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中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

作治さんと一緒に野毛の調査

2016年06月18日 | おいしい横浜

 4月30日(土)のことだが、最近の野毛がどうなっているの調べるため、作治さんと一緒に町内の散策に行ってきた。

 この日は午前中から午後にかけて、私は会議があったため調査を始めたのは午後3時過ぎ。
 まずは「ぴおシティ」の地下にある「寿司処かぐら」で喉を湿していく。ここは以前、いその爺さんに教えていただいた店だ。

 とりあえず晩酌セットを頼む。肴は3種類。画像を見ればモズクと刺身があるのは分かる。しかし、真ん中の肴が何であったのかは分からなくなってしまった。
 拡大してみても、もともとの写真がピンボケなのでよく分からん…

 これを食べながらビールはジョッキで2,3杯やっただろうか。
 昔の野毛は良かった…なんて話をしてから、いよいよ最近の町を調べに行く。


 おじさん、おばさんたちの行列。
 「木目田紙店」に入るため並んでいるのではない。彼らのお目当ては、その左隣にある焼き鳥「末広」だ。
 私も昔は時々行っていたけど、こんなに並んでいることはなかった。

 当時(30年くらい前)、野毛のヤキトリ屋で好きだったのは「若竹」、「庄兵衛」、「せきや」、「でんすけ」あたり。
 「若竹」はあの雰囲気と鶏のスープが、そして「庄兵衛」では満州焼き、「せきや」ではピーマンの肉詰め、「でんすけ」ではタンが好みの一品だった。

 野毛には他にも焼き鳥屋はたくさんあり、仕事帰りのオジサンたちで賑わっていた。
 それが最近ではホルモン焼きが目立つ。しかもそこで呑んでいるのは、オジサンたちよりも若い人たち、とりわけ女性の姿が多いように思われる。


 路上にセットされたテーブル席でホルモンを焼いているのは若い男女グループ。なんだか大学祭の延長線上みたいな雰囲気だ。(撮影は別な日)


 最近のブームの火付け役となったのは「もつしげ」とか「ホルモンセンター」だろうか。


 そして、こういう店も現れた。
 立ち食い焼肉店だ。しかも30円からという値段設定!


 もう一つの流れがバル。洋風の立ち飲み店である。小さいテーブル席もあるけど、基本は立ち飲みだ。
 最近の野毛はホルモンとバルが目立つようになった。しかもお店をやっているのが若い人だったりする。
 商店街の方に聞くと、東横線の廃線が契機となったという。線路が無くなったことによって野毛のお店の賃貸料が下がり、若い人たちが参入しやすくなったというのだ。(この写真も別な日に撮影)

 作治さんと一緒に最近の野毛状況を確認しながら次に向かったのは「庄兵衛」。
 

 相変わらず旨いね。変らぬ味だ。
 こんなのを何本か食べながら昔の野毛について話をする。話題は若い頃に通った店や店員のこと。そして一緒に行った同僚や先輩の失態話だ。

 さて、ほろ酔いになったところで帰ることに。地上を渡り歩いて桜木町駅に向かってもいいのだが、なんとなく地下に潜ることになった。
 それも「野毛ちかみち」ではなく、もう一つの地下道である。


 「ぴおシティ」のB1。閑散としている…てっていうか、店がないじゃん!


 空き店舗だらけだ。ここはどうなるのかなぁ。


 もう一つの地下道。


 なんとなく傾斜が付いているんだよね。なんでだろう…?
 昔はここでホームレスのオジサンが毎日、缶を前に置いて歌を歌っていたっけ。驚いたのはその声量と技量だ。
 本格的な歌をアカペラでやっていた。あれは凄かったね。


 階段だけだったのが、いつの間にかエスカレーターも付いている。


 地上に出ると……


 そこには1966年頃の駅前風景が現れた。


 野毛側の出入口。


 おまけとして音楽通り。釣り堀があったんだよね。


 気になっている野毛の坂道。埋め立ての名残だろうか…


 さらにオマケです。

 昭和7年の野毛の地図。(横浜市三千分一地形図から)
 クリックして拡大

 野毛坂は通称「仏壇坂」といった。上の方に大聖院をはじめ多くの寺があったからだ。
 図書館の隣には「震災記念館」があった。貴重な史料などを集めた展示施設だったようだが、戦争が始まると金属回収令によって金属類を供出させられ、1942年からは「市民博物館」となった。



 ここはその後、老松会館とか結婚相談所が入っていたが、現在は解体され図書館の一部になっている。
 そういえば、市民博物館当時の資料も散逸してしまったと、横浜市史の専門家から聞いたことを思い出した。

 さて、もう一度、昭和6年の地図に戻ろう。
 図書館の向かい側に「平沼邸」が描かれている。明治時代の豪商・平沼専蔵さんの邸宅である。ここの亀甲石積は現在も残っている。

 市電の通りには「横浜憲兵隊」。現在はJRAの場外馬券売り場になっている。昔から馬には縁の深い場所だったようだ。
 開港当時はこの一帯に太田陣屋が広がっていた。

 子の神社も描かれている。今の場所で言えば「ちぇるる」のとこ。
 神社は現在、日ノ出町駅の近くに移転しているが、「ちぇるる」の敷地角に神社の由来を書いた解説板がある。

 桜川に錦橋という橋が架かっていたが、野毛の「錦寿司」の店名はここからとったのではないだろうか。


  
 こちらは昭和24年の野毛。(横浜市三千分一地形図から)
 クリックして拡大
 
 憲兵隊の跡地には「横浜国際劇場」と「マッカーサー劇場」が建っている。
 錦橋そばの興産館には中区役所が入った。
 税務署はそのままだね。これは今、野毛にぎわい座になっているよね。


 そして、次ぎは昭和31年の地図。


 マッカーサー劇場は消えて、吉本映画劇場になっている。
 さらに路地裏には「横浜文化劇場」なんていうのが登場。ほかに「かもめ座」と「光音座」なんてのもあり、映画館の町みたいだったんだね。

 
 ということで、野毛の現在と過去を眺めてみた。
 おしまい。
 

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6 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (いその爺)
2016-06-18 15:05:17
野毛が活性している事は大歓迎しているのですが、反動なのか問題も表面化されてきているようです。呑まずに長居を決め込む観光客?
小路辺りでは時間制限の店も出始めたようですね。(笑

非難店がまだ存在するのが救いです。

昭和7年の地図。母の生家と思われる一帯が。。。
今となっては特定出来ないのが残念です。  15年早ければ!(笑
返信する
Unknown (いその爺)
2016-06-18 15:07:54
失礼しました。
↑非難店×  避難店と訂正させていただきます。m(_ _)m
返信する
野毛の変化 (冬桃)
2016-06-18 16:22:31
私も先日、野毛が「オヤジの街」から「若者の街」に
変わっていった経過を取材しましたが、いその爺さんが
おっしゃるように、問題もいろいろ出てきているようです。
返信する
末広さんの行列 (小径のヌシ(^-^))
2016-06-20 08:03:34
すっごーい !!
いつも並んでいるのは光景として見ていましたが
ココまで並んでいるのははじめて見ました !!

で、ぴおシティの次の地下道もはじめて見たかもしれません
今度探してみよっと ♪

返信する
活性化 (管理人)
2016-06-21 08:02:08
>いその爺さん
>冬桃さん
人が多くなったけれども、呑まずに長居…
そんな話を昨日も聞きました。
路上のテーブルとイスも問題になってきたようで…
ま、いろいろありますね。
返信する
Unknown (管理人)
2016-06-21 08:04:00
>小径のヌシさん
凄い行列でした!
先日も4時半ごろ通りかかったら、すでに10人以上の人たちが群がっていました。

もう一つの地下道、ぜひ行ってみてください。
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