佐藤退陣会見の無残
昭和47年6月17日。7年8ヶ月にわたり政権の座にあった佐藤栄作の最後の記者会見は、前代未聞の展開となった。
この映像は今でもユーチューブで確認することが出来るが、朝日新聞は同日夕刊で「『新聞はきらい、話さぬ』首相、感情むきだしの暴言」と報じた。
かねて、新聞の批判を腹に据えかねていた去りゆく宰相は「テレビカメラはどこにいるのか。偏向的な新聞は大嫌いだ。直接国民に話したいんだ。」と新聞の取材を拒否。これに反発した記者は、テレビも含め一斉に退場。ガランとした会見場で、首相はただひとり、テレビカメラに向けてしゃべり続けたのだった。
「大蔵大臣アワー~ふところ放談」
代わって宰相の印綬を帯びたのは、今太閤ともてはやされた田中角栄。
角栄はマスコミに抜群の影響力を持っていた。
その秘密は、弱冠39歳で就任した郵政大臣時代にある。
昭和32年、民放36局、NHK7局に一斉に放送免許を与えたことで、東名阪や札幌などの大都市部に限られていたテレビ放送が、全国の9割で視聴できるようになったのだ。
申請者が殺到したため4年間手がつけられなかった利権調整を成し遂げたのは、角栄の獅子奮迅の働きである。このプロセスでテレビ各社とその背後の新聞社にしっかりと恩を売っていたのだ。
そのせいか、40年には日本テレビで『大蔵大臣アワー~ふところ放談』なる、田中角栄の冠番組まで登場する。
あまりに露骨なこのプロパガンダ番組は、さすがに国会で問題になり、1クールで打ち切りとなった。
このように新聞やテレビとの太いパイプを築いた角栄は、それを味方に、宰相への道を駆け上がったのだ。
官邸に内閣広報室
そんな角栄だけに、総理府が取りまとめている行政広報に飽き足らず、首相に就任の翌年には首相膝下の内閣官房に内閣広報室を設置。政治広報への取り組みを本格化させたのだ。
角栄も列席した発足式で、後藤田官房副長官は「テレビ、新聞だけでなく、週刊誌へのPR活動も十分注意してやらねばならない」とマスコミ対策の拡大を訓示している。
しかし、時はすでに遅かった。
発足当日の朝日新聞は、物価高を理由に、内閣支持率がスタート時の62%から27%に急落していることを伝えている。角栄ブームの退潮は始まっていたのだ。
やがて、後藤田が注意を喚起した、まさにその雑誌メディアから、田中金脈批判の矢が放たれた。
田中内閣は国民の間に澎湃と上がる批判の前に、「一夜、沛然として降る豪雨に心耳を澄ます思い」との印象的なフレーズで知られる格調高い退陣声明を残し、総辞職した。
昭和47年6月17日。7年8ヶ月にわたり政権の座にあった佐藤栄作の最後の記者会見は、前代未聞の展開となった。
この映像は今でもユーチューブで確認することが出来るが、朝日新聞は同日夕刊で「『新聞はきらい、話さぬ』首相、感情むきだしの暴言」と報じた。
かねて、新聞の批判を腹に据えかねていた去りゆく宰相は「テレビカメラはどこにいるのか。偏向的な新聞は大嫌いだ。直接国民に話したいんだ。」と新聞の取材を拒否。これに反発した記者は、テレビも含め一斉に退場。ガランとした会見場で、首相はただひとり、テレビカメラに向けてしゃべり続けたのだった。
「大蔵大臣アワー~ふところ放談」
代わって宰相の印綬を帯びたのは、今太閤ともてはやされた田中角栄。
角栄はマスコミに抜群の影響力を持っていた。
その秘密は、弱冠39歳で就任した郵政大臣時代にある。
昭和32年、民放36局、NHK7局に一斉に放送免許を与えたことで、東名阪や札幌などの大都市部に限られていたテレビ放送が、全国の9割で視聴できるようになったのだ。
申請者が殺到したため4年間手がつけられなかった利権調整を成し遂げたのは、角栄の獅子奮迅の働きである。このプロセスでテレビ各社とその背後の新聞社にしっかりと恩を売っていたのだ。
そのせいか、40年には日本テレビで『大蔵大臣アワー~ふところ放談』なる、田中角栄の冠番組まで登場する。
あまりに露骨なこのプロパガンダ番組は、さすがに国会で問題になり、1クールで打ち切りとなった。
このように新聞やテレビとの太いパイプを築いた角栄は、それを味方に、宰相への道を駆け上がったのだ。
官邸に内閣広報室
そんな角栄だけに、総理府が取りまとめている行政広報に飽き足らず、首相に就任の翌年には首相膝下の内閣官房に内閣広報室を設置。政治広報への取り組みを本格化させたのだ。
角栄も列席した発足式で、後藤田官房副長官は「テレビ、新聞だけでなく、週刊誌へのPR活動も十分注意してやらねばならない」とマスコミ対策の拡大を訓示している。
しかし、時はすでに遅かった。
発足当日の朝日新聞は、物価高を理由に、内閣支持率がスタート時の62%から27%に急落していることを伝えている。角栄ブームの退潮は始まっていたのだ。
やがて、後藤田が注意を喚起した、まさにその雑誌メディアから、田中金脈批判の矢が放たれた。
田中内閣は国民の間に澎湃と上がる批判の前に、「一夜、沛然として降る豪雨に心耳を澄ます思い」との印象的なフレーズで知られる格調高い退陣声明を残し、総辞職した。