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総合・地域史 ★★ ユーラシア(モンゴル後のロシアと清)

2017-12-21 | 入試問題+ゴロ合わせ

 2010 京都大学(改)

【問】次の文章の(   )の中に最も適切な語句を入れ、下線部(1)~(7)について後の問に答えよ。

 16~17世紀、ユーラシアの東西にふたつの帝国が形成され始める。やがて、ともに巨大化したのち、いずれも政体は変化したが国としての大きなかたまりは現在まで続いている。すなわちロシア連邦と中華人民共和国である。
 それぞれの源流・発端はある意味でモンゴル帝国と無縁ではない。(1).ルーシと呼ばれた地域は、ゆっくりとモンゴルからの自立姿勢を強め、やがて16世紀半ば、王となった(  a  )はカザンとアストラハンのふたつのモンゴル国家を接収してヴオルガ流域を制圧し、 (2).そこから東方にむけて少数の兵を派遣した。かくて、 17世紀前半には太平洋岸にまで到達する。こののち、(3).ロシアはアジアとヨーロッパにまたがる広大な勢力圏を保持することになる。なお、黒海に臨む一帯には、1783年まで(  b  )というモンゴル国家が存在し続けた。

 一方、アジア東方では、かつてモンゴル治下にあった大興安嶺以東の(  c  )族のなかからヌルハチが台頭し、 1616年にはハンを称した。ついで、(4)その子の(  d  )は1636年に、本来は“主人筋”であった内モンゴル諸王侯に推戴されて、大元国(ダイオン=ウルス)をひきつぐ帝王として即位し、国号を大清国(ダイチン=グルン)とした。これ以後、清朝は満蒙連合政権の性格を色濃くおびた。そして1644年に明朝が滅ぶと、(5).清は入関して北京に入り、否応なく中華本土も包み込む多元帝国となっていった。

 (6).康煕帝・(  e  )から乾隆帝にいたる三人の皇帝の治世は外モンゴルおよび(  f  )仏教文化圏をめぐって、やはりモンゴル帝国以来の由緒をもつ(  g  )と激しく争いあう時代でもあった。(7).清朝は1755年から59年にかけて、ついにパミール以東を制圧し、現在に続く巨大な版図を樹立したが、 1793年に乾隆帝のもとを訪れた(  h  )が率いる使節団の目には、“虚飾の老大国"に見えていたのも一方の事実であった。

(1)
ルーシを含むユーラシアの西北部を支配したこの モンゴル国家は何というか。
(2)
1582年にシビル=ハン国の首都を占領したのは誰か。
(3)
ロシアは、ある山脈を境に、そこから東方の大地をながらく属領視することになった。何という山脈か。
(4)
このときの首都はどこか。
(5)
このときの清朝の皇帝は誰か。
(6)
康煕帝時代に国境画定をめぐってロシアとの間で結ばれた条約を何というか。
(7)
このとき清軍の一部はパミールをこえて西南方にも進出し、アフマド=シャーによって建国されてからまもない国家に接近した。何という王国か。
 

解 答 

イヴァン4世 クリム=ハン国 女真(女直) ホンタイジ 雍正帝
設問1 設問2
チベット ジュンガル マカートニー キプチャク=ハン国 イェルマーク
設問3 設問4 設問5 設問6 設問7
ウラル山脈 瀋陽 順治帝 ネルチンスク条約 アフガニスタン王国

解 説: 

設問4:女真のヌルハチが建国した後金(アイシン)は、1625年に瀋陽を都とした。次いでホンタイジ(太宗)がこの都を盛京と命名した。順治帝の時、1644年に中国本土に侵攻して都を北京に移した。瀋陽は副都とされ、奉天府といわれた。
設問7:アフガニスタン王国は、1747年に成立した、ドゥッラーニー朝。アフマド=シャーは、それまでアフガニスタンを支配していたサファヴィー朝とムガル帝国の勢力から、民族の独立を勝ち取り、カーブルを都とした。乾隆帝の時の清軍が一時侵攻したが、このことはほとんど触れられないので難問。
 

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