中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

間もなく閉店する横浜松坂屋 ~「お好み食堂」~

2008年08月12日 | おいしい横浜

 元治元年、野澤屋呉服店として創業した横浜松坂屋。この10月26日をもって144年の歴史に幕を閉じる。

 ここで少し、横浜松坂屋の歴史をおさらいしておこう。
 創業者・初代茂木惣兵衛は文政10(1827)年上野国群馬郡高崎一の宮(現在の群馬県高崎市)で生まれている。実家は質屋であったが、11歳で呉服店に奉公し商売の道を習ったあと、嘉永7(1854)年に独立して高崎で生糸の商売を始めた。
 ちなみに、ペリー提督がサスケハナ号など7隻の軍艦を率いて横浜に現れたのは、この年である。3月には神奈川で日米和親条約が調印されている。

 安政6(1859)年、横浜開港。このころ弁天通りで野澤屋という雑貨商を営んでいる男がいた。野澤庄三郎という。開港場が賑わってくると、彼は流行の生糸に手を出したが、経験不足のためうまくいかず困っていた。この苦境を打開するため、野澤庄三郎は知人から茂木惣兵衛を紹介される。一旗揚げようと考えていた惣兵衛は、これをきっかけに横浜へ出てきて野澤屋で働くことになった。
 彼は経験を生かし、めきめき業績をあげていった。商売は繁盛して野澤屋は横浜でも屈指の店となったが、文久元(1861)年、店主の野澤庄三郎が急逝してしまう。

 野澤屋を出た茂木惣兵衛は、弁天通4丁目に小店舗を構え再び独立する。屋号も同じ野澤屋呉服店として看板をかかげた。これが横浜松坂屋の創業となる。経験と才能を活かし、店はどんどんと発展していった。
 明治43(1910)年には、伊勢佐木町1丁目にデパートメントストアとして支店を開設。

 大正12(1923)年、関東大震災。鉄筋コンクリート造の新館は倒壊を免れたが、木造の旧館は全滅してしまう。だが、すぐさま復興に向けた努力が始まり、大正15(1926)年、営業を全面再開した。
 昭和3(1928)年、呉服店の名前は現実にそぐわないものとなっていたので、社名を株式会社野澤屋と改称。この年、顧客を送迎するため横浜駅・桜木町駅と店舗との間で送迎バスの運行も始めた。



 昭和20(1945)年5月29日、横浜大空襲。伊勢佐木町は焼野原と化したが、本館は火災をまぬがれた。というよりも、米軍はピンポイント攻撃によって、この建物を残したのである。接収後にここを使う計画があったからだ。
 現に終戦とともに野澤屋はアメリカ進駐軍に接収されPX(軍隊の売店)になってしまった。その後の占領は長く、全館が接収解除されたのは昭和30(1955)年のことだった。

 昭和49(1974)年、社名を『野澤屋』から『ノザワ松坂屋』に改称。(もともと松坂屋とは深い関係があった)
 その後、横浜駅西口はますます発展し、郊外には大型スーパーが多数できてくると、これらに対抗して、松屋横浜店を買収し店舗を拡張した。昭和52(1977)年、社名も『横浜松坂屋』と変更する。

時計じゃないよ。アナログで動くエレベーターの階数表示機。

 平成5(1993)年、ランドマークタワーが完成。これを機に人々の足は「みなとみらい21地区」に向いていく。と同時に伊勢佐木町にも変化が現れてくる。横浜松坂屋も例外ではない。もはや老舗という基礎体力だけではやっていけなくなる。
 平成7(1995)年、西館を切り離すことを決定。平成12(2000)年、日本中央競馬会との間で賃貸借の契約が締結され、11月、日本最大級の定員制場外勝馬投票劵発売所がオープンした。

 平成16(2004)年、横浜市の歴史的建造物として認定されたものの、それから僅か4年後の平成20(2008)年10月26日を最後に東館も閉鎖し、144年の歴史にピリオドを打つことになった。
 今後は、この建物がこのままの姿で残るのか、それとも日本興亜馬車道ビル(旧川崎銀行横浜支店)のようにファサードだけ残して保存再生されるのか。まさか解体なんてことはありえないと思うのだが、先行きは不透明だ。


 震災前に建築された貴重な建物ということもあるが、アールデコ調のテラコッタで飾られた美しい建物である。ぜひ、このままの形で残してほしいと願わずにはいられない。


 エレベーター内。エレベーターガールがいた頃の名残が垣間見られる。
 ジャバラ格子の扉が付いていたのは、いつ頃までだったのかなぁ…。

 閑話休題。
 まだレジャーの選択肢が少なかった「三丁目の夕日」時代、デパートの屋上といえばいろいろな遊具が揃っており、ここも立派な遊園地であった。電気で動くミニ電車やグルグル回る飛行機、あるいは遠くまで見える望遠鏡…あぁ、そういえば覗きカラクリなんかもあったなぁ…郊外の大きな遊園地まで行かなくても、都心部に建つデパートの屋上が、当時の子供たちにとってはハレの場だったのである。
 みんな“よそ行きの格好”をしていた。普段は青っ洟(あおっぱな)を垂らしていた子も、こんな日には鼻汁をきれいに吸い取られ、白いYシャツに子供用ネクタイなんか締めて、ウキウキと遊びに行ったものだ。
 
 ひとしきり屋上遊園地で遊んだあと、子供たちを待っていたのは「お好み食堂」。和洋中、なんでも揃っていた。
 フロアには紺色の制服に白いエプロンを付けたお姉さんたち。美味しそうな料理をお盆に載せて動き回っているの姿が今でも眼に焼きついている。
 大きな円卓の中央には白地に水玉の土瓶。なぜかお茶はセルフサービスだった。


 当時、外食といえば「デパートのお好み食堂」か「不二家」。子供たちが食べたいものの筆頭はエビフライだった。
 あの頃を思い出して、6階のお好み食堂へ行ってみた。もう間もなく、ここで食べることができなくなると思うと、残された2か月間は週1回くらいのペースでランチをしに行こうか。

 この日注文したのは、もちろんエビフライ定食!
 サクサクのコロモの中は、太目のエビがちゃんと入っている。それが3本。タルタルソースを絡めて食べるとウマい。二口目はエビフライとご飯を同時にほおばる。何の特色もない白いご飯が、エビフライの旨みを一層引き立ててくれる。


 食堂の前には競馬神社がある。鳥居ならぬ馬蹄の奥には、なにやら御神体らしきものが…


 “競馬の神様”といわれた大川慶次郎の遺品だ。もちろん、競馬にちなむ物が奉られている。
 

 階段の途中に飾られた古い写真。各階段、踊り場に掲出してあるので、これだけでも結構楽しめる。

 閉店まであと2か月。野澤屋時代を知っている人も、知らない人も、早めに行っておいた方がいいよ。



←野澤屋、横浜松坂屋! お疲れさん! 建物は残してね!

「ハマる横浜中華街」ランチ情報はコチラ⇒




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6 コメント

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我が家は…、 (seikoMTD)
2008-08-12 21:22:38
市電の跡を桜木町から歩き、まずは松坂屋の地下で翌朝の食事用に食料品を購入。その後、家族での夕食は不二家3階の中華レストラン。春巻と小海老の天ぷらとコーンスープと炒飯を家族4人で突っつき、帰り際に1階でパラソルチョコと箱入りミニカーチョコをおねだり。そして最後に、有隣堂で怪獣図鑑を買って貰うのが定番でした。
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三位一体 (管理人)
2008-08-13 05:35:39
◇seikoMTDさん
そうですね、横浜松坂屋・有隣堂・不二家はセットでしたね。
一時、有隣堂の地下にもレストランがあったけ。

横浜松坂屋がなくなるということは、有隣堂にとっても痛手となるのではないでしょうか。
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ハマっ子だねぇ (とも2)
2008-08-13 17:54:27
酔華さんもseikoMTDさんもハマっ子ですねぇ♪
でも、コメでは松坂屋を使っているけど、二人とも「ノザワヤ」世代じゃないのですか?
ちなみに、ワシは今でも時々間違えて、我妻に怪訝な顔をされます。
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ごめん (管理人)
2008-08-13 22:37:12
◇とも2さん
横浜松坂屋じゃないですよね。野澤屋です。
やっぱり、あそこは野澤屋なのだ。
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Unknown (たけ)
2008-08-24 23:24:00
はじめまして。
いつも拝読しております。
松坂屋のお好み食堂は確か反対側にあって、今ある側には大衆食堂があったと記憶しております。ワタシはいつも大衆の方でお子様ランチを食べさせてもらった記憶があるのですが。どなたかご存知の方に確認したく思っておりました。
自分も最近は足を運んでないので、身勝手な発言ですが、ホント寂しいです。正に栄枯盛衰を感じます。
また、有燐堂地下のレストランも好きでした。
そして、ふるかわの記事参考になりました。
いつも貴重な情報ありがとうございます。
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大衆食堂 (管理人)
2008-08-25 05:08:58
◇たけさん
コメントありがとうございます。
お好み食堂のほかに大衆食堂があったなんて、まったく覚えていませんでした。
いくら考えても思い出せない。

人間の記憶なんてたいしたことないですね。
写真でも撮っておけばよかったのですが…
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