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中大杉並高校 音楽部

中央大学杉並高校の部活動のひとつ〈音楽部〉のブログです。

活動内容やスケジュール、受賞実績などをご紹介します。

続・部活動とライブハウス

2019-05-20 10:19:55 | 
(参考過去記事:部活動とライブハウス


昨今の本校の活動を見て、「中杉はライブハウス禁止だったのでないのか。真面目に部活で軽音をやっている他校の希望だったのに!嘆かわしい!」といった意見(意訳)をいただきましたので、アンサーを書きます。


(1)前提としての「無届集会」の考え方

本校には「無届集会の禁止」という校則があります。校則としての文言はたいした情報量ではないので、以下は大舘による「法解釈」です。

「無届集会の禁止」という校則は、その立法の精神において「『打ち上げ』の禁止」です。人は集団になると気持ちが大きくなります。時に、虚勢を張ろうとすることで、普段ではやらないようなことをやらかしたりもします。それによって逸脱行為が起きないように、未然に防いでいるのがこの校則であると理解しています。

「どこからが無届集会なのか?」について具体的な線引きがあるわけでもなければ、判例が積み重ねられているわけでもありません。ただ、大舘は「○年○組集まれ」「○○部で集まれ」といった「看板」で人が集められたとき、それは無届集会であると理解しています。(ですから、当然のことながら、普段からの仲良しグループでカラオケに遊びに行くことは何ら妨げられるものではありません。)

看板で人が集まっている以上、その集団は緩やかな匿名性を帯びることになります。それゆえに「自分がここでこんなことをやらかしても大丈夫」といった油断も生じますし、その匿名性を拭い自分の存在を知らしめるために虚勢を張る、といった行動も誘発されるわけです。

もちろん、「生徒が集まれば必ずや問題行動を起こす」と決めてかかっているわけではありません。特に問題行動を起こさないにしても、本校生徒がどこか校外で(しかも学校の名前の下に)大ぜいして集まっているのを、学校だけは関知していない、というのはあまり歓迎すべき状況ではありません。

「無届集会の禁止」は、「転ばぬ先の杖」的な過保護な校則ではありますが、まあ、校則とは得てしてそういうものかもしれません。



(2)中杉音楽部とライブハウスをめぐるあれこれ

私(大舘)が顧問になったのが2002年です。前任の顧問は完全なる「名前だけ顧問」で、(良く言えば)生徒たちの自主的な活動に任されていました。(それこそ、100万円単位の合宿の集金をし、支払いをするところまで生徒がやっていたのです!)

ここには書けないような悪しき風習がそこかしこにあり、その一つに「ライブハウスでのライブ」がありました。当時、完全なる内輪ノリの部活動であり、「出演者も中杉音楽部員で、フロアの客も音楽部員(そしてごくわずかの?部員以外の高校生)」という状況でした。(とはいえ、私はその状況を直接は見ていません。一度、計画されていたことが分かり、中止させたことがありました。)まさに先に書いた「無届集会」であり、「学校側が関知していない場所に(学校の名前の下に集まった)本校生徒が大勢いる場」が出来てしまっていたわけです。

まだ当時(2000年代前半)は、合同ライブの文化もなく、学校にも練習用の機材はあったものの学校の中でライブを行うだけの機材も揃っていませんでした。(文化祭のPAにしても、まさかPAなんてものが高校生の手でやれるなんて思いもよらず、常にレンタル業者がバンドの時間のPAを手掛けていました。)

それでも学校の外でライブがしたい!との要望があり、公民館のホールを借りてみたり、地域の児童館イベントとコラボしてみたり、いろいろと試行錯誤をしました。そうはいってもライブハウスの音響と照明に勝るものもなく、常に「ライブハウスでやりたい」という要求が付きまとっていたことも確かです。

転じて、今や都内にあるライブハウスのいくつかは、非常にきれいで、高校生の使用に理解があり、アングラな香りもあまりしないような雰囲気になっています。教員も若返り(そしてもうあまり若くなくなり笑)、もし「部活動としてライブハウスを借り切って活動をしたい。お酒&たばこは当然NG。終了時間も下校時刻に合わせます。」という形で、会議に出せば認めてもらえるかもしれません。

ただ、現在、都内の軽音楽部員は非常に恵まれており、毎週のようにどこかの学校で合同ライブが開催され、学校によってはライブハウスに負けずとも劣らない素晴らしい音響と照明が我々を出迎えてくれます。本校も「視聴覚室ライブハウス化計画」とばかりに設備や機材を充実させていっています。同時並行で、ライブハウスやリハーサルスタジオ主催のコンテストイベントも「なんとか学校側の論理と矛盾しないように」と様々に配慮がなされたながら行われるようになっています。もちろん、東京都軽音楽連盟主催のコンテストも10年を超えて継続的に行われており、ライブハウスでの音楽活動をしている多くの「部活バンド」にとっても、「もっともテッペンを取りたいコンテスト」として位置付けられています。すなわち、わざわざライブハウスでブッキングライブを行うまでもない――そう言えるほどに環境は整っています。


そうはいっても、「合同ライブは誰でも自由に見学できるものではない」「大学生やそれより上の世代と一緒にライブをする機会は得られない」などの理由で、今年度に入り3年バンドの一つが(何十とお誘いがある中の!)一つのライブに出てはダメか――という相談がありました。完全なるライブハウスのブッキングイベントです。

そこで条件を出したのが、「客として一切中杉生を呼ばないこと」です。学校としては、別にライブハウスを悪の巣窟として認定しているわけではありません。もちろんそこではお酒やタバコが提供されるかもしれませんが、「〈合法的にそれらを楽しんでいる人たち〉がいる場に居合わせてはいけない」という理屈もありません(それがダメならファミレスだってNGになります。)終了時間が遅くなるかもしれません。もちろん、補導対象となる時間までには帰宅することが求められますが、今どきの高校生、ディズニーランドに行けば多くの人が閉園時間近くまで夢の国の世界を満喫していると聞きます。だからといって、「高校生を夜遅くまで外出させるディズニーランドはけしからん場所だ」という声はついぞ聞いたことがありません。(でも補導されない時間には帰宅しましょう!)

そういうわけで、「中杉生聞きに来て」「音楽部のみんな聞きに来て」というように看板の名で人を集めない以上は、お友達同士でディズニーランドに行くのと同じ(=無届け集会には当たらない)と判断しました。先の3年生バンドのメンバーにしても「無届集会の禁止」という校則は理解していますから、「中杉生を一人たりとも呼ばない」という顧問の出した条件を(大きな抵抗なく)呑んでくれました。私も、わざわざ生徒たちのディズニーランドについて行ったりはしません(つまりそのライブに引率することはしません)。


以上のことは、詭弁だと言われるかもしれません。しかし、――これは常々生徒に言ってきていることですが――中杉音楽部が「ライブハウス禁止」としているのは、「無届集会になるから」であると同時に、「顧問が付き合いきれないから」です。(残念ながら、そこに全部付き合っていると顧問の身がもちません。そうでなくても、現在は部活と関係のないところで休日出勤の多い分掌にいるので!)裏を返せば、合法的な「集会」であれば、顧問の引率は大前提であり、「中杉音楽部がたくさんいるのにそこに顧問だけがいない」という状況は作らないよう心掛けています。(顧問の手が回らないところができると「じゃあそこは『生徒の自主的な活動』ということで」と逃げたくもなるのですが、それをやると線引きがあいまいになるので、やっぱり「集会は顧問の引率のもとで合法的に」というところを守っていかねばなりません。生徒たちがやりたいと思っていることを諦めてもらうこともしばしば起こります。)


我々の業界の周りに、「ライブハウスを容認するか禁止するか」という議論があります。中杉はその二分法で答えることができません。「ライブハウスであろうがカラオケだろうが、看板の名の下に大勢の中杉生を許可なく集めるなら禁止」ですし、「学校のルールを逸脱せず、かつ顧問引率の責任の下で事故や事件に繋がる心配のないものであれば容認」です。


以前にも当ブログで書いたことがあるのですが、軽音楽部の活動というのは、どうしたって「趣味や遊び」の延長に見えてしまいます。翻って、「部活動である以上は教育的な機会にならなくてはならない」という点にも異論はありません。しかし、もし法律や校則を逸脱していないのであれば、「何が教育的で何が教育的ではないか」の判断は、顧問教諭に委ねられて然るべきです。今回、「ライブハウスは非教育的な場なのに、その非教育的な場に部員を出すのか」と批判をされたわけなのですが、それは余計なお世話というものです。たしかに私は頻繁にライブハウスのブッキングイベントに出るような活動を教育的な機会にはする力量がありません(一方でそれが出来ている顧問の先生もいますし、そうできることに敬意を表したいと思います)。中杉としては、今後も「ライブハウス中心の活動」になることはないでしょう。しかしだからといって「ライブハウスだから悪」といった思考停止に陥るつもりもありません。昨今、音楽自体の楽しまれ方が多様化してきています。それとともに教育の機会である(軽)音楽部の活動も多様化してきています。そうした一つ一つについて、部員と共に「これは教育的な場(学びの場)になりうるだろうか」ということを話し合いながら活動をしています。

もう一つ。これも以前に私は当ブログで書いたのですが、私は生徒の遊びに付き合うために自分の時間を削られるのはまっぴらゴメンです。しかしこういう仕事に就いた以上、それが教育的な機会だと認められるなら、生徒たちの成長に資するように努力したいと思います。そうした姿勢である以上は、今後も、表面的なところだけを見て「あれは悪でこれは正義だ」「これは禁止であれは容認する」といった思考停止に陥らないようにしたいと思っています。


謹賀新年2019

2019-01-01 06:32:24 | 



あけましておめでとうございます。

旧年中はたくさんの人に支えられ、そして応援していただき、充実した活動を行うことができました。

本年もたくさんの人に支えていただきながら、常に新しい挑戦を続け、自由でクリエイティブな活動をしていきたいと思います。


ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。




イラスト素材提供
http://www.wanpagu.com/

2018年 『Go!Go!GUITAR』誌掲載 10/27

2018-11-06 19:50:42 | 


惜しまれながらも2月号もって休刊となる『Go!Go!GUITAR』(2018年12月号 10/27発売)に、本校の取り組みがたくさん掲載されました。

全国の軽音楽部の皆さんの参考にしていただけたら、と思います。


↓クリックで拡大(緑枠のところが関係記事です)






2018年 この部活で何をどのように表現するのか

2018-08-08 05:31:46 | 
(1)「学校の部活動」ということ「表現する」ということ

いわゆる「軽音楽部」としての理想的な部活動の在り方について、さまざまな示唆を与えてくれた他校の顧問の先生がいます。その先生が「軽音楽部は何もロックスピリットを教えるための部活ではない」と仰っていて、長らくそこに共感し、自分の軸としてきました。すなわち、「学校は規律を教えるところなのだから、ロックスピリット(=反抗・反社会・反秩序)を教えていては矛盾が生じる。」ということです。

「ロックスピリット」は「パンクスピリット」と表現すると、より音楽史的には分かりやすくなるのですが、それはつまり「大きなものへの反抗心」であったり、「反社会的・反秩序的なメッセージ」であったりします。

しかし、今夏の大会に一区切りがついたこのタイミングで、この認識に修正を加えたい。あるいはこの認識を掘り下げたいと思います。


そうです。たしかに、教育活動の一環たる部活動なのだから、夜の校舎窓ガラス割って歩くことを賛美するわけにはいきません。困ります。

ただ、同時に考えたいのは、僕らが表現活動を行う部活だという点です。

表現(アート)には「様式美」と「脱様式美」の2種類があると思います。

様式(型)をなぞってあげて、その様式(型)を期待している人を気持ちよくさせてあげる――これも「様式美」としてアートです。Ⅳ-Ⅴ-Ⅲ~ときたら、次には「Ⅵ」が来てほしいものです。そうした期待に添って「Ⅵ」を繰り出してあげること、そこに聴衆は心地よさを覚えます。規律を重んじる学校的価値観からすれば、こうした型を大事にしたい。

その一方で、古今東西の芸術家は、型を踏襲することを潔しとせず、「それを乗り越えるからこその芸術」であるとして、様々な表現を試みてきました。それは破壊的な行為であり、校舎の窓ガラスは破壊しないけれど、既存の価値観(型)の破壊であることは間違いありません。

型をなぞることと、その型の乗り越えを目指すこと、どちらがより高次であるかと言えば、それは間違いなく後者です。その意味で、中杉音楽部としては、より高次の表現を目指したい。


「部活動なんだからロック(反社会・反秩序)である必要はないでしょ?」
には一定の同意はしつつも、
「表現活動を行う(学校教育の一環としての)部活動なんだから、型にはまらずに、より高次の表現を目指すべく、様々な表現の可能性を探る営為を推奨する」
ということを今後の指導方針として確認したいと思います。



(2)「高校生らしさ」とは何か

表現が表現であるためには、受け取る側のことが念頭に置かれていなければなりません。もしも、「表現」のふりをしながら、受け取り手を無視して、自ら出す音・出す歌・出す言葉に自身が耽(ふけ)るようなことがあれば、受け取り手は不快に感じます。

学校の先生をやっていると、こういう不快感に出くわします。(本校の場合は「たまに」出くわすだけで済みますが、学校によっては「しばしば」出くわすのかもしれません。)――目の前に、何か注意なり指導なりを与えたい生徒がいる。その生徒に声をかけて、もし彼/彼女が反抗的につっかかってくるなら、それはある種のコミュニケーションです。注意をした私(先生)の存在自体は認められています。不快なのは、そうして声をかけたのに、その「声」や「私自身の存在」が全く存在しないかのように「スルー」される場合です。いると分かっているのにいないかのように見なされることには、自らの尊厳をかけて怒りを覚えるのが当然です。

音楽にはカタルシス(自浄)作用がありますから、時として目の前に人がいようがいまいが奏でている(歌っている)自分自身が心地よいことがあります。自室やスタジオに籠って気持ちよくなっていること自体は何ら否定されることではありませんが、いざ人前で表現するとなると話は別です。もし聞き手がいるのに、自分のために演奏がなされていたら、聞き手にしてみれば「無視するなよ」と言われても当然です。

(今夏、他県の審査で「あなたがやっていることはマスターベーションも同然だ」とのコメントがなされたと聞きますが、それはつまり、「聞き手が目の前にいるのに、自分のためだけに演るなよ。こっちを無視すんなよ。」という意味です。その審査員の気持ちは分かります。ただし、それを「マスターベーション」と表現することは罵倒でしかないですから、いくら腹が立ったとはいえ、良い大人が高校生を罵倒するのは、いかがなものかと思います。)

以上、ダラダラと書いたことは、一言で言ってしまえば「表現とは相手のいるものだ」ということに尽きます。

高校生対象のバンドコンテストで表現する時の相手は、同世代の高校生であり、(多く)オジサンの審査員です。審査員のオジサンを聞き手として想定し、その人たちの共感を得ようとして、オトナの世界を表現しようとすると、「あなたたち高校生はその世界を知らないでしょう?」ということになる。あるいは、「その世界は同世代の高校生とは共有できない(目の前の高校生を無視した)ものでしょう?」ということかもしれません。そしてそれは、「高校生らしくない」という言葉で処理されます。

逆に、だからこそ、拙い演奏で、舌足らずで青臭い言葉で表現されたものが「高校生らしい」ということで共感を得ることにもなります。オジサンたちが「この“高校生らしい”表現に、聞き手の高校生はリアルを感じて共感しているにちがいない!」と思えばそれは高評価につながります。(あるいは、「この表現は、自分が高校生の時なら間違いなく共感できた!」ということかもしれません。)

ただし、聞き手が期待している「高校生らしさ」に答えてあげようと表現するだけならば、それは前述の「様式美」に過ぎません。中杉音楽部であれば、狙って「高校生らしい」ものを作ることは出来るでしょう。でもそんなの、全然アートではないし、ロックではない。(※ここで言う「ロック」は「反社会」という意味での「ロック」ではなく、「秩序の乗り越え」という意味での「ロック」です。)常にオジサン相手に表現することを想定しているならともかく、そうでないのなら――想定している聞き手の中心が同世代の高校生なのだとしたら――その高校生の「あるある」に応える様式美ではなく、高校生の価値観とか既成概念とかそういうものに揺さぶりをかけにいく表現でありたい。そしてそれをやるためには、様々な表現手段(=テクニック)も要る。

君たちの音楽表現の聞き手は、校長先生でも教育委員会のえらい人でも審査員のオジサンでもない。君たち自身がターゲットと考える人たちでいいのだ。

(補足すると、ターゲットは「聴『衆』」であるべきだとは思います。もしターゲットが自分の恋人で「キミのために歌うよ」ということであれば、それを聞かされる非恋人たる聴衆は「俺たちは無視かよ!」ということになるので。しかし、「この恋人への想いって(聴衆の)みんなにも共感してもらえるはずだよね!」という表現であれば問題ないわけです。)



(3)なぜ様式美にとどまっていてはいけないのか?

時代はますます「二極化」「格差社会」の様相を呈しています。使い古された比喩で言えば、「歯車」に過ぎない人なのか、「エンジン」になれる人なのか、によって人生は大きく左右されます。私は中大杉並高校の教員の端くれとして、本校の生徒は「歯車」であってほしくはないですし、まあ最低でも「潤滑油」、そして願わくば「エンジン」になっていって欲しいと願っています。そして、それだけの資質をもった人たちが集まっていて、その資質をいっそう伸ばすための手助けをしているのが、中大杉並高校であると信じています。

歯車は、形や大きさが合わなければ必要とされなくなります。そして、形や大きささえ合っていれば、常に交換可能です。歯車である以上、「他の誰でもないあなた」である必要はないのです。そもそも誰かに必要とされない限り存在意義さえありません。「様式美にとどまること」「『高校生らしさ』の再生産」は、「歯車」的人間の再生産でしかありません。

中杉音楽部での活動を通じて、その乗り越えを企図すること、それはとりもなおさず、自らを動力(=エンジン)として、「共感の得るための表現」を模索したり「既存の型に囚われないチャレンジ」したりすることを通じて、多様な価値観が交錯するポスト平成の時代をサバイブするためのトレーニングなのです。

2018年 追悼 永井チーフのこと

2018-05-09 07:33:06 | 
永井健嗣氏、とフルネームで呼んでピンと来ない卒業生諸氏も、「スタジオ楽音のチーフ」と言えば知らない人はいない。特に30期台後半から50期台前半の世代は大変にお世話になった。

その「チーフ」こと永井氏が昨日亡くなった。―—ということを、故人のTwitter経由で知った。ご家族が生前の意思を受けて、お知らせくださったようだ。

ちょうど、「スタジオを閉める」というアナウンスがあった直後に、パルテノン多摩で連盟のコンテストがあり、そこに応援に来てくださったチーフが「実は癌だと分かり治療に専念することになった」と打ち明けてくださった。最近では、あれだけ頻繁に浮上するチーフのツイートが途切れ、ずいぶんお悪いのだろうかと、心配している矢先のことだった。SNSにも「気配」というものがあることを知る。

Twitterを拝見する限り、たいへんに前向きに治療にあたっていらして、おそらくは抗癌剤点滴でもしていたのか、短期の入院に際しては「お泊まり会だ」とおどけ、転職活動にも、ベーシストとして次のライブに向けても、その意欲を示していらした。現在、私(大舘)の実父も同種の治療をしているだけに、言葉もない。

スタジオ楽音と永井チーフには、長きにわたり、たいへんお世話になった。前述のように、コンテストイベントや、学校の文化祭などには、時間が許す限り応援に駆けつけてくださり、部員の進歩・成長を喜んでくださった。

また、私がまじめに顧問業に取り組む以前は、私以上に部員のことを見てくださっていたことは間違いない。当時の部員は――といえば、学校の第2音楽室では少年ジャンプを読み耽り、駄弁に興じ、下校時刻を過ぎると楽音に赴き「さあ練習するか」といった感じであった。

また、やれ文化祭だ、発表会だ、合同ライブだ、とあるたびに、個人経営の街のリハスタであるのをいいことに、「朝6時に開けろ」「いや、朝5時に開けろ」と頼み込み、そんなわがままにも全て応えていただいた。練習の無理がたたり、本番のプレッシャーに耐えかねて、スタジオで倒れ込んでしまう部員が…なんていうエピソードも、そんなに前のことではない。

部活のCDを持っていけば、スタジオでかけてくださり、その出来栄えにいろいろ感想を寄せてくださったし、新入生入部の折には、20人内外の部員を楽音に行かせ、とりあえず会員登録をする、というのが部活の通過儀礼であった。

私がまじめに顧問業をやるに比して、校内の練習を重視するようになり、本校からの「客足」は激減したものと思う。「学校とか世代を超えた音楽サロン」としての街のリハスタの機能を信じておられた氏にしてみれば、寂しくもどかしい気持ちだったに違いない。それでもやっぱり、いつでも本校部員を可愛がってくださったことには、今さらながらここに感謝の意を伝えたい。

たいへんな愛妻家でいらしたようで、ご遺族の皆様は、さぞやお寂しい思いをなさっているに違いない。若輩の私がいうのもなんだが、まだまだお若く、活力と慈愛に溢れた氏が、こうして鬼籍に入ってしまったことは、本当に無念でならない。

こんな駄文を添えて、ここに謹んで哀悼の意を表し、故人のご冥福をお祈り申し上げたい。

謹賀新年2018

2018-01-01 08:03:35 | 
あけましておめでとうございます。

旧年中はたくさんの人に支えられ、そして応援していただき、充実した活動を行うことができました。

本年もたくさんの人に支えていただきながら、常に新しい挑戦を続け、他校の軽音楽部とは一線を画したクリエイター集団を目指していきたいと思います。


ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。





画像出典(http://www.wanpagu.com/nenga50.html)

2017年 「DiGiRECO. JR」掲載 4/20

2017-06-16 20:51:18 | 
中学校・高等学校の部活動を応援する!軽音楽部マガジン『DiGiRECO.JR(デジレコ・ジュニア)』(第5巻2号通巻17号)に、本校音楽部 副部長高塚と顧問大舘が書いたレポートが掲載されました。

こちらは、2017年2月19日に本校で行われた合同ライブに向けた取り組みについて書いたもので、こちらで売り込んで掲載していただいたものになります。

副部長高塚は、「合同ライブロゴマークを作成し、それを用いたブランディングを行う」という観点でレポートを書き、
顧問大舘は、「(軽)音楽部はミュージシャンを育てる場ではなく、プロデューサーを育てる場なのだ」という観点でレポートを書きました。

内容に興味のある方は、お問合せください






なぜ中杉音楽部顧問は高校生がプロミュージシャンを目指そうとすることを阻止するのか

2017-01-21 10:08:41 | 
部員ならびに卒業生の皆さんは、顧問が常々「プロのミュージシャンなんて目指すものじゃない」と発言していることをご存知かと思います。これが、「中杉の音楽部顧問は若者が夢を追うことを阻害している」「安全で無難な人生のレールを歩ませようとしている」と一部で受け止められたようですので、反論しておきます。

私は、
(1)高校生レベルが考える「プロのミュージシャンになるためのプロセス」に
疑問を感じています。また、
(2)ビジネスモデルが大きく変化している音楽シーンで生き抜くためには、それなりのattitudeを先に身につけておく必要がある
――と考えています。この(1)と(2)は切り離して語れないために、一緒にお話ししましょう。

まず(1)の観点から。高校生が「プロのミュージシャン」になるために、どんなことに情熱を注ぐでしょう?

(a)頑張って楽器の練習をする、歌の練習をする、音楽的な知識を深める
(b)良い曲を作り、良い音源を作る
(c)ライブハウスなどで、ライブを繰り返す
(d)ファンを獲得する
(e)レコード会社の人に見出してもらう

こうしたプロセスが疑いもなく大量に再生産されている現状で、それに乗っかって「頑張る!」ということを想定している以上、私はプロのミュージシャンを目指すことを全力で阻止します。たぶん成功はつかめませんから。

(a)
プロのミュージシャンよりもスキルの高いアマチュアがいることは、高校生でも想像できるでしょうし、演奏スキルと収入が比例していないことだって、分かるはずです。それなのに、「スキルアップすればチャンスが掴める」と愚直に信じる姿は、ピュアもしくは○○です。もちろん、緩やかには比例してますよ。でも、「それ以外の要因がいかに大きいか」に目を背けて、「上手くなれば…」とほざいておっしゃっていることが愚かだと言うんです。

(b)
〈アーティストに紐づけられた形の音源とか楽曲〉が売れない時代です。売れているのは個々の楽曲コンテンツではなく、それを聞くためのサービスとかパッケージです。LINEミュージック然り、Spotify然り。どっちも利用してないけど。サービスさえ導入しちゃえばタダで聞けるものを(あるいは若者の多くが利用している違法ダウンロードサイトで聞けるものを)どうやって「売る」つもりなんでしょう?

(c)
いま、音楽関連である程度収入が得られるとしたら、ライブです。でも、それは正確に言えば「ライブによる物販収入」です。プロのミュージシャンを目指して、結果としてタオルの売り上げで食えるようになって嬉しいか?それは「プロのミュージシャン」ではなく「タオル屋さん」です。もう一つ。ワンマンライブが売れず、フェスが盛況なのも(b)と同じですよね。つまりアーティスト名というミニマムなコンテンツは売れず(また、そうした「作家性」への信奉も薄れ)、それらを集約したパッケージが売れているわけです。パッケージしているのは誰か?多くの場合、アーティストとかミュージシャンではないですよね?これでも「ライブを頑張ればビッグになれる」なんて信じ続けられるんですかね?誰かにパッケージしてもらうのを待つんですか?

(d)
(a)~(c)を否定された場合、何を頑張ってファンを獲得しますか?(ファンからどうやってお金を取りますか?)——だいたい「お金を払って」と言うのは、アーティストサイドというよりは、マネジメントサイドですよね。

(e)
メジャーレーベルに見出してもらえれば、それはビッグチャンスです。しかし、その瞬間からアーティストはレーベルの商売のための商品です。売れるためには、メンバーを差し替えることだってやりますし、〈ミュージシャンのcreativeness〉よりも、〈商品として売れる作品を作れるプロデューサーの権限〉の方が優先されます。つまり、自分たちのやりたいことは大きく捻じ曲げられる可能性があるのです。売れるためには、○ュージック○テーションで、弾いているフリだってしなきゃいけないんですが、それって本当にやりたいことですか?


ミュージシャンを目指して、夢を追う若者の多くが、以上のことを直視できていません。見えてない人も終わってますが、見ないようにしている人はもっと終わってる。使い古された「レコ初」なんて言葉を使って、それっぽい活動をしているのもどうかと思いますし、「一人でも俺の歌を聞いてくれる人がいたらその人のために俺は歌うぜ!」などと叫んでいる人には「そいつを連れてカラオケボックスに行ってこいや」と言いたい。――逆に、上記(a)~(e)の現状にカウンターを喰らわす妙案を持っているのなら、「頑張れ」と背中を押します。「夢を追え」と。いや、現状ではアイディアがないにせよ、問題の所在が見えていて、そこを突破しようとするattitudeの持ち主だと判断すれば応援します。中杉にいる子たちは――全員とは言えませんが――そういうポテンシャルを有しているとは思っています。でも、考えない人、システム自体を再構築する野心のない人の背中なんか押しませんよ。

ここまで書いたことでお分かりいただけると思うのうですが、上記(a)~(e)に対して、手を打っているのはミュージシャンサイドではなく、マネジメントサイドあるいはプローデューサーサイドなんですよ。だから、中杉音楽部はマネジメント力とかプロデュース力をつけるべく活動をしているのです。一生懸命練習するだけでなく、自分たちのバンドとかイベントとかをどのようにプロデュースするのか?ということを考えてもらっています。最先端のテクノロジーを使いこなすのは難しいですが、それでもiPhoneでPVを作っちゃったり、YouTubeラジオをやってみたり、既存の軽音楽部の活動の枠組みを突破する試みを強く推奨しています。どれもこれも、消費され、使い捨てられる側で「夢を追っている」という幻想に浸るのではなく、現状分析をして問題解決力と突破力のある人間として、力強くこの不確実な社会をサバイブしてもらうために!!!!――それでも、中杉の顧問は「夢をあきらめるよう仕向けている」「安全なレールを進ませようとしている」とおっしゃいますか?

謹賀新年2017

2017-01-02 03:23:38 | 
あけましておめでとうございます。


2016年も各方面からご支持いただけるような活動をすることができました。

今年も既成概念にとらわれず、様々な挑戦をして参りたいと思います。
ご指導、ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。





画像は以下から頂戴しました。
http://www.wanpagu.com/nenga50.html

2016年 2誌で記事になりました

2016-11-06 16:57:18 | 


立て続けに2誌から取材を受け、それが記事になりました.



『Go!Go!GUITAR』(2016年12月号 10/27発売)
は「ギターの部活Do!」のコーナーで、本校音楽部の文化祭ライブ"Yummy Music Live 2016"のレポートが掲載。ライブの様子の他に、設営の様子や、転換時の弾き語り、自主製作CDなども紹介されました。



『DiGiRECO.JR』(2016年10月号 Vol.14)
は「学校でレコーディングをし、CD作成をしている部活の一事例」ということで、顧問と部員3人がインタビューを受けました。昨年・一昨年のジャケット写真なども掲載いただき、充実の見開き1ページです。

今後も、個性的な取り組みをして、各方面に注目していただける部でありたいものです。