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中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

横浜中華街へのアプローチ ~西門から~

2007年08月20日 | レトロ探偵団
 
 横浜中華街がまるで“食のテーマパーク”のようになったのは、この20~30年間のことです。
 150年ほど前、開港したころの横浜は、わずか100戸足らずの寒村に過ぎませんでした。いずれ中華街が形成されることになるこのエリアは、横浜新田と呼ばれる田んぼだったのです。

 そんな場所が、いまや年間2000万人も訪れる巨大な観光地となっています。このような大変化を遂げる“きっかけ”はいくつかありましたが、その筆頭は昭和39(1964)年の「根岸線延伸」でした。
 それまでは桜木町駅止まりだった京浜東北線が、東京オリンピックをバネとして磯子まで延びてきたのです。(これを根岸線といいます)
 
 この時できた駅が「関内」「石川町」「山手」「根岸」「磯子」です。これによって、横浜中華街へのアクセスは非常に便利になりました。それまでは桜木町駅から市電・市バス、あるいは徒歩で行くしかなかったのですが、街のすぐ近くに国鉄の駅ができたわけで、市民はもちろん、市外からのお客さんも一気に増加しました。

 そんな来街者がまず通過するのが、冒頭に掲載した西門です。人々はここで“中華街に来た”ことを実感し、記念撮影をしたあと西門通りを善隣門へと向かい、気分を高揚させていきます。(ちなみに、この通りを突き進んでいく人たちは、大抵が饒舌で、鼻の穴を押し広げ、足早になっています)

 この西門を毎日通っている探偵団は、その手前で不思議なモノを見つけました。


 ここは今、高速道路の出口を建設中で資材置き場になっていますが、もともとは駐車場でした。その植え込みの一部に、周囲とは明らかに異なる、なにやら歴史的遺構のようなものがあるのです。(これは今でも見られます)
 望遠で近づいてみましょう。


 石垣の上にコンクリートの台座らしきものが乗っています。ここにはかつて、派大岡川という運河があったことを考えると、これはどうやら橋の名残のようです。
 そういえば、昔の地図と現在の地図を見比べると、ずいぶん違うところがあることを思い出しました。
 地図を引っ張り出してみましょう。
 これは昭和40年代の吉浜橋・西門付近。
 石川町駅から来たお客さんが吉浜橋を渡ると、正面に港中学校が現れました。
 今は建て替えられていますが、この当時は旧横浜小学校の校舎をそのまま使っていました。(横浜小学校については後日改めて掲載します)
 左のブロックにあるのが港商業高校(現・港総合高校)です。西門通りがこの両校の間を通っているのは、昔も今も変わりありません。
 つまり、以前は吉浜橋と西門通りは一直線につながっておらず、何十メートルかずれていたわけです。
 一方こちらは現在の同じ場所です。根岸線の両側に道ができました。
 吉浜橋の下を流れていた派大岡川は埋め立てられてなくなり、跡地は駐車場になっています。
 しかしこれも現在、高速道路の橋脚が立ったり、工事用の資材置き場になっていますが…
 この吉浜橋を渡ると、いきなり西門(延平門)・西門通りへとつながっていきます。
 ここで信号待ちをしている観光客は、豪華な西門に圧倒され、早くも記念撮影に余念がありません。
 さて、この2枚の地図を見て明らかなように、吉浜橋は左の方へ何十メートルだか動いたというわけなのです。
 参考までに居留地時代の地図も掲載しておきましょう。現代の地図は北を上側にして描いていますが、この時代は方位盤に関係なく海側を下に描いていました。これはおそらく、開国を求めてやって来たペリー艦隊が、海から横浜を見ていたことと無関係ではないと思います。
 それはさておき、上部に描かれている堀割りがのちの派大岡川です(堀割りといっても、開削したのではなく埋め残しなんですけどね)。そこに一本の橋が架かっています。
 前橋町(現・西門通り)とは、ずれていますよね。実はこの時代から吉浜橋はこの位置に架けられていたのです。
 


 そんな歴史的にも由緒のある橋を、なぜ動かして架け替えたのでしょうか?
 その理由は高速道路(首都高神奈川3号狩場線)の建設にありました。昭和40年代に羽田から横浜まで首都高横羽線が入ってきていましたが、昭和50年代になると、これをさらに本牧方面を経由して2方向(ベイブリッジ方面・横須賀方面)へ伸ばす工事が始まったのです。


 
 横浜方面から延びてきた高速道路は、桜木町・関内あたりでは半地下の中を進みますが、石川町付近で次第に上りはじめ、旧吉浜橋のところでちょうど地表と同レベルになり、元町で高架となる、そんな構造で工事が始まりました。
 そこで旧吉浜橋が障害物となってきたわけなのです。
 
 この写真は昭和55年ころ撮影したものです。奥が間もなく落とされる旧吉浜橋。手前の新品が今の吉浜橋。
 川の流れはなくなったとはいえ、明らかに橋梁の構造が見て取れます。

 何気なく見かけた土木遺構から、こんなことを書いてみました。
 今度、石川町駅から中華街に入る際には、この石垣をぜひ見てください。
 そして、この辺の歴史にも思いを馳せていただけたら幸いです。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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 (シュンダイ)
2009-07-22 11:10:37
そういえば、吉浜橋から石川町駅が遠くなった気がします、思い出しました!


つい最近、大珍楼新館にランチを食べに行きまして、
帰り、駅へ向かい橋を渡るとき、カーブが大きく感じたことを・・(*´∀`*)
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橋の移動 (管理人)
2009-07-22 21:29:18
>シュンダイさん
吉浜橋が動いたから、駅が遠くなったような気がするのですよ。
いろいろと変わりましたよね。
返信する

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