先日、久しぶりに野毛小路の「フライ屋」へ行った。 ビルの谷間を利用した立ち呑みの店で、「福田フライ」が正式名称なのかもしれないが、看板には「立ち飲み・フライ屋」とあるため、単に「フライ屋」と呼ばれている。 オジサンたちのオアシスとしては老舗的存在である(戦後間もなくの開業)。 この夜食べたのは、もちろんクジラ。一串170円のフライを、辛いソースにドボンと浸けて出してくれる。衣はビチャビチャで、何とも言えない懐かしい味がする。 若い人はどうか知らないが、わたくしが子どもの頃、給食でよく出てきたのがクジラである。それは竜田揚げとなってアルマイトのお皿に乗っていた。そして食後は、クジラの肝臓から抽出した、あの不味い「肝油」を飲まされたものだ。 私たちよりずっと上の世代だと、野毛のクジラ横丁が懐かしいのではないだろうか。終戦直後から昭和27年ごろまで櫻川沿いに並んでいたバラックの飲食店街である。男たちは、クジラを肴にカストリ焼酎を呑んでいた。食糧難のあの時代、クジラは貴重な蛋白源だったし、カストリも立派な酒だった。 そんなクジラと横浜の関係は意外に古く、150年ほど前に遡る。実は横浜開港のきっかけはクジラだったのである。 洋の東西を問わず、捕鯨は太古の時代から行われていた。商業捕鯨が始まるのは中世になってからだ。 近代ヨーロッパの捕鯨は油を採るために行われていたが、まだこの頃は沿岸で捕鯨をしていたので、鯨油のほかに肉も食用として利用されていた。いま西洋人はクジラを食べないようなことを言っているが、当時のイギリスでは「王家の魚」として称賛され、捕獲したクジラの頭は国王に献上されていたくらいである。 当初ノルウェー、オランダ、イギリスが行っていた捕鯨は、次第に南ヨーロッパ各国にも伝わる。16世紀になると沿岸での捕獲だけでは需要を満たせなくなり、漁場を拡大・移動する必要がでてきた。 最初に開拓されたのは北極海である。当時、東洋へ到達する航路としての南方航路はスペインとポルトガルが独占していたため、オランダとイギリスは北回りの航路を開発したいというネライをもっていた。北極海における捕鯨漁場の発見は、この地理的・企業的冒険心の副産物だったのである。 西洋における近代捕鯨の発達は、大航海時代といわれる世界発見の過程と軌を一にしている。当時の捕鯨船はクジラを捕る船であると同時に、探検船でもあった。 鯨油は灯火用オイルとして、また鯨髭は婦人用コルセットの素材として需要が高まり、次第に沿岸捕獲だけではまかないきれなくなる。 ビスケー湾から始まった捕鯨活動は北極海に移り、その後、新発見のアメリカ大陸北大西洋沿岸、カリブ海、南アメリカ東岸へと進み、さらに18世紀末マゼラン海峡を抜けて太平洋に入り、南太平洋、ハワイまで到達した。 そして19世紀、ついに日本に到達することになる。かつて、金銀を求めて西からやてきたスペイン人、ポルトガル人によって発見された日本。その後しばらく鎖国をしていたため忘れられていたが、今度はクジラを求めて東からやってきたアメリカ人によって再び「ジャパン」が発見されたのだ。 故国から遠く離れた漁場で捕鯨をするアメリカの船乗りたちにとって、近くの陸上での休養と補給はどうしても必要だった。その最適な場所が日本だった。そこで、捕鯨者たちはアメリカ政府を動かし、日本に開国を迫った。ペリーが江戸湾に現れたのも、そのためだった。横浜開港の影には「クジラ」がいたのだ。 もし、アメリカが捕鯨をしていなければ、日本の開国、横浜の開港はもっと遅れていたに違いない。 やがて20世紀になると、漁場は南氷洋に至った。これによって地球上の漁場はすべて開発され尽くしてしまったのである。 そこで、このままでは資源が枯渇してしまうという危機意識から、1946年、国際捕鯨委員会(IWC)が開設された。当然のことながら、その構成メンバーの多くは捕鯨国だった。この時点でアメリカは既に捕鯨から撤退していたが、世界のリーダーという意識から参加した。 それから20数年間の紆余曲折を経て、60年代から70年代にベトナム戦争が泥沼化していくと、アメリカのニクソン大統領は、高まった反政府世論をかわすため、クジラやイルカなどの保護を重要な政策として打ち出した。アメリカ国民のみならず世界の目を、「ベトナムの枯葉剤」から「捕鯨国の残虐行為」に向けさせるために、クジラを利用したのだった。 そこで、アメリカやイギリスは、捕鯨に反対するために、自国の言うことを聞く国々を誘い、IWCに加盟させた。なかには海に面していない国まで入ってきた。そのような国々は、経済援助の見返りとして名義を貸したのである。 その結果、構成メンバーの大半が反捕鯨国になったところで、82年、商業捕鯨を禁止する決議が採択され、86年から実施されてしまった。 その後90年代から日本は逆襲に転じ、かつて米英が採ったのと同じ手法で、発展途上国の票を買い集めている。ODAと引き換えに日本支持国を増やしているのだ。 ■くじら屋(宮川町2丁目) 福富町から宮川橋を渡り少し行くとクジラを食わせる店がある。今でこそ「店」と言えるような構えになっているが、わたくしが初めて訪れた大昔は、路上にイスを並べただけの露店だった。 もう記憶が定かではないのだが、確か店と店の間、いわば軒下みたいなところから水道を引いていたと思う。 店を切り盛りするのはオバサンで、オジサンの方はいつも競馬の話をしていた。 夏になると、女装したアイスクリーム屋さんがリヤカーを曳きながらやってきた。たいていはイスに座るなり、 「最近はアイスが売れなくて困るわ」と嘆いていた。 しばらく露店で休憩し、再び鐘を鳴らして出ていくのが日課だったようである。 その後、店は拡張を続け、現在に至っている。最近は行っていないので、近々、食べに行きたいと思っている。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
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では頑張ってくださいね
給食によく出ました。
牛肉なんて間違っても出ない時代でした^^
あはは。
最後に食べた給食も鯨だったように覚えています。
竜田揚げのごまミソ味。
好きでしたので、美味しい思い出です。
最近見かけると買ってしょうがや玉ねぎのすりおろしで
臭み消して竜田揚げ。
子供達喜んで食べますよ。
昭和50年生まれの人たちぐらいから給食に出なくなったようです。
ときどき食べたくなりますよね。
渋谷の道玄坂にもクジラ屋があったと記憶しています。
鍋もあったんじゃないかなぁ…