良い子の歴史博物館

訪れたことのある博物館、歴史上の人物、交通機関についての感想、小論など。

十河信二と島秀雄

2005年01月08日 | 人物
新幹線の生みの親とも言えるのが十河信二(そごう しんじ)国鉄総裁と島秀雄国鉄技師長である。

明治に日本に鉄道が敷かれたとき、
どういうわけか世界標準から外れた1067ミリ幅の狭軌を採用してしまった。
1435ミリ幅の標準軌に比べると、スピードや輸送力に劣るが、
建設費が安く、土地の占有も少ないので狭軌を採用したものと思われる。

しかし日本経済が発展するにつれ、狭軌が鉄道輸送のネックになった。
満鉄総裁をしたこともある明治大正の政治家 後藤新平のグループは、
標準軌への改造を主張する。
一方、原敬などの政党政治家グループは、
標準軌改造よりも、鉄道の地方建設を優先すべし、と主張し、対立した。
政治家にとって、選挙民向けには、過疎地であっても鉄道をつなげることに意味があった。
結果、狭軌のままで、輸送力とスピードアップは今後の技術開発向上でカバーするという結論になる。

鉄道院、そして満鉄入りした、十河信二と島秀雄は後藤新平の考えを受け継ぐ。

南満州鉄道は不思議な鉄道会社で、日本による満州経営の中心的役割を果たしながら、
日本国内では実行できない最先端の技術や体制を試す場でもあった。
例えば、最高時速130キロの特急あじあ号では、
ロシア人美少女をウェートレスに採用した豪華な食堂車もあった。
ディズニーランドに対抗するかのごとくの電気遊園地や西洋式のヤマトホテルなど、
日本離れした都市を何もない荒野に次々と建設していったのだ。
満州は夢を実現できる新天地だった。

満鉄の世界を経験した十河と島は東京から北京までの野心的な「弾丸列車」計画を推進する。
満鉄と同じ標準軌を採用し、関門海峡と対馬海峡を海底トンネルで結ぶという壮大な計画だ。
関門トンネルなど一部は建設が進んだが、戦争のため、計画は頓挫する。

戦後の鉄道は1949年に日本国有鉄道として再出発する。
ところが、初代総裁は謎の轢死体として発見されたり(下山事件)、
線路のボルトがはずされた事件(松川事件)、
謎の無人列車暴走事件(三鷹事件)などが発生し、国鉄の前途は多難であった。
加えて、1951年の桜木町火災事故で106人の死者で第二代国鉄総裁は辞任、
1954年青函連絡船洞爺丸転覆事故で死者1155人、
55年の瀬戸内海連絡船沈没で168人の小中学生死亡で第三代国鉄総裁が辞任する。
呪われた国鉄総裁のなり手がいなくなってしまった。

71歳の十河信二は戦後は鉄道から身を引き、無職の悠々自適の生活を送っていたが、
運輸大臣から呼び出され、国鉄総裁職を押し付けられる。
朝日新聞の天声人語には「鉄道博物館から古機関車を持ち出したみたい」と皮肉られた。

十河は病気持ちのよぼよぼの老人だった。
だが、弾丸列車の夢を忘れていなかった。
まず民間会社に移っていた島秀雄を技師長に迎える。
時に東海道本線の輸送力が満杯で、増強する必要があった。
十河は標準軌新線を建設する意向を示す。
だが、政界、マスコミは大反対した。
莫大な投資を未来の無い鉄道につぎ込むのは愚の骨頂に思えた。
飛行機や自動車が進歩し、鉄道は時代遅れに思えた。

その間も島を中心とした技術者グループは高速鉄道の研究を着々と進めた。
技術者の中にはゼロ戦を開発した人々もいた。
航空機開発を禁じられた戦後、かつての特攻機開発者たちにとって、
平和日本にふさわしい高速鉄道開発はやりがいがあった。

東京・大阪間を3時間で結ぶ可能性という技術者たちによる講演会が世論を動かした。
戦後の荒廃から立ち直った日本人は新幹線という夢を必要としていたのだ。

十河信二は政治家を説得し、ようやく新幹線計画の承認を受けることができた。
だが十河は、相当な無茶をする。
建設費の見積を半分ぐらいにして、承認を受けたのだ。
当然、費用の不足が生じる。
世界銀行から借り入れが行われた。
これも十河の政治的な計算があって、世界銀行から融資されれば、
日本政府はこのプロジェクトを中止することができなくなる。
数百億円もの不足が完成間際に発覚するが、
完成してしまえば、政治家もマスコミもどうすることもできない。

十河と島は責任を取って辞職した。
新幹線は走り出し、世界は驚嘆した。

東海道新幹線の成功を受けて
政治家たちが、過疎地方に新幹線を誘致しようとするのは、
原敬以来の政党政治家の業(ごう)ですな。

フランスでは鉄道技術先進国のプライドが世論を沸騰させた。
ある会議で
「新幹線を自慢する日本人が許せない!
 新幹線を越えるものを我々は生み出さねばならない!!」
との演説にフランス人は拍手万来だったとか。
それがTGV計画を始める動機となった。
新幹線の影響は世界をも動かす。

十河はかなり「汚い」手を使って、新幹線を生み出したが、
鉄道の可能性を広げた功績はすばらしい。

十河信二は汚れ役を引き受けて政治面を担当し、
島秀雄は技術面でプロジェクトを推進した。

ビスマルクとモルトケみたいな関係じゃないかな。