おととし芥川賞を受賞した楊逸(ヤンイー)さんの『時が滲む朝』。日本語を母語としない中国人作家が書いた小説として、当時、たいへん話題になった作品である。 これを図書館で読もうとしたら、予約が殺到していて一時は数百人待ちという状態だった。 この作品のテーマは、中国民主化運動にかかわった若者たちの青春と挫折である。 あらすじはこんな感じだ。 中国西北部の貧しい地域に住んでいる梁浩遠と謝志強は仲良しの高校生。二人とも大学卒業後は教師になって子どもたちの教育に携わり、地元を豊かにしたいという夢を持っている。 梁浩遠の父親はかつて北京大学のエリート学生だったのだが、右派の烙印を押され卒業前に西北部の貧しい農村に下放された人である。そこで農業に携わった後、小学校の先生になったという経歴の持ち主だ。 梁浩遠と謝志強は一緒に秦漢大学に合格する。入学後しばらくは希望に燃えて勉学に勤しんでいたのだが、詩人であり改革派でもある甘先生の影響を受け、次第に民主化運動にかかわっていく。 二人は「愛国」「民主主義」「アメリカ」などについて学生たちと議論を重ねながら集会にも参加する。 民主化運動に深く関わっていくうちに、学生たちは大学の授業をボイコットし、甘先生とともに天安門広場に向かった。 そんな中で二人は、同じ大学の白英露という女性と出会う。のちに仄かな想いを寄せることになるのだが、その辺のことはさらりと書かれている。 長引く座り込み。学生たちは一旦大学へ戻ることになった。 しばらくすると、「天安門広場に装甲部隊が突入した」というニュースが飛び込む。 彼らは北京から引き揚げていたため事件に巻き込まれることもなく、それからは通常の授業が始まったが、以前のような希望に溢れた勉強ができない。 そんなある日、二人は他の学生を誘って大学近くの料理屋へ酒を飲みに行く。そこで居合わせた労働者たちと争いになり、乱闘事件を引き起こす。 結果は退学処分だ。甘先生は海外に亡命し、白英露は行方不明となった。 その後、梁浩遠は残留孤児の娘である梅という日本人と結婚。謝志強は日雇い労働者として故郷で働くことに。 それから10年後。梁浩遠と妻の梅は日本で生活していた。梁浩遠は印刷工場で中国語の翻訳をしながらのアルバイト。それが認められて今では正社員になっていた。 梅は、民主化運動仲間の黄さんの開いた「黄雄餃子館」の店長に。 夫婦の間には桜と民生(たみお)という二人の子どもにも恵まれた。 一方の謝志強は中国で有名なデザイナーになっていた。彼は2000年に来日し、餃子館で梁浩遠一家と再会する。 同じ年、亡命していた甘先生が女性と子どもを連れて日本にやってきた。その女性は白英露だった。彼女は天安門事件のあとアメリカに渡り、そこで学問を続けてフランス人と結婚。子どもも生まれたが離婚している。 その夜、梁浩遠一家は3人と食事会を催す。甘先生の奥さんは彼が亡命中に亡くなっていた。このあと先生は中国に戻り、故郷の小学校で教員になる気持ちを打ち明ける。 翌日、一家は中国に向かう3人を見送りに空港へ。飛び立つ飛行機を見ながら息子の民生が聞く。 「あの人たちはどこに行くの?」 「中国よ。お父さんの故郷です」と桜。 言葉の意味が分からない民生はさらに訊ねる。 「故郷って、なに?」 今度は梁浩遠が答える。 「自分の生まれたところ、そして死ぬところだよ」 「じゃ、たっくんのふるさとは日本だね」 だいたい、こんな内容だったが、読みながらさまざまな思いがよぎった。 三民主義を掲げて戦った孫文たちの中国革命。その三民主義の中の一つ、民生主義の「民生」が、梁浩遠の息子の名前と重なる。 日本の60年安保闘争や60年代末の学生運動も頭をよぎった。激しい闘争だったが、結局は権力に押さえ込まれジリ貧になってしまう。彼らの多くは青春の挫折を抱えながら企業人として働き、一部には重役や社長にまで上り詰めていたりする人も。 そして現代の中華街。ニューカマーといわれる人々が不自由な日本語もなんのその、あちこちに店を出し、なかにはいくつもの店舗を構えるようになってきている状況もダブって見えてくる。 作者の楊逸さん自身、この本の主人公と重ね合わせているのではないか。 冒頭の写真は彼女が芥川賞を受賞して最初に横浜で行われた講演会の舞台である。『横浜からの写真に魅せられて』と題し、2008年10月18日に開催された。 以下は、そのときの講演内容である。 楊逸さんは1964年、黒龍江省ハルビンで生まれた。この年、日本では東京オリンピックが開催されており、今回の作品の終盤に描かれる北京オリンピック阻止の話と妙な因縁が。 父親はハルピンの大学で漢文を教えていたが、文化大革命で農村に下放されてしまい、彼女は幼少期~学生時代を田舎の村で過ごすことになった。 当時は貧しい農村で遊ぶものもなく、毎日、本を読んで過ごしていたという。 実は、楊逸さんの祖父も、かつては中国の内戦で翻弄されたうちの一人。のちに息子(伯父)2人を連れて台湾へ移住してしまうのだが、祖母や母たちは中国本土に残った。 楊逸さんが来日するきっかっけとなったのは、横浜から届いた一枚の写真。 1980年代の初め、伯父から手紙が届き、親戚が中華街に居ることを初めて知った。 その手紙の中に伯父一家の写真が入っていたのだった。女性たちはカラフルな服を着て、みんな幸せそうな感じだったという。カラー写真を見たのもこの時が初めてだったそうだ。 当時の自分の生活では、たとえカラー写真があったとしても、着ている服が色彩のない地味なものばかりだったので、プリントされた写真は暗い感じになったはず、と彼女は振り返える。 自分が住んでいるところは農村地帯。今まで海を見たこともなかったので、ますます横浜に行きたいと思うようになった。 1987年、ビザが発給され来日。23歳になっていた。 日本に来たその日からアルバイト探しに奔走。もちろん日本語なんて喋ることはできない。やっと工場でのアルバイト仕事を見つけ、実用的な日本語の勉強を兼ねて働くようになった。 その給料で新宿の日本語学校にも通い、やがて東海大学の聴講生になる。しかし、そのときのビザが2年間だったため、留学生ビザを取ろうと思いお茶の水大学に入学した。教育学部地理学専攻だった。 そのお茶大生時代に、本国で天安門事件が起きたのだった。楊逸さん自身は帰郷していたのだが、現場には居なかったようである。受賞作品の中で、梁浩遠ら学生たちが広場を去り故郷に戻ったところで事件のニュースを知るというくだりがあったが、そのあたりも自身の体験に重ね合わせているのかもしれない。 大学を4年で卒業し中国語の新聞社で記者になる。その間に日本人と結婚し、子供も二人になった。そこで3年ほど勤めたが、少しでも給料のいいところということで、日本人に中国語を教える仕事に。 そうこうするうちに、中国では反日デモが起こり、仕事が減ってきた。このままでは生活に響くと思い、小説を書いて原稿料を得て生活しようと考えたそうだ。(このときの講演では喋らなかったが、あとで経歴を調べたら、彼女は2000年頃に離婚しているのだった) そこで初めて書いたのが「ワンちゃん」という小説。これが文学界新人賞に。 そして翌2008年、「時が滲む朝」で芥川賞を受賞した。 拙ブログの素人がプロに対して難癖をつけるわけではないが、この作品には中国的な言い回しや熟語も多く、日本語としてどこかヘンという部分もある。しかも天安門事件の挫折や、白英露との男女間の機微などが意外とサラリと書かれているのが歯がゆかった。 そして今年から朝日新聞で連載小説が始まった。タイトルは獅子頭。 中国料理の話などが出てくるので、興味を持って読んでいたのだが、ある日突然、我が家の新聞が朝日から他紙に替えられたため、自宅で読むことができなくなってしまった。 購読新聞変更の理由は、女房が勧誘員から貰ったさまざまな景品だ。洗剤やらゴミ袋やら、生活用消耗品をたくさん手に入れたらしい。 おかげで2ダースの缶ビールにありついているわけなのだがね。 楊逸さんが受賞した当初、横浜中華街のとある店にこんなポスターが張り出された。 受賞を記念した楊逸(ヤン・イー)大好物家庭料理セット。こんなメニューを出したのにはワケがある。実は、彼女が横浜に来るきっかけとなった例の写真は、ここから送られたのだ。 そう、ここが伯父さんの店だったのである。 そのうち食べに行こうと思っていたのだが、いつのまにかポスターは外されていた。今でもこのセットがあるのかどうかは不明だ。 そういえば元祖・担担麺を食べて以来、ここには行っていないなぁ。 さて昨年、楊逸さんに次ぐ中国人女性の文学賞受賞者が誕生した。北京市生まれの女性で、「さくらんぼ文学新人賞」(山形県さくらんぼテレビ主催)の大賞を受賞したというのだ。 彼女が来日したのは2000年。中国の大学で日本語を勉強していたとはいえ、日本に来て9年で文学賞を獲得したのはすごい。 ニューカマーの活躍の場は、商店や中華料理店だけではなく、いまや文学の世界にまで広がってきたようだ。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね 「ハマる横浜中華街」情報はコチラ⇒ |
おっしゃる通り文学として多少のあれはありますが、中華街を頻繁に訪れて華僑華人に接点のある人にはフィクション・ノンフィクション混じりの不思議な感覚で読める書物ですよね。
記念メニューはお願いすれば作ってくださるのでは?
本を新品でお買い求めになるのでしたら、伯父さんのお店で購入されればもれなくサイン入りであります。
それより、ここで食事つきの講演会でもやってくれたらいいのですけどね。
老華僑、新華僑、ニューカマー等々呼び方は色々ですが、
私の“先輩”はこう仰りました。
「私は日本に骨を埋める。」と
故郷を共有する人を“同朋”と言うのではないでしょうか?
アハッ! 北京の肉団子が食べたくなりました。(笑
知人の三世は、「自分の気持ちも考え方も、もう日本人そのもです」とおっしゃっていました。
私も「北京」のフアァフアァ肉団子が食べたくなってきましたよ。
お好きな向きは是非どうぞ。
面倒です。
宅配お願いしたいですね。