Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

記者クラブ制度を考える

2004年12月26日 11時34分24秒 | 参加型ジャーナリズム
それでは、前のエントリーの続編として、記者クラブ制度の現状をおさらいしてみましょう。
行政や経済団体などが、特定の報道機関に無料で記者室を提供し、加盟社のみを対象に会見を開くということを慣例的に行ってきたのが記者クラブです。
財務省「財政研究会」、日本銀行「日銀記者クラブ」、警視庁「七社会」、宮内庁「宮内記者会」、日本経団連「経団連記者クラブ」、東商「商工会議所記者クラブ」、東証「兜クラブ」などが代表的な記者クラブです。

さて、淵源は明治に遡る記者クラブ制度は、予てより「閉鎖的」「特権意識」「横並び体質」として批判の対象でした。
特にその閉鎖性に対する批判はよく眼にするところです。
例えば多くの記者クラブから週刊誌は排除されています。前のエントリーで引用した勝谷氏は以前は文芸春秋社の社員で、当時から週刊文春などを舞台に、一貫して記者クラブ制度そのものを批判してきました。
海外メディアも同様に排除されていました。これに風穴を開けたのがブルンバーグです。当時の東京支局長デビッド・バッツは報道の自由を阻む非関税障壁であるとして、アメリカ大使館やロイター、CNNなどを巻き込み、兜クラブへの加盟を求め果敢に戦いを挑み、紆余曲折の末1993年に加盟を勝ち取ります。
資料:外国報道機関記者の記者クラブ加入に関する日本新聞協会編集委員会の見解

とはいえ、海外メディアに完全に扉が開かれたわけではありません。
例えば、2000年に元英国航空のスチュワーデスのルーシー・ブラックマンさんが殺害された事件では、外国メディアには充分な情報は開示されませんでした。
そこで、2002年にEUは「日本の規制改革に関するEU優先提案」の中に、特に情報への自由かつ平等なアクセスの項目を設け、日本の公的機関に対し海外メディアのアクセスの保証と記者クラブ制度の廃止を求めています。
これに対し(社)日本新聞協会は2003年12月に見解を表明し、その中で、公的機関に対し結束して情報公開を迫るという役割があると指摘しつつ、
(1)公的情報の迅速・的確な報道
(2)人命人権にかかわる取材・報道上の整理
(3)市民からの情報提供の共同の窓口
などの役割のために記者クラブは必要だと述べています。
「公的機関に対し結束して情報公開を迫る」ことの重要性の認識は、浜村氏の見解と同じ文脈といえるでしょう。
しかし、例えば宮内庁長官の記者会見の映像がテレビに流れることはありません。
宮内記者クラブは何をしているのでしょう。怠慢なのでしょうか、癒着なのでしょうか、果たして結束して情報公開を迫っているのでしょうか。

一方、行政の側からの記者クラブ制度への問題提起もいくつか起こっています。
1996年、朝日新聞記者出身の竹内謙鎌倉市長は、記者クラブの代わりに「広報メディアセンター」を設け、登録を条件にセンターを加盟社以外にも開放しました。
そして2001年、長野県知事に当選したばかりの田中康夫氏は、「脱・記者クラブ宣言」を行い、それまで、3つあった記者クラブへの県庁内スペースの無償提供を取り消し、代わって表現者すべてに開放する「プレスセンター」を設けた。これに対する、新聞サイドの反発はいまだに大きいようです。
2003年には、田中知事に個人的反感を持つ、おたく評論家宅八郎氏が知事会見にあらわれ、過去の知事執筆の記事について謝罪しろしないの問答を繰り広げ、その1問1答も長野県のホームページで公開されています。

このように、記者クラブについては、非加盟のジャーナリストと行政サイドの双方からの批判が存在しています。
これに対し新聞協会は、記者クラブの必要性を強調しつつ、閉鎖的運営を避け、開かれた記者クラブの実現をめざすべきと一貫して主張してきました。
しかし現実を見る限り、記者クラブの現場では相変わらず排除の論理が主流を占めているようで、田中知事への反発の一端も、雑誌や海外メディアへの対応もその文脈で理解できるようです。
今回のドンキホーテ社員への対応も既存マスメディアの本音が露頭として現れたものと私は理解しています。
記者クラブの閉鎖性是正については、本音と建前の乖離が大きすぎるのではないでしょうか。
ガ島通信さんのいうキレイごとはもうたくさんという叫びには素直に共感します。

ただし、記者会見の公開の対象については基本的な枠組みがあってしかるべきだと私は思います。
鎌倉市は報道する「組織」に着目し、長野県は表現は「個人」の営みとし、メディアや表現者を対象に開放の範囲を広げました。
それ以外の対象者を含めた公開だと、記者会見の性格そのものが変わるし、何より混乱を招く懸念があります。
宅八郎氏は表現者としての顔を持つものの、個人的な恨みを晴らすための会見参加だったと思われます。ちなみに、この一問一答は面白いので、眼を通されることをおすすめします。
このように報道以外の目的を持った利害関係者が記者会見に押しかけたら、会見の場が収拾つかなくなってしまう虞が発生します。今回のドンキホーテ社員は混乱を起こす意図はなかったと思いますが、ケースにによってはその懸念があるのではないでしょうか。
そこに配慮して線引きする場合、報道目的以外は参加を認めないというのは、妥当な判断基準だと思います。
その枠内で参加の自由度を高めるべきなのではないでしょうか。
「組織」であれ「個人」であれ、報道目的の参加者を対象として会見を公開するというのが、これからの記者会見の方向だと思います。
もちろん、その中にブロガーが含まれることが、将来に向けての世界的な趨勢であるということは間違いないでしょう。

ちなみに、私のように企業の広報に携わるものにとって、記者クラブ制度は有用な仕組みであることを付け加えておきたいと思います。
記者クラブのボックスにニュースリリースを投げ込むだけで、主要メディアに情報をつたえられる仕組みというのは、実はかなり手間が省けてありがたいシステムなのです。
記者クラブに新聞・雑誌・テレビ・ラジオ・ネット記者が揃ってくれると、情報をリリースする立場からはうれしいんですけどね・・・・。


ドンキ社員 記者会見に潜入

2004年12月26日 11時26分44秒 | 参加型ジャーナリズム
ドンキホーテ社員が消防署の記者会見からつまみ出された問題で、ネットが盛り上がっているようです。
わたしは、ドンキホーテの社員はやりすぎだと思っていますが、まずは状況を見てみましょう。

12月15日のasahi.comによる顛末は、
【ドン・キホーテ社員、身分隠し記者会見出席】
ドン・キホーテ浦和花月店に避難路の改善などを指導した6月の立ち入り検査について、さいたま市消防局が15日に記者会見して説明した際、同社経営支援本部の男性社員(27)が身分を偽って会見に出席したことがわかった。市は出火原因調査が行われているさなか、当事者の社員が身分を偽って記者会見に出るのは不適切な行為だとして社員に厳重に注意した。
社員は会見が始まる前に会見場に入り、消防局幹部が「記者以外の人はいませんか」と事前に確認しても名乗り出なかった。会見後、不審に思った記者が社員に身分を尋ねると「急いでいるので」と立ち去ろうとしたが、問い詰められて「ドン・キホーテ社員」と打ち明けた。

とのことです。

これに対し、コラムニストの勝谷誠彦氏は12月17日の日記で、「記者クラブ=談合組織」の文脈で早速これを取り上げています。
昨日書いたさいたま市消防局の記者会見にドン・キホーテの社員が潜り込んでいた件で読者からいただいたメールの中に「記者クラブってそういうものだったんですか」というものが多くて驚いた。
みなさん実のところこの国の最後で最悪の談合組織が実は大手メディアそのものであるということをご存じないんですね。
田中康夫さんの「脱記者クラブ宣言」の意義が浸透しないはずである。
もちろんこれは都合が悪いメディアどもがそれこそ談合してクラブの弊害について報じないようにしているからで奴らは快哉を叫んでいることだろう。だから私ごときが蟷螂の斧でまたこうしてシコシコと書かねばならないのである。
ドン・キホーテの宿痾ともいえる脱法体質はあわてて誤魔化したつもりでも消防の立入検査で続々と違反が見つかっていることでもう改めて書くまでもなく社員の潜入の意図もミエミエだがこいつを叩き出した記者クラブの体質とそのときの状況については上記の理由で大マスコミの方々は絶対に書かないので私が報じないわけにはいくまい(溜息)。


ジャーナリズム考現学氏は、発表する当局と記者クラブとの関係に着目し、そこに内在する排除の論理に疑問を呈しています。
 消防局からすれば、指導した当事者が会場にいると、何となくやりにくいのはわかる。しかし、行政として情報を公開する義務がある。当事者が会場にいるからといって公開内容が狭まるというのは、あってはならない話だ。
会見の途中で社員が「それは一方的な見解だ!」「事実と違う!」などと騒いだら、市民への円滑な情報公開を妨害したとして排除すればいい。しかし、この社員は大人しくメモを取り、録音をしていただけだ。
テレビ映像で見ている限り、記者たちは社員を取り囲み、むしろ社員を追いつめている感じだった。ドン・キホーテ本社の説明責任を追及し、同社のコメントを求めた。コメントを求めるべきなのは、さいたま市消防局の方ではないのか?なぜ、当事者は会見から排除されなければならないのか?なぜ、メモを破棄しなければならないのか?記者団を排他的に会見に参加させているのはなぜか?それぞれの法的根拠は何か?
もし会見でドン・キホーテ側に伝わるとまずい内容を説明され、その内容を報道しないようにと要請されていたとしたら、これこそ大問題だ。メディアと当局の癒着である。
そろそろ「記者会見」の位置づけをはっきりさせるときだ。記者会見とは公の場なのか、それとも当局が限られたメディアにこっそりと裏事情を話す場なのか?


これに対し、現役記者の浜村寿紀氏は、いかにも社会部の現役バリバリらしく、記者会見は新聞記者にとり行政の不備をつく武士の戦場にあたる場と捉えているのでしょう。そこに当事者が紛れ込んでいるのは夾雑物であり迷惑と喝破します。
問題の記者会見に私が出席していたら、消防局の従前の指導が本当に適切だったかどうかをしつこく質問したと思う。もし、そこにドン・キホーテの社員がいたら、ただでさえ情報を出さない役所は、さらに貝になってしまうだろう。だから「出て行ってくれ」。純粋に仕事の邪魔になるからである。これを「驕り」と言われては、ため息が出てしまう。

これに対し、地方紙の熱血記者であるガ島通信氏は、マスコミ記者は市民感覚に立脚して行動しないと社会からの批判を免れないとして、新聞記者の心理に潜む特権意識を批判します。
マスコミは常に自分たちを安全圏において、企業や行政を批判し続けます。そして自分たちが批判されると感情的になったり、卑屈になったりする。すでにこのあたりの構造は見切られています。
確かにテレビで流れた記者によるドンキ社員の吊るし上げは尋常じゃなかったですものね。
そして、前日のエントリーでは浜村氏を批判して、
浜村氏はブログを読む限り精力的な記者という印象で悪気はないと思いますが、知らない間に自分が特権階級にいることに気づいていない、典型的なマスゴミ病にかかっているようです(何度も述べてきましたが共同ブログ騒動と同じ構図)。
としています。

この他にもさまざまなブログで賛否それぞれの意見が出ています。
そこで、記者クラブ制度の功罪に論点を絞り、次のエントリーで考えてみたいと思います。


失墜し始めたワンマンボスの権威

2004年12月24日 16時46分33秒 | クライシス
海老沢@NHK、中内@ダイエー、堤@コクド、ナベツネ@読売・・・・・・。
いずれも一時代を築いたトップの権威が、今年、たてつづけに失墜していった。
これらの集中は、単なる偶然なのだろうか?
私は偶然ではすまされない大きな時代のうねりを、その背後に感じている。

これらのトップのいずれとも面識がないため、一般の報道や噂に基づく論評で恐縮なのだが、いずれも、人の話を聞くのが下手な共通点を持っているように見受けられる。
特に、社内においてその印象が強い。
NHKに対しては国会や総務庁、経営委員会がチェック機能を果たすべきだが、それが形骸化していることは先日の生番組「NHKにいいたい」で明らかになった。
ダイエーに対しては、株主も銀行も暴走を止められなかった。
コクドや読売に至っては、そもそも外部のチェック機能があるかどうかすら疑わしい。
どうも、外部の掣肘を受けることのないワンマンボスの経営する企業は、これからますます凋落の勢いを増すのではないだろうか。

終戦後間もない1946年の暮、傾斜生産方式を導入したことを手始めに、日本経済はその牽引力を企業に委ねてきた。
その結果、日本は世界史にも稀な短期間での経済復興、経済成長を成し遂げた。
高度成長を含め、戦後日本の発展は企業のがんばりの成果だといっていいだろう。
これを「企業イニシアティブによる社会の発展」と呼びたいと思う。

しかし、1989年の東京証券取引所での大納会で日経平均株価38,915円87銭をつけたのをピークに日本経済は長いバブル崩壊後のトンネルに入る。
それからちょうど15年。国内消費は冷え切ったまま推移し、企業はかつての牽引力を取り戻せないままでいる。
代わって主役として登場したのが生活者(消費者)だ。
サラリーマンは社畜のくびきを脱し、地域社会やNPOに参加しはじめ、
独身OLは独自の消費文化を謳歌し、
専業主婦も社会参加を始めた。
いまや、社会発展の原動力は生活者に移った感がある。
つまり「生活者イニシアティブ時代」の到来である。

「企業イニシアティブの時代」にあって、ワンマンボスの経営スタイルは決して珍しくなかったし、右肩上がりの経済成長の時代にはそれなりの効果を発揮した。
しかし、時代は「生活者イニシアティブ」に移り、生活者とのインタラクティブな対話を通じ、鋭敏なアンテナを伸ばすことこそが必要な時代に、ワンマンボスの経営スタイルでは、社会から取り残されることに他ならないのだろう。
社会の変化に対応できないばかりでなく、対話を拒むその閉鎖的経営が社会的批判を受けることにも直結することになってしまった。

「生活者イニシアティブ時代」の到来を理解しない経営者は、彼らばかりではない。
特に歴史の古い大企業に多く見られる類型である。
ワンマンボスの凋落が今年批判の洗礼を受けた彼らだけで終わるとは到底思えない。
「企業イニシアティブ型経営スタイル」への弔鐘が鳴り始めたと理解すべきと思うが、どうだろう。



受信料制度の限界

2004年12月22日 16時47分12秒 | クライシス
しぶといなぁ、海老ジョンイル会長。
番組中で辞任表明とのガセ情報が流れていたので、幾分は期待したのですけれど。
爽やかな出処進退を期待するほうが間違えだっていうことですね。
そもそも、政治家が「出処進退は本人が決めること」との逃げ口上を、ここ数十年使い続けてきたツケでしょうか。進退に関する美風がこの国では壊滅したとの感を抱く昨今です。
新しく経営委員長も決まったようで、経営委員会を実質的に機能させての自浄作用を期待したいところですが、おそらく、むなしい望みでしょう。

ぼくも会長は辞任したほうが溜飲はさがると思うけど、今のNHKが抱える問題は少しも片付かないんじゃないのかなぁ。
今、NHKが何種類の放送を行っているか知ってます?
なんと国内だけで10種類ですよ。

地上放送では、 
【総合テレビジョン】
【デジタル総合テレビジョン】
【教育テレビジョン】
【デジタル教育テレビジョン】
【ラジオ第1放送】
【ラジオ第2放送】
【FM放送】

さらに衛星放送では、
【BSデジタル衛星ハイビジョン】
【BS-1衛星第1テレビジョン/デジタル衛星第1テレビジョン】
【BS-2衛星第2テレビジョン/デジタル衛星第2テレビジョン】

このほかに国際放送では
【NHKワールドTV(テレビ国際放送)】
【NHKワールド・プレミアム(テレビ番組配信)】
【NHKワールド・ラジオ日本(短波によるラジオ国際放送)】
【NHKワールドのインターネット・サービス】

たしかに地上派デジタルへの移行期に当たりますので、総合テレビと教育テレビの波がダブっているのはやむを得ないと思いますが、これだけの波が、まともなチェックのないまま流されているのです。

「受信料ペイヤー」はどのようにして、【NHKワールドTV(テレビ国際放送)】をチェックすればいいのでしょうか。
そもそも、国内の契約者の受信料で国際放送を制作しオンエアすることはアリなんでしょうか。
際限なく膨張する費用をどこまでも受信料収入で支えられるのでしょうか。

災害時にはNHKの放送が有益だとか、NHK特集は内容が優れているとか、国民的行事である紅白歌合戦にペ・ヨンジュンが出演するか否かなど、総合テレビの番組内容を中心にNHKの必要性が語られがちですが、巨象の鼻の周辺だけでNHKを語っていいのかなぁと思います。

国民から受信料を集めて、会長以下の経営陣で極めて恣意的に予算が決められ、国会審議も経営委員会も十全にはチェックできていないというのが実態ではありませんか?
どうも、この経営形態は会長の首のすげ替えでは解決できないガバナンスの欠陥を抱えているように思えてなりません。

このままいけば、受信料制度が破綻することは眼に見えているように思うのですが、どうでしょう。


【追記12.23】

猫並さんからコメントをいただいた。
国際放送には受信料は使われていないとのご指摘。
不明を恥じますとともに猫並さんに感謝します。

とはいえ、受信料制度がサステイナブルでないシステムだとの思いは変わりませんけど・・・。