
中華料理の麺の表記に関して、ずっと不思議に思っていることがあります。 上のメニューで言えば炸醤麺、天津麺、生碼麺は、それぞれジャージャーメン、テンシンメン、サンマーメンというように、「麺」は「メン」と表示されていますが、冬茹麺、五目麺、什錦湯麺、蝦仁麺、葱油麺などは「麺」を「そば」と読ませていることです。 ![]() こちらのメニューでも似たような傾向があります。 生馬麺、叉焼麺、湯麺は、それぞれサンマーメン、チャーシューメン、タンメンと読ませていますが、冬茹麺、葱油麺、什錦麺などは「麺」を「そば」としています。 この違いは何なのでしょうか。 ひとつには、名称の頭についている文字、すなわち麺類の種類を表す言葉の読みが中国語か日本語かによって分かれるようです。 サンマー、チャーシュー、タンと中国語風にしたら、それに続く「麺」はメンと読ませます。一方、日本語でシイタケ、ネギ、五目うま煮とした場合は「麺」をソバとしています。 本来、中華麺というものは蕎麦粉を使わず、小麦粉に水、塩、カンスイなどを加えて作るので、これを「そば」と名乗るのには皆さん違和感を感じるのではないでしょうか。 小麦粉を原料とする中華麺の元祖が中国から日本に伝わったのは奈良時代。当時はカンスイを使用せず、水と塩を加えて手打ち手延べしていました。 その後、中国では小麦粉にカンスイを入れて独特の食感を味わう中華麺に発展していきますが、日本では中国から伝来した原型を進化させて、「素麺(そうめん)」や「冷や麦」、さらには「うどん」など独自の麺類を生み出します。 一方、蕎麦が日本で食糧とされるようになったのは8世紀頃のことだそうです。 最初の頃は米と同じように籾殻を取り除き粒食していたのですが、やがて石臼が普及してくると、粉末にして味噌の汁や水で練って蕎麦がきのような食べ方になっていったといいます。 その後、小麦粉でつくる「切り麦(うどんの元祖)」の手法を真似て、練った蕎麦粉を切って紐状にするようになります。 これが蕎麦切り、現在一般的に呼んでいる蕎麦の発祥です。その時期は室町時代ではないかと考えられています。 当初は高貴な人々の食べ物であったようですが、元禄の頃になると江戸庶民の間でも「もり蕎麦」や「かけ蕎麦」が簡単に食べられるようになりました。 そして幕末、日本が開国すると大勢の中国人がやってきました。最初のうち、彼らは西洋人の商館に住んでいましたが、だんだん人口が増えてくると集団的に住むようになり、現在「中華街」と呼ぶエリアが形成されていきます。 そこに中華麺も一緒に現れます。しかし日本人はなかなかこれを口にしませんでした。豚肉が入っていたからです。長いこと獣肉が禁忌されていた影響でしょう。 しかし、仮名垣魯文や福沢諭吉などが「牛なべ食わぬは開けぬやつ」などと言って、牛肉こそが文明開化だという啓発をしたため、人々は豚肉よりも牛肉に目覚めていったということもあるようです。 日本人がこの町で中華麺を食べるようになるのは、確かな史料がないので分かりませんが、明治中頃からでしょうか。 明治17年生まれの作家・長谷川伸が若いころ、いまの南門通りにあった「遠芳楼」という中華料理店をしばしば訪れていました。 『自伝随筆:新コ半代記』の中に居留地という一文があり、当時の店の様子や料理のことが書かれています。 伸がいつも食べていたのは「豚蕎麦のラウメン」。五銭だったそうです。 彼の記述によれば「豚蕎麦=ラウメン」だったのでしょうね。中国人の店主は「ラウメン」と言っていたのですが、長谷川伸はこれを「豚蕎麦」と表記しています。 ちなみに、店主の言うラウメンとは、現代のラーメンとは別物で拉麺(ラーミェン)です。引っ張って延ばした麺、つまり手延べ中華麺という意味での拉麺でした。 長谷川伸は、これが蕎麦粉を使った日本蕎麦の形状によく似ていることから、豚蕎麦としたのではないでしょうか。 彼に限らず、新しく中国から流入してきたこの料理をなんと呼ぶかと考えたとき、「シナそば」とする人が多かったと考えられます。 その後、シナと呼ぶのはよくないということから「南京そば」、「中華そば」と言い換えたのだと思います。 さて、中国から伝来した中華麺ですが、そもそも後漢の時代(1~3世紀)に麪(ミェン)という文字があり、これは小麦粉そのものを意味していたそうです。 その小麦粉で作った食べ物は餅(ヘイ・ピン)と表記していたといいます。 餅は加熱の仕方によって、さらに名称が分かれ、茹でてスープに浮かべたものを湯餅(タンピン)、焼いたものを焼餅(シャオピン)などと呼んでいました。 宋の時代(10~13世紀)になると、この湯餅は麪、あるいは麺と表記されるようになり、トッピングする食材や調理法を頭に記載するようになりました。 と同時に、「餅」は焼いたり揚げたりする小麦粉製品だけを意味するように変化しています。 これによって、肉絲湯麺とか肉絲麺とかの表記が発生したのでしょう。 この肉絲麺が、長谷川伸が居留地で食べていた豚蕎麦だったのだと思います。 そんなことを考え、思い出しながら商店街を歩いていたら、こんなメニューを発見しました。 ![]() ここは中国人が経営する中華料理店です。 思わず店内に突入し、これを注文。 食べてみたらネギ・チャーシュー・キュウリの入った冷やし中華でした。 「そば」とすべきところを「蕎麦」と書いてしまったようです。 ところで皆さん、中華料理店で蕎麦なんか出てくるわけがないと思うでしょう。 でも実は私、1回だけ横浜中華街のお店で食べたことがあるのです。 それが、これ! ![]() 料理名は「蒸し鶏入り四川風蕎麦」。 蒸し鶏のほかに、キュウリの千切り、赤・緑の唐辛子・香菜がトッピングされていました。とてつもなく辛いです。舌が痺れるほど痛い! めんは完全な日本蕎麦を使用しています。従業員の話では、外注で作らせていると言っていました。 かつて中華街にたくさんあった「蕎麦屋」では日本蕎麦を何度も食べましたが、中華料理店で日本蕎麦を食べたのは、これ一回きりです。 ところで皆さん、中国では蕎麦を食べないのでは…と思っていませんか。私も『日本めん食文化の1300年』という本を読むまでは、そう思っていました。 でも、蕎麦粉を使った食品は元の時代(13~13世紀)に記録があるそうです。 蕎麦がきや焼餅(シャオピン)のようにして食べていたといいます。その後、スパゲッティの製造方法と同じように押し出して作る紐状の蕎麦が開発され、現代に至っています。 しかし、蕎麦は中国全土で食べられているわけではなく、一部の地方に限られているようです。 その著者が食べたのは、茹でて洗った蕎麦を丼に盛り、トマトのざく切り・千切りキュウリをトッピングして酸味の効いた芝麻醤がかけられていたそうです。 なんだか「京華楼」で食べた蒸し鶏入り四川風蕎麦を思い出させますね。 もう一冊の本、これは張競さんの書いた『中国人の胃袋』ですが、その中で『中国麺食い紀行』という書物を引用して、なんと中国の盛り蕎麦が紹介されています。 それによると、中国の盛り蕎麦は2通りの食べ方があるそうです。日本のような付け汁はなく、蕎麦の上に調味料をかけ掻き混ぜて食べる方法と、温かいスープをかけて食べる方法です。 現在の中国では、陝西省、甘粛省、内モンゴル自治区のほか、四川省や雲南省でも食べられているそうです。 中華街のどこかのお店で、こんなのを出さないかなぁ… 以下はオマケ画像です。横浜中華街の中華料理店で食べた“うどん”。 ![]() 「養泰」の“上海冷やしうどん”。 ![]() 「一楽」の“ピリ辛味噌煮込みうどん”。 ![]() 「ハマる横浜中華街」情報はコチラ⇒ ![]() |
私は中華街で日本蕎麦を使った品には
まだ出会ったことがありません。
自宅では、食べるラー油とめん汁と葱で
作ったタレで食べてみたことはあります。
確かに不思議です。
「ラーメン食べに行こう」と言って中華街には行かないし。
中華街に行く時は「麺食べに行こう」と言うような。
その辺りの事で「横浜の人は変だ」と言われたことがありますw
食べるラー油とめん汁と葱のタレとは、
なんだか良さそうですね。
やってみたくなりました。
今では細長いひも状のものなら、
みんな麺と言っていますね。
そして最近は料理店で「面」なんていう文字も使うようになり、
だんだんワケが分からなくなってきました。
日本では米が一番エラ(?)く、次に大麦・小麦・粟ヒエ蕎麦・・・といった感じだったと思います。要するに飢餓対策の穀物です。中国の蕎麦食も土地の痩せた地域に見られます。あとブータンやエチオピアにも蕎麦文化がありますね。
管理人様ご指摘の「そば」表記は、長崎の「皿うどん」にも当てはまりますね。あれも最初に日本人に分かり易く「小麦の紐状の物=うどん」と解釈したのが始めといわれてます。
中国では燕麦、トウモロコシなどから麺を作っているとか。
食べ方しだいで美味しいそうです。
こういうのも日本に入ってくれば面白いなぁと思います。
先日 この記事を拝見して気になっていましたが、時間が無くて期を逃してしまいました。
昭和14年の「主婦の友 花嫁講座 洋食と品料理」、“麺と御飯”の中に
>切麺<チェーミエヌ>とは支那そばのことで、日本では“そば”と言ひならわされてをりますが、ほんたうはメリケン粉を捏ねて作るのですから、“うどん”なのです。
ただうどんと違ふところは、メリケン粉の中へ曹達<ソーダ>を入れる事です。
とありました。
後に続く料理解説は“麺”のルビには“ミエヌ”とされており、後に続く「」書きの中には「・・・・そば」と訳されているようです。
現在の中華街でも、スープで食する麺を“つゆそば”と言う方がいますよね。(笑
この雑誌に記載されていることが、岡田哲氏の「ラーメンの誕生」という本で引用されているのを見ました。
カンスイが無い時代は洗濯曹達を入れていたんですね。
これにも驚きました。