石走る淡海国のささなみの大津宮に天の下知らしめしけむ天皇
「近江の荒都を過ぎる時の柿本朝臣人麻呂の作る歌」の反歌は、有名ですね。今日は、「ささなみ」のに注目してみましょうか。上の反歌は、30・31挽歌です。
30 楽浪の思賀(しが)の辛崎幸くあれど 大宮人の船待ちかねつ
31 左散難弥乃(ささなみの)志我の大わだ淀むとも 昔の人に亦もあはめやも
ささなみの志賀の辛崎はずっとそのままであるのに、昔日の大宮人の船はいくら待っても来ることはない。
ささなみの志賀の大わだはゆったりと淀んでいる。が、昔ここで船を乗り降りした人に会うことはない。
人麻呂が詠んだ「ささなみの志賀」は、多くの人に感銘を与えたのでしょう。持統天皇がほめたに違いありません。だからこそ、他の歌人もこぞって「ささなみの志賀」を詠んだのでしょう。32,33番歌には、高市古人(黒人)が詠んだ「ささなみの滋賀」の歌が置かれています。
高市古人(黒人)近江旧都を感傷して作る歌
32 古(いにしへ)の人にわれあれや楽浪のふるき京(みやこ)を見れば悲しき
33 楽浪の国つみ神の浦さびて荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
高市古人は柿本人麻呂の歌に感動したのでしょう。追和するように「近江の荒都」を詠みました。
わたしが注目したいのは、持統天皇の御代の歌は、天皇御製歌「春過ぎて」の後は、人麻呂の「荒都を過ぎる歌」29・30・31番歌になり、続いて高市古人の32・33番歌となり、次は、川嶋皇子が「有間皇子を偲ぶ結び松」を詠んだ歌となる事です。川嶋皇子の次には「阿閇皇女が夫の草壁皇子を偲ぶ歌」となっていて、すべてが過去を思う歌です。
29~35番歌まで、持統天皇の新しい御代を寿ぐ歌はなく「古を追慕し追悼する歌」が続くのです。
これは何故でしょうか。なぜに、過去をこれほど懐かしむのか、慕い続けるのか、不思議に思いませんか? 34・35番歌は皇子と皇女の歌ですが、二人は共に天智天皇の子どもですから、異母兄弟なのです。裏を返せば、所縁の歌と人を並べてこぞって天智天皇を偲んでいる編集の仕方なっているようですね。よくよく考えてみると、持統天皇の「天の香具山」こそ、舒明天皇(天智の父)と天智天皇が詠んだ「神山」だったではありませんか。香具山を神山として詠んだのは、2番歌の「国見歌」と13番歌の「三山歌」でしたね。「持統天皇は初めから、天智朝を思っているのです。
紀伊国に幸す時、川嶋皇子の作らす歌
34 白波の濱松が枝の手向け草 幾代までにか年の経ぬらむ
(日本紀に、朱鳥四年庚寅秋九月、天皇紀伊国に幸すというなり)
勢能山(せのやま)を越ゆる時、阿閇(あへ)皇女の作らす歌
35 これやこの倭にしては我戀ふる木路(きじ)に有りとふ名に負う勢能山
これらの歌は、既に紹介しています。
驚くべきことは、持統天皇の御代は、天智天皇を思い出し追悼することで始まったと云うことです。それを終えて、やっと36番歌「吉野宮に幸す時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」となって、持統天皇を寿ぐ歌になるのです。
万葉集の歌の並びは、見逃せませんね。
「ささなみの志賀」にせまりたかったけれど、話が反れました。「ささなみの」は他の時間にまわしましょう。
また、お会いします。
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