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in the name of ending the war Chord : 03 宮城事件 

2023-08-08 21:00:00 | 日記

 宮城事件

 宮城事件(きゅうじょうじけん)

 1945年(昭和20年)8月14日の深夜から15日(日本時間)にかけて、宮城(皇居)で一部の陸軍省勤務の将校と近衛師団参謀が中心となって起こしたクーデター未遂事件である。
 終戦反対事件(しゅうせんはんたいじけん)、あるいは八・一五事件(はちいちごじけん)とも呼ばれる。

 日本の降伏(ポツダム宣言受諾)を阻止しようと企図した将校達は近衛第一師団長森赳陸軍中将を殺害、師団長命令を偽造し近衛歩兵第二連隊を用いて宮城(皇居)を占拠した。
 しかし、陸軍首脳部・東部軍管区の説得に失敗した彼らは日本降伏阻止を断念し、一部は自殺もしくは逮捕された。これにより、玉音放送と日本の降伏表明は当初の予定通り行われた。

 《背景》

 ▼ポツダム宣言の受諾決定

 大東亜戦争(太平洋戦争)に於いて日本の敗色が濃くなっていた1945年(昭和20年)8月上旬、6日の広島市への原子爆弾投下、9日未明のソビエト連邦参戦、同日の長崎市への原子爆弾投下を受けて、政府内部では1945年7月26日にイギリスとアメリカ合衆国、中華民国の連合国3国の首脳により発されたポツダム宣言の受諾による降伏を支持する意見が強まっていた。
 9日に宮中において開かれた最高戦争指導会議では、鈴木貫太郎首相を始め、米内光政海軍大臣と東郷茂徳外務大臣が天皇の地位保証(国体護持)を条件として、阿南惟幾陸軍大臣と梅津美治郎参謀総長はさらに幾つかの条件を付けた上での降伏を主張した。
 午前10時から断続的に開催された会議が終了した後、鈴木首相は昭和天皇臨席の御前会議として再度、最高戦争指導会議を招集した。
 10日午前0時から宮城内御文庫[注釈 1]地下の防空壕において開かれたこの御前会議の席上で、首相からの「聖断」要請を受けた昭和天皇は東郷外務大臣の意見に賛成し、これによりポツダム宣言の受諾が決定された。
 連合国軍への連絡は、午前6時45分から中立国であるスイスおよびスウェーデンの日本公使を通して行われている。

 スイスルートは、駐スイス加瀬俊一公使よりスイス外務次官へ手交、スウェーデンルートは駐スウェーデン岡本季正公使より、スウェーデン外務大臣へ手交された。
 この時に、東京とスイス・スウェーデンの間で交わされた一連の電報は、国立国会図書館の「ポツダム宣言受諾に関し瑞西、瑞典を介し連合国側に申し入れ関係」において閲覧することができる。

 ▼陸軍内の動揺

 御前会議での決定を知らされた陸軍省では、徹底抗戦を主張していた多数の将校から激しい反発が巻き起こった。
 ポツダム宣言には「全日本軍の無条件降伏」という項目があり、陸海軍は組織存亡の危機にたっていた。
 午前9時に陸軍省で開かれた会議において、終戦阻止のために阿南陸相が辞任して内閣総辞職すべきだとにおわせた幕僚に対し、阿南陸相は「不服な者はまずこの阿南を斬れ」と述べて沈静化を図った。
 8月12日午前0時過ぎ、サンフランシスコ放送は連合国の回答文を放送した。
 この中では日本政府による国体護持の要請に対して、「天皇および日本政府の国家統治の権限は連合国最高司令官に従う (subject to) ものとする」と回答されていた。
 外務省はこの文章を「制限の下に置かれる」と訳し、あくまで終戦を進めようとしたのに対して、陸軍では「隷属するものとする」であると解釈し、天皇の地位が保証されていないとして戦争続行を唱える声が大半を占めた。
 不満を持つ将校たちの指導者格であり阿南陸相の義弟でもあった竹下正彦中佐は阿南陸相に終戦阻止を求め、さらにそれが無理であれば切腹するよう迫っている。

 15時から開催された皇族会議の出席者たちはおおむね降伏に賛成したが、同時刻の閣議および翌13日午前9時からの最高戦争指導会議では議論が紛糾した。
 閣議において最後までポツダム宣言受諾に反対していたのは、陸軍代表の阿南陸相、松阪広政司法大臣、安倍源基内務大臣の3名であった。
 しかし、15時の閣議においてついに回答受諾が決定された。
 陸相官邸に戻った阿南陸相は6名の将校(軍事課長荒尾興功大佐、同課員稲葉正夫中佐、同課員井田正孝中佐、軍務課員竹下正彦中佐、同課員椎崎二郎中佐、同課員畑中健二少佐)に面会を求められ、クーデター計画への賛同を迫られた。
 「兵力使用計画」と題されたこの案では、東部軍及び近衛第一師団を用いて宮城を隔離、鈴木首相、木戸幸一内大臣府、東郷外相、米内海相らの政府要人を捕らえて戒厳令を発布し、国体護持を連合国側が承認するまで戦争を継続すると記されていた。
 面会を求めた6人はいずれも参謀や内政班長で、最前線の現状をよく知らなかった。
 阿南陸相は彼らに「梅津参謀総長と会った上で決心を伝える」と返答し、一同を解散させた。

 《8月12日》

 午前9時、近衛歩兵第二連隊第一大隊が完全武装で宮城(皇居)に入城する(その後宮城(皇居)から出ることなくクーデターに参加)。

 《8月14日》

 午前7時に陸軍省で阿南陸相と梅津参謀総長の会談が行われた。
 この席で梅津はクーデター計画に反対し、阿南も同調した。
 一方、鈴木首相は陸軍の妨害を排除するため、天皇出席の上での御前会議開催を思い付き、全閣僚および軍人・民間人の要人数名を加えた会議を招集した。
 正午ころ宮中の防空壕にて行われた会議において鈴木首相から再度聖断の要請を受けた昭和天皇は、連合国の回答受諾を是認し、必要であれば自身が国民へ語りかけてもよいと涙ながらに述べて会議は散会された。
 昭和天皇の聖断と涙に心打たれた阿南陸相は、ポツダム宣言受諾を容認しクーデター計画を止める方向へと舵を切ることになった。
 直後に阿南陸相が陸軍省で詰め寄る青年将校に聖断を伝えると、将校の一人だった畑中は周囲が怯えるほど号泣したとされる。
 閣議が始まった13時頃、社団法人日本放送協会の大橋八郎会長は内閣情報局に呼び出され、「終戦詔書が天皇陛下の直接放送となる可能性があるので至急準備を整えるように」と指示を受けている。
 同じ頃、竹下と畑中は古賀秀正少佐と、陸相と参謀総長に否定されたクーデター計画案に替わる代案「兵力使用第二案」を練っていた。

 15時過ぎ、阿南陸相は陸軍省で陸軍課員以上を第一会議室に集め陸軍の無条件降伏の受け入れを告げ、「諸官においては、過早の玉砕は任務を解決する道でないことをよく考え、泥を食み、野に伏しても、最後まで皇国護持のために奮闘してもらいたい」と訓示した。
 この場に畑中はおらず、この時東部軍管区司令部で司令官の田中静壱大将に面会を求めていた。
 彼は東部軍のクーデター参加を求める予定であったが、入室した途端に田中に怒鳴られ、萎縮し転がるように退室した。
 22時過ぎ、畑中は井田と面会し、井田の陸軍大学校時代の師である森赳師団長の説得を依頼。
 23時、閣議が終了し中立国のスイスを通じ連合国側へポツダム宣言受諾を通告。
 昭和天皇による玉音放送の録音は23時30分から宮内省政務室において行われ、録音盤(玉音盤)は徳川義寛侍従に渡されて、皇后宮職事務室内の軽金庫に保管された。

 《8月15日》

 ▼決起

 午前0時過ぎ、玉音放送の録音を終了して宮城を退出しようとしていた下村宏情報局総裁と放送協会職員など数名が、坂下門付近において近衛歩兵第二連隊第三大隊長佐藤好弘大尉により身柄を拘束された。
 彼らは兵士に銃を突き付けられ、付近の守衛隊司令部の建物内に監禁された。
 井田と椎崎は、近衛第一師団司令部で第二総軍参謀白石通教中佐(森師団長の義弟)と会談中であった師団長森赳中将に面会を強要し、クーデターへの参加を求めた。
 井田の記録によると、森は否定的な態度を堅持していたが、「明治神宮を参拝した上で再度決断する」と約束したとされる。
 井田はこの言葉を聞き一時部屋を退出したと述べている。
 午前1時30分、入れ替わりに師団長室に入った畑中は、しばらくすると部屋を出てきて、この日別件で近衛第一師団司令部を訪れていた航空士官学校の上原重太郎大尉とその同志である陸軍通信学校の窪田兼三少佐を引き連れ再度入室した。
 畑中は無言のまま森を拳銃で撃ち、さらに上原大尉が軍刀で斬殺した。
 同席していた白石も上原と窪田によって斬殺された。
 井田によると入室から10分ほどで突如師団長室が騒がしくなり、その後畑中が「時間がなくてやりました」と顔面蒼白で師団長室を出てきたという。
 森師団長と白石中佐の殺害の詳しい経緯については、窪田が東部憲兵隊で聴取を受けた際の聴取記録が残っており、概ね明らかである。

 ▼宮中占拠

 森の殺害後、畑中らは森の印鑑を盗み、畑中が起案したと考えられる「近作命甲第五八四号」に押印し師団参謀古賀秀正少佐が各隷下部隊に口頭下達、近衛歩兵第二連隊に展開を命じた(ただし、古賀がクーデター計画にどの程度積極的に関与したかについてははっきりとしていない)。
 この近作命甲第五八四号により、陸軍による皇居と放送局の占拠が実行された。
 偽の作戦命令を受け、近衛兵は皇居の門を封鎖。宮内省では電話回線が切断され、皇宮警察は武装解除された。
 玉音放送の実行を阻止する為に内幸町の放送会館へも近衛歩兵第一連隊第一中隊が派遣され、放送会館職員は監禁された。
 放送会館職員への脅迫で玉音盤が宮内省内部に存在することを知った古賀少佐は、宮内省を占拠し第二大隊長北村信一大尉や佐藤好弘大尉らに捜索を命じている。
 宮内省内にいた石渡荘太郎宮内大臣および木戸幸一内府は金庫室などに隠れて難を逃れた。
 一方で「近作命甲第五八四号」では戦車中隊を代官町通へ進出させることとされた近衛騎兵連隊(牛込区戸山)は、命令に不審を抱いた連隊長伊藤力大佐が東部軍司令部と連絡を取った結果、出動を見合わせている。

 井田は水谷一生近衛第一師団参謀長に随行して東部軍管区司令部へと赴き、東部軍管区(第十二方面軍司令部を兼務)のクーデター参加を求めたが、田中軍司令官と高嶋参謀長は既に鎮圧を決定していた。
 これを受け井田は畑中に夜が明ける前に兵を引くよう説得するも、畑中は聞き入れず第一中隊の占領する放送会館へと向かった。
 高嶋参謀長は午前4時過ぎに芳賀豊次郎近衛第二連隊長との電話連絡に成功し、森の殺害を知り畑中らの言動に疑問を感じていた連隊長に対し、師団命令が偽造であることを伝えた。
 芳賀はその場にいた椎崎、畑中、古賀らに対し即刻宮城から退去するように命じた。
 宮内省内では御文庫へ反乱発生を伝えた後に帰還していた徳川義寛侍従が兵士と口論になり、第一大隊の若林彦一郎軍曹に殴打されている。
 殴打した理由について若林は後日、 「周囲の人間は殺意をもって徳川侍従を包囲しており、このままでは侍従が殺されてしまうと思った。
 それを防ぐためにとっさに本人を殴り、気絶させることで周囲を納得させた」 と親族に語っており、機転を利かせた行動であった。実は徳川が自身の軽金庫に玉音盤を入れて皇后宮職事務官室に保管しており、結果的に若林の咄嗟の行動により玉音盤は守られたのであった。

 午前4時30分ころ、畑中は放送会館のスタジオ内に居座り、決起の声明の放送を要求した。
 本来応対すべき放送協会の幹部はいずれも不在で、副部長級の職員や一般の技術職員が兵士からピストルを突きつけられながら対応にあたった。
 その際に職員たちは、空襲警報発令中の放送の権利は東部軍管区司令部内の放送室に移るため、警報が解除されるまで放送会館からは放送が出せない、という規則を盾に、「今空襲警報が出ており、東部軍から許可がなければ放送できない」の一点張りで突っぱね、さらに畑中本人が東部軍管区司令部へ電話して放送の許可を受けるよう懇願した(当時放送会館と司令部の間には直通電話が引かれていた)。
 畑中はそれに応じ、スタジオを出て電話室へ向かった。

 ▼鎮圧

 日が昇ってすぐの午前5時頃、東部軍司令官の田中が数名のみ引き連れ、自ら近衛第一師団司令部へと向かい、偽造命令に従い部隊を展開させようとしていた近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮連隊長を止めた。
 連隊長のそばに居た近衛第一師団参謀石原貞吉少佐は東部憲兵隊により身柄を保護された(逮捕されたのではなく、石原は当日夕方には師団司令部に復帰している)。
 午前6時過ぎにクーデターの発生を伝えられた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べている。
 その頃、陸相官邸では阿南陸相が自刃した(「阿南陸相は、5時半、自刃、7時10分、絶命」との記録もあり)。
 竹下は陸相印を用いて大臣命令を偽造しようと井田に示唆したが、井田は既にクーデターの失敗を悟っていた。
 田中は乾門付近で芳賀に出会い兵士の撤収を命じると、そのまま御文庫さらに宮内省へ向かい反乱の鎮圧を伝えた。
 これを境にクーデターは急速に沈静化へと向かった。
 このとき既に畑中らは断念しており田中が鎮圧したという俗説は誤りとする説もある。

 放送会館では、東部軍へ電話で決起放送の許可を求めた畑中が拒絶を受けた(東部軍側から放送中止を求める電話連絡を受けたとする説もある)ことで放送を断念し、部隊を撤退させた。
 守衛隊司令部では拘束されていた下村情報局総裁らが解放された。
 午前8時前には近衛歩兵第二連隊の兵士が宮城から撤収し、宮内省内の地下室に隠れていた石渡宮相と木戸幸一内府はここを出て御文庫へと向かった。
 2枚の録音盤は1回目に録音された録音盤を「副盤」、2回目に録音された録音盤を「正盤」として皇后宮職事務室から運び出され、正盤は放送会館へ副盤は第一生命館に設けられていた予備スタジオへと無事に運搬された。
 運搬に際しても副盤をいかにも正式な勅使らしい偽物を仕立てつつ、正盤は粗末な袋に入れて木炭自動車で運搬するという念の入れようであった。
 最後まで抗戦を諦めきれなかった椎崎と畑中は宮城周辺でビラを撒き決起を呼び掛けた(佐藤大尉と藤原憲兵大尉が撒布したとの証言もある)が、午前11時過ぎに二重橋と坂下門の間の芝生上で自害した。放送用の檄文は二人の死に伴い散逸し失われた。
 また古賀は玉音放送の放送中、近衛第一師団司令部二階の貴賓室に安置された森の遺骸の前で拳銃と軍刀を用い自害した。
 午前11時30分過ぎ、放送会館のスタジオ前で突如1人の憲兵将校が軍刀を抜き、放送阻止のためにスタジオに乱入しようとしたが、すぐに取り押さえられ憲兵に連行された。
 そして正午過ぎ、ラジオから下村総裁による予告と君が代が流れた後に玉音放送が無事行われた。
 上記のようにクーデター首謀者中の生存者である井田および稲葉等の証言では、自分達より階級の低い自決した畑中が森殺害以降のクーデターを主導したと示唆されている。

 《その他の動き》

 他にも、「皇軍の辞書に降伏の二字なし」として徹底抗戦を唱え、東京警備軍横浜警備隊長の佐々木武雄陸軍大尉をリーダーとして、尾崎嘉男、上田雅紹、村中諭、川島吾郎など勤労動員中の横浜高等工業学校(佐々木の母校)の生徒達によって編成された「国民神風隊」が、同15日の午前4時30分に首相官邸を襲撃したのを皮切りに、鈴木首相や平沼騏一郎枢密院議長、木戸幸一内府、東久邇宮稔彦王らの私邸にも火を放った。

 《戦後》

 事件鎮圧の功労者である田中司令官は、8月24日の夜に拳銃で心臓を撃ち抜き自殺した。
 田中は戦時中に宮中への空襲を許したことなどに責任を感じており、24日に発生した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐や予科士官学校生徒による川口放送所占拠事件の解決を待っての行動であった。
 近衛第一師団参謀の石原貞吉少佐は、8月15日に発生した水戸教導航空通信師団事件の一部である上野公園占拠事件に際し、第十二方面軍参謀神野敏夫中佐からこれの説得役を依頼された。
 これは水戸から上京した部隊の指揮官岡島哲少佐が、石原の陸軍士官学校本科教練班長時代の教え子だった縁による。
 8月19日に東京美術学校に赴いた石原は、説得に納得しない林慶紀少尉によって拳銃で射殺された。
 石原の遺体は同夜近衛第一師団司令部配属憲兵の境芳郎憲兵曹長により収容された。戦後になり石原は勲四等に叙せられ、靖国神社にも合祀されている。 一方、森殺害のキーパーソンであり、また兵力使用計画に関与した井田は、15日に陸軍省で自殺する決心を固めていたが、これを予期した見張りの将校に止められ断念した。
 戦後は電通に入社し、総務部長と関連会社電通映画社の常務を務めた。
 戦後の1955年になり離婚して岩田に復姓している。同じく兵力使用計画に関与した稲葉正夫は防衛庁戦史編纂官を経て防衛研究所で研究員を務めた。
 事件に関係した将校たちは明らかに当時の軍法・刑法に違反する行為を行ったにもかかわらず、敗戦によって彼らを裁くべき軍組織が解散させられたため、軍事裁判にかけられることも刑事責任を問われることもなかった。

 関連項目 ー 森 赳 ー

 森 赳(もり たけし)
 (1894年(明治27年)4月25日〜1945年(昭和20年)8月15日)

 日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲一等功三級。


 《生涯》

 ▼経歴

 高知県高知市八軒町にて銀行員の森杪の長男として生れる。
 広島陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1916年5月、陸軍士官学校(28期)を卒業し、同年12月、騎兵少尉に任官し騎兵第13連隊付となる。
 陸軍騎兵学校で学び、陸士付、陸士教官などを経て、1927年12月、陸軍大学校(39期)を卒業。
 騎兵第13連隊中隊長、参謀本部付勤務(支那課)、参謀本部員、参謀本部付(支那研究員)、関東軍参謀、騎兵学校教官、陸大教官などを経て、日中戦争に第1軍参謀として出征。
 陸大教官を経て第6軍参謀副長に就任し、1941年8月、陸軍少将に進級し、太平洋戦争を迎えた。
 第6軍参謀長、憲兵司令部本部長などを歴任し、第19軍参謀長となりアンボンに進出、ジャワ島の守備などを担当。
 1945年3月、陸軍中将となった。参謀本部付を経て近衛第1師団長に就任し、宮城警備に従事。

 ▼終戦

 1945年8月14日、ポツダム宣言受諾に際し、東部軍管区参謀不破博中佐の訪問を受け、「承詔必謹」の方針を確認する。
 その後、蓮沼蕃侍従武官長のもとを訪ね、師団長室に戻ってまもなく、東部軍管区司令部に参集を命ぜられ、田中静壱司令官から正式に終戦の大命を伝達される。
 8月15日未明、宮城事件が勃発する。
 このとき近衛師団司令部の師団長室において義弟の白石通教中佐と談話中であったが、井田正孝中佐、椎崎二郎中佐、畑中健二少佐、窪田兼三少佐らに面会を強要される。
 井田中佐に決起を迫られたが、クーデターへの参加を拒否したため、畑中少佐から発砲を受け、更に航空士官学校の上原重太郎大尉に軍刀で斬りつけられ殺害された。
 上原大尉は、上司である陸軍航空士官学校長徳川好敏陸軍中将の強唆もあり、その後自決した。
 なお、窪田兼三少佐は白石中佐の首を刎ねたものの、森中将には手をかけていないことが東部憲兵隊の公式記録や事件現場の状況、本人の証言等から判明。   
 上原重太郎大尉は森師団長の肩を斬ったことが同様に判明。墓所は静岡県駿東郡冨士霊園。

 関連項目 ー 愛宕山事件 ー

 愛宕山事件(あたごやまじけん)

 1945年8月15日東京都芝区(現在の港区)の愛宕山で右翼団体構成員が第二次世界大戦の日本の降伏終戦に反対して篭城した事件である。

 《概要》

 1945年(昭和20年)8月15日の昼に、日本がポツダム宣言を受諾し連合国に降伏することが昭和天皇による玉音放送によって発表されると、降伏に反対する右翼団体「尊攘同志会」の首領・飯島与志雄ら12名が愛宕山に篭城した。
 飯島らは抗戦派軍人の決起を期待し、これに呼応するため日本刀や拳銃、手榴弾等で武装していた。
 これを知った警視庁では約70名の警官隊を動員し、愛宕山を包囲、投降を呼びかけた。
 飯島らは説得を拒否し立て篭り続けたため、22日午後6時頃、警官隊が発砲し突入、追いつめられた飯島らは手榴弾で自決を図り、10名が死亡、2名が捕えられた。

 関連項目 ー 川口放送所占拠事件 ー

 川口放送所占拠事件(かわぐちほうそうじょせんきょじけん)

 1945年(昭和20年)8月24日に埼玉県川口市所在の社団法人日本放送協会(現在のNHK)川口放送所及び鳩ヶ谷放送所が、第二次世界大戦の終戦に反対して徹底抗戦を主張する大日本帝国陸軍の兵士らにより占拠された事件のことである。

 《経緯》

 宮城事件で、クーデターに失敗した陸軍通信学校教官窪田兼三少佐は、日本の降伏に納得できず、政府が降伏を決定した8月15日以降も横須賀鎮守府などを訪問して、抗戦決起を呼びかけ同志を募っていた。
 8月21日には以前に勤務していた陸軍予科士官学校に向かったが、その途中、陸軍予科士官学校生徒隊寄居演習隊第23中隊第1区隊長・本田八朗中尉(当時20歳)に偶然出会った。
 本田中尉は振武台陸軍病院に入院中であったが、15日に玉音放送を聞いて急遽退院し、朝霞の予科士官学校から埼玉県大里郡寄居町に疎開している隊に戻るところであった。
 窪田少佐は本田中尉に宮城事件の詳細を語り、力になってくれるよう依頼して別れた。
 本田中尉は汽車で寄居の隊に戻ったが、隊内でも今後の軍の動きを巡って混乱しており、8月17日、本田中尉は再び上京し、近衛歩兵第二連隊長・芳賀大佐や竹下正彦中佐などに面会し陸軍内部の動向を探った。
 8月19日、本田中尉は寄居の隊に戻り、高島中隊長に状況を報告した。
 隊内の士官らの間では、終戦の詔勅に従うか、抗戦するかが激論されていたが、8月21日、高島中隊長は「承詔必謹」し降伏することを士官に指示した。  
 各士官はこれに従ったが、本田中尉は強く反対していた。

 このような状況の中、窪田少佐が寄居演習隊を訪れ、本田中尉に、ラジオ放送所を占拠して国民に徹底抗戦を呼びかける計画を打ち明けた。
 本田中尉はこれに賛同し、演習を名目に部隊を動かすため、8月24日に夜間演習を行う許可を高島中隊長から得た。
 8月23日朝、高島中隊長は隊員らを集め、詔勅に従って終戦を受け入れる事を訓示し、隊員は兵器を返納し復員の準備を始めたが、本田中尉は第1区隊生徒らに夜間演習の準備を指示していた。
 午後7時、本田中尉、伊吹曹長以下、第1区隊生徒(16~18歳)ら67名は装備を整え隊庭に集合した。
 しかし、演習名目であったため実弾は支給されず空砲のみの装備であった。
 午後8時、東武東上線寄居駅から、事前に依頼しておいた臨時列車に乗り込み、新倉駅(現・和光市駅)に移動、同駅で窪田少佐が合流した。

 関連項目 ー 厚木航空隊事件 ー

 厚木航空隊事件
(あつぎこうくうたいじけん)

 1945年8月15日に、厚木海軍飛行場で第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が起こした騒乱事件。
 第二次世界大戦(大東亜戦争)での日本の降伏を受け入れず、連合国軍と徹底抗戦する目的で起こされたが、6日後に鎮圧された。

 《経緯》

 1945年(昭和20年)8月15日に行われた玉音放送により日本は降伏し終戦し、小園は三〇二空司令官を解かれて横須賀鎮守府付になることが決定していた。
 しかし、国体不滅を信じていた小園はこのまま日本が降伏すればソ連により皇室は根絶やしにされ、日本は滅亡すると危惧していたうえ、月光の斜銃装備や特攻反対などの提案を却下し、敗北を重ねた末に降伏を決めた海軍上層部への反感を強めていた。
 そして連合艦隊司令部と全艦隊に「302空は降伏せず、以後指揮下より離脱する」と伝達。部隊に「日本は神国、降伏はない、国体に反するごとき命には絶対服さない」と訓示を行う。
 翌日から陸海軍、国民などに対して軍用機で各地に『皇軍厳トシテ此処ニアリ』『重臣ノ世迷言ニ惑ワサルルコトナク我等ト共ニ戦へ』などと書かれた檄文を撒き呼びかけて回った。
 しかし、第三四三海軍航空隊飛行長・志賀淑雄少佐や筑波海軍航空隊飛行長・進藤三郎少佐らが302空の使者を一喝して追い返すなど、各航空隊の支持を得ることはできなかった。
 また、302空によるフィリピンへ向かう軍使機の撃墜は失敗に終わった。

 海軍大臣米内光政大将、第三航空艦隊司令長官寺岡謹平中将、海軍大佐高松宮宣仁王が説得に当たるが小園は納得しなかった。
 これにより小園は16日16時を以て解職され、山本栄・第七一航空戦隊司令官が三〇二空司令を兼任した。
 しかし小園が16日以降持病のマラリアを悪化させて行動不能に陥り、8月21日に軍医により麻酔で眠らされて野比海軍病院(現・国立病院機構久里浜医療センター)へ運ばれて精神病棟で監視下に置かれる。
 それまでは毎日戦闘機などを飛ばしていた302空は、8月20日に海軍大佐高松宮宣仁王の説得を受けた副長の菅原英雄中佐によって武装解除され、小園が連行された21日に反対者も大半が鎮圧された。
 この際、若手を中心とした一部抗戦派は狭山飛行場(第三十九教育飛行隊)へ士官10名と下士官兵15名が、児玉飛行場(飛行第九十八戦隊)へ士官17名と下士官兵44名が向かった(他に零戦に搭乗した改田義徳中尉が途中で東京湾へ飛び込んで死亡している)。
 山本司令官により、21日を以て三〇二空は解散された。
 狭山飛行場へ向かった抗戦派は協力を得られずに22日に厚木へ帰投。
 児玉飛行場の抗戦派も、23日に厚木から派遣された恭順派によって全機のタイヤをパンクさせられて戦闘不能に陥った。
 飛行長・山田九七郎少佐は、この件の責任を痛感して24日に妻と共に服毒自決した。
 25日に抗戦派の岩戸良治中尉が出頭し、26日に抗戦派全員が東京警備隊に拘束され、事件は終結した。

 なお、小園がマラリアに罹患したという点について、小園の長男は「マラリアではなく、軍が寝室に秋水の燃料補助剤をまいて錯乱状態にした」と主張している。

 《事件後》

 1945年10月16日に横須賀鎮守府臨時軍法会議は、判士海軍少将小柳冨次(裁判長)・法務官海軍法務大佐由布喜久雄・判士海軍大佐小野良二郎の3名の裁判官で、党与抗命罪(海軍刑法56条)により小園に対し「被告人ヲ無期禁錮ニ処ス」という判決を下した。
 検察官は海軍法務少将小田垣常夫干与であった。
 また官籍剥奪も行われた。
 青年将校以下69名も四年から八年以下の禁錮刑に処せられた。
 軍法会議法における「戦時事変に際し海軍部隊に特設された臨時軍法会議」であるため、法令により弁護人はいなかった。
 小園らは横浜刑務所に収監された。
 1946年11月3日、日本国憲法の公布を機会として公布された大赦令第1条の赦免対象に海軍刑法の党与抗命罪も含められ、事件関係者は主犯である小園を除き赦免された。
 小園は無期禁錮から禁錮二十年に減刑される。
 1950年9月4日、特別上申により禁錮十年に減刑、同年12月5日熊本刑務所を仮釈放された。
 1952年、平和条約の発効に際し、政令百十七号の大赦令によって同年4月28日に赦免された。
 小園は事件についての手記『最後の対米抵抗者』を残し、1960年に死去した。 国会において阿具根登、大橋敏雄らは、「この判決で小園が海軍軍人としての一切の名誉を奪われて軍人恩給の支給対象から外れ、もともと恩給資格のない基地隊員60名も元受刑者として何らかの身分制限がつきまとったことは、ビラをまいただけであるのに対し理不尽、不公平」と主張した。

 終戦前後に抗命罪に値するものは厚木航空隊だけではなかった。
 宮城事件で玉音放送用の録音盤の奪取ならびに放送の阻止を図った陸軍将校は、武力による実害が発生したにもかかわらず、自決した者以外は裁判もなされずに釈放されている。
 また厚木と全く同様の抗戦を企てた者として、陸軍飛行九十八戦隊(児玉飛行場)の宇木素道少佐、あるいは陸軍狭山基地の山田少佐、台湾の海軍一三二航空隊がいた。
 1974年に行われた恩給法の附則改正により、小園の未亡人は遺族扶助料を受給できることになる。
 小坂徳三郎総務長官は「小園氏の名誉回復は今回の恩給法の改正によりまして、まず第一段階は到達されたというふうにわれわれは認識しております」と説明した。
 しかし、その後の進展はなかった。

   〔ウィキペディアより引用〕