Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

連合の懇談会に行ってきた

2006年04月27日 06時59分49秒 | 参加型ジャーナリズム
ことの発端は、先週こんなメールが舞い込んできたこと。

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拝啓
春暖の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
さて、このたび連合(日本労働組合総連合会;http://www.jtuc-rengo.or.jp/)では、下記の要領で「サラリーマン増税についてのブロガー懇談会」を開催する運びとなりました。
現在、連合では、給与所得者やそのご家族を中心に「サラリーマン増税」問題にご関心を持っていただくための取り組みを行っております。
今回の懇談会はこの取り組みの一環として、平素インターネット上で様々な見地から情報を分析・発信していらっしゃるブロガーのなかでも、社会的影響度の高いブログを運営されていらっしゃる方を連合本部にお招きし、私どもの考え方についてご説明させていただくとともに、ご意見交換をさせていただくものです。
ご参加の皆様からたまわりましたご意見をよりよい税制度を確立するための活動につなげていければと存じております。
なお、当懇談会は、連合として初めての試みであり、この点につきましても種々ご指導いただきたいと念じているところです。
ご多忙のこととは存じますが、奮ってご参加いただければ幸いです。
敬具

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へー。ぼくなんかにもご案内がくるんだ。
自民党は世耕さんに頼んだのに招待がこないというのに!?

ということで、26日19時からお茶の水の総評会館に行ってきた。
参加者は全部で8名。
名刺交換できた方をブログ名であげると、
・安曇信太郎の「イヤならやめろ!」
・実践起業!成功への道
・「専業主夫」はやっぱりやめられない?
・花岡信昭のウェブサイト
あとはごめんなさい。

プログラムは、主催者から「連合について」「税制の現状」「キャンペーンについて」の説明があり、その後意見交換。
意見交換が活発で20時半までの予定が、21時までかかった。
組合の幹部というので、押し付けがましいアジテーションがあるのかと思ったら、なかなか率直でソフト。山根木という企画局長はじめ、ちゃんと耳を傾けようとの姿勢は感じられた。

とはいえ、参加者には「本当に増税阻止なんて出来るのか」「税制は相次ぐ手直しの結果複雑怪奇でグロテスクなものになっており、抜本的な解決をしないと意味が無いのではないか」といった、ある種の無力感が漂う。

それはそれとして、連合という古めかしい組織がはじめてブロガー懇談会を開いたという事実には注目すべきだろう。
民主党の懇談会の失敗があっただけに、きっと組織内に反対はあっただろうけど、多少のリスクを甘受して直接社会と対話しようとのスタンスに立ったことにはパチパチパチ。




『きっこの日記』に見る参加型ジャーナリズム

2005年12月19日 09時01分08秒 | 参加型ジャーナリズム
きっこの日記にイーホームズの藤田社長からメールが送られ、面白い展開になっている。

『きっこの日記』は11月の早い時点から構造計算偽造問題の黒幕として内河所長の存在をいち早くにおわせ、朝倉育英会を介しての政界への波及ルートを暗示していた。
その真偽は定かならぬが、内容・文体ともに読み応えがあり愛読してきた。

この問題は門外漢にはなかなか理解しにくい世界である。
構造計算や建築確認の作業についての知識や、建築業界の事情や人脈について知らないと判断がむずかしい。

おそらく、新聞やテレビなどのジャーナリストも同様だろう。
そこで、この『きっこの日記』や2ちゃんねるなどのCGM(コンシューマ・ジェネレーテッド・メディア)の役割が大きくなってくる。

一方、昔マガジンハウスでアルバイトをしていたことがあるというイーホームズの藤田社長も積極的発言を続けている。
国会の参考人招致でも、自己の立場を積極的に主張し、しゃべりすぎと質問者にさえぎられるほどだし、イーホームズのホームページでも、連続してコメントを発信している。

もし、藤田社長の発言が正しければ、雪印食品を告発した西宮冷蔵の水谷洋一社長と並ぶ公益通報者としての名前を残すことになるだろう。
水谷社長は当時の扇国土交通大臣により、理不尽な処分を受け大きな不利益を被ったが、今回イーホームズも国土交通省により不可解な立ち入り調査を受けている。
武部幹事長の幕引き発言があったし、飯島秘書官が動いているとの噂もある。

既存ジャーナリズムには、これらCGMの情報の検証を行って欲しいものだ、CGMとマスメディアとの連携ができれば、このような専門的知識を必要とする案件の報道クオリティが向上すると思う。




人生いろいろ。ジャーナリズムもいろいろ。

2005年03月22日 22時49分25秒 | 参加型ジャーナリズム
ホリエモンの不用意な発言が、ジャーナリストからの反発を招いているようだ。
例えば、江川紹子ジャーナルで紹介された、

「新聞とかテレビを、我々は殺していくんですけど、自分たちが(新聞やテレビを)持ちながら殺していった方が、効率がいいかなと思って」

そして、3月5日の毎日新聞堀江社長との一問一答で語った発言、

「みなさんが考えるジャーナリズムは、インターネットがない前提でのお話なんです。インターネットがない時代はもしかしたら必要だったかもしれない。しかし、今は必要ないと私は言い切ってもいいと思う。なぜ必要ないかといえば、興味のあるネタはインターネットで自分で探せるようになっている。(ネットには)いろんな意見がある。いろんなことを考えている人がいて、それを並行して見ることができて、自分の考え方の形成に役立つ。これまでは新聞が報道しないと正しくないとみんな思っていたが、そうじゃなくなってきている。ネット上はみんなが正しいと思った情報はすごく広まる。そうやって世論が形成されていくようになっていく。少しずつ影響が社会に出てきている。」

その極端な言い回しが、既成ジャーナリストのプライドを傷つけたと見え、大手メディアのジャーナリストからの反発しきりである。
例をあげれば、毎日新聞の岩見隆夫氏のサンデー時評

岩見氏の意見に全面的に賛同するわけではないが、既成ジャーナリストの役割を軽視することは間違いだと思う。
ニュース系のブログを見ても、新聞をはじめとする既成ジャーナリズムの報道を元に議論が展開されていることは明らかである。一次情報を報ずる新聞や雑誌やテレビなどの存在は絶対に必要だ。

問題は、これらの既成ジャーナリズムが構造的な行き詰まりに追い込まれていること。

例えば、偏向報道や誤報の存在。
・朝日新聞はNHKに対する安倍晋三圧力報道をいまだに誤報と認めていない。
・ライブドア報道でも飛ばし記事が多すぎはしないか。
・三井住友銀行と大和證券は合併するのしないの?

その一方、報ずるべき事実に目をつぶる。
・なぜ、コクドの節税経営を知っていながら批判しなかったのか。
・読売新聞1000万部の嘘をなぜ暴かないのか。
・大阪高検三井環事件が検察のでっち上げであることを追及しないのか。
・岩見隆夫は政策報道よりも政局報道のほうがニュース価値があると思っているの?
・日枝邸の鹿島利益供与疑惑の実態はどうなの?

加えて、悪名高きメディアスクラムである。
・水に落ちた犬を叩きまくるのは醜悪ではないか。
・遺族の鼻先になぜマイクを突きつける。
・新聞休刊日が全紙一緒なのっておかしくない?

このような、既成ジャーナリズム同士なれあいの現状を見るにつけ、新しいジャーナリズムの登場を心待ちしたくなる。
「マスコミひょうろん」の頃からの岡留安則ファンとしては、「噂の真相」のような硬骨のジャーナリズムがまた出てきて欲しい。
既成ジャーナリズムには、今度の騒ぎを他山の石に、ネット時代のジャーナリズムの役割を再考して欲しい。

既成ジャーナリズムだけが、信頼にたるジャーナリズムだとの幻想からはそろそろ脱却しましょうよ。
サンケイ新聞一紙ぐらい、今までと違うジャーナリズムに変身してもいいじゃない。
人生いろいろ、会社もいろいろ、新聞もいろいろのほうが、もっと面白くなると思うんですけど、どうでしょう。


既存メディアとインターネットとの融合

2005年03月12日 18時38分26秒 | 参加型ジャーナリズム
ホリエモンに対する批判のひとつとして、「既存メディアとインターネットとの融合」を標榜するにもかかわらず、その具体像が明らかではないという指摘がある。
しかし、これに対する明快な解答をひとりホリエモンに求めるのは酷ではあるまいか。

日本のテレビ草創期のことを振り返ってみよう。
テレビだってテレビ表現の具体的イメージ無しでスタートしたのだ。
テレビの本放送開始は昭和28年2月1日。
当日の番組表を見たことがあるが、式典の中継にはじまり、菊五郎劇団の中継があったり、落語があったり、ニュース映画をそのまま流したり、ラジオの音楽番組を同時中継したり、・・・。
テレビらしい映像表現はいまだ初歩にとどまっていた。

やがて、NTVの井原高忠が、「光子の窓」でアメリカに学んだバラエティの手法を日本に根付かせる。
NET(現在のテレビ朝日)が、アメリカの人気番組「TODAY」に範をとり「木島則夫モーニングショー」をスタートさせたのが今なお猛威をふるうワイドショーのはじまりだった。
カラー放送のスタートはテレビの表現の幅を広げたし、VTR技術の発展は、テレビドラマの制作現場を、生放送の制約と過剰な照明がもたらす灼熱地獄から救い出した。
このようにしてテレビ独自の表現形態は、技術革新と、さまざまなひとの暗中模索の中から出来上がってきたのだ。

こうして、テレビがメディアの王座を占めると、必然的に他のメディアに影響を与えずにはおかない。
それまで娯楽の王座を占めていた映画は、「五社協定」と呼ばれる映画スタアの囲い込みをすることでテレビに対抗しようとしたが、結果的に長い低迷の淵に沈んでしまった。

ラジオはダイレクトにテレビ急成長のあおりを受けた。テレビが茶の間の中心にどっかり座り込み、ラジオは子どもの勉強部屋に追いやられた。
それまで「みなさん」と呼びかけていたラジオはいつの間にかリスナーに「あなた・きみ」と呼びかけるようになったのだ。いわば「ラジオのパーソナルメディア化」である。これによりラジオは命脈を保ったわけだが、この流れをリードしたのが、ニッポン放送の看板番組「オールナイトニッポン」だった。
この番組のパーソナリティとして斉藤安弘氏とコンビを組み、「カメ&アンコー」のグループ名で「水虫の歌」を歌っていたのが亀渕昭信社長だから、振り返れば隔世の感がある。

新しいメディアの登場に遅れて新しいメディア表現が生まれる。
同時に新しいメディアの登場は、近隣メディアに表現形式の変貌を促すのだ。
テレビに限らず、既存メディアはインターネットの登場を受け、インターネット時代にふさわしい独自の表現を模索しなければならない。ちょうどテレビの登場を受けてラジオが変貌したように。
そしてそれは一人の天才が生み出すのではなく、多くの心あるものの営みの中から生まれてくるのだ。


記者クラブ制度を考える

2004年12月26日 11時34分24秒 | 参加型ジャーナリズム
それでは、前のエントリーの続編として、記者クラブ制度の現状をおさらいしてみましょう。
行政や経済団体などが、特定の報道機関に無料で記者室を提供し、加盟社のみを対象に会見を開くということを慣例的に行ってきたのが記者クラブです。
財務省「財政研究会」、日本銀行「日銀記者クラブ」、警視庁「七社会」、宮内庁「宮内記者会」、日本経団連「経団連記者クラブ」、東商「商工会議所記者クラブ」、東証「兜クラブ」などが代表的な記者クラブです。

さて、淵源は明治に遡る記者クラブ制度は、予てより「閉鎖的」「特権意識」「横並び体質」として批判の対象でした。
特にその閉鎖性に対する批判はよく眼にするところです。
例えば多くの記者クラブから週刊誌は排除されています。前のエントリーで引用した勝谷氏は以前は文芸春秋社の社員で、当時から週刊文春などを舞台に、一貫して記者クラブ制度そのものを批判してきました。
海外メディアも同様に排除されていました。これに風穴を開けたのがブルンバーグです。当時の東京支局長デビッド・バッツは報道の自由を阻む非関税障壁であるとして、アメリカ大使館やロイター、CNNなどを巻き込み、兜クラブへの加盟を求め果敢に戦いを挑み、紆余曲折の末1993年に加盟を勝ち取ります。
資料:外国報道機関記者の記者クラブ加入に関する日本新聞協会編集委員会の見解

とはいえ、海外メディアに完全に扉が開かれたわけではありません。
例えば、2000年に元英国航空のスチュワーデスのルーシー・ブラックマンさんが殺害された事件では、外国メディアには充分な情報は開示されませんでした。
そこで、2002年にEUは「日本の規制改革に関するEU優先提案」の中に、特に情報への自由かつ平等なアクセスの項目を設け、日本の公的機関に対し海外メディアのアクセスの保証と記者クラブ制度の廃止を求めています。
これに対し(社)日本新聞協会は2003年12月に見解を表明し、その中で、公的機関に対し結束して情報公開を迫るという役割があると指摘しつつ、
(1)公的情報の迅速・的確な報道
(2)人命人権にかかわる取材・報道上の整理
(3)市民からの情報提供の共同の窓口
などの役割のために記者クラブは必要だと述べています。
「公的機関に対し結束して情報公開を迫る」ことの重要性の認識は、浜村氏の見解と同じ文脈といえるでしょう。
しかし、例えば宮内庁長官の記者会見の映像がテレビに流れることはありません。
宮内記者クラブは何をしているのでしょう。怠慢なのでしょうか、癒着なのでしょうか、果たして結束して情報公開を迫っているのでしょうか。

一方、行政の側からの記者クラブ制度への問題提起もいくつか起こっています。
1996年、朝日新聞記者出身の竹内謙鎌倉市長は、記者クラブの代わりに「広報メディアセンター」を設け、登録を条件にセンターを加盟社以外にも開放しました。
そして2001年、長野県知事に当選したばかりの田中康夫氏は、「脱・記者クラブ宣言」を行い、それまで、3つあった記者クラブへの県庁内スペースの無償提供を取り消し、代わって表現者すべてに開放する「プレスセンター」を設けた。これに対する、新聞サイドの反発はいまだに大きいようです。
2003年には、田中知事に個人的反感を持つ、おたく評論家宅八郎氏が知事会見にあらわれ、過去の知事執筆の記事について謝罪しろしないの問答を繰り広げ、その1問1答も長野県のホームページで公開されています。

このように、記者クラブについては、非加盟のジャーナリストと行政サイドの双方からの批判が存在しています。
これに対し新聞協会は、記者クラブの必要性を強調しつつ、閉鎖的運営を避け、開かれた記者クラブの実現をめざすべきと一貫して主張してきました。
しかし現実を見る限り、記者クラブの現場では相変わらず排除の論理が主流を占めているようで、田中知事への反発の一端も、雑誌や海外メディアへの対応もその文脈で理解できるようです。
今回のドンキホーテ社員への対応も既存マスメディアの本音が露頭として現れたものと私は理解しています。
記者クラブの閉鎖性是正については、本音と建前の乖離が大きすぎるのではないでしょうか。
ガ島通信さんのいうキレイごとはもうたくさんという叫びには素直に共感します。

ただし、記者会見の公開の対象については基本的な枠組みがあってしかるべきだと私は思います。
鎌倉市は報道する「組織」に着目し、長野県は表現は「個人」の営みとし、メディアや表現者を対象に開放の範囲を広げました。
それ以外の対象者を含めた公開だと、記者会見の性格そのものが変わるし、何より混乱を招く懸念があります。
宅八郎氏は表現者としての顔を持つものの、個人的な恨みを晴らすための会見参加だったと思われます。ちなみに、この一問一答は面白いので、眼を通されることをおすすめします。
このように報道以外の目的を持った利害関係者が記者会見に押しかけたら、会見の場が収拾つかなくなってしまう虞が発生します。今回のドンキホーテ社員は混乱を起こす意図はなかったと思いますが、ケースにによってはその懸念があるのではないでしょうか。
そこに配慮して線引きする場合、報道目的以外は参加を認めないというのは、妥当な判断基準だと思います。
その枠内で参加の自由度を高めるべきなのではないでしょうか。
「組織」であれ「個人」であれ、報道目的の参加者を対象として会見を公開するというのが、これからの記者会見の方向だと思います。
もちろん、その中にブロガーが含まれることが、将来に向けての世界的な趨勢であるということは間違いないでしょう。

ちなみに、私のように企業の広報に携わるものにとって、記者クラブ制度は有用な仕組みであることを付け加えておきたいと思います。
記者クラブのボックスにニュースリリースを投げ込むだけで、主要メディアに情報をつたえられる仕組みというのは、実はかなり手間が省けてありがたいシステムなのです。
記者クラブに新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・ネット記者が揃ってくれると、情報をリリースする立場からはうれしいんですけどね・・・・。


ドンキ社員 記者会見に潜入

2004年12月26日 11時26分44秒 | 参加型ジャーナリズム
ドンキホーテ社員が消防署の記者会見からつまみ出された問題で、ネットが盛り上がっているようです。
わたしは、ドンキホーテの社員はやりすぎだと思っていますが、まずは状況を見てみましょう。

12月15日のasahi.comによる顛末は、
【ドン・キホーテ社員、身分隠し記者会見出席】
ドン・キホーテ浦和花月店に避難路の改善などを指導した6月の立ち入り検査について、さいたま市消防局が15日に記者会見して説明した際、同社経営支援本部の男性社員(27)が身分を偽って会見に出席したことがわかった。市は出火原因調査が行われているさなか、当事者の社員が身分を偽って記者会見に出るのは不適切な行為だとして社員に厳重に注意した。
社員は会見が始まる前に会見場に入り、消防局幹部が「記者以外の人はいませんか」と事前に確認しても名乗り出なかった。会見後、不審に思った記者が社員に身分を尋ねると「急いでいるので」と立ち去ろうとしたが、問い詰められて「ドン・キホーテ社員」と打ち明けた。

とのことです。

これに対し、コラムニストの勝谷誠彦氏は12月17日の日記で、「記者クラブ=談合組織」の文脈で早速これを取り上げています。
昨日書いたさいたま市消防局の記者会見にドン・キホーテの社員が潜り込んでいた件で読者からいただいたメールの中に「記者クラブってそういうものだったんですか」というものが多くて驚いた。
みなさん実のところこの国の最後で最悪の談合組織が実は大手メディアそのものであるということをご存じないんですね。
田中康夫さんの「脱記者クラブ宣言」の意義が浸透しないはずである。
もちろんこれは都合が悪いメディアどもがそれこそ談合してクラブの弊害について報じないようにしているからで奴らは快哉を叫んでいることだろう。だから私ごときが蟷螂の斧でまたこうしてシコシコと書かねばならないのである。
ドン・キホーテの宿痾ともいえる脱法体質はあわてて誤魔化したつもりでも消防の立入検査で続々と違反が見つかっていることでもう改めて書くまでもなく社員の潜入の意図もミエミエだがこいつを叩き出した記者クラブの体質とそのときの状況については上記の理由で大マスコミの方々は絶対に書かないので私が報じないわけにはいくまい(溜息)。


ジャーナリズム考現学氏は、発表する当局と記者クラブとの関係に着目し、そこに内在する排除の論理に疑問を呈しています。
 消防局からすれば、指導した当事者が会場にいると、何となくやりにくいのはわかる。しかし、行政として情報を公開する義務がある。当事者が会場にいるからといって公開内容が狭まるというのは、あってはならない話だ。
会見の途中で社員が「それは一方的な見解だ!」「事実と違う!」などと騒いだら、市民への円滑な情報公開を妨害したとして排除すればいい。しかし、この社員は大人しくメモを取り、録音をしていただけだ。
テレビ映像で見ている限り、記者たちは社員を取り囲み、むしろ社員を追いつめている感じだった。ドン・キホーテ本社の説明責任を追及し、同社のコメントを求めた。コメントを求めるべきなのは、さいたま市消防局の方ではないのか?なぜ、当事者は会見から排除されなければならないのか?なぜ、メモを破棄しなければならないのか?記者団を排他的に会見に参加させているのはなぜか?それぞれの法的根拠は何か?
もし会見でドン・キホーテ側に伝わるとまずい内容を説明され、その内容を報道しないようにと要請されていたとしたら、これこそ大問題だ。メディアと当局の癒着である。
そろそろ「記者会見」の位置づけをはっきりさせるときだ。記者会見とは公の場なのか、それとも当局が限られたメディアにこっそりと裏事情を話す場なのか?


これに対し、現役記者の浜村寿紀氏は、いかにも社会部の現役バリバリらしく、記者会見は新聞記者にとり行政の不備をつく武士の戦場にあたる場と捉えているのでしょう。そこに当事者が紛れ込んでいるのは夾雑物であり迷惑と喝破します。
問題の記者会見に私が出席していたら、消防局の従前の指導が本当に適切だったかどうかをしつこく質問したと思う。もし、そこにドン・キホーテの社員がいたら、ただでさえ情報を出さない役所は、さらに貝になってしまうだろう。だから「出て行ってくれ」。純粋に仕事の邪魔になるからである。これを「驕り」と言われては、ため息が出てしまう。

これに対し、地方紙の熱血記者であるガ島通信氏は、マスコミ記者は市民感覚に立脚して行動しないと社会からの批判を免れないとして、新聞記者の心理に潜む特権意識を批判します。
マスコミは常に自分たちを安全圏において、企業や行政を批判し続けます。そして自分たちが批判されると感情的になったり、卑屈になったりする。すでにこのあたりの構造は見切られています。
確かにテレビで流れた記者によるドンキ社員の吊るし上げは尋常じゃなかったですものね。
そして、前日のエントリーでは浜村氏を批判して、
浜村氏はブログを読む限り精力的な記者という印象で悪気はないと思いますが、知らない間に自分が特権階級にいることに気づいていない、典型的なマスゴミ病にかかっているようです(何度も述べてきましたが共同ブログ騒動と同じ構図)。
としています。

この他にもさまざまなブログで賛否それぞれの意見が出ています。
そこで、記者クラブ制度の功罪に論点を絞り、次のエントリーで考えてみたいと思います。


不偏不党フィクションとの訣別を

2004年11月02日 13時39分45秒 | 参加型ジャーナリズム
「週刊!木村剛」「ガ島通信」
いずれもブログリーダーに登録し、毎号愛読しているブログだ。
前者は経済評論家の木村剛氏、後者は地方紙記者の運営者が「ネット時代の新聞とは何か?」を考えるブログ。

この2つのブログの間で時ならぬバトルが勃発した。
きっかけは「週刊!木村剛」の「これが新潟県中越地震の真実だ!」の記事。
ガ島通信さんの批判エントリーは「何を楽しむのか!(怒ってます)」

中越地震のマスコミ取材の問題点を木村氏が批判したのに対し、ガ島通信さんが批判を加え、
それに対し、木村氏が、「ブログに文句つける前にマスコミの方を矯正してほしい」「ブログはマスコミに報いる庶民の一矢だ!」の2回に渡り、反論を加えると共に、マスコミスクラムに悩む自らの立場を説明したというのが、全体の構図だ。

「ガ島通信」は匿名のブログではあるものの、常に真摯にマスコミのあり方をマスコミ内部から考えようとするブログであり、その内容も、そこからうかがえるご本人の人格も、常に建設的議論をこころがけられており、尊敬に値するものと、ぼくはかねがね高く評価している。
特に、単なる批判に終わらせず、(ご本人が台風で浸水被害を受けられたこともあり)災害時におけるメディアの役割はどうあるべきか、自らのブログを通じアンケートも実施している。さらに、木村批判以後、現地でのマスコミの活動の一端を伝えるレポートを、連続でアップロードした。
マスコミの良心というに恥じない活動だと思う。

ガ島通信さんのブログに一ヶ所違和感を感じた
問題は、このステレオタイプのマスコミ批判の記事を「真実だ!」(真実というからには、裏は取っているはず…)とセンセーショナルに木村氏のブログのように影響力のあるところが取り上げたということです。

ことによると、ガ島通信さんは「週刊!木村剛」に、既存マスメディアのような「公正中立」「不偏不党」を期待しているのではないだろうか。
ぼくは、「週刊!木村剛」をふくめ、ブログジャーナリズムは中立である必要はないし、大いに偏っていいと思っている。
逆に、既存マスコミは「公正中立」「不偏不党」という欺瞞的なフィクションを早く脱ぎ捨てるべきだと思う。
「公正中立」「不偏不党」を装って書かれた、プロ野球ストの際の読売社説のいかがわしさは、もう、皆が気づいているのだ。
「巨人軍の親会社の立場で」「ナベツネ前オーナーの股肱の臣の立場で」と表明した上で社説を書いてくれれば余程すっきりする。
木村氏の二度の反論はそうした立場で書かれている。だからこそ健全な社会的論議を呼んでいるのではないか。

ネットの中で、右に偏り、左に偏り、上や下にも偏って、それらの言説に淘汰のメカニズムや読者の選択のメカニズムが働き、全体として社会的コンセンサスが形成されるのが、健全な「参加型ジャーナリズム」ではないだろうか。

マスコミが「真実」を伝えることなど、もはや私は期待していないのです。マスコミも、ネットと同じく、ブログとも同様、玉石混交なのです。だとすれば、色々なニュースソースを読者が確保して、各個人がメディアリテラシーを持つしかない――私はそう思います。
この木村氏の主張をぼくは支持したい。

(これは、今週のブロガー新聞 湯川一日編集長を意識したトラックバックです。)

携帯電話の経済学

2004年10月19日 23時18分22秒 | 参加型ジャーナリズム
中国でも着メロが好調のようです。
某レコード会社Sミュージックをリストラされちゃったおじさんが、退職金の中から70万円を捻出し、音楽仲間をかたらって中国向けに着メロを何本かつくりリリースしたところ、日ならずして2000万円を売り上げてしまったと、酒場で友人から聞いた噂話。
尾羽打ち枯らしていたリストラおじさんは、顔の色艶も改善し、体力も漲り、いまや青年(?)実業家に変身しちゃったとのこと。

携帯関連だとなぜ財布の紐がゆるむのでしょう。
コンビにでも、ドリンクのベンダーでも、携帯で買い物する時代が本格的に訪れようとしています。
思うに、携帯だと費用が発生するということをユーザーはアプリオリに受け入れているようです。
かつまた、携帯で発生する費用は小口だとの安直な思い込みもあるのかな?

学生諸君の通信代の濫費やマナーの視点から携帯の使用を抑制的に誘導しようとの動きもある反面、携帯に内需拡大の期待を寄せるマーケターの圧力も顕著です。
この綱引きはおそらくマーケターの勝利に終わるでしょう。
もっとも簡便なインターネット接続手段であり、カメラがつき、テレビが見られ、音楽をダウンロードし再生するデバイスになり、GPS機能が備わり、QRコードのリーダーにもなる・・・・。
携帯の広告利用で稼ごう、コンテンツ販売で儲けようと、日本中の随所で脳髄が絞りまくられています。

携帯が日本経済の再浮上の牽引力になるのか、はたまた第二のITバブルに過ぎないのか、内需拡大の波及効果と、海外への展開の可否が決め手になるのでしょう。
リストラおじさんの挑戦が実話とすれば、成功裡に終わることを祈るばかりです。


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あざらしサラダさん、あまり詳しい領域じゃないので、ろくなエントリーかけません。これで勘弁してね。

参加型ジャーナリズム 実験始動

2004年10月18日 02時13分08秒 | 参加型ジャーナリズム
「週刊!木村剛」を舞台に、参加型ジャーナリズムの実験が始まった。
3人の有力トラックバッカーを指名し、週一回掲載のコンテンツである「ブロガー新聞」の編集を各一回ずつ全面的に委ねるというのだ。


「週刊!木村剛」では、9月30日に「ブロガー新聞」はじめます!:10月からの番組再編」と宣言し、10月8日から企画をスタートさせた。
もとより、「ブロガー新聞」といってもその内容のイメージは人により千差万別である。
そこで、
10月22日の第3号を、あざらしサラダさん
10月29日の第4号を、Watch IT,ケータイ,ベンチャーさん
11月5日の第5号を、ネットは新聞を殺すのかblogさん
の3人のブロガーに「一日編集長」として独自のブロガー新聞の編集を呼びかけ、3人のブロガーが承諾したという流れだ。
この3人のブログは、常に愛読しており、トラックバックもいただいている方々だけに、私も及ばずながらできる限りの応援をしたい。

そう考える人は多いと見え、特にmy.Hurusato.orgさんは、すぐさまブロガー新聞編集タスクフォース(仮)を立ち上げ、万全の協力体制を敷いた。
どのような展開になるか、大いに注目したいところである。

この企画にかける私の期待は、結論的にいえば「玉砕覚悟で物議を醸して欲しい」ということだ。
それぞれの方の考えるブロガー新聞のプロトタイプの提示が、今回の眼目である。

あざらしサラダさんは、特定のテーマを巡り、多くのブロガーからトラックバックを集め、多様な論点を浮き彫りにするのがブロガー新聞のありかただと考えるだろう。
 私たち多くのブロガーが望んでいたのは、投稿記事に対する「TBの嵐」ではなかったのだろうか。つまり一つの投稿記事をきっかけとして、反論や補強意見など、様々な視点からの意見が飛び通う、そんな「参加型ジャーナリズム」を望んでいたのではなかったか。と述べておられる。

Watch IT,ケータイ,ベンチャーさんの方向は、木村剛氏抜きの「週刊!木村剛」だ。
個人的な意見ですが、いままでの「週刊!木村剛」のスタイルから離れる必要は無いのではないかと思っています。限られた誌面ですから、あまりたくさんのトラックバックをご紹介するのは難しいと思います。もうすこし絞ってみるか、もしくはひとつだけ選んで、紹介するというのはどうでしょう。
私たちは、「週刊!木村剛」とトラックバックの「コラボ」というか「融合」というか、もしくは「対立」というものを望んでいるのだと思います。


あざらしサラダさんが「結果としてのトラックバック」により多様な論点を浮き彫りにすることを評価基準として重視しているのに対し、Watch IT,ケータイ,ベンチャーさんは、「エントリーの完成度」とトラックバックに示された論点との対比を重視しているかに見える。

ネットは新聞を殺すのかblogさんは現役ジャーナリストであり、参加型ジャーナリズムのもっとも先鋭的な論客だけに、既存のジャーナリズムとブログとのコラボレーションのあり方に焦点をあてるはずだ。
欧米や韓国などさまざまな事例に通暁されているだけに、どの切り口でアプローチするかが楽しみである。

この一回きりの実験で理想的なブロガー新聞が生まれようはずはない。
それぞれの編集スタイルに異論反論の嵐が起こることがいまから想像できる。
その異論反論を受け止めたところから「ブロガー新聞または参加型ジャーナリズムへの模索」がスタートすると受け止めるべきである。
すでに、「JANJAN」や、「ベリタ」などのインターネットジャーナリズムはスタートしている。
「2ちゃんねる」や、価格コムの掲示板、「asahi.comアクセスTop30」も、読者の投稿やアクセス数の反映という仕組みで、参加型の要件を一部備えている。
更にいえば、個々人のニュースブログも既にして立派なブロガー新聞かもしれない。
いまわれわれが目指すべきブロガー新聞はそれらとどこが違うのか。
形而上の神学論争を超えて、知行合一で考えようとするのが今回の実験の意味ではないだろうか。

あざらしサラダさん 、Watch IT,ケータイ,ベンチャーさん 、ネットは新聞を殺すのかblogさん、肩に力を入れすぎないご奮闘を期待します。
できるだけトラックバックしますので・・・。



もうひとつの球団合併への素朴な疑問

2004年09月08日 09時15分28秒 | 参加型ジャーナリズム
7月7日の堤義明氏の示唆から始まったもうひとつの合併問題。
今日9月8日の臨時オーナー会議で具体的な名前が出るかどうか注目を集めている。
この2ヶ月、マスコミ各社は合併の組み合わせを巡り、勝手な憶測情報を垂れ流してきた。

でも、そもそも、もうひとつの合併組み合わせがあるという堤発言自体信用できるものなの?
単なる風説の流布に過ぎないんじゃないの?
仮に水面下でいろいろな動きがあったにせよ、あの時点でのあの堤発言はあまりにも軽率じゃないの?
UFJを巡る三菱と三井住友の鞘当とダイエー不良債権処理問題の遅延は、もうひとつの球団合併問題と関係あるの?ないの?

新聞もワイドショーも表面的な合併の組み合わせや、ナベツネ前オーナーの酔言を追うことにのみ地道をあげず、その背景に鋭く切り込んだ報道を目指して欲しい。
そもそも、近鉄オリックスの合併スクープも経済紙である日経のスクープだった。
スポーツジャーナリズムはこの不愉快な混迷の真相を明らかにすることで面目を保って欲しい。