28 宇治の都を詠んだ額田王
万葉集の女流歌人、額田王。その美しさと知性は大海人皇子の心を射止め、十市皇女の母となったのでした。万葉集でも巻一の7,8,9番歌は額田王の作となっています。
その最初の歌が、「宇治のみやこ」の歌です。宇治若郎子につながるような歌を額田王も詠んでいたのです。人麻呂の「宇治若郎子の宮処」と「宇治のみやこ」二つの歌の『宇治』にはどんな共通点があるのでしょうか。
額田王の歌(または皇極上皇の歌ともいう)
7 金野の 美草刈葺き やどれりし 兎道の宮子の かりほし念ほゆ
あきののの みくさかりふき やどれりし うじのみやこの かりほしおもほゆ
「金」とは秋のことです。中国の五行説に基づいて秋を表した文字です。
秋の野で草を刈り取って屋根を葺き、仮廬をお作りになって、あの方が宿となさった、あの宇治の都の仮廬をずっと思い続けている。
額田王が詠んだ宇治の宮子とはどこでしょう。
宇治に都があったことはなく場所は不明です。たぶんいずれかの天皇の行宮があったのだろうとされています。(ただ、都という場合は極位についた方の宮殿のある場所ですから、何処でも都というわけにはいかないでしょう。)
宇治若郎子に所縁の宮であれば、額田王も皇子の悲劇を詠んだと思われます。有間皇子を宇治若郎子に擬して、牟婁温泉に護送された時に草を刈り取って仮廬とした、あの悲劇の旅を詠んだのだとしたら、どうでしょう。
すると、歌の意味も変わりますね。…秋が来ると私は思い出す…となるのです。
あの秋の出来事、もう寒くなっていたのに野宿のために草を刈り仮廬の屋根を葺かれた、高貴な方にはお辛い旅の宿であったろうに。秋になると、宇治の若郎子のように命を絶たれたあの方の、最後の宮室であった仮廬を思い出してしまう。
あの方らしく凛々しかったというご最後、あの方のことは生涯忘れることはないだろう。「仮廬しおもほゆ」とは深い感慨を持って偲ぶことです。
額田王がこのように詠んだとしたら、額田王はどういう人生を歩んだというのでしょうか。天武天皇(大海人皇子)の皇女を生みながら、天智天皇に仕え、天智天皇崩御後の葬送儀礼の最後まで務め、壬申の乱後は娘(十市皇女)と飛鳥へ戻ったという人です。
「宇治のみやこ」の歌には、額田王の思いが溢れていると思います。
そして、額田王も有間皇子を偲んだのです。
額田王の終焉の地と伝わる粟原寺(おうばらじ)の後です。
額田王は、何故かこの寺を草壁皇子の菩提を弔うために藤原大嶋の意志を継いで建立しました。
この話は、また後で。
付け加えです。
上記の歌には「山上憶良大夫の類聚歌林にただすに」として、「一書には戊申の年に比良の宮に幸す時の大御歌という」とあります。大御歌とは、天皇の歌と云うことです。額田王の歌には「或は天皇の御製歌」と脚注がついている歌が三例あるのです。伊藤博の「万葉集釋注」によると、万葉集中には四例しかないのに、そのうち三例が額田王の歌なのです。額田王が斉明天皇の傍近くに居たということなのでしょうか。
また、万葉集釋注によると、『「思ほゆ」で結んだ回想の歌の最古の例である。(略)過去の想い出を歌材にして、「思ほゆ」と力強く据えた作は、この歌がはじめてである。』ということです。
人麻呂の歌には「大王の遠の朝廷とあり通う嶋戸を見れば神代し思ほゆ」とおもほゆが使われていますよね。
更に、この歌を詠んだ時の額田王の年齢ですが、孫の葛野(かどの)王が大宝元年(701)に三十七歳であったことから逆算して、歌が詠まれた大化四年の額田王は十八,九歳だったことになるそうです。すると、十市皇子を生んだ後ぐらいですかね。
となると、この歌は大化四年ではなく、やはり有間皇子事件の後と考えたがいいかなあと思うのです。
では、また
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