
朝ドラ「まれ」に登場する中国料理店の「天中殺」。 すごい名前を付けたもんだね。普通じゃありえないでしょ。 その店の中に麻雀卓があるのも不思議。 現在、横浜中華街の中でジャン卓を置いている店なんてあるのだろうか。 思い出してみたら、2か所、それに近いのがあるね。 ![]() 料理店ではないけど、一つは廣東要明鶴同郷会の入っているビル。最近はどうだかよく分からないが、夜、ビルの前を通ると上からジャラジャラという音が聞こえてきたものだ。 もう一つは最近できたのかな。「一楽」の裏にある京浜華厨会所の会館。 3階にバーカウンターや麻雀卓などを揃えているそうだ。こちらも会員用の娯楽室なので我々は使うことができないけどね。 ![]() そういえば何年か前まで、このビルの上に麻雀荘があったような記憶が。 他にも何軒かあったよね。 媽祖工事の「吉壱家」(旧客満堂)の向かい側の店。ここも雀荘だったかな。 最近は若者がマージャンをしなくなったから、都会の雀荘はかなり減少しているはず。 それでなくとも、中華街の中にあるお店が、食べ放題、焼き小龍包、手相占いに転換されることが多いので、この街の中から雀荘が消えていくのは避けられないのかもしれない。 中華街と麻雀の関係やその歴史については、とくに調べたわけではないのでよく分からない。 が、戦後の麻雀史に関しては阿佐田哲也が、戦後闇市の話の中で書いているので少しだけご紹介しておこう。 以下は彼の話である。 麻雀の復活がいちばん早かったのは有楽町の日劇地下にあったクラブであろう。焼け残ったビルの一部を利用して雀荘が造られたわけだ。 それから早稲田、本郷、三田など大学周辺の焼け残り地帯にポツポツできてきた。早慶・東大の学生たちが打っていたのだろうか。 戦争前の盛り場にはビリヤードがたくさんあったが、戦後、それらはなかなか復活できなかった。 ビリヤードというのは玉突台を完全水平に設置しなければならない。焼け跡のバラックなどでは無理なのだ。 このゲームが戻ってきたのは、復興後の本建築が出来てからであった。 その点、麻雀台はそれほど厳密な水平を要求されない。積んだ牌が崩れたりしなければいいわけだ。 そういう造りやすさもあって、いち早く復活したのであろう。 当時は戦前からの持越しルールで、ゲームはイーチャン制だった。現在は半荘(ハンチャン)制を採用し、東場・南場で1ゲーム終了となるが、イーチャン制だとさらに西場・北場と続くから、相当の長時間ゲームだった。 掛け金はほんの少額で、ギャンブルというよりも完全に娯楽として焼け跡の市民に親しまれていたのである。 そこに現れたのが中国戦線から復員してきた人たちだ。本場仕込みだと言って、ゲームをしている麻雀ファンにコーチをするようになった。 たいていのお客は盲牌(モウパイ)もできないし、メンツの揃った手牌を3枚ずつ離していたくらいだから、ルールも復員兵などによってどんどん変えられていった。 それまではリーチなんていうものはない、アルシーアル麻雀だっとところに、テンパイしたあとは手を変えない、牌を取り換えないという宣言(リーチ)が登場したのである。 確かに戦前にもリーチがあったけど、それは現代でいうところのダブルリーチなのね。配牌の時点でテンパイしているときに使われたものだ。 この戦後のリーチというのを誰が取り入れたのだろうか。 阿佐田哲也の想像では、焼け跡時代の雀荘で初心者を教えていた人たちなのではないかと。 『ポンやチーをしてはいけない。できるだけメンゼンで…』など言って。 ポン・チーをすれば上がったときの点数が安くなることも教えていたのだろうが、イカサマ師にとってはツモの順番が狂うという不都合もあった。 せっかく仕込んだ牌が自分のところに来なくなるからだ。 リーチの導入とと同じくして、ホンイツ、トイトイなどを2飜(リャンハン)にしたり、三色同順や一盃口(イーペーコー)などという新しい役やドラの採用も行われた。 七対子(チートイツ)はこの頃、アメリカ兵から輸入されたという話もあるらしい。 いずれにしても、これらの変更は朝鮮戦争までの間にできあがったという。 ![]() 天和だ♪ 役満ね。 ![]() 南門通りの「大三元酒家」。こちらは店名が役満だ♪ 麻雀愛好家の創業者が名付けたという。 ![]() ある日のランチメニュー。 本体価格と税込み価格の両方を書いているところが素晴らしい。 もうこれだけでいい店だと思う。 参考までに、「大三元酒家」の赤い激辛麺をご紹介しておこうね。 白發中の赤だ。 ![]() |
ルールは割合簡単なんですが、点数の勘定が難しくて。
昨年、8年ぶりに麻雀をやりました。
点数の計算どころか、役まで忘れていました・・・