2015年6月5日
人との永遠の別れの儀式・法要にもいろいろあるが、印象深かった三つの話をする。
(1) 祖父
私が小学校4年のころ、母方の祖父が亡くなった。
享年88歳で、当時では記録的だと近所の評判になった。60年以上前だ。
88歳の寿命は今でも十分な年齢だが、当時では十分すぎた。
古い家だったので葬儀・法要は念入りで、何日間も親戚が集まった。これが、私が法要に参列した最初だった。
ただこわいだけの存在だったじいさんが亡くなっても、孫たちはなんの感慨もない。たくさんのいとこが集まって楽しかったことをよく覚えている。
直径3メートルほどもある百万遍という大きな数珠をご詠歌をうたいながら子供達が主になってまわす。面白いものだから、知らんふりして数珠の流れを止める。すると“やめなさい!”と監視役の“オキヨ”叔母さんが数珠を力任せにひっぱる。叔母さんは大柄で迫力のある超美人だった。
“人のこの世は長くして 変わらぬ春と思いしに・・・・・・” ご詠歌、百万遍の数珠は面白かった。
あれから60年後のいま、100歳は普通、私の母はこの11月に100歳となる。
(2) 父の末妹
父の一番末の妹が亡くなったという連絡が入ったのは、1982年の冬のことだった。彼女は鹿児島から、東北の田舎町に嫁いで行った。嫁いだのは、まだ、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が官軍(薩摩・長州)にやっつけられたという思いが根強く残っていた時代だったから、叔母にとってはしんどかっただろう。ちなみに、父と叔母の祖父、つまり私の曽祖父は戊辰戦争には参加していないが、西南戦争で西郷軍として戦死している。
私は、父に付き添って葬儀に出向いた。
たどり着いた叔母宅でいとこのシズちゃんから、“悪いけど、おじさんは永くないよ”と云われ、その後2年もたたないうちに父は亡くなった。
驚いたのは、叔母さんの死に顔だった。
父の顔と寸分違わない。お坊さんが、“お兄さんですね”と云ったが、だれが見てもわかる。
シズちゃんがああいうことを云ったのは、無理もない。
後年、父の姉(私の伯母)の葬儀に行ったが、やはり顔は全く同じだった。
きょうだいは皆死ぬ時は同じ顔をして死ぬ。むろん、そうでもない場合はあるが、それでもかなり似てくる。
そしてそれはけっこういやなものだ。
さて、これからが本題だ。
着いたのは夕刻、その夜にお寺さんが来てお経をあげる。
翌朝、食事後にお経、しばらく休んで昼食、昼食後お経、そして夜のお経のあと食事。
翌日も、朝、昼、夜とお経.
叔父、いとこたちとの雑談にも飽き、うとうと寝かけていると、“お坊さんがこられたから”、と呼びだしがあり、みなぞろぞろと仏間に集まる。
終われば部屋へ。
そのうち、“ごはんですよ”、と呼び出しがあり、ぞろぞろと食卓につく。
三度、三度、コメの名産地のうまいごはんとごちそうを喰って寝転ぶだけで、これじゃ豚だ。
そして、3日目に本葬儀、お焼き場からお骨が戻ってきて、即お墓へお納めする。お墓に線香をあげて手を合わせ、これで終了。
その後町内からの参列者を含む全員が料亭の大広間で集まって食事。喪主の挨拶が終わり、食事となる。
幕の内風弁当の蓋を取ってさあ食べようと思ったら、皆蓋を取って一旦は中身に手をつけたものの、すぐに蓋を閉め、風呂敷に弁当を包み、添えてあった二合酒ビンを持ってザッと一斉に立ち上がって帰り始めた。
あっけにとられたが、わたしもあわててそれに従った。
これがあの地の風習で、こんな法要会食は初めてだった。
私の感想は、“一番印象に残った葬儀、葬儀のフルコースだった。
(3)豪華絢爛
いとこから、母と妹そして母の妹の3つの墓を一カ所に集める、ついてはそのための法要をするというので参列した。
法要は観光で有名なとある寺院の本堂で行われた。管長以下絢爛たる袈裟をまとった沢山のお坊さんが読経。我々参列者は赤黄青などの色の垂れ幕が下がった祭壇で、法要を受ける一人あたりについて二度焼香をした。
なぜ二度づつか、意味は説明されたが憶えていない。小坊主さんの合図で参列者二人ずつ出て行って隅でお辞儀をして焼香する。3人だから合計6回だ。
儀式中思ったことは、これ、ものすごくお金がかかっているんだろな、ということだけだった。
さてわたしは人生の終わりをどう始末つけるだろう・・・・
注)写真は京都知恩院の山門で、本文とは関係ない。
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