極東国際軍事裁判(東京裁判)③
《刑の執行》
7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より巣鴨拘置所で行われ、同35分に終了した。
この日は当時皇太子だった明仁親王(現在の上皇)の15歳の誕生日であった。
これについては、作家の猪瀬直樹が自らの著書で、皇太子に処刑の事実を常に思い起こさせるために選ばれた日付であると主張している。
その後、7人の遺体は横浜市の久保山斎場で米軍によって秘密裏に火葬され、その後、小型の軍用機で「横浜の東およそ30マイル(約48キロメートル)の地点の太平洋の上空」から洋上に散骨されたことが2021年6月、アメリカの国立公文書館に所蔵されていた米軍文書で明らかになっている。
また、遺灰の一部は米軍から回収した三文字正平弁護士らにより、静岡県熱海市の興亜観音に持ち込まれ一時安置の後、1960年に愛知県幡豆郡幡豆町(現:西尾市)にある三ヶ根山の殉国七士廟に祀られている。
未訴追者への裁判と裁判終了 編集 一方で戦犯容疑者に指定されたものの、訴追が開始されていない者達が未だ残っていた。
1948年(昭和23年)1月、ニュージーランドは同年12月31日の時点で戦犯捜査を打ち切るよう主張し、アメリカ側もこれ以上の軍事裁判の継続はほとんど意味がないという見解を示していた。
ニュージーランドとアメリカは捜査終了後の翌1949年(昭和24年)6月30日をもって裁判を終了させるべきであるという見解を統一し、首席検察官のキーナンもこれ以上の軍事裁判は行うべきではないという見解を示した。
1948年(昭和23年)7月29日の極東委員会でニュージーランド代表は翌年6月30日に裁判を終了させるべきと提議した。
賛成したのはアメリカとイギリスだけであり、その他の国は明確に反対しなかったが、BC級戦犯の裁判については継続を求める声が上がった。
この協議中の11月12日に判決が下されており、極東国際軍事裁判は継続されているのかどうかという法的問題が持ち上がった。
1949年(昭和24年)2月18日、極東委員会第五小委員会においてアメリカ代表は、「A級戦犯」裁判は2月4日の時点で終了し、新たな戦犯の逮捕は検討されていないという見解を示した。
3月31日の極東委員会において、可能であれば捜査の最終期限を1949年6月30日とし、裁判は9月30日までに終了するという決議が採択された。
《裁判以後》
▼平和条約における受諾
1951年(昭和26年)9月8日に調印された日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)第11条において
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。
これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した1又は2以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。
と定められているが、これは講和条約の締結により戦時国際法上の効力が失われるという国際法上の慣習に基づき、何の措置もなく日本国との平和条約を締結すると極東国際軍事裁判や日本国内や各連合国に設けられた軍事法廷の判決が失効(あるいは無効)となり、当事者の請求により即刻釈放すべき義務を締約国に課されることを回避するために設けられた条項である。
日本国との平和条約第11条の「裁判の受諾」の意味---すなわちこの裁判の効力に関して---をめぐって、判決主文に基づいた刑執行の受諾と考える立場と、読み上げられた判決内容全般の受諾と考える立場に2分されているが、日本政府は後者の解釈を採っている。
▼戦犯の赦免
日本国内の国民的運動としては、主に多数をしめる各地のBC級戦犯、特に海外に抑留されたままの収監者を念頭においたものとして、戦犯赦免運動が全国的に広がった(大がかりなものとしては、日弁連がBC級戦犯家族を核に起こしたもの、引揚援護運動団体が担ったもの、広島の婦人団体が行ったものなどが知られている)。
1952年(昭和27年)12月9日に衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が少数の労農党を除く多数会派によって可決された。
さらに翌1953年(昭和28年)、極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々は「公務死」と認定された。
またA級戦犯として収監されていた極東国際軍事裁判による受刑者12名 は、冷戦対立の激化とともに旧連合国主要国の方針変化により1956年(昭和31年)3月末時点ですべて仮釈放された。
未だBC級戦犯の収監者が残る中、A級戦犯者が全て釈放されたため、世間では不公平感やむしろ逆ではないかとの意識が強まり、巣鴨のBC級戦犯者(東京裁判当時の右翼活動による収監者だけでなく、釈放運動の要求の一つである内地送還請求の成果として海外から送り返されたBC級収監者の中で相手国から釈放までは認められていない者があらたに収監されていた)も含めた形で戦犯全て釈放すべきだとの声も強まった。
釈放運動の一環としての署名活動は長期にわたって、様々な団体によって行われ、あるものは海外諸国に対し一括して、あるものはフィリピンあるいは共産中国に対してという風に行われたため、複数回署名するものも多かったが、それらの署名は延べ総数で4000万人に達したと言われる。
《裁判の評価と争点》
本裁判については裁判中、また裁判以後も批判をふくめ様々な評価がなされており、裁判の公平性やその他の争点をめぐって歴史認識問題のひとつとなってもいる。
日本政府は「日本国との平和条約」11条によりこの裁判および他の連合国法廷の裁判を受諾したため、異議を申し立てる立場にないという見解をとっている。
アメリカやヨーロッパなどでは判事や関係者による指摘が起こると共に国際法学者間で議論がされた。
イギリスの『ロンドンタイムズ』などは2か月にわたって極東国際軍事裁判に関する議論を掲載した。
▼アメリカ政府・GHQ要人の発言
GHQのチャールズ・ウィロビーはレーリンク判事に「この裁判は歴史上最悪の偽善でした」「日本が置かれたような状況では、日本がしたようにアメリカも戦争をしていただろう」と述べたという。
国務省ジョージ・ケナンも東京裁判について「法手続きの基盤になるような法律はどこにもない。
戦時中に捕虜や非戦闘員に対する虐待を禁止する人道的な法はある」「しかし、公僕として個人が国家のためにする仕事について国際的な犯罪はない。国家自身はその政策に責任がある。
戦争の勝ち負けが国家の裁判である。日本の場合、敗戦の結果として加えられた災害を通じてその裁判はなされた」として、戦勝国が敗戦国を制裁する権利がないというわけではないが、「そういう制裁は戦争行為の一部としてなされるべきであり、正義と関係がない。またそういう制裁をいかさまな法手続きで装飾するべきではない」と批判した。
ケナンはさらに、国務省宛最高機密報告書の中で、この裁判は「国際司法の極致として賞賛されている」が、「そもそもの最初から深刻な考え違い」があり、敵の指導者の処罰は「不必要に手の込んだ司法手続きのまやかしやペテンにおおわれ、その本質がごまかされて」おり、東京裁判は政治裁判であって、法ではないと批判した。
ただし、ケナンは日本人への同情から述べたのではなく、この裁判を支えている正義を理解する能力が日本人にはないとも述べ、戦犯は終戦時に即刻まとめて射殺した方が適切であったとものべている。
▼マッカーサーの発言
東京裁判の事実上の主催者ともいえたダグラス・マッカーサーは、朝鮮戦争勃発直後の1950年10月15日、ウェーキ島でのハリー・S・トルーマン大統領との会談の席で、W・アヴェレル・ハリマン大統領特別顧問の「北朝鮮の戦犯をどうするか」との質問に対し、「戦犯には手をつけるな。
手をつけてもうまくいかない」「東京裁判とニュルンベルグ裁判には警告的な効果はないだろう」と述べている。
またマッカーサーは、1951年(昭和26年)5月3日に開かれた上院軍事外交合同委員会[注釈 6]において、資源の乏しかった日本が「原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。
したがって戦争にむかった目的は、主として治安のためだったのです」と証言した。
この発言からマッカーサー自身が、大東亜戦争は日本の自存自衛のための戦争であったことを認めたものとする主張がある。
またマッカーサーは同委員会で「我々が過去百年間に太平洋で犯した最大の政治的過誤は、共産主義者達が中国に於いて強大な勢力に成長するのを黙認してしまった」ことにあるとも述べている。
小堀桂一郎はこの発言を「東京裁判は誤りだった」という認識の、もう一つ別の表現だったと解釈している。
▼「勝者の裁き」
首席検察官ジョセフ・キーナンの冒頭陳述「文明の断乎たる闘争」という表現に基づき、東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。
一方、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことなどから、"勝者の裁き"(英語では「Victor's justice」)とも呼ばれるが、国際法に於いては この表現は日本滞在経験のあるアメリカの歴史学者リチャード・マイニアが1971年の著書『Victors' Justice; The Tokyo War Crimes Trial』(邦訳『東京裁判-勝者の裁き』1985年)で初めて使ったもので、「アメリカの原爆投下行為に人道に対する罪は適用されないのか」と被告の選定、すなわち連合国の戦争犯罪行為が裁かれなかったこと、また、昭和天皇の不起訴だけでなく証人喚問もなされなかったこと、判事が戦勝国だけで構成されたこと、侵略を定義するのは勝者であり従ってプロパガンダになる可能性などを問題視し、したがって侵略戦争を理由に訴追することは不可能であると主張した。
レーリンク判事も後にこの裁判は「勝者の裁き」であったとした。
2013年(平成25年)2月12日衆院予算委員会において安倍晋三首相は「先の大戦」の総括は、日本人自身の手ではなく、「東京裁判という、言わば連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされた」と述べた。
中華人民共和国政府はこの発言を批判、2013年11月12日に上海で開催された「東京裁判国際シンポジウム」で華東政法大学の何勤華は「東京裁判は人類の正義の力が邪悪な勢力に打ち勝ったことに伴う重大な成果で、正義の法律が日本の罪人を処罰した正当行為」とのべた。
また、粟屋憲太郎は「東京裁判の中には誤りもあるが、日本はサンフランシスコ講和条約で判決を受諾して国際社会に復帰できた。それを忘れて『勝者の裁き』というのは誤りだ」と述べた。
裁判では日本側が有利になるような証拠は決定的根拠があっても「証拠がない」として連合国側に棄却され、連合国側の根拠のない伝聞のものは殆ど採用された。
本来中立的立場に立つべき判事は全員が戦勝国から選出された。この裁判は戦勝国による復讐ショーに過ぎなかったのである、との見解もある。
▼共同謀議
ニュルンベルク裁判において用いられた「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の指導部やヒトラー内閣、親衛隊という組織」が共同して戦争計画を立てたという「共同謀議」(conspiracy、共謀罪)の論理を、そのまま日本の戦争にも適用した点も問題視されている。
起訴状によれば、A級戦犯28名が1928年(昭和3年)から1945年(昭和20年)まで一貫して世界支配の陰謀のため共同謀議したとされ、判決を受けた25名中23名が共同謀議で有罪とされている。
ナチス・ドイツ体制は、たとえば1933年の全権委任法などから総統であるアドルフ・ヒトラーの指導者原理に基づくイデオロギー集団であったナチ党によって一党支配体制が構築されていたものであり、戦前の日本の事情とは異なっている。当時唯一の政党であった大政翼賛会は対立していた旧政党が1940年に合同してできたものであり、ナチ党のような強力な団結は持っていなかった。
また、陸海軍や枢密院、重臣や木戸内大臣などの宮中グループの政治的影響力も強く、これらの間での政見の統一は困難であった。
実際の被告中にも互いに政敵同士のものや一度も会ったことすらないものまで含まれていた。
この状況を被告であった賀屋興宣(東条内閣の大蔵大臣)は「ナチスと一緒に挙国一致、超党派的に侵略計画をたてたというんだろう。
そんなことはない。軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北だ、南だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。
それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と評している。
このような複雑な政治状況を無視した杜撰ともいえる事実認定に加え、近衛文麿や杉山元といった重要決定に参加した指導者の自殺もあり、日本がいかにして戦争に向かったのかという過程は十分に明らかにされなかった。
ジョージ山岡弁護人は「共同謀議なるものは、最も奇異にして信ずべからざるものの一つである。すくなくとも最近14年間にわたる孤立した関係のない諸事件が寄せ集められ、ならべたてられているにすぎない」と弁護した。
1945年以前の国際法に共同謀議については記載されていなかったという反論に対してウェブ裁判長も別個意見書のなかで「国際法は、多くの国の国内法とは異なって、純粋の共同謀議という犯罪を明示的に含んでいない」「同様に、戦争の法規の慣例も単なる純粋共同謀議を犯罪としない」と認めている。
さらに「英米の概念に基づいて、純粋な共同謀議を犯罪とする権限はなく、また各国の国内法において共同謀議とされている犯罪の共通の特徴と認めるものに基づいて、そうする権限もない」とし、もし共同謀議を犯罪とするならば、それは「裁判官による立法」となるとものべている。
しかし、多数派判決では共同謀議は罪状として認められた。
以前の国際法に記載がなかったにも関わらず審理するということは、法学の原則である「法律なくして犯罪なし、法律なくして刑罰なし(Nullum crimen sine lege, nulla poena sine lege)」に抵触するのかどうかが問題とされていたのであった。
▼被告人の選定
被告人の選定については軍政の責任者が選ばれていて、軍令の責任者や統帥権を自在に利用した参謀や高級軍人が選ばれていないことに特徴があった。
理由として、統帥権を持っていた天皇は免訴されることが決まっていたために、統帥に連なる軍人を法廷に出せば天皇の責任が論じられる恐れがあり、マッカーサーはそれを恐れて被告人に選ばなかったのではないかと保阪正康は指摘している。
また、保阪は軍令の責任者を出さなかったことが玉砕など日本軍の非合理的な戦略を白日の下に晒す機会を失い、裁判を極めて変則的なものにしたとも指摘している。
この他、天皇の訴追回避については、「マッカーサーのアメリカ国内の立場が悪くなるので避けたい」というGHQの意向が、軍事補佐官ボナー・フェラーズ准将より裁判の事前折衝にあたっていた米内光政に裁判前にもたらされている。
▼判事の選定
判事(裁判官)については中華民国から派遣された梅汝璈判事が自国において裁判官の職を持つ者ではなかったこと、ソビエト連邦のザリヤノフ判事とフランスのベルナール判事が法廷の公用語である日本語と英語のどちらも使うことができなかったことなどから、この裁判の判事の人選が適格だったかどうかを疑問視する声もある。
A級戦犯として起訴され、有罪判決を受けた重光葵は「私がモスクワで見た政治的の軍事裁判と、何等異るなき独裁刑である」と評している。
▼法的根拠と公平性
◆管轄権
極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治に際してハーグ陸戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し、軍律や軍律会議は軍事行動であり戦争行為に含まれる。
また戦争犯罪の処罰を要求するポツダム宣言10項(および7項)を受諾したことにより、連合国の裁判権に服し、彼らの採用する法規によって裁かれうることになる(連合国側の軍法・軍律・一般法令だけでなく、日本側のそれらを代理行使することもありうる)。
尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは異例であった。
戦争犯罪の処罰についてはポツダム宣言10項で予定されていたが、国際法上認められてきた従来の戦争犯罪概念が拡張され検討されたことに特徴がある。
キーナン検事は、来日直後、報道陣の質問に答えて裁判で適用されるのは文明国の慣習法となるであろうとした。
裁判中に管轄権忌避動議として持ち出された実定法上の裁判管轄権の根拠につき、ウェッブ裁判長は弁護側の動議を却下した上で、理由は後で回答するとしたまま保留され、最後に判決とともに開示されることとなったが、極東国際軍事裁判所自体は、まず、その根拠を「裁くことは認められない」との主張は極東国際軍事裁判所条例によって裁判所自体が却下しなければならないとの形式論で処理した。
その上で、しかしながら裁判所の権能も無制約ではなく国際法の範囲によるとし、補足的に、実体的な正当性の根拠として、ニュールンベルク裁判にならって、裁判所条例は既に存在する国際法を表示したものであること、1928年のパリ不戦条約に調印または加盟した国は国家政策の手段として戦争を起こした国は国際法違反であること、また多くの国で国家の代表者といえど個々人が国家行為であることを理由に法違反を犯すことは認められていないことを理由とした。
回答が遅れた理由については、ウェッブが実体的な根拠を示すことにこだわった事に対し他の裁判官がそれに理由内容も含めて否定的で意見が纏まらなかったこと、ウェッブが一部裁判官の画策により一時帰国する事態に至った(当時、日本の報道陣の一部ではウェッブが正当性根拠があげられず逃げたように受けとめた向きもあった。)こと等が、挙げられている。
なお、仮に国際実定法上に根拠がなく前例のない国際刑事法廷であったと仮定した場合、法廷そのものの管轄権に実定法上の根拠がない「事後法」により設置され、また連合国側の戦争犯罪は敗戦国側は事実上法廷では提訴する権利や機会がなく「法の下の平等」がなされていないのではないかという問題がある。
また本裁判では原子爆弾の使用や民間人を標的とした無差別爆撃の実施など連合国軍の行為は対象とならず、証人の全てに偽証罪も問われず、罪刑法定主義や法の不遡及が保証されなかったという意見がある。
こうした欠陥の多さから、極東国際軍事裁判とは「裁判の名にふさわしくなく、単なる一方的な復讐の儀式であり、全否定すべきだ」との意見も少なくなく、次段のとおり国際法の専門家の間では本裁判に対しては否定的な見方をする者も多い。
当時の国際条約(成文国際法)は現在ほど発達しておらず、当時の国際軍事裁判においては現在の国際裁判の常識と異なる点が多く見られた。
ただし、罪刑法定主義や法の不遡及は国際法を構成する要素として重要な慣習法という概念に真っ向から対立するので、法の不遡及に強く拘るなら、国際法自体がその存在を否定されることになると本田稔は指摘する。
国際法学者ハンス・ケルゼンは「戦争犯罪人の処罰は、国際正義の行為であるべきものであって、復讐に対する渇望を満たすものであってはならない。
敗戦国だけが自己の国民を国際裁判所に引き渡して戦争犯罪にたいする処罰を受けさせなければならないというのは、国際正義の観念に合致しないものである。
戦勝国もまた戦争法規に違反した自国の国民にたいする裁判権を独立公平な国際裁判所に進んで引き渡す用意があって然るべきである」と敗戦国のみに対する戦争裁判を批判した。
国際法学者クヌート・イプセンは「平和に対する罪に関する国際軍事裁判所の管轄権は当時効力をもっていた国際法に基づくものではなかった」とし、戦争について当時個人責任は国際法的に確立しておらず、事後法であった極東国際軍事裁判条例は「法律なければ犯罪なし」という法学の格言に違反するものであったとした。
ミネソタ大学のゲルハルト・フォン・グラーンもパル判事の意見を支持し、当時パリ協定の盟約・不戦条約があったとはいえ主権国家が「侵略戦争」を行うことを禁止した国際法は存在せず、「当時も今日も、平和に対する罪など存在しないことを支持する理由などいくらでも挙げることができる」とのべている。
イギリスの内閣官房長官でもあったハンキー卿(英語版) は国際連合裁判所についての規定「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない」(世界人権宣言第11条第2項)を引合いに出し、「戦勝国の判事のみでもって排他的に構成された裁判所」は「独立の公平な裁判所」とはいえず、枢軸国犯罪人を早急に裁くために設定された裁判所条例や、事後になって犯罪を創設したことは、世界人権宣言第11条第2項規定と相容れず、ドイツと日本の軍事裁判が「法の規則を設定したという価値は取るに足りぬようにおもわれる。
むしろ、重大な退歩させたというべきである」と述べている。
しかし、世界人権宣言が採択されたのは1948年12月10日であり東京裁判の後である。
歴史学者ポール・シュローダーは「裁判所の構成、政治的状況、さらに戦後まもない時期の世論の趨勢が一体化して、事件についての冷静で均衡のとれた判決を不可能にした」「歴史家はもしかすると、(裁判所が達した)結論が国際法と正義の発展において多大な前進であったという点については疑わしく思うだろう」と指摘した。
ロンドン大学のジョン・プリチャードは次のように東京裁判の問題点を摘出している。
・検察は真実の解明よりも、日本の指導者を厳しく処罰することで日本人を再教育することを目的としていた。
・判事たちの多数は検察の主張を鵜のみにして、弁護側の証拠や反証反論を一方的に却下した明確な形跡がある。
・通常の戦争犯罪(捕虜、民間人への残虐行為等)は全体の5-10%であり、ドイツよりも比率が低い。
・戦争を「侵略」と「自衛」に分けることは困難であり、日本の歴代指導層が一致して侵略戦争を企図した形跡もなく、したがって共同謀議や、「不法戦争による殺人」といった訴因は法的根拠を持っていない。
・当時存在しなかった平和に対する罪を過去に遡って適用したり、罪の根拠を1928年のパリ不戦条約に求めることには無理がある。
第一次世界大戦終結後に戦勝国が敗戦国の指導者を裁くことが国際的に協議された際に、米英仏日伊の5か国は1919年のパリ講和会議に先だって行われた平和予備会議において報告書をまとめ、「戦争の法と慣習ならびに人道の法に違反した敵国民はすべて、その階級の相違に関わりなく、元首を含めて刑事訴追を受ける可能性がある」として国家元首を含む戦争開始者の訴追の余地を明示した。
一方で同報告書では「平和的口実のもとに隠蔽され、次いで誤った理由で宣言された侵略戦争の開始は、公衆の良心が非難し、歴史が弾劾する振舞いではあるが、平和維持のためのハーグにおける諸制度の純粋に選択的な性格からすれば、侵略戦争は実定法に直接違反する行為とはみなされないかもしれ」ないとし、「侵略戦争は不正ではあるが違法ではないという地点に逆戻りした」観があった。
そして締約されたヴェルサイユ条約においては「国際道義と条約に対する最高の罪を犯した」として前ドイツ皇帝ウィルヘルム2世を訴追するという第227条に反映されており、第一次世界大戦終結に関わる国際条約の時点で侵略戦争を国際犯罪と見なそうとする動き(前例)があったことが知られている。
なおウィルヘルム2世自身はオランダに亡命し裁判は行われなかったものの、一部の者については裁判、処罰が行われている。
多数意見である極東国際軍事裁判判決書においては、「この条約の批准に先立って、締約国のあるものは、自衛のために戦争を行う権利を留保し、この権利のうちには、ある事態がそのような行動を必要とするかどうかを、みずから判断する権利を含むと宣言した。
国際法にせよ、国内法にせよ、武力に訴えることを禁じている法は、必ず自衛権によって制限されている。
自衛権のうちには、今にも攻撃を受けようとしている国が、武力に訴えることが正常であるかどうかを、第一次的には自分で判断するという権利を含んでいる。
ケロッグ・ブリアン条約(パリ不戦条約)を最も寛大に解釈しても、自衛権は、戦争に訴える国家に対して、その行動が正当かどうかを最後的に決定する権限を与えるものではない。右に述べた以外のどのような解釈も、この条約を無効にするものである。
本裁判所は、この条約を締結するにあたって、諸国が空虚な芝居をするつもりであったとは信じない」とし、弁護側の主張を却下している。
▼事後法の観点
編集 ラダ・ビノード・パール判事の意見書のように、第二次世界大戦の戦後処理が構想された際、アメリカが1944年(昭和19年)秋から翌年8月までの短期間に国際法を整備したことから、国際軍事裁判所憲章以前には存在しなかった「人道に対する罪」と「平和に対する罪」の2つの新しい犯罪規定については事後法であるとの批判や、刑罰不遡及の原則(法の不遡及の原則)に反するとの批判がある。
また、戦後処罰政策の実務を担ったマレイ・バーネイズ大佐は、開戦が国際法上の犯罪ではないことを認識していたし、後に第34代大統領になるドワイト・D・アイゼンハワー元帥も、これまでにない新しい法律をつくっている自覚があったため、こうした事後法としての批判があることは承知していたとみられている。
しかし、フランスや日本といった大陸法系の考えでは、行為時に成文として存在しない法律を根拠に処罰されれば事後法に該当するが、アメリカやイギリスといった英米法の考えでは、行為時に成文法でとして禁止されていない行為であってもコモン・ロー上の犯罪として刑罰を科すことが可能であり、それは事後法には該当しない。
まず、慣習法も実定法の一つであり、これについては、世界的に慣習法での処罰が長らく行われ、現在でもまだ実際に存在することもあってか、法学者間にもあまり異論を見ない。
さらに英米法の考えでは、過去の判決の集積などから導き出された法原理による判決であれば、必ずしも具体的な判例がある必要はなく、それは事後法に反しないとする考え方がなされる。
その一般的な法原理によるとする認定が正しいかどうかは、英米法では手続きの適正さによって保障されるとする。
また、第二次世界大戦の以前にはすでに平和を破壊する行為が違法であることが、主に慣習法として、もしくはヴェルサイユ条約やパリ不戦条約など一部の条約において既に確認されていたという意見もある。
第一次大戦後、「前」ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がオランダに亡命したため結局は裁かれなかったものの戦争責任で訴追されており、また、その臣下らには実際に裁かれた者もいたことから、国際法上それをもって前例として慣習法が出来ていたとし、第2次大戦後のこの段階ではもはや事後法に反しないとする主張も見られる。
東京裁判では、あくまで補足的根拠としてだが実体的根拠については、パリ不戦条約の存在を事後法ではない根拠としている。日本においても、軍律は死刑などもありながらあくまで行政処分の一種という考えで、遡及適用がありうるとされていたようである 。
東京裁判も法廷形式をとってはいるが、議会等の定めた軍法によらず、行政府の定めた軍律による軍律会議であり、行政処分である。
また、当時敗戦までの一時期存在したナチス法理論では事後法は必ずしも否定されておらず、東京裁判の参加国の一つであるソ連の社会主義法理論においても同様である。
▼不作為責任
通例の戦争犯罪との関連で指摘されている問題点は、部下の戦争犯罪に関する軍指揮官の「不作為責任」という概念である。
軍指揮官(上官)の部下に対する監督義務違反の可罰性は「上官責任 (Command Responsibility)」という概念として形成され、いくつかのBC級戦犯裁判において大きな争点となっており、東京裁判においても重要な意義を有していた。
第二次世界大戦当時の国際慣習法では、指揮・命令をした者だけを問題にし、不作為犯に責任を負わせるまでには至っていなかった。
国家が戦争を遂行する中で犯される犯罪は、実際に犯罪を実行する者が末端の兵士であるとしても組織の問題であって、組織の上層部の責任が問われるのは当然である。
しかしこれが認められ国際条約として不作為による戦争犯罪に刑事処分を科す旨を定めたのは「戦争犯罪及び人道に反する罪についての時効不適用に関する1968年の条約」のことであったとされる。
▼証拠規則
ジョン・ダワーは「この裁判が公正であったかどうかについての意見の相違は、軍事法廷の手続きとしてなにを適切と考えるかという前提の違いに表れる。
陸軍長官スティムソンでさえ、一般の法廷でふつうにある、さらには軍法会議にもあるような、訴訟手続き上の規則や保証もなしにこのような裁判が行われるとは想像だにしなかった。
軍事法廷、あるいは軍事委員会の手法が採用されたのは、そうすることで、検察側にほかの状況では許されない手続き上の裁量が、とくに証拠の証拠能力有無の裁量が可能になるからである」とし、連合国は被告の主張を正当化することを妨害するために、証拠に関して制限を加えたと指摘し、「勝者によって緩められた証拠規則が、裁判に恣意性と不公正の入りこむ余地を与えた」ことは明らかであると批判した。
極東国際裁判所条例13条に「本裁判において証明力あると認むるいかなる証拠をも受理する」とあり、英米法の証拠規則ほど厳格ではなかった。
その一方で、手続きは英米法の考えによるとしたものの、一身の安全を図りたい被告人と治安維持の目的を達成したい原告人のゲームと捉えられる面もある英米法の手続きに対して、東京裁判は侵略や戦争中の不法行為の実態を明らかにするという目的も有していたため、証明力・信憑性があるかという観点からある程度変えられるのは当然という考え方もある。
▼協議の経過
ベルナール判事は、裁判後「すべての判事が集まって協議したことは一度もない」と東京裁判の問題点を指摘した。 オランダからのベルト・レーリンク判事は当初、他の判事と変わらない日本側でよく言われる「戦勝国としての判事」としての考え方を持っていたとされるが、大陸法系の考えが強い彼は他の英米法系の裁判官と考えが異なっており、パール判事の反対意見を書くという考えに影響を受け、自身も反対意見として表明することにしたといわれる(ただし、彼自身の判決中の考えはパール判事の考えとは全く異なる)。
「多数派の判事たちによる判決はどんな人にも想像できないくらい酷い内容であり、私はそこに自分の名を連ねることに嫌悪の念を抱いた」とニュルンベルク裁判の判決を東京裁判に強引に当てはめようとする多数派の判事たちを批判する内容の手紙を1948年7月6日に友人の外交官へ送っている。
ただし、レーリンク自身、後に東京裁判当時は国際法に関してはまだ素人同然だった事実を認めたうえで、当時ユトレヒト大学でオランダ領東インドの刑法について教えていたので、アジアの事を多少は知っているだろう、といった理由だけで選ばれた、と述懐している。
▼「A級戦犯」
A級戦犯容疑者として逮捕されたが、長期の勾留後不起訴となった岸信介や笹川良一らについても、有罪判決を受けていないにも関わらず、日本国内のメディアや言論人のみならず欧米にさえ今日に至るまで「A級戦犯」と誤って、もしくは意図的に呼ぶ例が少なからず見受けられる。
こうした用語法は、連合国の国民のみならず日本国民においてさえ、この裁判をめぐる議論において、「初めに有罪ありき」の前提で考える人が少なくないことを示しており、東京裁判肯定論、ひいては裁判そのものに対する不信感を醸成している。
この判決について、東條・木村をはじめ、南京事件を抑えることができなかったとして訴因55で有罪・死刑となった広田・松井両被告を含め、東京裁判で死刑を宣告された7被告は全員がBC級戦争犯罪でも有罪となっていたのが特徴であった。
これは「平和に対する罪」が事後法であって罪刑法定主義の原則に逸脱するのではないかとする批判に配慮するものであるとともに、BC級戦争犯罪を重視した結果であるとの指摘がある。
とくに松井は訴因55(通常の戦争犯罪・BC級)で、また武藤は訴因54と55で有罪を宣告されており、「A級戦犯」としても起訴されたものの「BC級戦犯」としてのみ有罪となったものである。
実際には、有罪無罪と死刑にするかどうかはそれぞれ多数決で決められており、裁判で多数をしめる英米法系の裁判官の法感覚が結果に大きく影響している。
英米法では保護責任者の不作為による故意的な致死は、当時の日本における謀殺とともに"murder"の類型に属し、この当時の英及び英領植民地の殆どで死刑判決を免れない罪であった。
木村は勿論、東条(死刑反対が4票あり、あと2票で死刑を免れた)も事実上泰緬鉄道での捕虜の多数死の管理責任を問われ、広田は南京事件での虐殺制止に動かなかったことが過半数の死刑支持に繋がったと考えられる。
判決前に報道陣の間で捕虜殺害などに関わってなければ死刑にならないらしいという観測が出て、日本の感覚で木村や広田は死刑にならないという噂が広がったことが逆にこの点を裏付けている。
▼死刑の扱いについて
死刑は多数決によって決まった。
11人の裁判官の内、インドのパールは事後法の禁止や国家行為であることなどを理由にしつつも多分にその専門としていたヒンズー法哲学の思想と価値観から比較的早くから全員無罪論をとり、判決文書きに専念していたとされる。
ソ連はもともと社会主義者の中に死刑廃止といった理想論があったが、過酷な反革命の内戦や諸外国からの干渉戦争により、死刑が行われていた。戦争終結によりスターリンは平和と共産主義の理想を表向きアピールするために死刑を廃止、ザリヤノフは自国で死刑を廃止したことを理由に被告人に死刑を適用しないこととした。
オーストラリアのウェッブは本来殺人への死刑適用が苛烈なイギリス系の国であるが、彼自身が最大の責任者である可能性があると考える天皇が訴追されていないこと、ナチスの行為にくらべれば軽くそれとの比較から、これで被告人に死刑を科するのはバランスを失するとして被告人らに死刑を適用しないこととした。
AP通信のホワイト特派員がアメリカからの情報として、ウェッブが死刑を適用しない理由として自国で死刑を適用していないことを報じているが、これはホワイト特派員かその情報提供者のいずれかがソ連の話を混同したものだと思われる。(この頃、オーストラリアではいずれの州や連邦でも死刑は廃止されておらず、各州で廃止され出したのはイギリスにやや遅れて1960年代後半の死刑廃止運動以降である。)
また、ウェッブの判決書でも死刑を科さない理由として天皇不起訴との関係しか書かれていない(ただし、報道陣には判決後にナチスと比べれば悪質性がまだ低いので差をつける必要性についても語っている)。
この3人を絶対非死刑論者として、オランダのレーリンク、フランスのベルナールが日本と同じ大陸法の国で法感覚が共通すること、また、両国とも戦後の植民地回復を目指しており、その帝国主義的な国民感情が意識に入り込むことが避けられなかったのか、日本側に比較的理解を示している。
東京裁判を取材する報道陣の間では、判決が近づくにつれ、関係者の取材から得た情報か、虐殺などに関わっていなければ死刑はないだろうとの観測が出ていた。
結果を見ると、この観測自体は当たっていたのだが、日本と英米法の殺人の概念に違いがあり、報道陣多くの理解に反し、木村と広田は死刑となった。
また、きわどいと見られていた嶋田は、太平洋での虐殺が果たして軍中枢の指示があったものか証明が難しく事実認定の問題で虐殺の責任は免れた。
▼日本での評価
左派勢力[誰?]からは、本裁判の結果を否定することは「戦後に日本が築き上げてきた国際的地位や、多大な犠牲の上に成り立った『平和主義』を破壊するもの」、「戦争中、日本国民が知らされていなかった日本軍の行動や作戦の全体図を確認することができ、戦争指導者に説明責任を負わせることができた」として東京裁判を肯定(もしくは一部肯定)する意見もある。
また、もし日本人自身の手で行なわれていたら、もっと多くの人間が訴追されて死刑になったとする見解もある(ただし、東条英機ら被告は国内法・国際法に違反したわけではないと主張する見解もある)。
日本におけるマスコミの論調、国民の間では、占領期を含めてかなり後まで「むしろ受容された形跡が多い」という。
宮台真司はこの裁判を、昭和天皇と日本国民の大部分から罪を取り除いて戦後の復興に向けた国際協力を可能にするために、もっぱらA級戦犯が悪かったという「虚構」を立てるものだったと位置づけ、A級戦犯だけが悪かったわけではないにせよ、虚構図式を踏襲するべきだと主張した。
▼「東京裁判史観」
東京裁判史観とは、東京裁判の判決をもとにした歴史認識のことで、満洲事変からいわゆる「太平洋戦争」にいたる日本の行動を「一部軍国主義者」による「共同謀議」にもとづいた侵略とする点を特色とする。
この史観は連合国軍総司令部民間情報教育局により昭和20年末から新聞各紙に連載された「太平洋戰爭史」によって一般に普及した。
この史観は、「勝者の裁き」に由来する押しつけられた歴史認識として保守派から批判があり、また昭和天皇や731部隊の戦争責任が免責されたため進歩派からも問題点を指摘されている。
秦郁彦によれば、1970年代に「東京裁判史観」という造語が論壇で流通し始めた。
東京裁判の否定論者は、東京裁判が認定した「日本の対外行動=侵略」という歴史観と、それに由来する「自虐史観」に反発の矛先を向けているという。
秦は渡部昇一(英語学)、西尾幹二(ドイツ文学)、江藤淳・小堀桂一郎(国文学)、藤原正彦(数学)、田母神俊雄(自衛隊幹部)といった歴史学以外の分野の専門家や、非専門家の論客がこうした主張の主力を占め、「歴史の専門家」は少ないと指摘している。
これらの論者があげる裁判そのものへの批判としては以下のような主張がある。
・審理では日本側から提出された3千件を超える弁護資料(当時の日本政府・軍部・外務省の公式声明等を含む第一次資料)がほぼ却下されたのにも拘らず、検察の資料は伝聞のものでも採用するという不透明な点があった(東京裁判資料刊行会)。戦勝国であるイギリス人の著作である『紫禁城の黄昏』すら却下された。
・判決文には、証明力がない、関連性がないなどを理由として「特に弁護側によって提出されたものは、大部分が却下された」とあり、裁判所自身これへの認識があった。
また江藤淳によればGHQは占領下の日本においてプレスコードなどを発して徹底した検閲、言論統制を行い、連合国や占領政策に対する批判はもとより東京裁判に対する批判も封じた。
裁判の問題点の指摘や批評は排除されるとともに、逆にこれらの報道は被告人が犯したといわれる罪について大々的に取上げ繰返し宣伝が行われた(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)とも主張している。
ただし、GHQからメディアに対し宣伝するようにとの具体的な圧力があったとの話はとくに聞かれない。
また、占領下で一般にGHQ批判が許されなかったのは事実だが、裁判自体は、路上であればとても言う事が許されないようなことを被告側は堂々と主張していると評される状態であった。
秦は裁判の否定論者が「好んでとりあげる論点」として以下の例を挙げている。
1.侵略も残虐行為も「お互いさま」なのに「勝者の裁き」だったゆえに敗者の例だけがクローズアップされたと強調する。
2.「パール判決書」を「日本無罪論」として礼賛する。
3.講和条約11条で受諾したのは「裁判」ではなく「判決」と訳すべきだったと強調する。
4.二次的所産の歴史観を批判の対象とする。
〔ウィキペディアより引用〕