18621月 官板バタビヤ新聞を翻訳刊行。

いや難しい看板は。

1862年 官板バタビヤ新聞


1868(慶応4)年 2月 柳川春三、中外新聞を発刊。

威張ろ柳川中心に。

1868年  柳川春三、中外新聞


1870年 横浜毎日新聞

人は慣れたよ毎日に。

1870年 横浜毎日新聞


1874年 子安峻、「読売新聞」創刊。 

いやな新聞 読む売子。

     1874年「読売新聞」 子安峻 小新聞




[point]
1.日本最初の新聞は官板バタビヤ新聞、最初の日刊新聞は横浜毎日新聞

[解説]
1.官板バタビア新聞は、わが国最初の翻訳新聞。幕府は従来、「和蘭風説書」など海外情報を秘密扱いにしてきた。しかし開国後は広く世界情勢を国内に知らせる必要に迫られ、バタビアのオランダ政庁が提出した機関紙を、江戸幕府の蕃書調所が翻訳、編集して、官板バタビア(バタヒア)新聞として発行。1861(文久1)年の23巻まで、二つ折りの木版刷りで発行。

2.横浜毎日新聞は、わが国最初の日刊邦字新聞。1870(明治3)年に創刊。本木昌造(もときしょうぞう)の鉛製活字を用い、西洋紙一枚の両面印刷だった。記事内容の大部分は貿易と物価関係。

2010明大・政経

問1 (1~5)の文頭の「この新聞」とは何か。その正しい新聞紙名をそれぞれA~Dからひとつ選べ。

(1)この新聞は、「和蘭風説書」の代わりにオランダ領東印度総督府が幕府に献上した機関紙を蕃書調所が翻訳、編集したものである。文久2年1月から2月にかけて発行され、すべて漢字とひらがなで書かれていた。内容は諸外国のニュースなどであった。わが国最初の翻訳新聞とされるが、初めは手書き、のちに木版刷りで、二つ折りの半紙数枚で綴じられたパンフレット形式のものであった。


 A官板中外新聞
 Bジャパン・ガゼット

 C官板バタビヤ新聞
 Dジャパン・タイムズ」


(2)この新聞は、慶応4年2月に創刊された日本人による最初の日本語新聞である。発行者は日本の新聞の開祖ともいわれる柳河春三で、内容や影響力において当時もっとも有力な新聞であった。主として横浜で発行されていた英字新聞の記事を翻訳し、それに国内の重要ニュースを加えていたが、幕臣でもあった春三は佐幕的傾向が強く、開国政策をとる幕府に共感した記事を掲載するなどした。


 A朝野新聞 B中外新聞

 C万朝報 D時事新報



(3)この新聞は、明治3年12月に創刊されたわが国最初の日刊新聞である。それまでの新聞が綴本で書物や雑誌のような体裁であったのに対して、この新聞は鉛活字を使用し、輸入した西洋紙一枚の両面に印刷された今日の新聞の先駆をなすものであった。記事は貿易と物価関係が大部分を占めた。


 A東京日日新聞
 B大阪毎日

 C郵便報知新聞
 D横浜毎日新聞


(4)この新聞は、明治5年3月にイギリス人ブラックが創刊した邦字新聞である。新聞の内容は、公法を掲載したほか、東京、横浜などのニュース、地方での出来事、海外ニュースなど多方面にわたり、それまでの新聞とは異なる紙面構成となった。また、新政府の左院の議事・議案、建白書などの掲載や外国人の地位を利して政府の施策への批判記事などもしばしば登場した。


 A日新真事誌 B海外新聞

 Cよのうはさ D大西新聞

(5)この新聞は、明治7年11月に子安峻らによって創刊された、いわゆる小新聞と呼ばれたものである。漢字に振り仮名をつけるなど、読者に親しみやすい平易な文章と娯楽と報道を編集方針とした。当初は隔月に発行されたが、のちに日刊となり、大いに部数を伸ばした。


 A四十八字新聞 B読売新聞

 C東京仮名書新聞 D平仮名絵入新聞」

(答:1C、2B、3D、4A、5B)〉

 



大西洋とアメリカ大陸 ★★ 大西洋とアメリカ大陸 

2018-01-03 | 入試問題+ゴロ合わせ
2014 北海道大学 第1問

【問】次の文章を読み、問いに答えなさい。

 大西洋を舞台にしたヒト・モノ・カネ・情報の往来は,近現代史を強く規定してきた。インドヘの近道を探し,大西洋を西に向けて船団を率いた(1).コロンブスが1492年にサンサルバドル島に到着して以降,ヨーロッパ諸国は富と機会を求めて南北アメリカの奥深くにまで踏み入っていった。そのような進出の多くは,スペイン王室が(2).征服者(コンキスタドール)を派遣したことにみられるように,強大な軍事的な後ろ盾をともなっていた。
 ヨーロッパ商業の域外への広範な展開は,南北アメリカのみならず,アフリカをも巻き込んでいった。16世紀後半以降にアフリカ西岸地域から西インド諸島やラテンアメリカヘと(3).黒人奴隷が大量にもたらされたことで,ヨーロッパ・南北アメリカ・アフリカが構成する大西洋世界の結びつきは緊密なものとなった。3つの地城を結んで展開された三角貿易は(4).ヨーロッパとアフリカに対照的な影響をもたらした

 18世紀末以降のイギリスの北アメリカ植民地における歴史は,大西洋世界の質的変化を示している。フランスとの七年戦争(北アメリカではフレンチ=インディアン戦争)終結以降、(5).植民地側の本国への反発は急速に強まった。そして最終的には,(6).戦争の勃発,さらには独立宣言の発表へといたった。こうして広大な北アメリカにイギリスから独立した新国家が誕生したことは,ヨーロッパと新大陸の関係の変化を象徴していた。1823年にアメリカ合衆国大統領のモンローが発した(7).モンロー教書(宣言)は,それを色濃く反映している。

問1.
下線部(1)について、(ア)コロンブスの派遣を決定したスペインの女王の名前を答えなさい。また,(イ)コロンブスが派遣された理由を,当時スペインが置かれていた状況に注目して簡潔に説明しなさい。
問2.
下線部(2)について,(ア)1521年にアステカ王国を倒した征服者の名前と,(イ)アステカ王国の首都の名称を答えなさい。
問3.
下線部(3)について,17世紀に大農園(プランテーション)制が大規模に展開しはじめると,黒人奴隷の数も急増した。そうした大農園で生産されていた代表的な農作物を4つ挙げなさい。
問4.
下線部(4)について,その具体的な内容を説明しなさい。
問5.
下線部(5)について、その原因と具体的な内容を説明しなさい。
問6.
下線部(6)について,(ア)独立軍(植民地軍)側にたって戦争に参加したヨーロッパ人の名前を1人挙げなさい。また、(イ)独立宜言の基盤となったジョン・ロックの思想を簡潔に説明しなさい。
問7.
下線部(7)について,その政治的な意図を説明しなさい。
 

解 答

                     
問1 イザベル
国土回復運動を完了させたスペインは、海外では東廻りで新航路を開拓しつつあったポルトガルに対抗し、西回りでアジアに到達しようとした。
問2 コルテス テノチティトラン
問3 サトウキビ、綿花、たばこ、コーヒー
問4 ヨーロッパではイギリスが三角貿易の利益を蓄積して産業革命を準備したが、アフリカでは黒人が奴隷として流出し、人口が減少、産業が停滞した。
問5 イギリスは七年戦争などでの出費を回復するため、植民地に対して印紙法、砂糖税、茶税などの経済統制と課税を強めたので植民地側は強く反発した。
問6 コシューシコ  
政府が人民の権利を侵害するときは、人民には政府を倒す革命権をもつ。
問7 ヨーロッパの強国の大陸への介入を排除し、ラテンアメリカ諸国の独立を支援しながら、南北アメリカ大陸へのアメリカ合衆国の支配権を確立しようとした。

※別解:問1(ア):イザベラ  問3:他に、藍、米(コメ)も可  問6(ア):他にラ=ファイエット、サン=シモンがいる  問7:モンロー宣言の意図のなかにはロシアのアラスカ方面からの進出に対する牽制もある。

解 説: 

 大航海時代以来、大西洋を挟んだ旧大陸ヨーロッパ・アフリカと新大陸の南北アメリカの関係は、世界史の中心軸となった。「大西洋時代」という捉え方もでき、最近は特に重視されているので関連出題も多い。この出題もその典型。扱うテーマにはここでとり挙げられている英仏植民地抗争、アメリカ独立革命、三角貿易、モンロー宣言以外にも、新大陸からの銀の流入による商業革命、価格革命、ヨーロッパからの移民、第2次世界大戦中の大西洋宣言、現代の北大西洋条約機構(NATO)などがある。

プロテスタント信仰の源流①札幌バンド

2017-12-31 | 入試問題+ゴロ合わせ

暗く内向き二ッとベー。

札幌バンド)(新渡戸稲造(にとべいなぞう)・クラーク)(内村鑑三(うちむらかんぞう))

[point]

1.札幌バンドは、クラークの感化により入信した新渡戸稲造内村鑑三らの信仰集団。

[解説]

1.札幌農学校の生徒だった内村鑑三新渡戸稲造らは、米人教師クラークの感化でキリスト教に入信した。1877年3月、信仰契約に署名し札幌バンドと呼ばれる信仰集団を形成。バンドは団の意。

2017早大・人間

 その後、禁教が条約改正交渉に悪影響を与えていることを認識した明治敗府は、1873年にキリスト教禁教の高札を廃止した。e.さらに、外国人教師らの影響もあって、キリスト教の信仰は、青年知識人層を中心に次第に広がりを見せるようになった。1889年に発布された大日本帝国憲法では、条件つきながら、信教の自由が明文化された。

問8 下線部eに関連して、明治期におけるキリスト教信仰に関する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。


 ア アメリカ人のジェーンズは、熊本洋学校で聖書を講じた。

 イ 井上哲次郎は、内村鑑三不敬事件を受けてキリスト教を厳しく批判した。
 ウ 救世軍や矯風会などのキリスト教団体は、廃娼運動に尽力した。
 エ 熊本バンドに参加した植村正久は、後に吉野作造や鈴木文治を育成した。
 オ 新渡戸稲造は、札幌農学校でキリスト教に入信した。」

(答:エ× ※植村正久は熊本バンドではなく横浜バンドのメンバー「木」「ま」)


2016慶大・文

 軍人であった( M )は旧熊本藩立学校の熊本洋学校に招かれており、彼の教え子たちの集まりが熊本バンドである。これに対して、札幌農学校でウィリアム・スミス・クラークの教えを受けて改宗した者たちは札幌バンドと呼ばれる。その一人の( N )は、のちに無教会主義を提唱している。彼がキリスト教徒としてとった行動が大きな問題となり、帝国大学教授( O )は論文「教育と宗教の衝突」でキリスト教を激しく糾弾している。

M:1W.E.グリフィス
  2H.ケプロン
  3L.ジェーンズ
  4B.プティジャン
  5D.マレー(モルレー)

N:1植村正久 2内村鑑三
  3海老名弾正
  4徳富蘇峰 5新島襄 

O:1姉崎正治 2井上哲次郎
  3久米邦武 4田口卯吉
  5元田永孚」

(答:M3、N2、O2)井上哲次郎「教育と宗教の衝突」〉〈〉〈

M4.ベルナール・プティジャンフランス語Bernard-Thadée Petitjean1829年6月14日 - 1884年10月7日)は、フランス出身のカトリック宣教師である。パリ外国宣教会会員として幕末の日本を訪れ、後半生を日本の布教にささげた。1865年大浦天主堂での「隠れキリシタンの発見」(信徒発見)の歴史的瞬間に立ち会ったことで有名。

O1.姉崎 正治(あねさき まさはる、1873年7月25日 - 1949年7月21日)は、日本の文筆家評論家宗教学者インド宗教神道仏教キリスト教新宗教)。


初期キリスト教布教の開始

2017-12-30 | 入試問題+ゴロ合わせ

振るベッキーを切り捨てて。

フルベッキオランダキリスト


[point]

1.明治初期キリスト教布教活動は、英和辞典ヘボンフルベッキが開始。

[解説]

1.ヘボン(Hepburn)(1815~1911)は、アメリカ人の医師・宣教師。幕末に来日して医療や伝道に従事。ヘボン式ローマ字を考案して日本最初の和英辞典を完成させたことでも知られる。現地発音ではヘプバーンが近い。夫人と始めたヘボン塾がフェリス女学院や明治学院の始まりとなる。

2.フルベッキ(Verbeck)(1830~98)は、オランダ出身のアメリカ移民で法学者・神学者、宣教師。宣教師として1859年来日。英語など数カ国語を教授。そのかたわら禁教がまだ解けない中でひそかに伝道を開始。のち政府顧問として法整備に携わる。その門下から、大隈重信伊藤博文横井小楠(しょうなん)などを輩出。現地発音ではフェルベックが近い。

2017早大・人間

問4 下線部c明治初期に、外国人教師の多くを占めていたのはcイギリス人であったに関連して、工部省で技師として勤務したイギリス人をl人選べ。もし該当するものがなければ、カをマークせよ。

 ア グリフィス イ ケーベル

 ウ コンドル  エ フルベッキ 
 オ ラグーザ」

(答:ウ ※「」ア.グリフィスはアメリカ人。

ラトガース大学で福井藩からの留学生であった日下部太郎と出会い、親交を結ぶ。その縁により明治4年(1871年)に日本に渡り、福井藩の藩校明新館で同年3月7日から翌年1月20日まで理科(化学と物理)を教えた。天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計したが、これは日本最初の米国式理科実験室であったらしい。

明治4年(1871年)7月、廃藩置県により契約者の福井藩が無くなった。明治5年(1872年)、フルベッキ由利公正らの要請により10ヶ月滞在した福井を離れて大学南校(東京大学の前身)に移り、明治7年(1874年)7月まで物理と化学、精神科学など教えた。

 

イ.ラファエル・フォン・ケーベルドイツ語Raphael von Koeber1848年1月15日 - 1923年6月14日)は、ロシア出身(ドイツ系ロシア人)の哲学者音楽家。明治政府のお雇い外国人として東京帝国大学哲学西洋古典学を講じた。

エ×フルベッキはオランダ人

ラグーザ 1876年明治9年)に明治政府に招かれて来日し、1882年(明治15年)まで工部美術学校で彫刻指導にあたった。教え子に大熊氏廣(1856年-1934年)や藤田文蔵(1861年-1934年)がいる。

2017早大・人間

問5 下線部d開国と幕末の動乱に関連して、この時期に起こったできごとに関する記述として、誤っているものはどれか、1つ選べ。

 ア アメリカ人宣教師のヘボンが、日本初の和英辞書を出版した。

 イ 伊勢神宮への御蔭参りが流行した。
 ウ 黒住宗忠が神人合一の境地を悟り、宗教活動を始めた。
 エ 「ええじゃないか」とよばれる民衆の集団乱舞が、東海・近畿地方を中心に広まった。
 オ 後に教派神道とよばれる民衆宗教が普及した。」

(答:ウ× ※黒住教は、幕末ではなく江戸時代後期の文化11年(1814年)に布教を開始した)


2016慶大・文:「

(ハ)近代には、プロテスタントの宣教師たちが来日している。日本で最初の和英辞書を出版した( K )は医師でもあり、横浜で医療と宣教に携わっていた。( L )出身のグイド・フルベッキは長崎で英学を教授し、大学南校でも教授したが、プロテスタントの宣教にも努めた。」

(答:Kヘボン、Lオランダ )〉


2010明大・政経

 日本には。幕末になると、再び外国人宣教師が渡来して活動を開始した。1859年にはアメリカ人の[ 1 ]が訪れ、1867年に和英辞典『和英語林集成』を刊行した。また、ロシア人のニコライは、1861年に来日している。

設問1 空欄[ 1 ]にあてはまる人物は誰か。A~Eからひとつ選べ。


 Aフェノロサ  Bヘボン

 Cフルベッキ
 Dジェーンズ Eケーベル」

(答:B)


2004センター試験・日本史B

 下線部近代的学校制度の確立をめざしたものであった、に関連して、19世紀後半の教育・思想について述べた文として誤っているものを、次の①~④のうちから一つ選べ。

 ①中江兆民は、『民約訳解』でヘボンの思想を紹介した。

 ②福沢諭吉は、慶応義塾を創立した。
 ③人間の自由・平等を説いた天賦人権思想が導入された。
 ④新島襄は、同志社同志社英学校を創立した。」

(答:1×、※中江兆民は『民約訳解』でルソーの思想(『社会契約論』)を紹介。)〉


啓蒙思想・明六社の6人

2017-12-25 | 入試問題+ゴロ合わせ

森の中にし 腹痛だ。

有礼(もりありのり)・村正直(なかむらまさなお)加藤弘之(かとうひろゆき)・西村茂樹)(西(あまね)・沢諭吉・津田真道(つだまみち))

なおこの明六社は1875年の讒謗律解散サボ解散明六社)。

[point]

1.明六社森有礼の発議に西周加藤弘之中村正直西村茂樹福沢諭吉津田真道が参加して発足。

[解説]

1.明六社の名は、明治六年(1873)発足にちなむ。機関誌は『明六雑誌』。旧幕府の開成所(洋学教育機関)出身者が多い。同誌は新聞紙条例讒謗律発布に動揺して廃刊にいたる。

2.西周(1829~97)は、津和野藩出身。初期の軍制整備に活躍し、軍人勅諭の初稿を起草。啓蒙思想家だが西洋哲学を最初に紹介し、「哲学」だけでなく日常何気なく使っている「主観」「記号」「命題・定義・演繹・帰納」「肯定・否定」をはじめ用語多数を和訳創案して、我が国には未知の概念を定着させた功績で知られる。


3.津田真道(1829~1903)は、津山藩出身。官僚・法学者・啓蒙思想家。江戸で佐久間象山などに洋学を学ぶ。蕃書調所教官となり、幕命でオランダに留学し、法学・経済学を学び、帰国後わが国初の西洋法律書『泰西国法論』を著す。維新後、司法省・元老院にも勤務し、新律綱領などを編纂。


4.中村正直(1832~91)は、江戸生まれ。幕府の儒官出身。個人主義道徳を説き、啓蒙思想の普及に努めた。


5.福沢諭吉(1834~1901)は、豊前中津藩(大分県)の出身。下級藩士の次男として生まれた啓蒙思想家。大坂に出て緒方洪庵に蘭学を学ぶ。また独学で英学をおさめた。1860年咸臨丸に同乗したのをはじめ3回、幕府の遣外使節に随行し、欧米を視察。維新後は政府の招きを断り、教育と言論による啓蒙活動に邁進(まいしん)。68年慶応義塾を創設して人材育成に努める。『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論の概略』などを著した。英功利主義の影響を受け、個人および国家の「独立自尊」を主張したが、自由民権運動には冷淡であった。82年『時事新報』を創刊。次第に国権論に傾き、日清戦争では主戦論を展開。


6.加藤弘之(1836~1916)は、但馬出石(いずし)藩(兵庫県)出身。維新後、天賦人権論を説く啓蒙思想家としてスタート。やがて国家主義思想へと転向。


7.森有礼(1847~89)は、薩摩藩(鹿児島県)出身。初代文部大臣として、ドイツ式の学校令を制定して国家主義的教育体制を確立。帝国憲法発布の日、急進的な欧化主義者であったことが一因で、国権主義者の反発をうけ暗殺された。

8.西村茂樹(1828~1902)は、佐倉藩出身。主著『日本道徳論』。皇室中心の国民道徳を説き、国粋主義の先駆となる。


2017中央大・経済

問2.次の説明のうち、下線部①の明六社の結成に加わった人物についてのものにはイ、そうでない人物についてのものにはロをマークしなさい。

 a.幕末に薩摩藩からイギリスに留学し、後に初代文部大臣として学校令を公布した。
 b.幕末に洋書調所の教官としてオランダに留学し、同地で学んだ国際法に関する『万国公法』を刊行した。
 c.『真政大意』を刊行して天賦人権思想を紹介したが、後に、社会進化論の立場から『人権新説』を刊行して天賦人権論を批判した。
 d.『古事記』・『日本書紀』に科学的分析を加えて古代史研究に新境地をひらいたが、著書『神代史の研究』について発禁処分を受けた。」

(答:aイ森有礼、bイ.津田真道、cイ.加藤弘之、dロ.津田左右吉)〉

2017早大・社会

問8 下線部(7)明治期の啓蒙思想に関連して、近代思想の普及を担った明六社に参加しなかった人物は誰か。1人選べ。

 イ大木喬任 ロ津田真道 
 ハ西村茂樹 ニ西周
 ホ中村正直

(答:イ)〉

2016早大・政経

 幕府の留学生として下線部11阿蘭陀で学び、明治維新後は兵部省に出仕し、徴兵令制定に関与した人物が、旧幕府系洋学者らと結成した思想団体を何というか。漢字で記せ。」

(答:明六社 ※西周は明治維新後は、兵部省に入り、徴兵令・軍人勅諭など関わる)〉


2015立命館大・全学部2/2:「

 hかれは、幕末から明治期に活躍した啓蒙思想家として著名な人物である。8明六社の創設にも関わり、主著『文明論之概略』のなかでは、それまでの日本の歴史や文明のあり方を厳しく批判し、西欧文明に学びつつ、日本の独立をはかれと主張している。

問h  下線部hの「かれ」の氏名を答えよ


問r 下線部8明六社に関連して、「明六社」の創設者の一人で、当初は天賦人権論の立場であったが、のちに社会進化論の立場から天賦人権論を否定するに至った『人権新説』の著者として知られる人物は誰か。もっとも適当な名を下から一つ選べ。


 あ森有礼  い西村茂樹

 う加藤弘之 え植木枝盛」

(答:h福沢諭吉、rう)〉


2015関西大・済文社会など

 維新後、新政府に仕え、明六社にも参加した(1)【ア加藤弘之 イ森有礼 ウ中村正直】は、『国体新論』などで天賦人権論を紹介したが、1882年刊の『人権新説』では、天賦人権論を否認し、自由民権運動に反対の立場をとった。」

(答:ア)


2014明大・情報コミュ

  明六社のメンバーで、( ウ )を起草した西周は、幕末から明治初年の段階では妻升子の表記を、旧姓で「石川升子」としていたが、民法施行後には、「西升子」と変更していた。婚姻した女性は、男性側の姓を名乗り、男性の家に入ることが制度として強制されたのである。」

(答:ウ.軍人勅諭)〉


2013立大・法済異文化:「

問7ⅰ.この人物(森有礼)と西周ら洋学者が創設した啓蒙思想団体はどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.硯友社 b.交詢社

 c.明六社 d.立志社」

(答:c)

a.硯友社は1885年に発足した、明治期の文学結社。

 b.交詢社
 c.明六社 d.立志社」
2012早大・文

 1873年、アメリカから帰国した[ A ]は、洋学者の西村茂樹らと相談の上、明六社を結成した。同社は翌年、機関誌『明六雑誌』を創刊、西洋の知識を日本に紹介し多大な影響を与えた。

問1 空欄Aの人物は、のち初代文部大臣に就任した。その人物は誰か。漢字で記述せよ。」


(答:森有礼)〉


2010明大・政経

設問2 下線部(ア)蕃書調所はその後、名称を洋書調所、開成所と変えていくが、津山藩士でオランダ留学後、開成所の教授となり、のちに明六社に参加した啓蒙思想家は誰か。A~Dからひとつ選べ。

 A福沢諭吉 B森有礼

 C津田真道 D加藤弘之」

(答:C)※津山藩士


総合・地域史 ★★ ユーラシア(モンゴル後のロシアと清)

2017-12-21 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2010 京都大学(改)

【問】次の文章の(   )の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)~(7)について後の問に答えよ。

 16~17世紀、ユーラシアの東西にふたつの帝国が形成され始める。やがて、ともに巨大化したのち、いずれも政体は変化したが国としての大きなかたまりは現在まで続いている。すなわちロシア連邦と中華人民共和国である。
 それぞれの源流・発端はある意味でモンゴル帝国と無縁ではない。(1).ルーシと呼ばれた地域は、ゆっくりとモンゴルからの自立姿勢を強め、やがて16世紀半ば、王となった(  a  )はカザンとアストラハンのふたつのモンゴル国家を接収してヴオルガ流域を制圧し、 (2).そこから東方にむけて少数の兵を派遣した。かくて、 17世紀前半には太平洋岸にまで到達する。こののち、(3).ロシアはアジアとヨーロッパにまたがる広大な勢力圏を保持することになる。なお、黒海に臨む一帯には、1783年まで(  b  )というモンゴル国家が存在し続けた。

 一方、アジア東方では、かつてモンゴル治下にあった大興安嶺以東の(  c  )族のなかからヌルハチが台頭し、 1616年にはハンを称した。ついで、(4)その子の(  d  )は1636年に、本来は“主人筋”であった内モンゴル諸王侯に推戴されて、大元国(ダイオン=ウルス)をひきつぐ帝王として即位し、国号を大清国(ダイチン=グルン)とした。これ以後、清朝は満蒙連合政権の性格を色濃くおびた。そして1644年に明朝が滅ぶと、(5).清は入関して北京に入り、否応なく中華本土も包み込む多元帝国となっていった。

 (6).康煕帝・(  e  )から乾隆帝にいたる三人の皇帝の治世は外モンゴルおよび(  f  )仏教文化圏をめぐって、やはりモンゴル帝国以来の由緒をもつ(  g  )と激しく争いあう時代でもあった。(7).清朝は1755年から59年にかけて、ついにパミール以東を制圧し、現在に続く巨大な版図を樹立したが、 1793年に乾隆帝のもとを訪れた(  h  )が率いる使節団の目には、“虚飾の老大国"に見えていたのも一方の事実であった。

(1)
ルーシを含むユーラシアの西北部を支配したこの モンゴル国家は何というか。
(2)
1582年にシビル=ハン国の首都を占領したのは誰か。
(3)
ロシアは、ある山脈を境に、そこから東方の大地をながらく属領視することになった。何という山脈か。
(4)
このときの首都はどこか。
(5)
このときの清朝の皇帝は誰か。
(6)
康煕帝時代に国境画定をめぐってロシアとの間で結ばれた条約を何というか。
(7)
このとき清軍の一部はパミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャーによって建国されてからまもない国家に接近した。何という王国か。
 

解 答 

イヴァン4世 クリム=ハン国 女真(女直) ホンタイジ 雍正帝
設問1 設問2
チベット ジュンガル マカートニー キプチャク=ハン国 イェルマーク
設問3 設問4 設問5 設問6 設問7
ウラル山脈 瀋陽 順治帝 ネルチンスク条約 アフガニスタン王国

解 説: 

設問4:女真のヌルハチが建国した後金(アイシン)は、1625年に瀋陽を都とした。次いでホンタイジ(太宗)がこの都を盛京と命名した。順治帝の時、1644年に中国本土に侵攻して都を北京に移した。瀋陽は副都とされ、奉天府といわれた。
設問7:アフガニスタン王国は、1747年に成立した、ドゥッラーニー朝。アフマド=シャーは、それまでアフガニスタンを支配していたサファヴィー朝とムガル帝国の勢力から、民族の独立を勝ち取り、カーブルを都とした。乾隆帝の時の清軍が一時侵攻したが、このことはほとんど触れられないので難問。
 

総合・地域史 ★★ ナイル川流域の歴史

2017-12-19 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2011 北海道大学

【問】次の文章を読み、問いに答えなさい。

 古代ギリシアの歴史家( A )は「エジプトはナイルの賜物」という言葉を彼の著作に残している。ナイル川は、モンスーンの影響で(1).エチオピア高原に降る雨のために毎年7月中旬に増水を始める。それによって夏の終わりから秋にかけて起こる洪水はナイル川流域に肥沃な土壌をもたらし古代より(2)エジプト文明を育んできた。ヴィクトリア湖周辺を水源とする白ナイルと、エチオピアのタナ湖を水源とする青ナイルは、(3).スーダンのハルトゥームで合流し、ナイル本流となってエジプトを北上する。この本流はカイロ近郊で2つの支流に分かれ、肥沃なデルタ地帯主形成して地中海に注ぎ込む。
 カイロは、969年にエジプトを支配下に置いた( B )が新都として建設した町であるが、それに続く(4).アイユーブ朝時代に発展をとげ 1250年に成立したマムルーク朝の時代になると、国際的商業都市、イスラーム世界の政治的・文化的中心都市として繁栄を極めた。この時代、カーリミー商人と呼ばれた貿易商が、東方の物資を(5)インド洋・紅海方面からエジプトにもたらし( C )などの港湾都市で、(6).イタリア商人と交易活動を行った。一方、エジプトの農村部では(7).イクター制が施行され、比較的安定した状態が続いたため、農業の発展が見られ、小麦や大麦に加えて(  D  )などの商品作物の栽培も盛んになった。

問1.
空欄A~Dに適当な語句を入れなさい。
問2.
下線部(1)について、(ア)紀元前から9世紀頃までこの地で栄えた王国の名称を答えなさい。また、(イ)1936年にエチオピアを併合した国家の名称と、(ウ)その国の指導者の名前を答えなさい。
問3.
下線部(2)について、(ア)新王国時代に唯一神アトン(アテン)への信仰を強制する宗教改革を行ったファラオの名前と、(イ)彼が定めた首都の名称を答えなさい。
問4.
下線部(3)について、1885年にこの都市を占領したマフデイー派の抵抗運動について説明しなさい。
問5.
下線部(4)について、(ア)この王朝を樹立した人物の名前と、この人物が公的に支持したイスラームの宗派を答えなさい。
問6.
下線部(5)について、(ア)15世紀末にインドのカリカットに到達したポルトガルの航海者の名前と、(イ)その後ポルトガルに占領されて東方進出の拠点、となったインドの都市名を答えなさい。
問7.
下線部(6)について、この時期の彼らの交易活動の内容と意義を説明しなさい。
問8.
下線部(7)について、この制度を簡潔に説明しなさい。
 

解 答

問1 ヘロドトス ファーティマ朝 アレクサンドリア サトウキビ
問2 アクスム王国 イタリア ムッソリーニ    
問3 アメンホテプ4世 テル=エル=アマルナ      
問4 自ら救世主を意味するマフディーを称したムハンマド=アフマドが、イスラーム教徒のマフディー派を率いてイギリスの侵略に抵抗し、一時ハルツームを占領したが、最後は鎮圧された。
問5 サラディン スンナ派  
問6 ヴァスコ=ダ=ガマ ゴア  
問7 ヴェネツィア・ジェノヴァ・ピサなどの港市を拠点に、十字軍運動を契機として東方貿易に進出し、ムスリム商人から香辛料や絹織物、宝石などを買い付けてヨーロッパにもたらし、商業を復興させた。
問8 ブワイフ朝に始まりセルジューク朝でイスラーム世界に一般化した制度で、軍人・官僚に俸給に見合う金額を徴収できる土地の徴税権を与えるもの。

※別解:問3・ア:イクナートン  問5・ア:サラーフ=アッディーン

解 説: 

ナイル川流域のエジプト、スーダン、エチオピアに関して古代から現代までを概観したのがリード文である。記述解答が多くむずかしそうに感じるが、聞かれていることはいずれも基本的なものなので、焦らずじっくり考えること。

総合・地域史 ★★ 西アジア(オリエント世界~イスラーム世界)

2017-12-17 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2010  京都大学(改)

【問】次の文章の(   )の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)~(5)について後の問に答えよ。

 古代オリエントでは、大河の流域で、はやくから濯j既農業が行われ、定住が進み、都市を中心とした文明が生まれた。メソポタミアでは、前3000年頃からシュメール人が、(  a  )川下流域のウル・ウルクなど様々な都市国家を築いた。前24世紀頃これらの都市国家を征服してメソポタミアを統ーしたのがセム語族の(  b  )人である。その後、同じセム語族の(1).アムル人が強力な国家を建設し前18世紀前半ハンムラピ王のとき全メソポタミアを支配下に置いた。この王国は、小アジアに建国したヒッタイトに滅ぼされた。一方、エジプトでは前3000年頃までに最初の統一王国が生まれ、古王国はメンフイス、中王国はテーベを中心に栄えた。新王国では前14世紀半ば(2).アメンホテプ4世が改革に着手して遷都すると、新都を中心に写実的な(  c  )美術が生まれた

 エジプト王国とヒッタイト王国が弱体化すると、シリア・パレステイナでは、セム語族の3民族、(  d  )人・フェニキア人・ヘブライ人が活動を開始した。(3).(  d  )人は前1200年頃からダマスクスを中心に内陸交易で活躍し、フェニキア人は沿岸部にシドン・テイルスなどの都市国家をつくり、地中海交易を独占した。前7世紀前半に古代オリエントはアッシリア王国により統ーされ、その崩壊後はイラン人が大帝国(  e  )朝ペルシアを建設したが前4世紀後半アレクサンドロス大王がこれを滅ぼした。

 アレクサンドロス大王没後、そのアジアの領土はセレウコス朝に受け継がれたが、前3世紀半ばにはバクトリアが独立し、またイラン系のパルテイアが建国された。パルティアが(  f  )川河畔に築いたクテシフォンは、パルテイアおよびこれを倒した王朝の首都となった。ヘレニズム時代に最も繁栄したのがプトレマイオス朝で、首都(  g  )には研究所・図書館が建設され、学問の中心となった。プトレマイオス朝が滅びローマ帝国が拡大すると(4).アラビア半島やシリア砂漠のオアシス諸都市は隊商都市として繁栄した
 7世紀初めアラビア半島西部の交易路上の都市にイスラームが興った。預言者ムハンマドと第3代までの正統カリフは(  h  )を活動の拠点としたが、その後成立したウマイヤ朝はダマスクスを首都とした。(5).8世紀後半にアッバース朝が新都バグダードを築く、この都市は、 13世紀後半(  i  )にとって代わられるまで、イスラーム世界の政治・経済・文化の中心として繁栄した。東方では10世紀にサーマーン朝の首都(  j  )、11~12世紀にはセルジューク朝下の主要なイラン都市においてイラン=イスラーム文化が栄えた。

(1)(ア)
この王国(王朝)の首都の名を記せ。
  (イ)
この首都の位置を、地図上のA~Nの中から選べ。
(2)
この新都の位置を地図上のA~Nの中から選べ。
(3)
ダマスクスの位置を、地図上のA~Nの中から選べ。
(4)
シリア砂漠にあり、3世紀後半には女王ゼノビアの統治下に繁栄し、現在その遺跡がユネスコ世界遺産として有名な隊商都市の名を記せ。
(5)
バグダードの位置を地図上のA~Nの中から選べ。
 

解 答

ユーフラテス アッカド アマルナ アラム アケメネス
ティグリス アレクサンドリア メディナ カイロ ブハラ
設問
(1)ア (1)イ (2) (3) (4) (5)
バビロン パルミラ

解 説

b.

前2371年 アッカド人のサルゴン1世、常備軍を活用してメソポタミアを初めて統一。
罪ないメソッド 圧巻さ。

前2371年 メソポタミア統一 アッカド サルゴン1世

 

メソポタミアの地図上で、ティグリス川とユーフラテス川をしっかりと区別すること。北側を流れるのがティグリス川で、クテシフォン(パルティア、ササン朝の都)とバクダードはこの川に隣接。なお、上流にはアッシリアの都ニネヴェがある。

ユーフラテスは同じくアルメニア地方から大きく蛇行してティグリス川の南西側を流れる。シュメール人の都市国家ウル、ウルクはその下流にあった。またバビロンはその中流にあった。
 

ユーフラテス川(上流から下流に)

ユーフセレバビ ウルクウル。

ユーフラテス川 

セレウキア(セレウコス1世の定めたセレウコス朝シリアの都。ただし、彼はすぐに北シリアオロンテス川河畔の都市アンティオキアに首都を移したので、セレウキアが首都であった期間は長くはない。紀元前141ミトラダテス1率いるパルティアによって征服され、以後パルティア西部の中心都市となった。)

バビロン(ティグリス川との間隔が狭くなっているところ ハンムラビ王の時、バビロニアの首都となった) ウルク ウル(ウル第一王朝の首都)


なお、地図中の正解以外の地点は、A:アレクサンドリア、B:メンフィス、D:テーベ、E:シドン、G:イェルサレム、H:メディナ、I:メッカ、L:ウル、M:スサ、N:ペルセポリス。
設問(4)パルミラは用語解説を参照
c.

前1379~BC1362   〈アメンホテプ4世、アマルナに遷都〉

意味なきゃダメよ甘えるな。

前1379年 イクナートン  アメンホテプ4世 アマルナ

d アラームないよ笛注意。

アラム 内陸フェニキア地中海貿易

ティグリス川(上流から下流に)

ティグニネアッシュ バグだクテ。

ティグリス川 ニネヴェ アッシュール

バグダード(ユーフラテス川との間隔が最も狭くなっているところに位置する)

クテシフォン(シリア・イラク方面に進出したパルティアがヘカトンピュロスから遷した都。ササン朝の都

i.1169年にファーティマ朝にかわってカイロでアイユーブ朝の政権を確立したサラーフッディーン(サラディン)は、ファーティマ朝の政府施設を接収するとエジプトの政府機能の一切をカイロに集約させ、カイロ南東のモカッタムの丘の端に城砦(シタデル)を建設して守りを固めるとともに、城壁と市街を南に拡大してフスタートをカイロに取り込ませる形で都市の拡張を進めた。この事業はアイユーブ朝に続くマムルーク朝の時代に至って完成し、東西交易によって空前の繁栄を迎えた。1258年バグダードモンゴルに征服された後はアッバース家末裔のカリフもカイロへと迎えられてイスラム世界の政治的・精神的な中心地ともなり、スンナ派を奉じたサラーフッディーンによってシーア派からスンナ派のイスラム学院に改められたアズハルはスンナ派イスラム世界の最高学府として高い影響力をもつようになった。

(1)ア.

前1792年 ハンムラビ王即位。                   

非難苦にせず 反撃す

前1792年 セム系 ハンムラビ王 バビロン

〈アラム人とフェニキア人〉

アラームないぜ 笛(ふえ)注意。

アラム人  内陸貿易  セム系  フェニキア人 

                         地中海貿易

なお、地図中の正解以外の地点は、A.アレクサンドリア、B:メンフィス、D:テーベ、E:シドン、G:イェルサレム、H:メディナ、I:メッカ、L:ウル、M:スサ、N:ペルセポリス。

(4)

273年、アウレリアヌス、パルミラ王国を滅ぼす。

津波に遭うと パールゼロ。

273年 アウレリアヌス パルミラ ゼノビア


【ベック式!魔法の世界史実況中継(古代史編)】

【ベック式!魔法の世界史実況中継(中世史編)】

【ベック式!魔法の世界史実況中継(近代史編)】

【ベック式!魔法の世界史実況中継(現代史編)】

にほんブログ村 受験ブログへ

 

受験 ブログランキングへ


日本史 ブログランキングへ

 

世界史 ブログランキングへ



物理学・田中館愛橘

2017-12-14 | 入試問題+ゴロ合わせ

田中だ知事来た。

田中館愛橘(たなかだてあいきつ))(地磁気測定)



[point]

1.物理学の田中館愛橘は、日本全土の地磁気の測定で知られる。

[解説]

1.田中館愛橘(1856~1952)は、地球物理学者。日本における重力・地磁気・地震学の開拓者。田中館は1892年、濃尾地震にともなう等磁力線の変位を発表した。

2016明大・経営:「

 動力による有人固定翼機(以下の文章では、飛行機と呼ぶ)の飛行に最初に成功したのは、アメリカのライト兄弟による12秒間の飛行であるというのが通説である。1903年12月17日のことである。しかし、ライト兄弟による初飛行のニュースは、当時は広まらなかった。日本に伝わったのは、その後の、ヨーロッパ諸国における飛行機の飛行成功が先であったように思われる。
 これらの情報を受けて、日本では1909年に、勅令によって臨時軍用気球研究会が設立され、この組織で飛行機の研究がはじめられた。研究会の初代会長は陸軍中将となった長岡外史であり、委員には、東京帝国大学教授のオ田中館愛橘や、睦軍大尉の徳川好敏と日野熊蔵も含まれていた。

問5 下線部(オ)に関して、1909年12月に、田中館愛橘はフランス人による有人グライダー機の製作に協力し、同機は東京上野の不忍池畔での飛行に成功した。これが日本初の有人グライダー機飛行である。田中館愛橘のその他の業績としてふさわしいものを、A~Dの中から一つ選べ。


 A 地磁気の測定

 B 高精度の地震計の発明
 C 原子構造の研究
 D 強力な火薬の発明

答えA

2004大学入試センター試験追試:「

問2 下線部(b)明治後期の日本の科学は飛躍的な発展を遂げ、世界的な水準に達する研究も発表されるようになったに関して、この時期の出来事として正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。

 1 田中館愛橘は、赤痢菌を発見した。

 2 高峰譲吉は、アドレナリンを発見した。
 3 湯川秀樹が、ノーベル賞を受賞した。
 4 志賀潔は、地磁気の測定で成果をあげた。」

(答:2〇 ※1×田中館愛橘は地磁気の測定、3×湯川秀樹は第2次大戦後に受賞、4×志賀潔は赤痢菌の発見)〉


総合・地域史 地中海世界 ★★ ギリシアとローマ

2017-12-06 | 入試問題+ゴロ合わせ
2009 京都大学

【問】次の文章の[   ]の中に適切な語句を入れ、下線部(1)~(8)について後の問に答えよ。

 古代の地中海地域を中心に文明を築いたギリシア人とローマ人には、市民権を持つ都市の正式構成員が主体となる政治体制を樹立するなど、共通する面も多かったが、他方ではまったく性格の異なる政策を実施するなど、注目すべき相違点もみられる。
 (1).古代ギリシアの代表的なポリス、アテネでは、民主政の発展によって成年男性市民の総会である民会が国政の最高決定権を有しまた市民は一部の特別職を除いて誰でも公職に就くことができ、公職者はくじで選ばれ、日当が支払われた。参政権は市民の成年男性に限られており、女性や在留外国人には与えられなかった。しかも、(2).紀元前5世紀中ごろの立法によって、アテネ市民の両親から生まれた子でない限り市民権は与えられなくなった

 ローマの場合も、共和政の時代は、市民の集会である民会で国家の公職者が選出され、参政権を持つ者も成年男性に限られていた点は、アテネと同様であった。しかし、(3).ローマ市民の中でも貴族が公職を独占的に保持して権力をふるい貴族主導の政治体制をとった点は大いに異なる。また、(4).ローマ人は征服活動を進める過程でローマ市民権を他の諸部族、諸民族にも与えたため、(5).政治的特権であるローマ市民権を持つ市民団は、故地ローマ市はもとより、イタリアをも越えて拡大した

 対外的な活動においても、ギリシア人とローマ人の違いは注目に値する。両者とも(6)地中海を自由に航行し、植民活動や都市建設をおこなっている。しかし、ギリシア人の場合、植民によって建設された都市は母市から独立したポリスとなったが、ローマ人が建設したり植民したりした都市がローマ国家から切り離されることはなかった。また、ギリシア人は広大な植民活動をおこなったが、植民市はおおむね故地と気候や風土の似た海岸部に建てられたのに対し、(7).ローマ人の場合、ヨーロッパの内陸部にも征服地を広げ、イタリアとは気候や風土の異なる地域にも都市を建設した。このため、(8)ローマ人の国家は、地中海沿岸にとどまらず、ヨーロッパの中央部、さらにはブリテン島やドナウ川下流域にまで広がり、ヨーロッパの広大な地域に大きな影響を残すこととなった。

(1) 
アテネとともに古代ギリシアを代表するポリス、スパルタは、市民間の平等維持や厳しい軍事訓練などを定めた独自の国家制度を完成させた。この名称を記せ。
(2) 
この法律を提案しアテネ民主政の黄金期を築いた政治指導者の名を記せ。
(3) 
貴族の権力から平民を守るために前5世紀に設置された公職の名を記せ。
(4) 
前l世紀の初めに、イタリア半島の都市へのローマ市民権付与をめぐって生じた戦争の名を記せ。
(5) 
政治的特権であったローマ市民権は、保持者の増大につれて特権としての価値を減じていった。
 (ア)
キリスト教のローマ帝国東部への伝道に活躍し、キリスト教を世界宗教とするために最も大きな役割を果たした人物は、属州で逮捕されたが、ローマ市民権を有したために首都ローマの皇帝の裁判に上訴することができた。この人物の名を記せ。
 (イ)
紀元3世紀の初めにはローマ帝国内のすべての自由民にローマ市民権が与えられた。この措置がなされた当時の帝国の状況を正しく説明した文章を、次の(a)~(d)より1つ選んで、記号で答えよ。
   (a)
オクタウイアヌスが内乱に勝利し、新しい政治体制を導入した。
   (b)
デイオクレテイアヌス帝が混乱した帝国を再統一し、様々な改革を断行した。
   (c)
門閥派と民衆派の政治権力をめぐる争いが激化した。
   (d)
五賢帝時代も過ぎて、国境外の諸民族の侵入や皇帝位をめぐる争いが頻発するようになった。
(6) 
ローマ人の地中海進出以前ギリシア人とともに地中海での交易や植民に活躍し、カルタゴなどの植民市を建設した民族の名を記せ。
(7) 
初代皇帝アウグストゥスの治世に、ローマの3軍団がゲルマン人の部隊によって全滅させられ、ローマの内陸部征服計画は頓挫することになった。この戦いの名を記せ。
(8) 
ローマ人が進出する以前のヨーロッパ中央部には、前5世紀から前1世紀にかけて独自の性格を持つ鉄器文化、ラ・テーヌ文化が広がっていた。
 (ア)
この文化の担い手となった民族の名を記せ。
 (イ)
この文化の担い手である人々がローマの支配下に包摂されるようになる大きな契機は、ユリウス・カエサルの遠征である。彼がこの遠征について自ら書き記した作品の名を記せ。
 

解 答

5 ア
リュクルゴス制 ペリクレス 護民官 同盟市戦争 パウロ 
5 イ 8 ア 8 イ
 d  フェニキア人 トイトブルクの戦い ケルト人 『ガリア戦記』

※別解:問7:トイトブルク森の戦い

解 説: 

問3.前494年 〈ローマ、聖山事件~護民官の設置〉
良くしまっせと 護民官
494年 聖山事件 護民官 

問4

前91 〈同盟市戦争〉

悔(く)いすら残る 同盟し。

前91 スラ  同盟市戦争  市民権 

問7のトイトブルクの戦い(トイトブルク森の戦い)は教科書・用語集にないが、アウグスティヌスがゲルマン人に敗れた戦いとして有名。アウグスティヌスの派遣した将軍ウァルスの率いるローマ軍が、現在の北ドイツのウェストファリア地方にあったトイトブルクの森で、アルミニウスという指導者に率いられたゲルマン人に敗れ、3個軍団が全滅した。その知らせを受けたアウグスティヌスが、泣きながら「ウァルスよ、余の軍団を返せ!」と叫んだというのは有名なエピソードである。この戦いの敗戦でローマとゲルマン人の境界はライン川とドナウ川を結ぶ線に確定した。

急(きゅう)会う、逃げる 遠い森。

9年  アウグストゥス 

     アルミニウス ゲルマン人 トイトブルク森の戦い


問8の問題文の“ラ=テーヌ文化”は教科書では取り上げられないが、スイスの遺跡から名付けられたヨーロッパ鉄器文化後期の文化で、ケルト人の文化とされている。(ア)ケルト人はゲルマン民族以前に西ヨーロッパに広く分布した原住民。
 

医学・志賀潔

2017-11-28 | 入試問題+ゴロ合わせ

いや苦難志賀赤痢菌。

1897年 志賀潔、赤痢菌


[point]

1.細菌学の志賀潔は、赤痢菌の発見で知られる。

[解説]

1.志賀潔(1871~1957)は、仙台藩士の家に生まれる。帝国大学医科大学(後の東京帝国大学医学部)を卒業後、北里柴三郎に師事、1897年に赤痢菌を発見。ドイツに留学してエールリヒに師事、世界初の結核治療ワクチンを発明。なお赤痢菌の学名は志賀潔に因んでShigellaという。 

2017早大・人間

問6 下線部e日本人の学者による独創的な研究に関連して、正しいものはどれか、1つ選べ。

 ア 大森房吉は、原子摸型理論を発表した。

 イ 木村栄は、地球の緯度変化公式のZ項を発見した。
 ウ 志賀潔は、ペスト菌を発見した。
 エ 鈴木梅太郎は、アドレナリンを抽出した。
 オ 長岡半太郎は、地震計を考案した。」

(答:イ〇 ※ア×大森房吉は大森式地震計の発明、ウ×志賀潔は赤痢菌の発見、エ×鈴木梅太郎はオリザニン(ビタミンB₁)の抽出、オ×長岡半太郎は原子構造の研究)〉


2016関西学院大学・全学部

 科学では、[ c ]が赤痢菌を発見し、また[ d ]はビタミンB1の抽出に成功するなど、世界水準の研究も発表された。

問3.空欄c・dに該当する人物の組み合わせとして、正しいものを下記より選びなさい。


 ア.c北里柴三郎 d鈴木梅太郎
 イ.c志賀潔   d大森房吉

 ウ.c志賀潔   d鈴木梅太郎
 エ.c北里柴三郎 d大森房吉」

(答:ウ)〉

2016立教大・現心コミュ福観光営

問12.明治以降、日本における医学・薬学研究は進展した、これに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.志賀潔が黄熱病の研究ですぐれた業績を生んだ
 b.鈴木梅太郎が脚気の研究からビタミンB₁を発見した
 c.長与専斎が破傷風の血消療法を発見した
 d.秦佐八郎が赤痢菌を発見した」

(答:b)〉