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in the name of ending the war Chord : 01 終戦の日②

2023-08-03 21:00:00 | 日記

 停戦後(8月15日〜4028日)

 8月15日正午からの玉音放送終了後、直ちに終戦に伴う臨時閣議が開催され、まず鈴木首相から「阿南陸軍大臣は、今暁午前5時に自決されました。
 謹んで、弔意を表する次第であります」との報告があり、阿南の遺書と辞世の句も披露した。
 閣僚たちは、1つだけ空いた陸軍大臣の席を見ながら、予想していたこととはいえ大きな衝撃を受けていた。
 また午後に大本営は大陸命第1381号と大海令第47号にて大日本帝国陸軍と海軍に対して「別に命令するまで各々の現任務を続行すべし」と命令し、積極進攻作戦の中止を命令した。
 しかし、日本の敗戦を知った厚木基地の一部将兵が16日に徹底抗戦を呼びかけるビラを撒いたり、停戦連絡機を破壊するなどの抵抗をしたが、まもなく徹底抗戦や戦争継続の主張は止んだ。
 他は大きな反乱は起こらず、外地や占領地を含むほぼ全ての日本軍が速やかに戦闘を停止した。
 ただし、北海道の第5方面軍司令の樋口中将は、麾下にある南樺太の第88師団に南樺太死守命令を出したため、南樺太ではソ連軍との戦闘が続くこととなった。  
 千島列島の占守島においても抗戦が決定され、こちらについても樋口中将の指示が疑われている。

 15日早朝の陸軍によるクーデター発生最中に自決した阿南陸相をはじめ、「武人としての死に場所を与えてくれ」と部下22名(うち5人が生還)を連れて11機の特攻機で出撃し命を絶った宇垣纏中将、妻娘らとともに一家自決した元第4航空軍の隈部正美少将、ウルシー環礁から伊401で内地へ帰投する途中アメリカ軍に拿捕される直前、艦内で自決した有泉龍之助大佐、陸軍省参謀本部の大正天皇御野立所で切腹した晴気誠少佐、約1か月後となるが元参謀総長の杉山元は当人ばかりか国防婦人会の会長であったためその妻まで後追い自決するなど、日本の降伏を受け入れられず、また降伏の責任を負って、あるいは連合国からの逮捕や追及を怖れ、皇居前や代々木練兵場、内外の基地、自宅などで自ら命を絶った軍人や政治家、民間人は数百人に渡った。
 また東條英機のように9月になってから連合国軍総司令部から逮捕、出頭を命ざれたあと、自殺に失敗し逮捕される者、近衛文麿のように12月になってから連合国軍総司令部から出頭を命じられたあと、逮捕を嫌がり服毒自殺する者もいた。
 16日午後4時には大陸命第1382号にて大日本帝国陸軍に対して、停戦交渉成立に至る間やむをえざる自衛のための戦闘行動を除いて「即時の戦闘停止」を命令された。
 海軍に出された大海令48号もほぼ同内容である。
 1382号では具体的な停戦期限は記載されていなかったが、日本側から連合国側に通告した「日本政府・大本営発、連合国最高司令官宛電一号」では「二、右大命ガ第一線ニ到達シ実効ヲ挙グル日時ハ左ノ如ク予見ス」として「内地 四十八時間」としていた。
 つまり、48時間後の18日16時を完全な停戦成立完了時になるとみていた。
 なお、南樺太では、札幌にいた第5方面軍の樋口中将から南樺太死守命令が出されたが、その際、この自衛戦闘を理由にソ連軍進攻に対し、戦闘が継続された。
  18日大陸命第1385号により大日本帝国陸軍に対して、別に示す時機に司令官らの作戦任務を解き、それ以降の戦闘が禁止されるとの命が出された。
 この時点で、その「別に示す時機」は明示されなかったものの、一方で、15日の詔書渙発以降に敵軍の勢力下におかれた陸軍軍人・軍属は俘虜とは認識しないとし、同時に隠忍自重するようにとの内容となっている。
 山田朗は、これをそれまで日本軍が将兵に降伏を禁じていた手前、連合軍に降伏して俘虜になるのではなく、天皇の命令で戦闘を停止して連合軍の管理下に入るのだ、という体裁をとったものだとする(同時にこれは、例えば現地の軍等がその停戦交渉の結果として降伏しても、15日正午以降に行ったものであれば差し支えないという効果を、この大陸命は持つことになる筈である)。
 海軍には、19日の大海令第五十号で同趣旨の令が出ている。

 17日には連合国最高司令官指令から一般命令第一号が下ったが、同日には日本本土を偵察に来たコンソリーデーテッドB-32を、厚木基地の日本軍機が襲い翌日アメリカ人搭乗員1人が死亡するなどのトラブルが起きた。
 しかし本土では同じような連合国とのトラブルはこれ以降起こらなかった上、すぐにイギリス軍やアメリカ軍が陸海空軍の相当数の部隊を上陸できる体制にあった。
 17日日本側では、16日の大海令48号を繰り返す部分のある大海令49号が海軍に出ている。
 19日大陸命1386号で内地の陸軍は8月22日0時以降一切の武力行使が停止となる。
 この日大海令50号で、海軍は支那方面艦隊を別にして一切の戦闘行為が停止される。
 また、同日、大陸指2546号で札幌の第五方面軍にも局地停戦交渉とその実施の武器の引渡を実施する許可が出る。
 しかし、第五方面軍は南樺太の第88師団に停戦と武器の引渡(事実上の降伏)を許可することなく、むしろあらためて南樺太死守を命じている。
 8月22日大陸命1388号により外地の陸軍は、支那派遣軍の局地的自衛の措置を除き8月25日0時以降一切の武力行使が停止とされる。
 また、大本営の朝枝繁春参謀は停戦の進捗状況を監督するために出張した満洲でソ連側から樺太で戦闘が続いていることを知り、この前日に自衛戦闘に名を借りて戦闘継続することに対する警告の電報を札幌の第五方面軍に打電していた。     
 そのため、ようやく南樺太の第88師団の事実上の降伏と武装解除を前提とする停戦交渉が開始し、昼頃成立する。 ドイツの場合は、本土に進攻されても容易に降伏しなかったため、一つ一つ都市が落とされていき、最期は首都を含め本土のかなりの地域が占領されていった形での敗戦となった。
 しかし、日本の場合は、その時点では未だ首都はもちろん、北海道、本州、九州、四国の本土は一切占領されていなかった上に、中央政府と軍中枢は存続しており、まだ相当の軍人と武器や航空機、船舶が残っていた日本に対する連合国軍の動きは慎重に慎重を重ねた。
 連合国軍の日本占領部隊の第一弾であるアメリカ軍やイギリス軍が日本本土に上陸するまでは、結果として約2週間という異例の長さであった。

 なお、沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下、勢力下にあった。
 また、中四国はイギリス連邦占領軍が後に駐留することが決まり、結果的にアメリカ軍とイギリス連邦軍だけで正式に日本を占領することとなった。
 しかし、少しでも多くの日本領土略奪を画策していたヨシフ・スターリンは、北海道の北半分のソ連軍による分割占領をアメリカ政府に提案したが、ヤルタ会談での合意内容を超えることから拒否され、駐在武官のみを送るにとどめた。
 しかしスターリンの命令と日本軍のソ連軍進駐拒否により、南樺太・千島へのソ連軍の攻撃は15日の玉音放送以降も継続し、22日には樺太からの引き揚げ船3隻がソ連潜水艦の攻撃を受ける三船殉難事件が発生した。
 北方領土の択捉島は8月28日、国後島は9月2日、歯舞諸島への上陸は9月3日になって行われた。
 なお、中華民国も軍事占領を検討したが、占領時の食料の大部分を日本に頼ろうとしたために、イギリス軍とアメリカ軍から正式に拒否された。

 17日に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、皇族である東久邇宮稔彦王が首相を継いだ。
 皇族が首相に就いたのは武器解除を速やかに進めるためともいわれ、皇族の首相は初めてのことであった。
 副総理格の国務大臣には近衛文麿、外務大臣には残留した重光葵、大蔵大臣には津島寿一、内閣書記官長兼情報局総裁には緒方竹虎が任命された。
 また海軍大臣には元首相の米内光政が留任した。陸軍大臣は任命が内定していた下村定陸軍大将が23日に帰国するまでの間、東久邇宮が兼任した。

 この時点でも、日本は連合軍に占領された沖縄県を除く日本本土と樺太、千島、台湾、朝鮮半島などの開戦前からの元来の領土の他に、中華民国の上海をはじめとする沿岸部、現在のベトナム、マレー半島、インドネシア、ティモール島などの北東アジアから東南アジア、ウェーク島からラバウルなど太平洋地域にも広大な占領地を維持しており、他にもタイや満洲国などの友好国、スイスやスペイン、アフガニスタンやチリなどの中立国に膨大な数の民間人と軍人が駐留していることから、これらの地からの引き揚げと権限の移譲を速やかに行う必要があった。
 そこで16日に連合軍は中立国のスイスを通じ、日本に対して占領軍の日本本土受け入れや、総勢1万数千機以上の残存機、空母や戦艦、潜水艦など数千隻の残存艇に上る各地の日本軍の武装解除を進めるための停戦連絡機の派遣を依頼した。
 これを受けて19日に、日本政府側の停戦全権委員が2機の緑十字飛行の塗装をした一式陸上攻撃機で木更津から伊江島に飛行し、そこからダグラス DC-4でマニラへと向かい、マニラ・ホテルでチャールズ・ウィロビー少将らなどと停戦および全権移譲の会談や、さらに日本本土進駐の際の安全の確保と情報提供を要求するなど、イギリス軍やオーストラリア軍、アメリカ軍やフランス軍、オランダ軍に対する停戦と武装解除、日本進駐の準備は順調に遂行されるかにみえた。
 また日本と同盟下にあったタイは、16日の日本降伏後に日本側の内諾を得た上で「宣戦布告の無効宣言」を発し、連合国側と独自に講和した。

 しかし、引き揚げを受け入れず「欧米諸国からのアジアの解放」という、大東亜戦争の理念を信じて、ジャワやインドシナ、ビルマ、マレーなどで勃発したイギリスやフランス、オランダからの独立戦争に協力する日本軍の将兵や、再び国共内戦に向かいつつある中華民国軍に佐官級で残ることを依頼されそのまま残留を決めたもの(通化事件)、のちに個人の意思で中華民国国軍や中国人民解放軍に編入されたものもいた。
 また、これらの独立戦争で戦う側とフランスやオランダなどの現地の政府軍などの双方に、日本軍の残留した航空機(九九式襲撃機や九八式直接協同偵察機など)や戦車、銃器など接収した武器がそのまま利用されることも多かった。
 日本とフランス植民地政府の権力の空白が生まれたインドシナでは、17日にベトナム八月革命が勃発した。
 日本の後ろ盾を失った満洲国はソ連軍の侵攻を受けて崩壊し、18日に退位した皇帝の愛新覚羅溥儀や愛新覚羅溥傑ら満洲国帝室と、関東軍の吉岡安直中将や橋本虎之助中将などはその後日本への亡命を図るが、奉天に侵攻してきたソ連軍に身柄を拘束された。

 さらには、アメリカ領フィリピンのルバング島で1974年まで日本軍の残留兵として戦い続けた小野田寛郎少尉のように、日本軍の将兵として戦闘行為を継続していた者や、アナタハン島のように島単位で引き揚げから取り残される者も発生した。
 この様に日本とその友好国側、連合国側の上記のような準備と混乱を経たものの、22日から23日にかけて台風が日本を襲い上陸予定地の厚木飛行場も滑走路が水に浸かってしまい、さらに連合国軍の占領は遅れた。

 占領開始(8月28日〜30日)

 ようやく停戦から2週間後の28日に連合国軍による日本占領部隊の第一弾として、チャールズ・テンチ大佐率いる45機のカーチスC-47からなるアメリカ軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着。
 同基地を占領した。なお、全面戦争において首都の陥落がないままで、また停戦から首都占領まで2週間も時間がかかったのは、近代戦争のみならず史上でも初めてのことであった。
 また、同日東京の大森にある連合軍の捕虜収容所に、アメリカ海軍の軽巡洋艦「サンフアン」から上陸用舟艇が手配され、病院船「ビネボレンス」に、イギリス軍やアメリカ軍の病人や怪我人などを収容していった。
 30日午前、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ/SCAP) の総司令官として、連合国の日本占領の指揮に当たるアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー大将も、専用機「バターン号」でフィリピンから厚木基地に到着した。
 一行は午後に日本軍が用意した専用車で横浜市内のホテルニューグランドに移り、宿を取った。
 続いてイギリス軍やオーストラリア軍、ニュージーランド軍、カナダ軍の占領軍と、中華民国軍、フランス軍、オランダ軍、ソ連軍などの他の連合国軍の代表団も到着した。

 降伏文書調印

 降伏文書調印式は9月2日に、東京湾(内の瀬水道中央部千葉県寄りの海域)に停泊中のアメリカ海軍戦艦「ミズーリ」艦上で、日本側全権代表団と連合国代表が出席して行われた。
 午前8時56分に「ミズーリ」艦上に日本側全権代表団が到着した。
 日本側代表団は、大日本帝国政府全権外務大臣重光葵、大本営全権参謀総長梅津美治郎陸軍大将、随員は終戦連絡中央事務局長官岡崎勝男、参謀本部第一部長宮崎周一陸軍中将、軍令部第一部長富岡定俊海軍少将(軍令部総長豊田副武海軍大将は出席拒否)、大本営陸軍部参謀永井八津次陸軍少将、海軍省出仕横山一郎海軍少将、大本営海軍部参謀柴勝男海軍大佐、大本営陸軍部参謀杉田一次陸軍大佐、内閣情報局第三部長加瀬俊一、終戦連絡中央事務局第三部長太田三郎らであった。
 先に到着していた連合国側全権代表団は、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、中華民国、アメリカ、フランス、オランダなど17カ国の代表団と、さらには8月8日に参戦し、15日の日本軍の停戦を無視して満洲や択捉島などで進軍を続けていたソビエト連邦の代表団も「戦勝国」の一員として臨席した。
 9時2分に日本側全権代表団による対連合国降伏文書への調印が、その後連合国側全権代表団による調印が行われ、9時25分にマッカーサー連合国軍最高司令官による降伏文書調印式の終了が宣言され、ここに1939年9月1日から足かけ7年にわたって続いた第二次世界大戦はついに終結した。

 しかし、そのとき甲板ではカナダ代表が署名する欄を間違えたことによる4ヶ国代表の署名欄にずれが見つかり、正式文書として通用しないとして降伏文書の訂正がなされていた。
 具体的には、連合国用と日本用の2通の文書のうち、日本用文書にカナダ代表のエル・コスグレーブ大佐が署名する際、自国の署名欄ではなく1段飛ばしたフランス代表団の欄に署名した。
 しかし、次の代表であるフランスのフィリップ・ルクレール大将はこれに気づかずオランダ代表の欄に署名、続くオランダのコンラート・ヘルフリッヒ大将は間違いには気づいたものの、マッカーサー元帥の指示に従い渋々ニュージーランド代表の欄に署名した。最後の署名となるニュージーランドのレナード・イシット少将もアメリカ側の指示に従い欄外に署名することとなり、結果的にカナダ代表の欄が空欄となった。
 その後各国代表は祝賀会の為に船室に移動したが、オランダ代表のヘルフリッヒ大将はその場に残り、日本側代表団の岡崎勝男に署名の間違いを指摘した。岡崎が困惑する中、マッカーサー元帥の参謀長リチャード・サザーランド中将は日本側に降伏文書をこのまま受け入れるよう説得したが、「不備な文書では枢密院の条約審議を通らない」と重光がこれを拒否したため、岡崎はサザーランド中将に各国代表の署名し直しを求めた。
 しかし、各国代表はすでに祝賀会の最中だとしてこれを拒否。結局、マッカーサー元帥の代理としてサザーランド中将が間違った4カ国の署名欄を訂正することとなった。
 日本側代表団はこれを受け入れ、9時30分に退艦した。

 さらに翌9月3日に、連合国軍最高司令官総司令部はトルーマン大統領の布告を受け、「占領下においても日本の主権を認める」としたポツダム宣言を反故にし、「行政・司法・立法の三権を奪い軍政を敷く」という布告を下し、さらに「公用語も英語にする」とした。
 これに対して重光外相は、マッカーサー連合国軍最高司令官に「占領軍による軍政は日本の主権を認めたポツダム宣言を逸脱する」、「ドイツと日本は違う。ドイツは政府が壊滅したが日本には政府が存在する」と猛烈に抗議し、布告の即時取り下げを強く要求した。
 その結果、連合国軍側は即時にトルーマン大統領の布告の即時取り下げを行い、占領政策はポツダム宣言の条件通りに日本政府を通した間接統治となった(連合国軍占領下の日本も参照)。

 一方、中四国はイギリス連邦占領軍が駐留することに決まり、また沖縄県を含む南西諸島および小笠原諸島は停戦時にすでにアメリカ軍の占領下ないし勢力下にあり、小笠原諸島は1968年まで、沖縄は1972年の本土復帰までアメリカの被占領の歴史を歩んだ。
 なお連合国軍は直ちに日本軍および政府関係者40人の逮捕令状を出し、のちに極東国際軍事裁判などで裁かれた。
 また中華民国や香港、フィリピン、マレー、シンガポールなどにいた日本軍人はそれぞれの現地で捕虜となり、その後B級並びにC級戦犯として、現地で裁判に掛るものが多かった。
 さらにソ連の捕虜になった日本軍将兵は、シベリア抑留などで強制就労にさせられ5万5千人が現地で死亡した。
 その後帰国してきた軍人も、赤化されているだけでなく瀬島龍三中佐のようにソ連軍のスパイ(スリーパー)として仕込まれているものも多かった。
 また民間人や軍属なども帰国の途に就いたが、自国領土の台湾や朝鮮、またマレーやインドシナなどからは比較的順調に行ったものの、中華民国や満州国からの帰国はソ連の占領下にあるなど混乱が多く、中国残留孤児など戦後の混乱でやむなく置いておかれるものも多かった。

 ▼占領軍による間接統治

 「厚木航空隊事件」のような反乱事件がいくつか起きたものの、日本国内、アジア各地に展開していた日本軍は、ほとんど抵抗らしい抵抗もなく約60日で武装解除された。
 満州、南樺太(サハリン)、千島列島などにいた日本軍兵士数10万人(86万人といわれる)は、ソ連軍によって武装解除後シベリアをはじめとするソ連領内に連れ去られ、1年から数年にわたる過酷な自然と劣悪な待遇の元で強制労働に服し、約6万8,000人が死亡した。
 日本は朝鮮半島を米ソに、台湾を中華民国に、南樺太及び千島列島及び歯舞・色丹をソ連に、「本州、北海道、九州及四国並びに吾等(連合国)の決定する小島」(ポツダム宣言)をイギリス軍とアメリカ軍によって占領されたが、同じ敗戦国のドイツとは違い、日本政府による統治が継続されたことから、イデオロギーが対立する複数の連合国による分割占領を免れた。

 ソ連は参戦後に釧路市と留萌町(現在の留萌市)の両都市と、それらを結ぶ線より北の北海道を占領する意向を8月15日に示したが、アメリカ合衆国大統領トルーマンが即座に拒否した。
 マッカーサーは、初め日本を直接に統治する軍政を布こうとし、9月3日にその旨布告しようとしていたが、前日にこの方針を知った日本政府の苦情を受け入れ、結局、日本政府を通じた間接統治の形をとることとした。
 このマッカーサーの突然の判断変更の背景事情としては、アメリカの対日政策立案を1944年暮れから手がけてSWNCC(スウンク;国務・陸軍・海軍調整委員会)が、1945年8月22日から31日にかけて起草した「降伏後におけるアメリカの初期の対日方針」の中で「最高司令官は・・・天皇を含む日本政府機構及諸機関を通じて其権限を行使すべし」、つまり間接統治が対日占領政策として最適であろうと分析していたことが上げられる。
 日本政府は、イギリス連邦占領軍とアメリカ軍を中心とした連合国軍による占領統治の下に置かれ、GHQが一連の戦後改革を連合国軍最高司令官の布告・命令・指示によって展開させた。
 1946年(昭和21年)11月3日に、大日本帝国憲法が改正された日本国憲法が公布され、1947年(昭和22年)5月3日に同憲法が施行された。

 占領の終了と日本の主権回復

 1951年7月20日、日本政府に講和会議出席の招請状が届いた。
 その10日前の7月10日には開城(ケソン)で朝鮮戦争の休戦会議が始まっていた。
 9月8日に、サンフランシスコ市内のオペラハウスで、サンフランシスコ平和条約が日本を含む49か国で調印され、日本の主権が回復した。

 本土復帰(ほんどふっき)は、第二次世界大戦における日本の降伏直後に日本政府から連合国軍(主にアメリカ軍)へ移された伊豆諸島、トカラ列島、奄美群島、小笠原諸島、および沖縄県の施政権が日本政府へ返還され、これら地域が日本の主権下に復帰したことをいう。

 講和会議に招かれた52か国のうち、ソ連とチェコスロバキア、ポーランドは、米英などとの意見の対立から調印を拒否した。
 また、戦後独立したばかりで独立国家として日本と対戦していなかったインド・ビルマ・ユーゴスラビアは招請に応じなかった。
 また、国共内戦の結果台湾へ逃れた中華民国と、建国されたばかりで日本と交戦していない中華人民共和国、枢軸国として日本の同盟国であったドイツを引き継いだ西ドイツと東ドイツ、イタリアは招請されなかった。
 なお、出来たばかりか日本と交戦していない大韓民国はなぜか会議への招請を主張したが、大戦当時の朝鮮半島は日本領土であるうえに、朝鮮人の多くが自主的に日本軍や満洲軍の将兵として参戦しており(のちの朴正煕大統領など)、臨時政府を承認されなかったことを理由に、当然のことながらアメリカから招請を拒否された。
 講和条約が発効し、連合国軍による日本占領が終結したのは、1952年4月28日であった。
 しかしながら、横井庄一や小野田寛郎に代表されるように、少なからぬ日本兵が終戦の伝達が困難な環境で潜伏していたために終戦後も戦闘状態を長期継続していた(ただし、大半は、数年で帰還した)。
 旧日本軍兵士や満蒙開拓青少年義勇軍たちの中には、八路軍や国民政府軍に強制的に参加させられ、国共内戦に従軍した者もあった。
 また、自ら除隊し、インドネシア独立戦争や、ベトナム独立戦争に身を投じる者もいた。

 「終戦の日」はいつか

 伝統的な戦時国際法において休戦協定の合意は口頭による同意によれば良く文書の手交を要件としない。
 このため休戦が協定された日と休戦協定が外交文書(降伏文書)として固定された日は異なり、実際に各地の戦線で休戦が合意された日もまた異なる。
 そのため現実に戦闘が停止された日付(あるいは現地日本軍が降伏した日、あるいは降伏式を執り行った日付)には前後があり、また日本政府が停戦を通告した日(最初のものは短波ラジオを通じた8月10日)、連合国の各司令部により停戦の事実が確認された日などにも前後関係がある。
 今日、「終戦の日」とは、昭和天皇が「玉音放送」によって、日本政府がポツダム宣言の受諾(=日本軍の降伏表明)を連合国側に通告したことを、国民に放送を通じて公表した1945年(昭和20年)8月15日とするのが一般的である。
 一方、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは、前日の8月14日であり、玉音放送によって読み上げられた「終戦の詔書」の日付もその日となっている。

 日本政府及び連合国代表が降伏文書に調印した日は、1945年(昭和20年)9月2日であり、連合国ではこの日を「対日戦勝記念日」としている例が多いが、中華民国や中華人民共和国、旧ソビエト連邦のように9月3日とする国もある。
 なお国際条約として日本国が交戦国と正式に平和条約などを締約し戦争状態が終了した日は日本国との平和条約が発効した1952年4月28日、日本国と中華民国との間の平和条約が発効した1952年8月5日、日ソ共同宣言が発効した1956年12月12日である(ただし日ソ共同宣言は戦争状態の終了を確認した条約であって平和条約ではない)。

 〔ウィキペディアより引用〕