ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

啓蒙思想・明六社の6人

2017-12-25 | 入試問題+ゴロ合わせ

森の中にし 腹痛だ。

有礼(もりありのり)・村正直(なかむらまさなお)加藤弘之(かとうひろゆき)・西村茂樹)(西(あまね)・沢諭吉・津田真道(つだまみち))

なおこの明六社は1875年の讒謗律解散サボ解散明六社)。

[point]

1.明六社森有礼の発議に西周加藤弘之中村正直西村茂樹福沢諭吉津田真道が参加して発足。

[解説]

1.明六社の名は、明治六年(1873)発足にちなむ。機関誌は『明六雑誌』。旧幕府の開成所(洋学教育機関)出身者が多い。同誌は新聞紙条例讒謗律発布に動揺して廃刊にいたる。

2.西周(1829~97)は、津和野藩出身。初期の軍制整備に活躍し、軍人勅諭の初稿を起草。啓蒙思想家だが西洋哲学を最初に紹介し、「哲学」だけでなく日常何気なく使っている「主観」「記号」「命題・定義・演繹・帰納」「肯定・否定」をはじめ用語多数を和訳創案して、我が国には未知の概念を定着させた功績で知られる。


3.津田真道(1829~1903)は、津山藩出身。官僚・法学者・啓蒙思想家。江戸で佐久間象山などに洋学を学ぶ。蕃書調所教官となり、幕命でオランダに留学し、法学・経済学を学び、帰国後わが国初の西洋法律書『泰西国法論』を著す。維新後、司法省・元老院にも勤務し、新律綱領などを編纂。


4.中村正直(1832~91)は、江戸生まれ。幕府の儒官出身。個人主義道徳を説き、啓蒙思想の普及に努めた。


5.福沢諭吉(1834~1901)は、豊前中津藩(大分県)の出身。下級藩士の次男として生まれた啓蒙思想家。大坂に出て緒方洪庵に蘭学を学ぶ。また独学で英学をおさめた。1860年咸臨丸に同乗したのをはじめ3回、幕府の遣外使節に随行し、欧米を視察。維新後は政府の招きを断り、教育と言論による啓蒙活動に邁進(まいしん)。68年慶応義塾を創設して人材育成に努める。『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論の概略』などを著した。英功利主義の影響を受け、個人および国家の「独立自尊」を主張したが、自由民権運動には冷淡であった。82年『時事新報』を創刊。次第に国権論に傾き、日清戦争では主戦論を展開。


6.加藤弘之(1836~1916)は、但馬出石(いずし)藩(兵庫県)出身。維新後、天賦人権論を説く啓蒙思想家としてスタート。やがて国家主義思想へと転向。


7.森有礼(1847~89)は、薩摩藩(鹿児島県)出身。初代文部大臣として、ドイツ式の学校令を制定して国家主義的教育体制を確立。帝国憲法発布の日、急進的な欧化主義者であったことが一因で、国権主義者の反発をうけ暗殺された。

8.西村茂樹(1828~1902)は、佐倉藩出身。主著『日本道徳論』。皇室中心の国民道徳を説き、国粋主義の先駆となる。


2017中央大・経済

問2.次の説明のうち、下線部①の明六社の結成に加わった人物についてのものにはイ、そうでない人物についてのものにはロをマークしなさい。

 a.幕末に薩摩藩からイギリスに留学し、後に初代文部大臣として学校令を公布した。
 b.幕末に洋書調所の教官としてオランダに留学し、同地で学んだ国際法に関する『万国公法』を刊行した。
 c.『真政大意』を刊行して天賦人権思想を紹介したが、後に、社会進化論の立場から『人権新説』を刊行して天賦人権論を批判した。
 d.『古事記』・『日本書紀』に科学的分析を加えて古代史研究に新境地をひらいたが、著書『神代史の研究』について発禁処分を受けた。」

(答:aイ森有礼、bイ.津田真道、cイ.加藤弘之、dロ.津田左右吉)〉

2017早大・社会

問8 下線部(7)明治期の啓蒙思想に関連して、近代思想の普及を担った明六社に参加しなかった人物は誰か。1人選べ。

 イ大木喬任 ロ津田真道 
 ハ西村茂樹 ニ西周
 ホ中村正直

(答:イ)〉

2016早大・政経

 幕府の留学生として下線部11阿蘭陀で学び、明治維新後は兵部省に出仕し、徴兵令制定に関与した人物が、旧幕府系洋学者らと結成した思想団体を何というか。漢字で記せ。」

(答:明六社 ※西周は明治維新後は、兵部省に入り、徴兵令・軍人勅諭など関わる)〉


2015立命館大・全学部2/2:「

 hかれは、幕末から明治期に活躍した啓蒙思想家として著名な人物である。8明六社の創設にも関わり、主著『文明論之概略』のなかでは、それまでの日本の歴史や文明のあり方を厳しく批判し、西欧文明に学びつつ、日本の独立をはかれと主張している。

問h  下線部hの「かれ」の氏名を答えよ


問r 下線部8明六社に関連して、「明六社」の創設者の一人で、当初は天賦人権論の立場であったが、のちに社会進化論の立場から天賦人権論を否定するに至った『人権新説』の著者として知られる人物は誰か。もっとも適当な名を下から一つ選べ。


 あ森有礼  い西村茂樹

 う加藤弘之 え植木枝盛」

(答:h福沢諭吉、rう)〉


2015関西大・済文社会など

 維新後、新政府に仕え、明六社にも参加した(1)【ア加藤弘之 イ森有礼 ウ中村正直】は、『国体新論』などで天賦人権論を紹介したが、1882年刊の『人権新説』では、天賦人権論を否認し、自由民権運動に反対の立場をとった。」

(答:ア)


2014明大・情報コミュ

  明六社のメンバーで、( ウ )を起草した西周は、幕末から明治初年の段階では妻升子の表記を、旧姓で「石川升子」としていたが、民法施行後には、「西升子」と変更していた。婚姻した女性は、男性側の姓を名乗り、男性の家に入ることが制度として強制されたのである。」

(答:ウ.軍人勅諭)〉


2013立大・法済異文化:「

問7ⅰ.この人物(森有礼)と西周ら洋学者が創設した啓蒙思想団体はどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.硯友社 b.交詢社

 c.明六社 d.立志社」

(答:c)

a.硯友社は1885年に発足した、明治期の文学結社。

 b.交詢社
 c.明六社 d.立志社」
2012早大・文

 1873年、アメリカから帰国した[ A ]は、洋学者の西村茂樹らと相談の上、明六社を結成した。同社は翌年、機関誌『明六雑誌』を創刊、西洋の知識を日本に紹介し多大な影響を与えた。

問1 空欄Aの人物は、のち初代文部大臣に就任した。その人物は誰か。漢字で記述せよ。」


(答:森有礼)〉


2010明大・政経

設問2 下線部(ア)蕃書調所はその後、名称を洋書調所、開成所と変えていくが、津山藩士でオランダ留学後、開成所の教授となり、のちに明六社に参加した啓蒙思想家は誰か。A~Dからひとつ選べ。

 A福沢諭吉 B森有礼

 C津田真道 D加藤弘之」

(答:C)※津山藩士


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 歴史学・田口卯吉 | トップ | 啓蒙思想・中村正直 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

入試問題+ゴロ合わせ」カテゴリの最新記事