第2次世界大戦関係の郵便史研究で著名な荻原氏から、1941年のクリッパー便に関し、いろいろとご教示をいただきました。
それでわかったことは、
・マニラ-香港間のシャトル便は1941年9月22日開始
・マニラ-香港間のシャトル便は、原則週2便ではあるが、実際のフライトは週1便のこともあれば週3便飛んでいることもある。
・マニラ-香港間のシャトル便が開始されても、11月初めまで、香港-サンフランシスコ間のクリッパー便が飛んでいる。
・11月にバタビア-マニラ間をKNILM臨時便が飛んでいるので、この便で香港からオランダ領東インドへ運ばれた航空便があるかもしれない。
・マニラ-香港間のシャトル便の12月の運行は次のとおり
マニラ12月3日発、同日香港着、12月4日香港発、同日マニラ着、マニラ12月7日発、同日香港着
以前取り上げたカバーをもう一度掲載してみます。
(上のカバー)香港ビクトリア局1941年12月1日受付でカリフォルニア宛航空便、12月8日の開戦時香港にあった郵便物で香港局の倉庫に隠された郵袋7袋分に入れられて、戦後逓送されたもの。
(下のカバー)フィリッピン・Benguet1941年12月2日差出、バギオ、マニラ中継、ラングーン経由で昆明で終戦まで留置、戦後香港着、誤って香港で4年間留置印が押されたとカタログに記載。
具体的なシャトル便の運行状況がわかったので、上のカバーから次のようなケースが考えられる。
・12月4日の香港発便には、郵袋を搭載しなかった(何故か?)。
または
・12月4日の香港発便には、アメリカ方面行き航空便は、マニラでの乗り継ぎ便がないため、フィリッピン行き航空便しか搭載しなかった。その場合、12月8日香港発(予定)便ではなく、さらに次の便へアメリカ方面行き航空便を搭載するのが、Philippin Clipperの運行スケジュールから適当。
または
・手違いでこのカバーは、12月4日の香港発便に搭載できなかった(12月3日香港ビクトリア局引き受けカナダ宛航空便で、そのまま香港に留置されたものを確認しているので、考えにくいか)。
また、下のカバーですが、カタログの説明とは異なりますが、
12月7日のマニラ発便に搭載されたが、12月8日の開戦で宛先に配達できず、そのまま4年間留置され、戦争終了後、(宛先が消されていることから)昆明経由の航空便で返送された可能性はないだろうか?
12月の香港局受付のデータを集積しているが、なかなか難しい。
それでわかったことは、
・マニラ-香港間のシャトル便は1941年9月22日開始
・マニラ-香港間のシャトル便は、原則週2便ではあるが、実際のフライトは週1便のこともあれば週3便飛んでいることもある。
・マニラ-香港間のシャトル便が開始されても、11月初めまで、香港-サンフランシスコ間のクリッパー便が飛んでいる。
・11月にバタビア-マニラ間をKNILM臨時便が飛んでいるので、この便で香港からオランダ領東インドへ運ばれた航空便があるかもしれない。
・マニラ-香港間のシャトル便の12月の運行は次のとおり
マニラ12月3日発、同日香港着、12月4日香港発、同日マニラ着、マニラ12月7日発、同日香港着
以前取り上げたカバーをもう一度掲載してみます。
(上のカバー)香港ビクトリア局1941年12月1日受付でカリフォルニア宛航空便、12月8日の開戦時香港にあった郵便物で香港局の倉庫に隠された郵袋7袋分に入れられて、戦後逓送されたもの。
(下のカバー)フィリッピン・Benguet1941年12月2日差出、バギオ、マニラ中継、ラングーン経由で昆明で終戦まで留置、戦後香港着、誤って香港で4年間留置印が押されたとカタログに記載。
具体的なシャトル便の運行状況がわかったので、上のカバーから次のようなケースが考えられる。
・12月4日の香港発便には、郵袋を搭載しなかった(何故か?)。
または
・12月4日の香港発便には、アメリカ方面行き航空便は、マニラでの乗り継ぎ便がないため、フィリッピン行き航空便しか搭載しなかった。その場合、12月8日香港発(予定)便ではなく、さらに次の便へアメリカ方面行き航空便を搭載するのが、Philippin Clipperの運行スケジュールから適当。
または
・手違いでこのカバーは、12月4日の香港発便に搭載できなかった(12月3日香港ビクトリア局引き受けカナダ宛航空便で、そのまま香港に留置されたものを確認しているので、考えにくいか)。
また、下のカバーですが、カタログの説明とは異なりますが、
12月7日のマニラ発便に搭載されたが、12月8日の開戦で宛先に配達できず、そのまま4年間留置され、戦争終了後、(宛先が消されていることから)昆明経由の航空便で返送された可能性はないだろうか?
12月の香港局受付のデータを集積しているが、なかなか難しい。
下のカバーのカタログ説明には、昆明でそのまま終戦まで留め置かれたとあり、昆明の日付印がカバーの裏面に押されているとなっています。確かWebbの本では、not opened by censor印は、終戦後にも使われたことになっていたと思います。何分、カバーは切手が脱落しているようですし、裏面の写真がないので、カタログの説明が正しいのかどうかわかりませんが。