10/4日のガーナ戦に向けて
サッカー日本代表のオシム監督の会見に出て来た
キーワードが「ポリバレントな選手」である。
「ポリバレント」とは、辞書にもなかなか出ていないのだが、
検索してみた内容を総合すると、
「多義的な」という意味を持っている言葉らしい。
化学にも良く出てくる用語だとオシム監督も言っていた。
そこから、「複数の役割(能力)を使いこなす」
という意味に使われている。
これは、とても大切な言葉だ。
サッカーに、だけではない。
「組織論」にとってである。
ぼくは、サッカーと言う競技が持っている本質のひとつに、
「組織」として、いかに結果をだすか、というものがある
と思っている。
それが面白くて、20年前にこの競技の深みにはまった。
見れば見るほど、失敗も成功も、「組織」を考える
ヒントに溢れている。
当てはめて考えるだけで、とても身近な様々な事を
解きあかすヒントがつまっている。
それが僕にとってのサッカーだ。
それはさておき、今回はサッカーの話ではない。
現代のサッカーにおいて、「ポリバレントな選手の重要性」
が声高に言われるのと同様に、どんな集団においても、
「ポリバレントな能力」を持ったものが、「キーマン」
になるのが現代の組織だと思うのだ。
僕はイラストレーター,アートディレクターと複数の職務を
こなして来たから、とくにそう思うのかもしれないが、
「ポリバレントな能力」こそが、「個人化して行く社会」
を集団的能力において、維持するために、最も重要だと
考えている。
違う考えの方も多いかもしれないが、
あえて言うと、時として、相手の職域を侵して
いく事も必要な事だと考えているということだ。
(尊重すべきはした上でだが。)
例えば、これまで日本の「会社組織」は、「分業」し「職能化」
を進める中で、より多くの人々を
組織の中に内包できる社会構造を作って来た。
言い方を変えれば、「護送船団方式」とも「日本的企業」
とも言われる、集団的組織力による、総合的なレベルアップ
を図って来たのだ。この方法は、一面において、
人材育成の成果も上げ、トータルではアンバランスでも、
必要な能力もすくいあげて来ていた。
多くの貴重な職人もこの中から育った。
だが、時代は変わった。
アメリカ化が進み、「個人主義」が当たり前になり、
「能力主義」が世間をおおい尽くしている。
「自己責任の時代」になり、中途半端な能力は
どんどん、会社組織からはじき出される。
ニート、フリータ-、浮浪者。
そういうものたちがはじき出された、
世間には、「技術」や「能力」を繋いでいく
「接着剤」のような人材が圧倒的に少ない。
つまり、「ポリバレントな人材」だ。
多くの人材は
能力が足りない、あるいは活かせていないのであって、
決してないのではない。
そういう人たちにこそ、その能力を補う接着剤のような、
あるいは、異能をつなぐ「翻訳機」のような人材や組織、集団
といったものが本来必要であるべきではないのか?
同様に、会社組織においても、空洞化した部分が大きく
なっている事も当然の成りゆきだ。
(プロ野球の巨人の衰退やドイツワールドカップの日本代表の惨敗
のように、大砲ばかりいたり、エクストラキッカーばかりがいても
組織は強くならないと言う意味で)
査定評価のしやすい「能力」ではない「能力」もある。
それらは、会社という組織の外に、
セーフティネットも組織も保証もない場所に
今も流れ出している。
集団が、集団として機能しにくい方向に
あるいは、多くの能力が複雑に力を合わせて、
大きなベクトルを作る事が出来ない、こじんまりとした、
ダイナミズムに欠ける社会、そういう社会になってはいまいか。
そして、それは、「個人能力主義」が本来目指した突出した人材の
育成やダイナミズムといったものと逆行してはいないか?
それを打破するには、この「ポリバレント」という
キーワードがとても重要であると感じるのだ。
オシム監督的にいうと、
「エクストラキッカーは11人中2人」であり、
同様に大切なのは、それと対をなす「水を運ぶもの」
であるということとイメージが重なってくるのだ。
僕のいる業界では、SOHOというフリーランス、個人事業者が多くいる。
パソコンやインターネットがある意味セーフティネットのような役割を
果たしてもいる。しかし、困るのはやはり、僕も含め多くの人が、
「中途半端」な能力であるということだ。
たとえば個人事業者に必要な能力は多岐に渡る。
まず、柱になる「技術」「職能」、
次に「コミュニケーションする能力」
そして、「アカウント感覚」並行して「交渉力」。
少なくとも、これだけ持っていなければ、
あるいは、身に付けなければ、
「社会的弱者」になってしまう。
つまり、悪い言い方をすれば、社会の「お荷物」だ。
例えば、イラストの仕事が来るときに、
クライアントは、相手が何がどういうレベルで
できるのかを知ったら、まず、値段を聞いてくる。
ここで、最初の競争が起こる。
(いや、最初は、技術的な競争かもしれないが…)
値段を知るには、全ての作業行程やおおよその、
仕事の全体像を他の関係周辺事業(例えば、
印脱物であれば、印刷、Webであれば、マーケティング
といったような)との兼ね合いの中で
仕事を受ける前に「判断」して、「交渉」する
事を要求される。それが、最良のリスク回避だからだ。
リスクを冒すにしても、これらの判断がいかに高いレベルから
始められるかが、結果に大きく関わるのは、いうまでもない。
これだけでも、すでにものすごく
「ポリバレントな能力」が要求されている。
仕事を1本受けるにも、
安全に良い仕事を受けて、提供していくには
それだけの能力を要求されているのだ。
これをきちんとこなしている事業者も少なくはない。
だが、これをハイレベルに繰り返すには、
より高度な「ポリバレントな能力」が常に要求される。
オシム監督が守備と攻撃のバランスの話の中で、
現在のスピードサッカーの中では、突然役割を切り替えられる能力や
判断力があるものをポイントにいかに配置するか、
相手によって、それを変えて行く事が出来なければ、
常に、「勝利」と言う結果は残せないと言う事を述べているのが、
上記のような話とイメージがかぶるのだった。
代表戦で一生懸命走りながら考えて、工夫する事を要求されている選手
をみながら自分の開拓できるポリバレントな能力について、
考えてみるのも有益な事ではないだろうか。
サッカー日本代表のオシム監督の会見に出て来た
キーワードが「ポリバレントな選手」である。
「ポリバレント」とは、辞書にもなかなか出ていないのだが、
検索してみた内容を総合すると、
「多義的な」という意味を持っている言葉らしい。
化学にも良く出てくる用語だとオシム監督も言っていた。
そこから、「複数の役割(能力)を使いこなす」
という意味に使われている。
これは、とても大切な言葉だ。
サッカーに、だけではない。
「組織論」にとってである。
ぼくは、サッカーと言う競技が持っている本質のひとつに、
「組織」として、いかに結果をだすか、というものがある
と思っている。
それが面白くて、20年前にこの競技の深みにはまった。
見れば見るほど、失敗も成功も、「組織」を考える
ヒントに溢れている。
当てはめて考えるだけで、とても身近な様々な事を
解きあかすヒントがつまっている。
それが僕にとってのサッカーだ。
それはさておき、今回はサッカーの話ではない。
現代のサッカーにおいて、「ポリバレントな選手の重要性」
が声高に言われるのと同様に、どんな集団においても、
「ポリバレントな能力」を持ったものが、「キーマン」
になるのが現代の組織だと思うのだ。
僕はイラストレーター,アートディレクターと複数の職務を
こなして来たから、とくにそう思うのかもしれないが、
「ポリバレントな能力」こそが、「個人化して行く社会」
を集団的能力において、維持するために、最も重要だと
考えている。
違う考えの方も多いかもしれないが、
あえて言うと、時として、相手の職域を侵して
いく事も必要な事だと考えているということだ。
(尊重すべきはした上でだが。)
例えば、これまで日本の「会社組織」は、「分業」し「職能化」
を進める中で、より多くの人々を
組織の中に内包できる社会構造を作って来た。
言い方を変えれば、「護送船団方式」とも「日本的企業」
とも言われる、集団的組織力による、総合的なレベルアップ
を図って来たのだ。この方法は、一面において、
人材育成の成果も上げ、トータルではアンバランスでも、
必要な能力もすくいあげて来ていた。
多くの貴重な職人もこの中から育った。
だが、時代は変わった。
アメリカ化が進み、「個人主義」が当たり前になり、
「能力主義」が世間をおおい尽くしている。
「自己責任の時代」になり、中途半端な能力は
どんどん、会社組織からはじき出される。
ニート、フリータ-、浮浪者。
そういうものたちがはじき出された、
世間には、「技術」や「能力」を繋いでいく
「接着剤」のような人材が圧倒的に少ない。
つまり、「ポリバレントな人材」だ。
多くの人材は
能力が足りない、あるいは活かせていないのであって、
決してないのではない。
そういう人たちにこそ、その能力を補う接着剤のような、
あるいは、異能をつなぐ「翻訳機」のような人材や組織、集団
といったものが本来必要であるべきではないのか?
同様に、会社組織においても、空洞化した部分が大きく
なっている事も当然の成りゆきだ。
(プロ野球の巨人の衰退やドイツワールドカップの日本代表の惨敗
のように、大砲ばかりいたり、エクストラキッカーばかりがいても
組織は強くならないと言う意味で)
査定評価のしやすい「能力」ではない「能力」もある。
それらは、会社という組織の外に、
セーフティネットも組織も保証もない場所に
今も流れ出している。
集団が、集団として機能しにくい方向に
あるいは、多くの能力が複雑に力を合わせて、
大きなベクトルを作る事が出来ない、こじんまりとした、
ダイナミズムに欠ける社会、そういう社会になってはいまいか。
そして、それは、「個人能力主義」が本来目指した突出した人材の
育成やダイナミズムといったものと逆行してはいないか?
それを打破するには、この「ポリバレント」という
キーワードがとても重要であると感じるのだ。
オシム監督的にいうと、
「エクストラキッカーは11人中2人」であり、
同様に大切なのは、それと対をなす「水を運ぶもの」
であるということとイメージが重なってくるのだ。
僕のいる業界では、SOHOというフリーランス、個人事業者が多くいる。
パソコンやインターネットがある意味セーフティネットのような役割を
果たしてもいる。しかし、困るのはやはり、僕も含め多くの人が、
「中途半端」な能力であるということだ。
たとえば個人事業者に必要な能力は多岐に渡る。
まず、柱になる「技術」「職能」、
次に「コミュニケーションする能力」
そして、「アカウント感覚」並行して「交渉力」。
少なくとも、これだけ持っていなければ、
あるいは、身に付けなければ、
「社会的弱者」になってしまう。
つまり、悪い言い方をすれば、社会の「お荷物」だ。
例えば、イラストの仕事が来るときに、
クライアントは、相手が何がどういうレベルで
できるのかを知ったら、まず、値段を聞いてくる。
ここで、最初の競争が起こる。
(いや、最初は、技術的な競争かもしれないが…)
値段を知るには、全ての作業行程やおおよその、
仕事の全体像を他の関係周辺事業(例えば、
印脱物であれば、印刷、Webであれば、マーケティング
といったような)との兼ね合いの中で
仕事を受ける前に「判断」して、「交渉」する
事を要求される。それが、最良のリスク回避だからだ。
リスクを冒すにしても、これらの判断がいかに高いレベルから
始められるかが、結果に大きく関わるのは、いうまでもない。
これだけでも、すでにものすごく
「ポリバレントな能力」が要求されている。
仕事を1本受けるにも、
安全に良い仕事を受けて、提供していくには
それだけの能力を要求されているのだ。
これをきちんとこなしている事業者も少なくはない。
だが、これをハイレベルに繰り返すには、
より高度な「ポリバレントな能力」が常に要求される。
オシム監督が守備と攻撃のバランスの話の中で、
現在のスピードサッカーの中では、突然役割を切り替えられる能力や
判断力があるものをポイントにいかに配置するか、
相手によって、それを変えて行く事が出来なければ、
常に、「勝利」と言う結果は残せないと言う事を述べているのが、
上記のような話とイメージがかぶるのだった。
代表戦で一生懸命走りながら考えて、工夫する事を要求されている選手
をみながら自分の開拓できるポリバレントな能力について、
考えてみるのも有益な事ではないだろうか。