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in the name of ending the war Chord : 11 マンハッタン計画③

2023-08-24 21:00:00 | 日記

 マンハッタン計画③

 ▼原子爆弾投下都市の選定経緯

 広島市と長崎市が原子爆弾による攻撃目標となった経緯は、日本の各都市への通常兵器による精密爆撃や焼夷弾爆撃(日本本土空襲)が続けられる中で、以下のようなものであった。
 1943年5月5日の軍事政策委員会で最初の原子爆弾使用について議論がなされ、「トラック島に集結する日本艦隊に投下するのが適当」というのが大方の意見であった。
 1944年11月24日から翌3月9日は通常兵器による空爆第一期で、軍需工場を主要な目標とした精密爆撃が行われた。ただし、カーチス・ルメイ陸軍少将による焼夷弾爆撃も実験的に始められていた。
 ついで、1945年3月10日から6月15日は通常兵器による空爆第二期で以下のような大都市の市街地に対する焼夷弾爆撃が行われた。

 ・1945年
  3月10日:東京大空襲
  3月12日:名古屋大空襲
  3月13日:大阪大空襲
  3月17日:神戸大空襲

 1945年4月12日のルーズベルトの急死により、副大統領であったトルーマンが大統領に就任した。
 ルーズベルトの原子爆弾政策を継いだトルーマンに、「いつ・どこへ」を決定する仕事が残された。
 4月25日にスティムソン陸軍長官と、マンハッタン計画指揮官グローヴスがホワイトハウスを訪れ、原爆投下に関する資料を提出した。
 しかしこの際トルーマンは、「資料を見るのは嫌いだ」と語ったという。
 1945年4月中旬から5月中旬に、沖縄戦を支援するため九州と四国の飛行場を重点的に爆撃し、大都市への焼夷弾爆撃は中断された。
 このため京都大空襲が遅れた。
 1945年4月27日、陸軍の第1回目標選定委員会 (Target Committee) において以下の決定がなされた。
 これはアメリカ政府に対しては極秘の元に行われた。
 日本本土への爆撃状況について、第20航空軍が「邪魔な石は残らず取り除く」という第一の目的をもって、次の都市を系統的に爆撃しつつあると報告した。
 東京都区部、横浜市、名古屋市、大阪市、京都市、神戸市、八幡市、長崎市。
 次の17都市および地点が研究対象とされた。
 東京湾、川崎市、横浜市、名古屋市、京都市、大阪市、神戸市、広島市、呉市、下関市、山口市、八幡市、小倉市、福岡市、熊本市、長崎市、佐世保市。
  1945年5月10日と11日の第2回目標選定委員会がロスアラモスのオッペンハイマー博士の執務室で開かれ、8月初めに使用予定の2発の原子爆弾の投下目標として、次の4都市が初めて選定された。

 1.京都市:AA級目標
 2.広島市:AA級目標
 3.横浜市:A級目標
 4.小倉市:A級目標

 このとき以下の3基準が示された。

 ・直径3マイルを超える大きな都市地域にある重要目標であること。

 ・爆風によって効果的に破壊しうるものであること。

 ・1945年8月まで爆撃されないままでありそうなもの。

 1945年5月28日、第3回目標選定委員会が開かれた。
 京都市、広島市、新潟市に投下する地点について重要な決定がされ、横浜市と小倉市が目標から外された。

 ・投下地点は、気象条件によって都度、基地で決定する。

 ・投下地点は、工業地域の位置に限定しない。

 ・投下地点は、都市の中心に投下するよう努めて、1発で完全に破壊する。

 これらの原子爆弾投下目標都市への空爆の禁止が決定された。
 禁止の目的は、原爆のもたらす効果を正確に測定把握できるようにするためである。
 これが目標となった都市に「空襲がない」という流言を生み、一部疎開生徒の帰郷や、他の大都市からの流入を招くこととなった。
 1945年5月29日、目標から外された翌日に横浜大空襲が行われた。
 なお、この横浜大空襲は、第3回目標選定委員会で横浜が目標から外されたから行われたものでなく、横浜に対して通常空襲を行うために、原子爆弾の投下目標から外したものと思われる。
 1945年6月1日、スティムソン陸軍長官を委員長とする政府の暫定委員会は、 原子爆弾は日本に対してできるだけ早期に使用すべきであり、 それは労働者の住宅に囲まれた軍需工場に対して使用すべきである。
 その際、原子爆弾について何らの事前警告もしてはならない、と決定した。
 なお原子爆弾投下の事前警告については、BBC(ニューデリー放送)やVOA(サイパン放送)で通告されていたという説もあるが、確認されていない。

 この経過の中で、4つの目標都市のうち京都が次の理由から第一候補地とされていた。

 ・人口100万を超す大都市であること。

 ・日本の古都であること。

 ・多数の避難民と罹災工業が流れ込みつつあったこと。

 ・小さな軍需工場が多数存在していること。

 ・原子爆弾の破壊力を正確に測定し得る十分な広さの市街地を持っていること。

 しかし、フィリピン総督時代に京都を訪れたことのあるスティムソン陸軍長官の強い反対にあったことや、戦後、「アメリカと親しい日本」を創る上で、京都には千数百年の長い歴史があり、数多くの価値ある日本の文化財が点在、これらを破壊する可能性のある原子爆弾を京都に投下したならば、戦後、日本国民より大きな反感を買う懸念があるとの観点から、京都への原子爆弾投下は問題であるとされた。
 1945年6月14日、京都市が除外され、目標が小倉市、広島市、新潟市となる。
 しかし京都への爆撃禁止命令は継続された。
 1945年6月16日から終戦まで、通常兵器による空爆第三期となり、中小都市への焼夷弾爆撃が行われた。
 1945年6月30日、アメリカ軍統合参謀本部がダグラス・マッカーサー陸軍大将、チェスター・ニミッツ海軍大将、ヘンリー・アーノルド陸軍大将宛に、原子爆弾投下目標に選ばれた都市に対する爆撃の禁止を指令。
 同様の指令はこれ以前から発せられており、ほぼ完全に守られていた。

 新しい指令が統合参謀本部によって発せられない限り、貴官指揮下のいかなる部隊も、京都・広島・小倉・新潟を攻撃してはならない。 右の指令の件は、この指令を実行するのに必要な最小限の者たちだけの知識にとどめておくこと。

 1945年7月3日、それでもなお、京都市が京都盆地に位置しているので原子爆弾の効果を確認するには最適として投下を強く求める将校、科学者も多く存在し、その巻き返し意見によって再び京都市が候補地となった。
 1945年7月16日、トリニティ実験。日の出前の早朝5時30分(現地時間、グリニッジ時間:11:29:21 GMT)、アメリカ ニューメキシコ州 アラモゴードから約80Km離れた半砂漠地帯で、グローブス少将など軍関係者やオッペンハイマーを代表とする科学者たちが見守るなか、プルトニウムを使った原子爆弾の爆発実験が極秘裏に行われ、人類史上初めて成功した。
 1945年7月20日、パンプキン爆弾による模擬原子爆弾の投下訓練が開始された。
 1945年7月21日、ワシントンのハリソン陸軍長官特別顧問(暫定委員会委員長代行)からポツダム会談に随行してドイツに滞在していたスティムソン陸軍長官に対して、京都を第一目標にすることの許可を求める電報があったが、スティムソンは直ちにそれを許可しない旨の返電をし、京都市の除外が決定した。

 1945年7月24日、京都市の代わりに長崎市が、地形的に不適当な問題があるものの目標に加えられた。
 スティムソン陸軍長官の7月24日の日記には「もし(京都の)除外がなされなければ、かかる無茶な行為によって生ずるであろう残酷な事態のために、その地域において日本人を我々と和解させることが戦後長期間不可能となり、むしろロシア人に接近させることになるだろう。 (中略)
 満州でロシアの侵攻があった場合に、日本を合衆国に同調させることを妨げる手段となるであろう、と私は指摘した。」とあり、アメリカが戦後の国際社会における政治的優位性を保つ目的から、京都投下案に反対したことが窺える。
 トルーマン大統領のポツダム日記7月25日の項にも「目標は、水兵などの軍事物を目標とし、決して女性や子供をターゲットにする事が無いようにと、スティムソンに言った。
 たとえ日本人が野蛮であっても、共通の福祉を守る世界の指導者たるわれわれとしては、この恐るべき爆弾を、かつての首都にも新しい首都にも投下することはできない。
 その点で私とスティムソンは完全に一致している。目標は、軍事物に限られる。」とある。

 1945年7月25日、マンハッタン計画の最高責任者グローヴスが作成した原爆投下指令書が発令される(しかし、それをトルーマンが承認した記録はない)。
 ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた。
 1945年8月2日、第20航空軍司令部が「野戦命令第13号」を発令し、8月6日に原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
 攻撃の第1目標は「広島市中心部と工業地域」(照準点は相生橋付近)、予備の第2目標は「小倉造兵廠ならびに同市中心部」、予備の第3目標は「長崎市中心部」であった。
 1945年8月6日、広島市にウラニウム型原子爆弾リトルボーイが投下された(広島市への原子爆弾投下)。

 1945年8月8日、第20航空軍司令部が「野戦命令第17号」を発令し、8月9日に2回目の原子爆弾による攻撃を行うことが決定した。
 攻撃の第1目標は「小倉造兵廠および市街地」、予備の第2目標は「長崎市街地」(照準点は中島川下流域の常盤橋から賑橋付近)であった。
 1945年8月9日、第1目標の小倉市上空が視界不良であったため、第2目標である長崎市にプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下された(長崎市への原子爆弾投下)。
 小倉が視界不良であった理由には天候不良のほか、八幡大空襲で生じた煙によるなどの説がある。

 ▼模擬原子爆弾「パンプキン」の投下訓練

 1945年7月20日以降、第509混成部隊は長崎に投下する原子爆弾(ファットマン)と同形状の爆弾に通常爆薬を詰めたパンプキン爆弾(総重量4,774キログラム、爆薬重量2,858キログラム)の投下訓練を繰り返した。
 すなわち、原子爆弾の投下予行演習である。
 テニアン島から日本列島の原子爆弾投下目標都市まで飛行して都市を目視観察した後に、その周辺の別な都市に設定した訓練用の目標地点に正確にパンプキンを投下する練習が延べ49回、30都市で行われた。
 パンプキン練習作戦は、1945年7月24日、7月26日、7月29日、8月8日及び8月14日と終戦直前まで行われた。

 ▼原子爆弾の輸送とインディアナポリス撃沈事件

 パンプキン爆弾による訓練に並行して、完成した原子爆弾を部品に分けての輸送が行われた。
 損傷の修理のために戦列を離れていたアメリカ海軍のポートランド級重巡洋艦インディアナポリスは、原子爆弾運搬の任務を与えられ1945年7月16日にサンフランシスコを出港し、7月28日にテニアン島に到着した。
 また、アメリカ陸軍航空隊(現・アメリカ空軍)のダグラスC-54スカイマスター輸送機がウラン235のターゲットピースを空輸した。
 この原子爆弾の最終組立は、テニアン島の基地ですべて極秘に行われた。
 このインディアナポリスは、帰路の1945年7月30日フィリピン海で、橋本以行海軍中佐が指揮する日本海軍の伊号第五八潜水艦の魚雷によって撃沈されている(インディアナポリス撃沈事件)。
 この潜水艦は、当時、特攻兵器である人間魚雷回天を搭載しており、回天隊員から出撃要求が出されたが、「雷撃でやれる時は雷撃でやる」と通常魚雷で撃沈した。インディアナポリスの遭難電報は無視され、海に投げ出された乗員の多くが疲労・低体温症・サメの襲撃にあって死亡した。
 そのため、原子爆弾には「インディアナポリス乗員の思い出に」と白墨(チョーク)で記された。
 インディアナポリス艦長チャールズ・バトラー・マクベイ3世大佐はその後軍法会議に処せられたが、自艦を戦闘で沈められたために処罰された艦長は珍しい。
 第二次世界大戦後、米軍は原爆輸送の機密漏洩を疑い、橋本潜水艦長を長く尋問したが、その襲撃は偶然であった。インディアナポリスがテニアン島への往路に撃沈されていれば、1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下は不可能となっていた。

 ▼日本の対応

 1945年当時、大本営と大日本帝国陸軍中央特種情報部(特情部)は、サイパン島方面のB-29部隊について、主に電波傍受によってその動向を24時間体制で監視していた。
 大本営陸軍部第2部第6課(情報部米英課)に所属していた堀栄三が後に回想したところによれば、第509混成部隊がテニアン島に進出したことや、進出してきたB-29の中の一機が飛行中に長文の電報をワシントンに向けて打電したこと(このようなことは通常発生しない)、それ以前からサイパン方面に存在していた他のB-29部隊が基本的にV400番台、V500番台、V700番台のコールサインを用いていたのと異なり、第509混成部隊がV600番台のコールサインを使用していたことから、東京都杉並区にあった陸軍特殊情報部(現在、高井戸にある社会福祉法人浴風会本館内)では新部隊の進出を察知していた。
 その後1945年6月末ごろから、この「V600番台」のB-29がテニアン島近海を飛行し始め、7月中旬になると日本近海まで単機または2、3機の小編隊で進出しては帰投する行動を繰り返すようになったことから、これらの機体を特情部では「特殊任務機」と呼び警戒していた。
 しかし、これらのB-29が原爆投下任務のための部隊であったことは、原子爆弾投下後のトルーマンの演説によって判明したとのことであり、「特殊任務機」の目的を事前に察知することはできなかった。
 だが、事態が判明した後の長崎原爆投下を阻止しようとしなかったのかについては不明で、付近に当時日本軍の最新鋭機の一つである紫電改を装備した第三四三海軍航空隊が待機していたのに関わらず、海軍が部隊に出撃命令を下さなかったのかについては帝国陸軍中央特種情報部の高官が情報を握りつぶし、情報が海軍へ伝えられなかったからだと当時の関係者はインタビュー[要文献特定詳細情報]で答えている。

 そもそも、日本軍は当時日本でも原子爆弾開発が行われていたにもかかわらず、同盟国のドイツやイタリアから亡命してきた科学者たちによるアメリカにおける原子爆弾開発の進捗状況をほとんど把握しておらず、およそ特情部においては1945年「7月16日ニューメキシコ州で新しい実験が行われた」との外国通信社の記事が目についたのみであった。
 もちろん、これはトリニティ実験を指した報道であったのであるが、実験直後の時点ではその内容は公開されておらず、当時の日本軍にその内容を知る術はなかった。
 それを踏まえ、堀は「原爆という語は、その当時かけらほどもなかった」と語っている。
 また、特情部では、当時スウェーデンの日本大使館に勤務していた駐在武官を通じて経由して入手したアメリカ海軍のM-209暗号装置を用いた暗号解読も進めていたが、この暗号解読作業において「nuclear」(原子核)の文字列が現れたのが、広島と長崎に原子爆弾が投下された直後の8月11日のことであった。
 当初は、軍部(主に陸軍)は新爆弾投下に関する情報を国民に伏せていたが、広島及び長崎を襲った爆弾の正体が原爆であると確認した軍部は報道統制を解除。
 11日から12日にかけて日本の新聞各紙は広島に特派員を派遣し、広島を全滅させた新型爆弾の正体が原爆であると読者に明かした上、被爆地の写真入りで被害状況を詳細に報道した。
 これによって、当時自国でも開発が進められていたもののその詳細は機密扱いであったこともあり、一般にはSF小説、科学雑誌などで「近未来の架空兵器」と紹介されていた原爆が発明され、日本が攻撃を受けたことを日本国民は初めて知ったのである。

 なお、この原爆報道によって、新潟県は8月11日に新潟市民に対して「原爆疎開」命令を出し、大半の市民が新潟市から脱出し新潟市は無人都市になった。その情報は8月13日付の讀賣報知(現・読売新聞)に記載された。
 これは新潟市も原爆投下の目標リストに入っているらしいという情報が流れたからである。
 原爆疎開が行われた都市は新潟市だけであった。また東京でも、単機で偵察侵入してきたB-29を「原爆搭載機」、稲光を「原爆の閃光」と誤認することもあった。
 1945年8月15日終戦の日の午前のラジオ放送で、仁科芳雄博士は原爆の解説を行った。
 さらに8月15日正午、戦争の終結を日本国民に告げるために行われたラジオ放送(玉音放送)で、原爆について「敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ無辜ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル(敵は新たに残虐な爆弾を使用して、罪もない者たちを殺傷し、悲惨な損害の程度は見当もつけられないまでに至った)而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ(それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。)」と詔があった(第二次世界大戦中、日本の軍部にも二つの原子爆弾開発計画が存在していた。陸軍の「ニ号研究」と海軍のF研究である)。
 正確な犠牲者数などは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ / SCAP) 占領下では言論統制され、サンフランシスコ講和条約発効で日本が主権を回復した1952年に初めて報道された。

 ◆新型爆弾への心得

 原子爆弾が広島・長崎に投下された後、日本の報道機関は号外を出し、原子爆弾への対策とその心得を国民へ伝達している。

 東京朝日新聞 昭和二十年八月十一日付特報(送り仮名等は実際に掲載されたものに則っている) 新型爆彈への心得 防空總本部發表 橫穴式防空壕が有效 初期防火・火傷に注意 國際法を無視した廣島の新型爆彈を、現地に出張、視察した陸海軍および防空總本部の專門家の調査に基いて新型爆彈に對する心得を防空總本部から十一日發表した、なほさきに二回にわたつて發表された注意は有效であるから今回の左記注意を追加すれば一層完璧である。

 一、落下傘やうのものが降下するから目撃したら確實に待避すること
 二、鐵筋コンクリート造りの建物は安全度が高いからこれを有效に利用すること しかし窓ガラスは破壞するからこれがための負傷を注意すること、壁、柱型、窓下、腰壁を待避所とすると有效である
 三、破壞された建物から火を發するから初期防火に注意すること
 四、傷害は爆風によるものと火傷であるがそのうちでも火傷が多いから火傷の手當を心得えておくこと、もつとも簡單な火傷の手當法は油類を塗るか鹽水で濕布をするがよい
 五、横穴式防空壕は堅固な待避壕と同樣に有效である
 六、白い衣類は火傷を防ぐために有效である(但し白い着衣は小型機の場合は目標となり易い、よく注意のこと)
 七、待避壕の入口は出來るだけふさぐのがよろしい 八、蛸壺式防空壕は板一枚でもしておくと有效である

 ▼第三の原子爆弾投下準備

 終戦直前、アメリカは出来る限りいくつかの原子爆弾の製造を順次進めており、長崎への原子爆弾投下後も、第三の原爆を落とす準備に入ろうとしていた。
 8月15日に日本が降伏を表明するわずか数時間前(米国時間14日)、トルーマンは英国外交官を前に「第三の原爆投下を命令する以外に選択肢はない」と漏らしていたが、日本が降伏したことで第三の原子爆弾が日本に投下されることはなかった。
 仮に第三の原子爆弾の投下命令が下った際、その候補地は小倉市、京都市、新潟市など諸説あるが、1945年8月14日に愛知県で行われた7発のパンプキン爆弾の投下は、3発目の原子爆弾の投下訓練であったとされ、いずれも爆撃機が京都上空を経由した後に愛知県に投下していることから、第三の原子爆弾の標的は京都市であったと考えられる理由の一つとなっている。
 また、プルトニウムコアの輸送が遂行されて原爆を完成させた後、8月19日か20日に東京に投下する予定であったという情報もある。
 また広島市・長崎市に投下された新型爆弾が、新潟市にも落とされるとの畠田昌福新潟県知事の見解により、「罪の無い市民を皆殺しにしようとする敵の作戦に肩透かしをくらわせる」と述べた上で、新潟市の中心から5里(約20キロメートル)以上疎開することを求めた布告を8月11日に出したため、新潟市の中心部が終戦直後まで無人状態になった。
 なお、新潟への投下については出撃基地のテニアン島から遠い上、目標の都市規模が小さすぎること等から、8月6日、8月9日共に予備投下目標にすら選ばれなかったという。

   〔ウィキペディアより引用〕