Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

しっぺ返しを受けた角栄流マスコミ操縦術

2008年06月08日 09時08分56秒 | 広報史
佐藤退陣会見の無残
昭和47年6月17日。7年8ヶ月にわたり政権の座にあった佐藤栄作の最後の記者会見は、前代未聞の展開となった。
この映像は今でもユーチューブで確認することが出来るが、朝日新聞は同日夕刊で「『新聞はきらい、話さぬ』首相、感情むきだしの暴言」と報じた。
かねて、新聞の批判を腹に据えかねていた去りゆく宰相は「テレビカメラはどこにいるのか。偏向的な新聞は大嫌いだ。直接国民に話したいんだ。」と新聞の取材を拒否。これに反発した記者は、テレビも含め一斉に退場。ガランとした会見場で、首相はただひとり、テレビカメラに向けてしゃべり続けたのだった。

「大蔵大臣アワー~ふところ放談」
代わって宰相の印綬を帯びたのは、今太閤ともてはやされた田中角栄。
角栄はマスコミに抜群の影響力を持っていた。
その秘密は、弱冠39歳で就任した郵政大臣時代にある。
昭和32年、民放36局、NHK7局に一斉に放送免許を与えたことで、東名阪や札幌などの大都市部に限られていたテレビ放送が、全国の9割で視聴できるようになったのだ。
申請者が殺到したため4年間手がつけられなかった利権調整を成し遂げたのは、角栄の獅子奮迅の働きである。このプロセスでテレビ各社とその背後の新聞社にしっかりと恩を売っていたのだ。
そのせいか、40年には日本テレビで『大蔵大臣アワー~ふところ放談』なる、田中角栄の冠番組まで登場する。
あまりに露骨なこのプロパガンダ番組は、さすがに国会で問題になり、1クールで打ち切りとなった。
このように新聞やテレビとの太いパイプを築いた角栄は、それを味方に、宰相への道を駆け上がったのだ。

官邸に内閣広報室
そんな角栄だけに、総理府が取りまとめている行政広報に飽き足らず、首相に就任の翌年には首相膝下の内閣官房に内閣広報室を設置。政治広報への取り組みを本格化させたのだ。
角栄も列席した発足式で、後藤田官房副長官は「テレビ、新聞だけでなく、週刊誌へのPR活動も十分注意してやらねばならない」とマスコミ対策の拡大を訓示している。
しかし、時はすでに遅かった。
発足当日の朝日新聞は、物価高を理由に、内閣支持率がスタート時の62%から27%に急落していることを伝えている。角栄ブームの退潮は始まっていたのだ。
やがて、後藤田が注意を喚起した、まさにその雑誌メディアから、田中金脈批判の矢が放たれた。
田中内閣は国民の間に澎湃と上がる批判の前に、「一夜、沛然として降る豪雨に心耳を澄ます思い」との印象的なフレーズで知られる格調高い退陣声明を残し、総辞職した。



幻に終わった石橋湛山アワーと寝業師・石田博英

2008年06月02日 07時34分45秒 | 広報史
寝業師 石田博英

石橋内閣は政権基盤が脆弱なことに加え、その反米的姿勢にアメリカからの反発も強く、民意の支持が命綱ともいえる政権だった。
石橋内閣のキーマンは石田博英官房長官。自民党総裁選で2・3位連合を成功させ、第一回投票トップの岸信介を7票差で逆転して石橋湛山を首相に押し上げた功労者である。
昭和31年の暮れも押し詰まった12月23日に政権が発足するや、石田博英は直ちに次年度予算での広報費の拡大を指示した。それまでは3千万円を要求し、大蔵省と折衝していたのだが、官房長官指示により10倍の3億円を要求しなおしたのだ。
結果として認められたのは6千万円にとどまったが、それでも当初要求からみれば倍増の成果だ。
石田は、増えた予算を使い、テレビ・ラジオでの「湛山アワー」の放送をもくろみ、NHKおよび民放各局との交渉を開始していた。
しかし、石橋首相は就任直後の強行日程のあおりか、脳梗塞を発症し自宅の風呂場で倒れる(当時は老人性肺炎と発表)。
こうして石橋内閣は在任65日にして総辞職し、「湛山アワー」は幻に終わった。

ルーズベルトの「炉辺談話」

「湛山アワー」のヒントはアメリカにある。
32代大統領フランクリン・ルーズベルトが、就任直後に当時の最新メディアであるラジオを通じ直接国民に語りかけた番組「炉辺談話」がそれである。
ちょうど暖炉の前の安楽椅子で語るように、フランクに、平易に、大恐慌からの回復をめざす自らのニューディール政策を肉声で語りかけ、国民からの支持と信頼を獲得した。
GHQが日本にPRをもたらした背景には、このルーズベルトの流れを汲む『ニューディーラー』の理想主義が存在している。

米大統領と政治PR

大衆民主主義国アメリカの大統領は、新しいメディアの活用に長けているようだ。フランクリンのいとこに当たる26代大統領セオドア・ルーズベルトは、ポーツマス条約で日露の仲介をしたことで知られるが、彼は新聞を活用し、新聞を通じて政治をする初めての大統領として『メディア大統領』と呼ばれた。おりしも新聞メディアの勃興期に当たっていたのだ。
さらに、28代大統領のウッドロー・ウィルソンはモンロー主義の伝統から欧州での戦争への関与を嫌うアメリカの世論を第一次大戦への参戦に導くため、『クリール委員会』と呼ばれる組織をつくり、初の大規模政治PRキャンペーンを実施し成功させている。
新聞、雑誌、映画、幻燈、ポスター、展覧会、展示会、演説会、絵画等々。当時のメディアを総動員したキャンペーンである。
彼らの活躍した20世紀初頭は、アメリカにおいでPRが一般しようとする黎明期だったのだ。