ここは媽祖小路の「香格里拉(シャングリラ)」。 以前はランチメニューなども用意されていたのだが、最近はまったく見かけなくなってしまった。 替わって登場したのが、これだ。 氷とアイスクリームの製造販売に関する記録である。 そこに書かれている文章を抜き出すと、 「…中略…アメリカ人リズレーは、中国からの氷の輸入を思い立ち、一八六五(慶応元)年五月十五日、天津氷を売り出すとともに、外国人居留地の一〇三番(現在の山下町一〇三番地)あたりでアイスクリーム・サロンを開いた。記録の上で確かな日本でのアイスクリーム製造・販売第一号である」 これは「香格里拉」さんが勝手に言っているのではなく、ちゃんとした専門家が書いていることなのだ。 開港資料館の調査研究員、斉藤多喜夫さんが以前、中区の広報紙にこんな記事を載せていた。 お店はこれをもとに看板を造ったのだろう。 さらに、新旧対比できる地図や、当時、リズレーが出した広告のコピーなども掲示している。 このリズレーという人は興行師で、西洋のサーカス団を呼んできたことで知られている人物だ。 クリックすると大きな画像に。さらにクリックするともっと大画面に。 リズレーが出したアイスクリーム・サロンの広告が『横浜もののはじめ考』に掲載されている。 これにより、アイスクリーム・サロンはロイヤル・オリンピック劇場と同じ敷地に造られたことが分かる。 その「ロイヤル・オリンピック劇場」というのは、横浜居留地102番(現、横浜市中区山下町102番地)にあった建物で、曲馬団を率いて1864(元治元)年に来日した興行師・軽業師のリチャード・リズレーが所有していた建物である。 ということで繰り返しになるが、リズレーのアイスクリーム・サロンは、1865(慶応元)年5月15日に、外国人居留地の102番か103番あたりで開店されているのだ。 一応その場所を昔の地図で確認しておこう。 クリックすると大きな画像に。さらにクリックするともっと大画面に。 これは1880年版の横浜居留地地図。 102番、103番は現在の「愛香楼」、「香格里拉」、「熊倉自転車店」があるあたりだ。(ちなみに112番はリズレーの氷店があった場所である) リズレーのアイスクリーム・サロンがあったのは、ピンポイントで「香格里拉」の位置だったとは言えないが、まあおおよそこの辺だったに違いない。 そうなると、馬車道に設置されているアイスクリームの記念碑「太陽の母子像」はどういうことになるのか。 いろいろなサイトで、ここがアイスクリーム発祥の地として紹介されているが、ここは明治2年に町田房造が日本人として初めてアイスクリームを製造・販売した場所なのである。 このことは明治25年7月に発行された『横濱沿革誌』の明治2年6月の項に、確かにこう書いてある。 馬車道通常盤町五丁目ニ於テ町田房造ナルモノ氷水店ヲ開業ス當時ハ外國人稀ニ立寄氷又ハアイスクリームヲ飲用ス本邦人ハ之ヲ縦覧スルノミ店主爲メニ當初ノ目的ヲ失シ大ニ損耗ス尚翌三年四月伊勢皇太神宮タ大祭ニ際シ再ヒ開業セシニ頗ル繁昌ヲ極メ因テ前年ノ失敗ヲ恢復セリト爾来陸續來客アリテ恰モ専賣権ヲ得タル如ク繁榮ヲ極メタリ之ヲ氷水店ノ嚆矢トス つまり、日本におけるアイスクリーム発祥の地は山下町であり、日本人が初めてアイスクリームを販売したのが馬車道だったということになるのだ。 それと、もう一つ気になることがある。 日本で初めてアイスクリームが発売された日はいつなのか?ということだ。 いろいろなHPやブログで“5月9日”などと書かれているが、これもまた怪しいのである。 すでに開港資料館の研究員の記事で見たように、リズレーが初めてアイスクリームを販売したのは1865年5月15日だ。 実はこれ、アイスクリーム協会が設定した“アイスクリームの日”と混同したまま、あまり調べずにあちこちで情報を流してしまったために、こんなことになっているとしか思えないのである。 日本アイスクリーム協会のホームページを見ると、こんなことが書いてある。 アイスクリームの一層の消費拡大を願って、東京オリンピック開催年の昭和39年(1964年)に、アイスクリームのシーズンインとなる連休明けの5月9日に記念事業を開催し、あわせて諸施設へのアイスクリームのプレゼントをしました。以降、毎年5月9日を「アイスクリームの日」として、この日を中心に各地区で各種イべントと施設へのアイスクリームのプレゼントを実施しています。 この日は土曜日だったから、イベントを開催するにはちょうどよい日だったのだろう。 ここから短絡的に「アイスクリームの発祥=馬車道=町田房造=5月9日」という説が出来上がったに違いない。 ということで、もういちど整理すると、 1)日本で最初にアイスクリームを製造販売したのはリズレーで、年月と場所は慶応元年5月15日(新暦では6月)、現山下町102番か103番あたり。 2)日本人で最初にアイスクリームを製造販売したのは町田房造で、年月と場所は明治2年6月(新暦では7月)、馬車道。 3)昭和39年に、アイスクリームの販売促進を願って5月9日を「アイスクリームの日」として制定。 4)昭和51年11月、アイスクリームの発祥記念碑として馬車道に「太陽の母子像」が建立された。(同年同月、馬車道再開発第1期工事が完成し、馬車道まつりが開催されているので、この祭りとセットで設置されたのだろう) これでなんとなくスッキリした…と思ったのだが、実はまだ問題があった。 町田房造という人物の名前だ。中区役所のホームページで“房三”となっているのは問題外としても、“房蔵”という表記をあちこちで見かける。 アイスクリーム協会でもこの名前を使っているのだが、『横浜沿革誌』では“房造”となっている。おそらく「蔵」や「三」は変換ミスなのであろう。 ということで、万事スッキリ~…と思ったら、またまた新しい疑問が出てきた。 それは、馬車道に設置されている「太陽の母子像」に関することだ。 もう一度ここでアイスクリーム発祥の地として設置されている「太陽の母子像」を見ていただこう。 いいですか、お母さんが赤ちゃんを抱きよせていますよね。 さぁ、こっちを見てください! どうです、同じでしょ! いったいどうなっているのか… 横浜と札幌…。 アイスクリーム…牛乳…母乳? もののはじめ…牛乳…札幌農学校? アイスクリーム発祥の地記念碑として、なぜ、北海道の彫刻家の作品が馬車道に飾られているのか… う~ん。 たかがアイスクリームなのに、なんだか奥が深い…。 さらに、これはアイスクリームとは関係ない話なのだが、横浜と北海道に共通する彫刻が伊勢佐木モールと旭川買物公園にある。 これだ! 伊勢佐木モールの若い女と、旭川の若い女! これは伊勢佐木モールを造るときに、旭川の買物公園を参考にしたという経緯があるようなので、おそらくそこに置く彫刻も同じものにしたのだろうという想像はできる。 だが、札幌にある「太陽の母子像」と同じ彫刻が、なぜ、横浜でアイスクリーム発祥の記念碑として使われているのか、まだまだ調べてみなければいけないようだ。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
私も昔は気づいていませんでした。
でも、ああいう像の台座を見るようになってから、
いろいろなことが分かってきました。
これは分かりませんね。
今度、サッポロに行ったら聞いてこようかな。
今年はまだ美味しいアイスを食べていません。
どこでいただこうかな。
函館と横浜は同じ開港仲間ですから、
150周年は同時でいいのですが、
馬車道にある母子像と同じものが、
15年後に札幌にもできたというのがねぇ…
「もののはじめ」は難しいです。
外国人が売ったのか、日本人が売ったのか、
それによって発祥の地が2つもできてしまう…
謎解きは冬桃さんにお願いしたいです。
あることすら知りませんでした。
いろんなところをちゃんと見てないんだなあ、と
反省。
像が同じなのは…北海道の彫刻家が「離れているからどーせ気が付かないだろう…」と同じのを2つ作ったとか??
Y150をやってた頃には函館でも開港150周年祭りをやってましたし。
「太陽の母子像」については、北海道に置かれたのは1991年のようですね。
http://www.hongoshin-smos.jp/sculpture/taiyonoboshi.html
ずっと馬車道が発祥の地だと思ってました(笑
横浜と北海道の共通点・・・・ほとんどなさそうな気がしますが・・