弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

銃がなくてよかった

2007年05月17日 | Weblog
 ある種の犯罪がある種の民族性に起因する、という考えを僕は採用しない。犯罪の背景にあるものは常に明白に社会的条件であって、それに比べたら「民族」に起因する部分など、あってもなくても変わらない程度の要素でしかないからだ。

 最近、格別ショッキングな殺人事件が内外で続けて起こった。たとえば軍事占領下で毎日のようにくり広げられる弾圧によるパレスチナの死者、という類のものとは別に、いわゆる平和な先進国社会、と呼ばれる場所で。一つはアメリカの大学で起きた銃乱射事件、もう一つは「母親殺し」の高校生の事件である。
 アメリカの事件が起きた際には、犯人が韓国系の学生だったことから、日本の一部のゆーもらすな人達は日頃の主張を補強する材料とばかりに一斉に喰らいついた(予想どおり)。有名なコロンバイン高校の事件を始め、銃乱射による殺人事件は人種を問わず様々なアメリカ人が起こしてきたという、基本的事実はどっかにすっ飛ばして。
 そして国内で「切断した母親の首を・・・」なんつー凄まじい事件が起きると、「民族」云々の主張は姿を消し、「酒鬼薔薇」事件の時と同じように、今度は教育の荒廃だの命の大切さだのゲーム脳だのの議論が始まる。今さら言及するのもかったるい、見飽きた光景である。

 ただ、この2つの事象を見比べると、犯罪と民族性の間に特定の連関なぞない、という現実を確認すると同時に、それと裏返しのもう一つ現実が透けて見える。犯罪の社会的条件という視点から、「民族」に関わる言説のくだらなさが透けて見える、ということだ。
 ある種の人達は、日本人は元来おだやかな、平和な民族だと言う。だが、僕は信じない。元来そうである民族などいない。日本人がそうだというなら、他の民族だって「元来は」そうかもしれない。
 今の日本の残虐事件の多発ぶりを見れば、「元来」この民族は凶暴な人食い人種ではないのか、という疑いの方が強まっても不思議はない(もちろんその疑いは間違いだ)。アメリカのような銃社会じゃなくて本当に良かったと思う。
 これは自分も含めてそう思うのだが、もし銃の所持が許されるようになったら、この国は少なくともアメリカ並みに殺人事件の多い国になると思う。今、銃がなくてさえこれだけ人命が軽視され、歪みとストレスに満ちている社会に、もし銃が入ってきたら・・・・。

 僕が昔住んでいたマンションは駅前の繁華街が近かったせいで、酔っ払いが窓の下で騒ぐことがちょくちょくあった。その部屋は3階で、日中は窓を閉めておけばそんなには外の音は気にならない。だが夜中・明け方など、あたりが静かになっている時には、地上の人声がまるで耳元でしているくらいに聞こえてしまう。ただでさえ精神に変調をきたし、不眠に悩まされていた時期だった。やっとウトウトし始めたという時に、居酒屋帰りの若い衆の野放図な声が耳に飛び込んできたりした日には、とてもじゃないが怒りを抑えることなどできなかった。
 といっても、できたことと言えば、せいぜい窓を開けて「うるせえ!!うせろ!!」と叫ぶくらいである。それでたいていの連中は「お、おい、行こーぜ」とか言いながらコソコソと退散する。
 だがそれでもすぐには動こうとしない連中もいた。その時は思わず、台所から包丁を持って階下に駆け降りようとしかけた。しかし、その一連の動作にとりかかる最中に、落ち着け、と自分に言い聞かせることができた。包丁を持ってやつらを脅しつけて黙らせることに成功したとしても、こんなに興奮して部屋に戻って眠り直せるか?またはやつらと本当にやりあって、刺してしまったら──そう考えると、どうしても踏みとどまってしまう。考える時間の隙間が少しでもあれば、やはり考えてしまうのである。
 その時つくづく思ったのだ、銃があれば、脅しに一発撃ってやるのに、と。銃声一発でやつらに沈黙を強いれば、どれだけ爽快な気分になれるだろうと。
 ただ、考えてみれば、もし向こうも銃を持っていたらどうなるのか。お互いに威嚇し合って、それで済むだろうか?どちらかがキレたら、一巻の終わりだ。あるいは両者が──。
 朝になり、通りに人がわさわさと行きかい始めると、僕は「アメリカみたいな銃社会じゃなくてよかった」と心底思った。つい2、3時間前までは「銃さえあれば!・・・」と思いつめていたのに。

 カチンときた時、ブチ切れた時、手元にあるのがハサミやカッターやビール瓶くらいしかなければ、それでもって「殺す」ところまではなかなかいけない。そういう道具で致命傷を負わせるには、ある程度以上の気力と腕力と、なおかつ相手が油断しているという条件が必要になってくる。そういう条件が揃うことはそれほど多くないので(厳然としてあるにはあるけど)、これらの道具による殺人事件も、現在この程度で済んでいる。
 だが銃なら、一瞬の気合もしくは錯乱によって、引き金を引けばそれで終わり、というところがある。銃は「沸点」が低い液体のようだ。
 自分が短気で、いつ衝動的な暴力に走らないとも言えない性格だからこそ、身にしみて僕は思う。銃が簡単に手にはいらない国でよかった。そして、こうした社会的条件を抜きにして犯罪の問題を語る風潮が当然のものとなっているなら、それこそは「民族性」の問題かも知れない(知らんけど)。


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