■平和って何?④
▼折鶴
折鶴(おりづる、折り鶴)は、正方形の紙を折って鶴に似せた形に作るもので、折り紙の一種。
最もポピュラーな作品のひとつであり、折り方も簡単なため多くの世代に知られている。
初心者向けの折り紙本の多くには作り方が掲載されている。
1枚の紙に切り込みを入れて、多数の折鶴を完全に切り離さずにくっついた状態で折る「連鶴」や、単体の折鶴を多数折って繋げていく「千羽鶴」などもある。
他に尻尾を引っ張ることで羽を動かすものもある。
また、折り終えた際に鶴の下部に息を吹き込むことで、胴体部分を膨らませることができる。
広島の七夕や仙台七夕などでは、七夕飾りの一つとして折り鶴を用いる。
《歴史》
折鶴が文献に現れるのは江戸時代であり、井原西鶴の1682年に出版された『好色一代男』の中で、主人公の世之介が「比翼の鳥のかたち」をした「をり居(おりすえ)」をつくるという記述がある。
ただし『好色一代男』では図や絵がなく文章のみで書かれているため、「比翼の鳥」の折り紙がどのようなものなのかは定かではない。
はっきりと折鶴が描かれるのは1700年に出版された『當流七寶 常盤ひいなかた』である。
そのひいなかたの中の121番「落葉に折鶴」の項に、着物の模様として折鶴が描かれている。
その後、折鶴を発展させた連鶴が誕生した。明確な形で連鶴が記載されているのは1797年に京都で出版された『秘伝千羽鶴折形』である。
しかし1800年前後の複数の錦絵(浮世絵)には連鶴と思しき連なった鶴が描かれており、『秘伝千羽鶴折形』以前から連鶴が存在していたと考えられている。
具体的には、少なくとも18世紀後半には江戸で連鶴が折られていたと考えられる。
『秘伝千羽鶴折形』はその後その存在が忘れ去られていたが、1957年に吉澤章が国際折紙研究会の機関紙「O・T通信」で発表し、更に同年の『週刊朝日』の書評欄で紹介されたことにより、一般の人にも広く知られることとなった。
折り鶴を1000羽作り、糸で束ねたものを千羽鶴という。
現在折り鶴や特にこの千羽鶴を、幸福祈願、災害慰安、病気快癒・長寿などの願いをこめて、寺社に贈ったり、被災者や入院患者へ贈ったりする習慣がある。
この理由の一つには「鶴は千年、亀は万年」という慣用句があることがあげられる。
▼平和の祈り
また広島市への原子爆弾投下により被爆し、後に白血病で死亡した佐々木禎子が、生前に病気の恢復を祈って折り鶴を折り続けたというエピソードも広く知られている。
佐々木禎子のエピソードや千羽鶴・折り鶴はカルル・ブルックナーの"Sadako will leben"(サダコは生きる)やエレノア・コアの"Sadako and the Thousand Paper Cranes"(サダコと千羽鶴)によって広く英語圏にも知られることとなった。
そのため千羽鶴は世界平和の象徴としてとらえられ、広島平和記念公園などに供えられている。
また広島平和記念資料館には2016年に同地を訪問したアメリカのバラク・オバマ大統領が自ら折って持参した折り鶴がメッセージとともに展示されている。
2017年には同大統領から長崎市にも折り鶴が贈られた。
長崎の爆心地を中心に作られた平和公園には「折鶴の塔」がある。
▼千羽鶴
千羽鶴(せんばづる)は、多数の鶴の描かれた模様や絵画、および折り紙である折り鶴を1000羽作り、糸などで綴じて束ねたものを指す。
瑞鳥である鶴が千羽(多数)いることから更なる瑞兆を表す。
千羽は多数の意味で、1000羽ちょうどでなくてもよい。
かつては社寺に奉納されていたが、現在は祝福、幸福祈願、災害などへの慰安、病気平癒祈願、見舞いなどを目的に作成や贈呈が行われている。
広島市への原子爆弾投下で被爆し、原爆症で死亡した佐々木禎子が自らの延命を祈って作ったことから、平和の象徴にもなっている。
《歴史》
千羽鶴の起源ははっきりとは分かっていない。
かつては、1797年の魯縞庵義道の『秘傳千羽鶴折形』のように連鶴を「千羽鶴」と呼称していた。
『秘傳千羽鶴折形』の序文では、鶴と富、折り鶴と長寿祈願を結びつけている。
小川未明の作品「千羽鶴」(1916年)には、小さな紙で作った折り鶴を糸でつなぐという記述があり、少なくともこの時代には現代のような形の千羽鶴が存在していたことがわかる。
戦前には、糸に通した折り鶴を「千羽鶴」と呼称し、女児の技芸上達祈願として淡島・鬼子母神などの寺社にささげていた。
◆平和の象徴に
折り鶴や千羽鶴が平和の象徴となったのは、原爆の子の像のモデルになった原爆被爆者の少女、佐々木禎子が千羽鶴を折ったことによる。
1955年2月に亜急性リンパ性白血病と診断され、広島赤十字病院に入院していた佐々木禎子は、1955年5月に岐阜県または愛知県の人からもらった慰問の手紙に、5cmほどのセロハンの折り鶴がはさんであるのを見て、折り鶴を千羽折れば病気が治ると信じて鶴を折り始めたようである。
1995年の中国新聞によれば、愛知淑徳高青少年赤十字団員が原爆患者に贈った4千羽の折り鶴のうち、2千羽が広島赤十字病院に贈られている。
佐々木禎子は、自分で折り鶴を折り上げることにこだわっていたようである。
佐々木禎子の折った折り鶴の数については諸説あるが、実兄の佐々木雅弘によれば、最初の千羽は自らの病気治癒祈願として、次の千羽は父の借金のことを祈っていたという。
佐々木禎子は1955年10月に亡くなるが、その思いは同級生や他の被爆者により引き継がれ、原爆の犠牲になったすべての子供たちへの慰霊として1958年5月に原爆の子の像が平和記念公園に建てられる。
この原爆の子の像の塔の鐘には、湯川秀樹により「千羽鶴」と彫られている。
この物語はフィクションも巻き込みながら海外へと紹介され、千羽鶴は単純な長寿祈願を超えて、「生きたい」という生存権利の主張という意味合いを持って世界に広がっていった。
1999年と2000年の広島市のアンケートでは、佐々木禎子と千羽鶴について、日本以上に海外で知られているという結果が出ている。
関連項目
ー 秘傳千羽鶴折形 ー
秘伝千羽鶴折形
(ひでんせんばづるおりかた)
(秘傳千羽鸖折形)
1797年(寛政9年)に京都の吉野屋為八によって初版が発行された、連鶴49種を集めた書のことである。
連鶴の作者は、伊勢国桑名の長円寺11世住職・義道一円(ぎどういちえん、1762年 - 1834年、漢詩を書く際の号は魯縞庵(ろこうあん))である。
編著者は「東海道名所図会」などで知られる秋里籬島(あきさとりとう)、絵師は竹原春泉斎。木版一色刷りで、現代の文庫本とほぼ同サイズの和綴じ本である。
これは、現存する世界で最も古い遊戯折り紙の本と言われている。
また、この折り方は「桑名の千羽鶴」として桑名市の無形文化財に指定されている。
《概要》
千羽鶴折形には、全部で49種の連鶴の作り方が掲載されている。
更に原本の挿絵には50番目の作品(拾餌に似ている)と51番目の作品(釣りふねに似ている)が描かれている。
それぞれの完成形には、和名の銘と、その銘にちなんだ恋に関する狂歌が添えられている。
作品の作り方として紙にどのような切り込みを入れるかどうかは開いた紙に実線を入れることで示されている。
ただし、唯一「百鶴」では紙を三角に八折りし、一度に切り込みを入れる方法が指示されている。
これは本が書かれた江戸時代に流行していた紋切り遊びの手法である。
千羽鶴折形は近年までその存在が忘れ去られていたが、1957年9月に吉澤章が国際折紙研究会の機関紙「O・T通信」で発表し、更に同年の『週刊朝日』の書評欄で紹介されたことにより、一般の人にも広く知られることとなった。
また中西康大が魯縞庵が桑名に実在した人物であることや、編著者が秋里籬島であることをつきとめた。
編著者の秋里籬島はこの本の製作にあたり作者を「露菊」として記載し、秋里籬島の名は自身の判子「籬島」を押印することによってのみ使用した。
このため増版時には印が押されなくなり、編著者が秋里籬島であることがわからなくなってしまった。
この本は魯縞庵がまとめた49種の連鶴を、秋里籬島が和名をつけて狂歌を添え、順序や書籍のレイアウトにも工夫を施して製作された。
魯縞庵はこの本以前に100種の千羽鶴に漢名をつけ『素雲鶴』(そうんかく)という本にまとめていた。
『素雲鶴』は現存していないと考えられていたが、2014年11月に長円寺本堂の書庫から『新撰素雲鶴』と書かれた冊子が見つかり、その中に挟まれていた連鶴の展開図が描かれた縦28cm、横39cmの美濃紙が『素雲鶴』の一部とみられている。
『素雲鶴』と考えられるものには30種、『新撰素雲鶴』には158種類が収録されている。
本の題名『千羽鶴折形』のうち、「千羽鶴」という単語は現代における連鶴を意味していた。
また千羽鶴折形は明確な形で連鶴が記載された最古の本であるが、連鶴はこの本が出版される以前から存在したと考えられている。
関連項目 ー 佐々木禎子 ー
佐々木 禎子、(ささき さだこ)
(1943年〈昭和18年〉1月7日〜1955年〈昭和30年〉10月25日)
太平洋戦争末期の広島市への原子爆弾投下による被爆者の一人。
12歳の若さで白血病により亡くなり、広島平和記念公園にある『原爆の子の像』のモデルになった。
原爆を投下したアメリカ合衆国のシアトルの平和公園にも銅像がある。
2004年7月25日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に遺影が登録された。
このように彼女の死は日米で語り継がれているだけでなく、旧ソビエト連邦でも教科書に載るほど広く伝えられ、現在のロシア連邦でも千羽鶴を折るイベントが開かれるなどしているが、その意味合いは反核運動よりも、アメリカを非難して、それに対抗する核抑止力の必要性を訴える目的が濃厚であった。
▼生涯
1943年1月7日、広島県広島市に生まれる。
「禎子」という名前は、元気に育つようにという父母の願いをこめて、両親の店の客の姓名判断の先生に頼みつけてもらった。
1945年8月6日、2歳のときに広島に投下された原爆によって、爆心地から約1.6km離れた楠木町(広島市西区)の自宅で被爆した。
爆風により屋外まで飛ばされたものの、外傷は負わなかった。
しかし母に背負われて避難する最中に、放射性降下物を含む「黒い雨」に打たれた。
また祖母はその際に家に戻ったため亡くしている。
ともに被爆した母親は体の不調を訴えたが、禎子は不調を訴えることなく元気に成長した。
1954年8月の検査では異常はなかった。
運動神経が抜群で足が速く、将来の夢は「中学校の体育の先生」になることであった。
小学6年生の春の運動会で学級対抗リレーの選手の一人に選ばれたが6年竹組は最下位になった。
が、その後もリレーの練習を続け秋の運動会では6年竹組は優勝した。
その日付は1954年10月25日と記録されている。
しかしその直後から体に異変がみられるようになる。
同年11月下旬頃、軽い風邪をひき、首や耳の後ろにしこりができた。
しこりは徐々に大きくなり、顔がおたふく風邪のように腫れる。
正月明けに近所の病院で診察を受けるも、一向に腫れが引くことはなかった。
さらに1月末には左足に紫色の斑点がみられるようになる。
原因が解からぬまま1月18日、2月16日にABCC(原爆傷害調査委員会、現在の放射線影響研究所)で検査を受ける。
2月18日、かかりつけの小児科医の畑川先生からABCCの検査結果をもとに父親に「病名は亜急性リンパ腺白血病で禎子さんはあと3ヶ月、長くても1年はもたんでしょう」と告げられる。
2月21日、広島赤十字病院(現在の広島赤十字・原爆病院)に入院した。
10月25日の朝に危篤となる。父親から食べたい物は何かと尋ねられた禎子は「お茶漬けを食べたい」と伝えた。家族が大急ぎで用意したお茶漬けをたくあんと共にふた口ほど食べ、「お父ちゃん、お母ちゃん、みんなありがとう。」と呟いた。
これが最期の言葉となる。
1955年10月25日午前9時57分、
担当の沼田医師が臨終を家族に告げた。
享年12歳。
▼折り鶴
1955年8月に名古屋の高校生からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。
禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。
病院では折り紙で千羽鶴を折れば元気になると信じて鶴を折りつづけた。
8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。
その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。
その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。
当時の折り紙には小さい大きさの物が無く、紙の質も悪かったので、小さい鶴は、折りやすい、小さな薬の包み紙のセロファンなどを用いて折る事が多かった。
1000羽折ったものの病気が回復することはなく同年10月25日に亜急性リンパ性白血病で死亡した。
死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、棺に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。
禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上(広島平和記念資料館発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、甥でミュージシャンの佐々木祐滋は「2千以上のようです」と語っている。
実際の数については遺族も数えておらず、不明である。
また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。
その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。
2013年10月、病床で作った折り鶴のうち1羽が母校の広島市立幟町小学校に寄贈されることとなった。
また、2010年からは、日本への原子爆弾投下時のアメリカ合衆国大統領であったハリー・S・トルーマンの親族と佐々木禎子の親族の間で親交がもたれ、2015年11月にトルーマン元大統領の大統領図書館に折り鶴のうちの1羽が寄贈された。
〔ウィキペディアより引用〕

私は未だ“平和”という言葉の意味の周りを徘徊しています。
私の脳裏には、ジョン・レノンの“IMAGINE”が流れていて...。
何術もなく、途方に昏れてます。
IMAGINE
1971年にジョン・レノン
(John Lennon)が作詞作曲した、平和を願う歌。
imagine peace from every angle.
あらゆる角度から平和を想像する。