Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

広報官という名の「広聴官」を活用した中曽根康弘

2008年07月23日 07時58分44秒 | 広報史
「私は総理大臣になる前から、毎日感じたことを、特に夜中にベッドへ入って、寝る前にいろいろ頭にひらめく、あるいは、朝、明け方が一番そういうチャンスも多いのですが、そのたびごとに起き上がって、大学ノートにその印象や政策を書き連ねたものです。」
こうして書いたノートが総理就任時には30冊を超えたと、中曽根康弘は言う。若いときからひたすら総理を目指してきた政治家なのだ。
総理就任の3日後には、瀬島龍三に密使を依頼。電撃的な韓国訪問により、最悪だった日韓関係を改善し、これを手土産に訪米してレーガン大統領との間に「ロン・ヤス関係」を構築するという鮮やかな手際は、総理就任以前からの周到な戦略構築の賜物であった。

内閣広報官の新設
中曽根康弘は、政権運営も軌道に乗った86年に官邸の機能強化に乗り出す。
レーガンのホワイトハウスは360名程度のスタッフを擁している。ニクソンやフォードの時には500名に及ぶ陣容だ。これに比べ首相官邸のスタッフはあまりに貧弱である。
そこで、後藤田官房長官の指揮下、内閣官房に内政審議室、外政審議室、安全保障室、情報調査室、内閣広報官室の5室を置いた。総理直属の政策スタッフである。
特に内閣広報官の新設は中曽根総理の強い意向だったという。

内閣広報官は、ホワイトハウスの大統領報道官の日本版なのだろうか?
『否』である。内閣のスポークスマンは後藤田官房長官自身が務めている。
初代広報官に起用した宮脇磊介に対し中曽根は、「総理とオピニオンリーダーとを直結するパイプ役」として「頭より体を使って仕事をしてくれ」と指示している。
そこで宮脇は、知識人、学者、マスコミ幹部、財界、労働団体リーダーなどとの面談を精力的に開始した。
就任以来3ヶ月で300人。1年間で700人に及ぶオピニオンリーダーから、「首相以外にはだれにも話さない」という約束で本音の話を聞き、首相に直接報告していたという。
初代広報官は、“広聴官”であったのだ。

広聴と広報の連携
もとより広聴だけで職責を果たせるわけがない、「黒人の知的水準発言」をはじめ、総理の失言は相次ぎ、また、売上税の導入は世論の強い反発の前に撤回のやむなきに至った。
政府広報の総指揮も内閣広報官の役割だ。政権維持のためには、説得工作でも撤退作戦でもきめ細かい広報戦略が欠かせない。そして、この広報戦略の背後には宮脇が地道に繰り広げた広聴活動が存在していた。
広報と広聴との連携はお題目だけに終わることも稀ではないが、中曽根はその重要さを熟知する総理だったのである。
後に、宮脇は内閣広報官の任務を「総理のお庭番」であり、他方「世論形成官」であったと述懐している。