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ダカーポ ♯007

2023-08-20 21:00:00 | Keyword/話題

 ■痴(ち)

 ち【痴】 〘名〙 物事を考え判断する力がたりないこと。
 おろかなこと。
 また、その人。

 普段、使わない言葉ではあるが。
でも、とても大事な言葉でもあります。

 仏教用語では(moha または mūḍha の訳語) 仏語。
 三毒または根本煩悩の一つ。
 物事に対して正しい判断が下せない暗愚な心のはたらきをいう。
 惑い迷う心作用のこと。
 愚痴蒙昧(ぐちもうまい)。
  moha (愚痴)ともいう。
 事物やものの道理に関して心が混迷していて正しい判断ができないで迷う心理作用。
 すべての煩悩のもとになるもので,貪・瞋と並んで三毒 (→貪・瞋・痴 ) の一つに数えられる。
 また倶舎宗では六大煩悩地法の一つに、唯識宗では六根本煩悩の一つに数えられる。
 日本語の「ばか」はこのモーハに由来するともいわれる。

 『疒』に『知』と書いて『痴』。

 旧字は
 『疒』に『疑』と書いて『癡』。

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 ▼関連書籍

 ◆はくち【白痴】
 《原題、〈ロシア語〉Idiot》
 ドストエフスキーの長編小説。
 1868年刊。白痴とよばれるほど純真無垢な魂をもつムイシュキン公爵が、現実の社会の中でその美しい魂を破滅させていくさまを描く。

 題名の『白痴』には2つの意味がある。
 主人公ムイシュキン公爵が文字通り知能が著しく劣っているというもの(現代ではこの意味での「白痴」は差別的意味に捉えられることもある)と、「世間知らずのおばかさん」という意味である。
 しかし、作者はどちらの意味においても否定的に描いていない。
 ドストエフスキーは、白痴であるムイシュキン公爵を、誰からも好かれる文句なしの善人として描いた。
 ドストエフスキーは、文句なしの善人である主人公ムイシュキン公爵を造型することにより、そんな人物が当時のロシア社会に現れたとしたら、いかに周囲に波乱を巻き起こすかを描こうとしたという。

 《ストーリー概要》

 若い公爵レフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキンは、幼時から重度のてんかん症状により、スイスのサナトリウムで療養していたが、成人して軽快し、援助してもらっていたパヴリーシチェフの死去もあって、ロシアへ戻ることになった。
 ペテルブルクへ向かう列車中で、ムイシュキンは、父の死去によって莫大な財産を得たばかりだと言うパルヒョン・ロゴージンと知り合いになり、彼が熱を上げていたナスターシャ・フィリポヴナの名を耳にする。
 ムイシュキンの両親は、既にこの世になく、彼が公爵家の最後の跡取りであったため、遠縁にあたるエパンチン将軍夫人を頼ろうと、エパンチン家の邸宅を訪れる。
 ムイシュキンは、将軍夫妻とその三姉妹に知り合い、いくつかの印象的なアネクドートを披露するうちに一家の好意を得た。
 ここで彼は、将軍の秘書ガウリーラ・アルダリオノヴィチ(ガーニャ)が金のために愛のないままナスターシャと結婚しようとしていることを知った。
 彼女は、まだ幼いころからある資産家の情婦となっており、悪評が付きまわっていたが、実は誇り高い女であった。

 ムイシュキンも、彼女と会って自分と共通する部分を感じ、ついに自らも求婚する。
 ところが、彼女は、最初にムイシュキンの善良さに気づきながらも、ロゴージンの元に走る。
 こうして、2人はライバルとなり、ロゴージンはムイシュキンを殺そうと企てるが、すんでのところでムイシュキンが発作を起こして、人に気付かれたために失敗する。
 そのうち、将軍の娘アグラーヤも、ムイシュキンに思いを寄せる。ロゴージンを選びながらも、陰ながらムイシュキンを愛していたナスターシャは、ムイシュキンに幸せになって欲しいと思い、アグラーヤに手紙で結婚を勧める。
 そのうち、アグラーヤとムイシュキンは相思相愛になる。 しかし、アグラーヤは、例の手紙のことから、ナスターシャがまだムイシュキンを好きで、ムイシュキンもナスターシャを忘れていないのではないかと嫉妬する。
 そのうち、遠くへ行っていたナスターシャとロゴージンが戻ってくる。アグラーヤは、ナスターシャとムイシュキンの関係をはっきりさせようと赴くものの、かえってナスターシャとムイシュキンを結びつけることになる。
 ムイシュキンとナスターシャは、結婚することになる。
 しかし、ムイシュキンとの結婚当日になって、彼女はまたロゴージンと逃げ出す。
 ムイシュキンが駆け付けたとき、彼女は、既にロゴージンに殺されていた。
 ムイシュキンとロゴージンは、かつて同じ相手を愛した者として、ナスターシャの死体の前で生活することを決める。
 ところが、庭師に家に入るところを目撃されており、その生活は一夜で終わる。
 発見された時、ムイシュキンは、元の白痴に戻っており、療養の日々を送ることになる。
 裁判の結果、ロゴージンは、シベリア徒刑となった。
 アグラーヤが自棄になって望まぬ結婚を急ぐところで、物語は終わる。

 《テーマ》

 ドストエフスキーが『白痴』を著した動機は、彼が“前向きで善良な男”という人物像を描きたい願望に由来し、この男はキリストをモデルにしたと思われる。
 また、ドストエフスキーはムイシュキンをサンクトペテルブルク社会に導入することにより、当時のロシア社会とこの孤独で純真な男とでコントラストを成し、これを彼とロゴージンの対立、かかわり合いによってさらに強調している。
 実に、二人は物語の手始めからムイシュキンが光、ロゴージンが闇というふうに対比している。
 例えば、二人が列車の中で最初に記述されたとき、ムイシュキンは明るい髪と青い目、ロゴージンは“暗い容貌”と描写されている。
 また、ロゴージンの家の窓は鉄格子に覆われ、家の中は闇に埋もれている。
 このように、彼は闇を具現しているだけでなく、周囲を闇に囲まれている。
 まさに正反対の二人である。もしムイシュキンをキリストと見るなら、ロゴージンが悪魔であることが簡単に想像できる。
 ロゴージン(Rogozhin)のrogはロシア語で角を意味し、前述した主張にさらに真実味を加えているが、彼の名前と最も関連性があるのはrogozha(雑種、私生児)で、彼の卑しい出身をほのめかしているかもしれない。
 ここからロゴージンがムイシュキンの過剰な博愛に対して、私生児を輩出する父性の不道徳を見出したとも取れる。

 彼らのこうした性格の違いにもかかわらず、2人はともにナスターシャを追い求める。善も悪も(そしてガーニャが体現するその中間も)同じものを欲し戦う。
 愛そのものがさまざまな動機によって、さまざまな形であらわされている。
 虚栄に満ちたガーニャは、持参金によって彼自身が不足と感じていた個性をスパークさせるためにナスターシャに結婚を求める。
 ロゴージンは自身の深い情熱のためにナスターシャを愛し、その情熱が最終的に彼に彼女を殺させてしまう。
 ムイシュキンは、しかしながら、彼女に対する憐憫の情、キリスト教的な愛のために彼女を愛し、ナスターシャに対するこの愛は彼がアグラーヤに対して持っていたロマンティックな愛をさえ打ち負かしてしまう。
 ロゴージンとロシア上流階級社会には類似点が一つ存在する。その物質主義の社会はムイシュキンが体現する徳を賛美し、自身が“善”だと装うが、ムイシュキンを受け入れることはできない。
 一方、ロゴージンはナスターシャを心から愛するが、最後には彼女を殺す。
 ナスターシャの美しさと当初の無垢さはトーツキイを引き付け、彼の愛人にされ、半狂気状態に陥ったように、彼女自身もそのような邪悪な社会によって崩壊した存在である。

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 ●『白痴』(はくち)
 坂口安吾の短編小説。
 坂口の代表作の一つで、『堕落論』から『白痴』を発表するに及び、太宰治、石川淳、織田作之助らと共に、終戦後の新時代の旗手として一躍脚光を浴びて、文壇に特異な地歩を占めた。

 敗戦間近の場末の荒んだ人々の暮す裏町の小屋に居る独身の映画演出家の男が、隣家の白痴の女と奇妙な関係を持つ物語。
 時世に屈する低俗卑劣さを憎んでいた男が、肉欲の塊のような女の中に、魂の真実を求めようとする孤独な姿が、降り注ぐ焼夷弾や夜間空襲の中を逃げ惑う二人の「理知なき交流」を通して描かれている。
 1999年(平成11年)には、『白痴』を原案とした同名映画『白痴』が公開された。

 《ストーリー概要》

 敗戦色濃い戦時下、映画会社で見習い演出家をしている伊沢は、蒲田の場末の商店街裏町の仕立屋の離れ小屋を借りて生活していた。
 伊沢は、時勢の流れしだいで右にでも左にでもどうにでもなるような映画会社の連中の言葉だけの空虚な自我や、実感や真実のない演出表現をよしとしている愚劣な魂に憎しみを覚えていたが、その一方、生活に困窮し、会社を首になるのを恐れていた。
 ある晩、伊沢が遅く帰宅すると、隣家の気違いの女房で白痴の女が押入れの蒲団の横に隠れていた。何やらよく分らないことを呟いて怯えている女を、伊沢は一晩泊めてやることにしたが、女の分も寝床を敷いて寝かせても、電気を消してしばらく経つと女は戸口へうずくまった。
 伊沢が、手は出さないと紳士的に説き伏せても女は何度も隅にうずくまるので、伊沢は腹を立てたが、女の言うことを注意深く聞くと事態はあべこべだった。
 女は伊沢の愛情を目算に入れてやって来ていたのだった。伊沢が手を出さないため、自分が嫌われていると女は思ったのだった。
 白痴の素直な心に驚き、伊沢は子供を眠らせるようにして枕元で一晩中、女の髪をなでた。
 一般の女につきものの生活の所帯じみた呪文の絡みつかない白痴の女は、自分向きの女のように伊沢には思われだした。
 その日からそのまま女はそこに住みつき、近所に知られないまま二人は同居した。
 白痴はただ伊沢の帰宅を待つ肉体であるにすぎず、そこにあるのは無自覚な肉欲のみだった。
 もう一つ伊沢に印象的だったのは、ある白昼の空襲の際におびえた白痴の恐怖と苦悶の相の見るに耐えぬ醜悪さだった。
 伊沢は3月10日の大空襲の焼跡で焼き鳥のような人間の屍を見ながら、白痴の女の死を願ったりした。

 4月15日、伊沢の住む町にも大規模な空襲がやって来た。
 火の手が迫る中、仕立屋夫婦はリヤカーで逃げる際に伊沢も一緒にと急き立てたが、白痴の姿を見られたくない伊沢は、みんなが立ち去った後に女と逃げた。
 逃げる途中に伊沢が、「死ぬ時は、こうして、二人いっしょだよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。…俺の肩にすがりついてくるがいい。わかったね」と言うと、女はこくんとうなずいた。
 その初めて表わした女の人間らしい意志に伊沢は感動し、火の海の中を懸命に逃げきり、ようやく小川を通って群集の休んでいる麦畑に出た。
 女はぐっすり眠りはじめ、豚のような鼾声をたてていた。
 女を置いて立ち去りたいと伊沢は思ったが、そうしたところで何の希望もない。
 夜が白みかけてきたら女と停車場を目ざして歩こう、はたして空は晴れて、俺と隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそそぐだろうかと伊沢は考えていた。

 《登場人物》

 ★伊沢
  27歳。独身。
  文化映画会社で演出家(見習いで単独演出はない)をしている。
 蒲田の場末の商店街裏町にある仕立屋の離れの小屋を借りて住んでいる。
 大学卒業後のすぐは新聞記者だった。

 ★仕立屋夫婦
  町内のお針の先生などもやっている。
 家の天井裏は間借人の母娘が居住。
 この間借りの娘は町会事務員だったが、男関係にだらしなく、町会の豆腐屋、八百屋、時計屋、地主のうちの誰の子がわからない子供を身籠っている。
 伊沢の小屋は昔、仕立屋夫婦の肺病の息子が寝ていたところ。

 ★気違い
  30歳前後。風采堂々たる好男子。
  度の強い眼鏡をかけ、読書に疲れた
 ような憂わしげな顔。
  仕立屋の隣家に居住。
  資産がある。時々、ゲタゲタ笑ったり、屋根の上で演説したり、仕立屋の家畜の豚や家鴨に石をぶつけたり突ついたりする。

 ★白痴の女
  25、6歳。
 気違いの女房。
 義母にオサヨと呼ばれている。
 いい家柄の娘のような品のよさで、瓜実顔の古風な人形か能面のような美しい顔立ち。
 気違いが四国遍路の旅先で意気投合して連れてきた女。
 静かでおとなしく、意味のはっきりしないことを口の中でおどおど言う。
 料理も米を炊くことも知らない。
 気違い男の母親 正気だがヒステリーで女傑。
 常はたしなみのある品のよい婆さんだが、狂いだすと息子より騒がしく病的。
 「オサヨさん、オサヨさん」と鳥のように叫ぶ。

 ★映画会社の上司など
  「怒涛の時代に美が何物だい、芸術は無力だ! ニュースだけが真実なんだ!」と怒鳴る部長。
 企画部員や演出家は、帽子や長髪や上着は芸術家きどりで、魂や根性は会社員よりも会社員的。
 月給がもらえるなら余計なことは考えるなと言う社長。

 ★近所の住人
  七、八人目の情夫を追い出し、新しい中年男を物色中の55歳の煙草屋の白粉婆。米の配給所の裏手の小金持ちの未亡人。
 未亡人は息子(職工)と娘が近親相姦の関係を結んでいたのを黙認していたが、そのうち兄に女ができ、妹は親戚の老人のところへ嫁入りさせられそうになり自殺。
 林立する安アパートには妾と淫売が多く居住。軍需工場の寮となっているアパートには女子挺身隊が住み、重役の戦時夫人や二号となっている者もいる。

 ★他、
  ・人殺しが商売だった満州浪人。
  ・仕立屋銀次の流れをくむスリの達人。
  ・自宅よりも立派なセメント造りの防空壕を持っている贅沢三昧の海軍少尉。
 
 ★空襲下の人々
  ・道の上で死んでいた40歳くらいの男女。
  ・井戸の水をむさぼり飲む老若男女。
  ・燃える家で暖をとる人々。焼け残った矢口国民学校への避難をうながし声をかける巡査。

 《作品評価・解釈》

 『白痴』は、終戦後に大きな反響を呼んだ随筆『堕落論』の次に発表された小説として、共に注目されて、戦後における坂口の作家の特異な地位を築いた作品である。
 奥野健男は、敗戦の昏迷の中にいた日本人、特に青年たちに、『堕落論』と『白痴』は「雷のごとき衝撃」を与えたとし、「ぼくたちはこの二作によって、敗戦の虚脱から目ざめ、生きる力を得たといっても過言ではない」と述べている。
 そして奥野は『白痴』について以下のように評している。

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 ひたすら霊を追い求めていた作者が、空襲下に肉体と本能だけのせつないかなしい魂を見いだした絶対の孤独を表現している。
 その大胆な表現は、日本における実存主義、そして戦後文学の出発点となった。
 かなしみの街を過ぎて、安吾はここから肉体の思考を基調に既成道徳を超えた堕落の中に全人間性の回復を夢見る。

 — 奥野健男「坂口安吾 人と作品」ー
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 宮元淳一は『白痴』の構成について、「偉大なる破壊」の戦火により人々は「焼鳥のやうに」死んでゆくという異常な状況下における主人公が、そこに「運命に従順な美しさ」を感じてしまうが、その「美」を寸前のところで思い留まり拒絶して、「平凡」に生きることを決意すると概説している。
 そして、伊沢が女に、「俺の肩にすがりついてくるがいい。わかったね」と言う場面が『白痴』のハイライトであり、その決意の一瞬は極めてヒロイックであるが、その場面に反し、戦火という「デモーニッシュ」な美をくぐり抜け、小川へたどり着いた二人には、「勇壮な面影」はなく、豚のような鼾をかいて眠る女の横の伊沢は凡夫となり、「戦争という“偉大なる破壊”に身を任せること」を拒絶したことにより、安月給に汲々とするような「“卑小な生活”が再来する」とし、「それこそが伊沢の選んだ道なのであり、彼は正しく“堕落”という“驚くべき平凡さ”を正面から引き受けているのである」と解説し、『白痴』がエッセイ『堕落論』の主題と呼応していることを論考している。

 福田恆存は『白痴』に見られる男女間の愛情について、安吾は「精神と肉体との対立」という旧来の主題を追求しているが、安吾は男女間の付き合いを「肉体的なもの」だと断定しているわけではなく、「そうではないかと問を発しているまでのこと」で、「かれは処世術をぶちこわしてみたいのである」と考察し、男女間の「精神と肉体との対立」に妥協して、うやむやに穏便に事を進めるという処世術、妥協から生まれる「無意識」というものに福田は言及しながら、「坂口安吾は無意識の虚を突き、妥協の安定をくつがえすのである。
 なんのために――精神の純粋熾烈な発光に陶酔したいという、その一事のために。坂口安吾は度しがたい夢想家なのだ」と解説している。
 そして福田は、安吾の精神はもともと「現実と観念」の間に安定を欠いていたために、「処世術の虚偽」を見抜いたのであり、処世術の否定により、安定を欠いたのではないとし、そういった事実を安吾が「自己の宿命として自覚」したからには、次に「逆の運動も可能」となり、それにより安吾の精神はますます安定を欠いてしまうのだと論考している。
 七北数人は、坂口の『南風譜』にみられるピグマリオン奇談的テーマの発展が『白痴』にもみられるとし、「この女はまるで俺のために造られた悲しい人形のようではないか」という主人公・伊沢の心のつぶやきが、「自閉的な恋」であることを暗示していると述べた。

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 白痴の女との空襲下の道行きが夢のような幸福感に包まれているのも、二人の世界がまるで伊沢一人の内面世界であるかのように閉ざされているからだろう。
 男が女を犯しながら女の尻の肉をむしりとって食べる、そんな不気味な夢想に行き着くラストは、初期作品から続く神経症的な不安が覆いかぶさってくるようで狂おしい。

       — 七北数人「解説」ー

     〔ウィキペディアより引用〕