Fireside Chats

ファイアーサイド・チャット=焚き火を囲んだとりとめない会話のかたちで、広報やPRの問題を考えて見たいと思います。

選挙とイメージ戦略

2009年08月01日 11時04分59秒 | 広報史
1.アメリカ大統領とマスメディア

超大国アメリカに若き大統領ジョン・F・ケネディが登場した。当時43歳。70歳のアイゼンハワー前大統領からは30歳近い若返りである。
1961年1月20日の就任式に臨んだケネディは、国民に対し『国がなにをしてくれるかではなく、諸君が国のために何が出来るかを問い直して欲しい』と呼びかけ、『たいまつは若い世代に引き継がれた』と宣言し国民の熱狂的な支持を獲得した。
ケネディが、ニクソンとの史上稀に見る伯仲した選挙戦を勝ち抜く決め手となったのが、「グレート・ディベート」と呼ばれた候補同士の討論会である。前後4回行われた討論の模様はラジオ・テレビを通じ全国に放送された。特に1960年9月26日シカゴで行われた第一回の討論は、有権者の60~65%が視聴したといわれる。
白熱した第一回討論の勝敗は微妙だったようだ。ラジオで聴いた人はニクソンの勝利と思い、テレビで見た人はケネディに軍配をあげたとの説もある。
その理由は、ダークな色調のスーツにテレビ用のメーキャップを施したケネディの溌剌とした印象に比べ、背景に溶け込むような淡いグレーのスーツで、疲れきり顔色の優れないニクソンは弱々しくやつれて見えたからだそうである。
ケネディは、前政権で副大統領としての経験を積みスピーチも巧みな対立候補ニクソンと互角に渡り合うことで、若く未熟なカトリック教徒という評判を払拭する契機とし、僅差ながらもニクソンを凌駕する結果につなげたのである。

ところで、アメリカの政治はいつも最新のメディアを取り入れることに貪欲である。
時代を遡れば20世紀初頭、ピュリッツァやハーストなどのイエロージャーナリズムにより新聞メディアが勃興した。世界初のPRエージェンシーといわれる「パーカー&リー社」もこの時期に設立される。この潮流をいち早く取り入れたのは1901年に就任したセオドア・ルーズベルトである。彼は「新聞の見出しで政治を行う大統領」と評された。
二代後のウッドロー・ウィルソン大統領は、第一次世界大戦への参戦にネガティブなアメリカの国論を転換するために「クリール委員会」と呼ばれる世論操作のためのプロジェクトを組織し、PRの手法を本格的に政治に取り入れた。
やがてラジオが当時のニューメディアとして登場する。これをフル活用し、「炉辺談話」と名付けられた生番組を通じて国民へ直接語りかけたのがフランクリン・ルーズベルトである。
テレビへの注目も早い。1952年の大統領選挙では、共和党が広告会社のBBDOを起用しアイゼンハワー候補のテレビCMを流している。さらに1956年には民主党もテレビを中心にすえたキャンペーンに本格的に参戦し、共和党との間でテレビCMの空中戦が華々しく繰り広げられた。当時中心となったのは、5~10分のスポットCMで、「瞬間演説」と呼ばれていた。今日の政党テレビCMが15秒か30秒であることを思うと、隔世の感がある。
このように、選挙戦へのテレビメディアの活用は、必ずしもケネディ=ニクソン対決から始まったわけではなく、その前史があることに留意する必要がある。しかし、テレビの特性をはっきり生かしきり、使いこなしたのはケネディであった。


2.タレント議員の誕生

ケネディ=ニクソン対決の前年にあたる1959年4月10日。日本では皇太子殿下(今上天皇)ご成婚があり、テレビの普及が進んだ。また週刊誌の創刊も相次ぎ、わが国でも本格的メディア時代が幕開けを迎えていた。
テレビの世帯普及率をNHKの契約データからたどると、58年には10.4%に過ぎなかったが、59年には23.6%と倍増し、ケネディの就任した61年には62.5%とうなぎのぼりに普及している。そして、テレビの普及率が79.4%に達した1962年に行われたのが第6回参議院選挙である。

この参議院選で初めて、テレビの作り上げたタレント議員第一号が誕生する。
参議院全国区は『残酷区』といわれるほど候補者に過酷な選挙戦を強いる選挙区で、全国的な組織票を背景とした候補がくつわを並べるのが常だった。
そこに立候補したのが、当時、NHKのお化けクイズ番組『私の秘密』(月曜19:30-20:00)のレギュラー回答者としてお茶の間の高い知名度と人気を誇っていた藤原あきである。
藤原あきは、和服姿のすずやかな物腰とうらはらに、それまで数奇な人生経験を重ねてきた女性だった。
三井財閥の大番頭中上川彦次郎の娘として生まれ、福沢諭吉の姉の孫にあたる。
若くして歳上の医者と親の決めた結婚をしていた藤原あきは「われらがテナー」と呼ばれた人気オペラ歌手藤原義江と恋に落ち、スキャンダルとして満天下の話題をさらう。やがて彼女は二児を残して婚家を出奔し、藤原義江を追ってミラノに赴く。
藤原義江と再婚したあきは、彼の主宰する藤原歌劇団の運営に尽力するが、夫の女性関係に疲れて離婚。資生堂の美容部長を勤めながら、私の秘密に出演していた。

このテレビ人気に目を付けたのが、彼女のいとこに当たり同じ福沢諭吉山脈に連なる藤山愛一郎だった。
藤山コンツェルンの御曹司である藤山は、日本商工会議所会頭、経済同友会代表幹事、日本航空初代会長、大日本製糖社長などを務める財界重鎮であったが、岸内閣の外務大臣に就任したことを契機に政界に転身し、当時は藤山派を率いていた。
藤原あきの選挙事務所の事務長は小泉純一郎の父・純也代議士。しかし、実質的に選挙運動を仕切ったのは後に政治評論家として活躍する飯島清だった。
ケネディの選挙戦の分析などを通じ、近代的選挙戦術を模索し、仲間と提言をまとめていた飯島は、藤山愛一郎の求めに応じ、自らの選挙理論の実験の場として、藤原あきを担いで、参議院選挙に挑戦したのだ。
選挙戦に突入すると、特に下町の主婦に藤原あきの人気は絶大だった。結果としてそれまでの最高記録を塗り替える116万票を獲得し、全国区でトップ当選を飾る。テレビ番組の人気を議席につなげた第一号のタレント議員である。


3.革新都政

首長選挙でのイメージ戦略のエポックとなったのが1967年の東京都知事選挙である。
1960年に始まった日本の高度経済成長は、池田内閣の策定した全国総合開発計画に導かれ世界史的に見ても前例のない発展を示した。その牽引力となったのが太平洋ベルト地帯の開発であり、高度経済成長期前半の頂点が1964年の東京オリンピックだった。
オリンピックに向け、代々木や駒沢に競技施設が整備され、新幹線やモノレール、高速道路が開通し、東京は大きく変貌した。
しかし、急激な発展の裏には成長のひずみが潜んでいた。
まず、オリンピック優先のために後回しにされた都市環境の問題である。交通渋滞は慢性化し排気ガス公害も問題となった。都心部の川の表面には、メタンガスの泡が常に湧き上がっていた。また、人口の一極集中化にかかわらず住宅整備は立ち遅れ、遠く高く狭い住宅への不満が鬱積していた。
次にオリンピック後の不況である。
施設や交通の整備が終わり建設需要が冷え込んだ。カラーテレビの売れ行きも一巡した。諸物価高騰の中で景気は低迷し、高度経済成長は踊り場を迎える。
山陽特殊鋼などの大型倒産が相次ぎ、とうとう当時の四大証券会社の一角を占めていた山一證券が破綻の危機に追い込まれた。田中角栄蔵相の決断により、日銀が特別に資金を融資することでようやく踏みとどまった。
3番目に政治不信の高まりである。
国政レベルでは、田中彰治衆議院決算委員長が小佐野賢治国際興業会長を脅迫し逮捕されたり、荒船清十郎運輸大臣が選挙区に急行列車が停まるようむりやり国鉄に圧力をかけたり、社会党の相沢重明参議院議員が共和製糖に関連した国会質問に絡み金銭を受け取るなどの事件が相次ぎ、一連の黒い霧として問題化し、ついに佐藤総理は人心一新のため、1966年末に国会を解散する。「黒い霧解散」である。
都政のレベルでは黒い霧はさらに深刻だった。都庁は「伏魔殿」と呼ばれ、行政・議会・業者の癒着がかねてから噂されていたが、1965年には都議会議長選挙を巡る買収事件が発覚し17議員ガ起訴されるにいたり、議会機能は麻痺し、紆余曲折の末解散した結果、自民党は社会党に次ぐ都議会第二党に転落した。

こうした状況を背景に、都知事選挙が行われた、上げ潮に乗る野党は社会党と共産党が協定を結び東京教育大学教授美濃部亮吉を擁立する。美濃部はマルクス経済学者で、NHKテレビ『やさしい経済教室』の解説者を務め、ブラウン管から見せる柔らかな笑顔はお茶の間から親しまれていた。戦前に天皇機関説を理由に軍部や右翼から攻撃された美濃部達吉の長男にあたることもあり、名前も顔も売れた学者だった。
テレビ出演を通じて大衆のこころをつかむことに長けた美濃部は、斬新な戦法を導入する。日本にCI戦略が導入されるのは1970年前後だが。それにさきがけてCI的手法を展開したのだ。
まず、候補者名の「美濃部」が覚えにくいとして、かな書きで表記する。
選挙戦にシンボルマークを導入したことも斬新だった。マークのデザインは真中を白く抜いた円。いわゆる蛇の目紋だ。青空をイメージさせるライトブルーがシンボルカラーとして採用される。
このシンボルカラーは、宣伝カー、パンフレット、看板、候補者のネクタイ、運動員の腕章、事務所のくずかごに至るまで、すべてに統一的に展開された。マークのバッジは5万個つくったといわれる。今日の選挙では、運動員がおそろいのTシャツを着用することが珍しくないが、その祖形はこのときの選挙にある。
美濃部に敗れたのが前立教大学総長松下正寿。美濃部220万票に対し206万票という僅差であった。
自民党は当初東龍太郎前知事の下で副知事を務めていた鈴木俊一を候補に考えていたが断念。民社党推薦の松下候補に相乗りし「馬の尻尾にハエがとまるのではなく、ハエの尻尾に馬がとまった。」といわれた。
松下陣営もイメージ選挙には力を入れた。専属のスタイリストをつけ、スーツやワイシャツを選び、メガネも取り替えさせたという。目つき、口元、タバコの吸い方についてもアドバイスをする。あきらかにケネディ選挙を意識した対策である。
さらに、テーマソングとして「松下正寿の歌」もつくり、宣伝カーや演説会場で流したという。
このように、タレント候補の擁立にとどまらず、選挙運動そのものがイメージ重視のキャンペーン型に変化してきたのである。

4.タレント候補ブーム

テレビで名前と顔が売れている候補が選挙に強いことはもはや明らかだ。美濃部都知事当選の翌年、1968年に行われた参議院選挙で、自民党は全国区に有名人の候補者を複数擁立した。
芥川賞作家、石原慎太郎(301万票=得票数、以下同じ)、直木賞作家の今東光(102万票)、東京オリンピックで女子バレーボールに金メダルをもたらした大松博文監督(82万票)である。
また、無所属からは、ブラウン管に顔を出す放送作家の青島幸男(120万票)とお笑いの漫画トリオのリーダーである横山ノック(67万票)とが殴りこみをかけ、このいずれもが議席を得る結果となった。

トップ当選を果たした石原の300万票を超える得票はいまだに破られない最高記録である。35歳の石原慎太郎を空前の得票に導いた選挙参謀が、藤原あきの116万票を支えた飯島清である。飯島は後年、その著書「~科学的選挙戦術応用~ 人の心をつかむ法」でこのときの選挙の裏側を披露している。その中から飯島戦略のポイントを拾ってみよう。
選挙参謀を依頼されてすぐに飯島は2000サンプルのアンケート調査により、石原候補のイメージ特性を調べた。
すると、都市部に強いものの地方では名前も顔も売れていないことが明らかになった。都市部でさえ名前を知っているのは60%、顔を知っているのは10%にとどまっている。
しかし、弟の裕次郎は全国平均で90%が名前も顔も知っている。そこで、裕次郎を応援弁士として活用し、公示の半年前から全国くまなく回ることから事前運動をスタートした。裕次郎人気によりどこも満員の盛況で、開場前にいかないと入れないとの噂が広範にながれた。
アンケート結果から浮かび上がった石原のイメージプロフィールは、「若くてスマートで有能。だけどちょっと冷たい」というものだった。
この冷たいイメージは払拭しなければならない。そこで、20本のテレビ番組に出演の機会をつくり本人の素顔を見せ、人間的な温かいイメージを浸透させた。さらに夫人と4人の子息を雑誌取材などの折には前面に出した。35歳にして4人の子沢山、しかも全部男の子というのは、当時でも珍しく、家庭的イメージを演出することができた。
公示後は、胸に日の丸をつけた白のジャケットで颯爽と登場させ、若さとさわやかさを強調する。また、ケネディ戦術に範を取り積極的な握手戦術を展開した。
ポスターは都市部用のアート感覚を活かしたものと、地方用のオーソドックスなものを使い分ける。宣伝カーから流す呼びかけのテープは、元気な朝バージョン、いたわりの夜バージョンなど、朝昼晩で3種類を使い分けるというきめ細かさだ。

調査結果の分析を踏まえターゲットを明確に絞り込み、しっかりとしたポジショニングに基づきキャンペーンを展開していることが理解できよう。日本で始めて選挙に近代的マーケティングを持ち込んだのが、1968年参議院選の石原慎太郎だった。
そればかりではない、舞台裏では組織の応援も受けている。資生堂、東洋工業、ヤクルト、日本生命、霊友会、裏千家、小原流、長崎屋などであるが、飯島はこの組織で120万票を固めきったと語っている。

石原陣営の緻密でシステマティックな展開に比べ、無所属の二人は行き当たりばったりだ。横山ノックの選挙事務所は千里ニュータウンの自宅。60万円の選挙資金と6人の運動員のみ。時には寝袋で野宿しながら全国を車で回り、当選にこぎつけた。
青島幸男も中野ブロードウェイの自宅マンションを事務所に、改造したフォルクスワーゲンを駆って、応援組織の無いまま20都道府県を回る選挙戦だった。かかった総費用は120万円。ワーゲンの上に組んだやぐらにあぐらをかいて聴衆に語りかけ、話し終わると車から飛び降りて聴衆と対話を重ねた。

東大紛争がおこり、巷にミニスカートの溢れていたこの年のテレビの世帯普及率は既に96.4%に達していた。
テレビッ子世代とも呼ばれた団塊の世代は1947から49年に生まれている。この世代の先頭ランナーが初めて選挙権を行使したのがこの選挙だった。
また、高度成長の進展に伴い、人口は都市に集中し、旧来の地縁血縁に頼る組織選挙が都市部では機能しなくなり始めていたのである。
テレビの浸透と都市化の進展。この時代の風を受けて大空に翻った2つの凧が青島・ノックであった。ことによると、石原より、青島・ノックの方が時代の変化をを敏感に反映していたのかもしれない。タレントが安直に立候補し、安直に当選する構図はこれ以降国政選挙のたびに見られるようになる。


5.選挙に活かす広告キャンペーン手法

社会党の論客だった飛鳥田一雄は1963年に横浜市長に当選していた。これを皮切りに全国各地に革新首長が誕生する。その中で迎えた1971年の統一地方選挙は各地で保守対革新の激突が見られた。
その中で飛鳥田は横浜市長として三選を果たした。
東京は美濃部知事の2期目にあたる。美濃部は『ストップ・ザ・サトウ』を掲げ、中央との対立の構図を鮮明にすることにより佐藤栄作長期政権に倦んだ都民の気持ちを捉えて362万票を獲得、保守系で194万票集めた秦野章を一蹴した。
そして、東京と横浜にはさまれた川崎の市長に、保守系の金刺不二太郎の七選を阻んで当選し京浜革新ベルトを完成させたのが伊藤三郎だった。
一見、人の良い村夫子然とした伊藤は川崎市の職員組合の中央執行委員長を務め、自治労でも活躍していた典型的組合幹部だった。その彼が温厚で誠実な人柄と強い責任感を買われ、多選批判の中、むりやり候補に擁立されたのだ。
伊藤は公害対策、母と子と老人を大切にする社会福祉の充実、市民による市政の3点を公約に掲げ立候補したが、当初は無名の候補に過ぎず現職有利と思われていた。
その票読みに反し劇的な逆転劇を演じた舞台裏にはひとりのアドマンがいた。
当時38歳。シマ・クリエイティブハウス社長の島崎保彦である。幼い女の子に「おか~さ~ん」と叫ばせるCMによって、業界120位にすぎなかったハナマルキ味噌を、一挙に3位に押し上げた実績を持っていた。
島崎は産経新聞や東京放送を経て、1964年に広告会社のシマ・クリエイティブを起こしていた。ちなみに島崎の父は、電通の専務取締役として営業の責任者を務めた島崎千里である。
島崎保彦は伊藤と何度も話し合い、また、川崎の町を歩いて戦略を考える。
当時の川崎は京浜工業地帯のど真ん中。1,000本の煙突から1平方キロあたり30トン以上の煤塵が降るといわれた公害の町だった。川崎の駅をおりると鼻をつく異臭が漂い、いつもスモッグに閉ざされたような環境だった。
島崎は、候補者本人より、その政策を前面に押し出すことを考えた。そして作ったのがそれまでの選挙ポスターの概念を打ち破るユニークなポスターである。
白地の多いポスターの下部に、伊藤の写真と名前が控え目に配されている。上部には「雲をみたい まっ白な雲を」とキャッチフレーズが書かれ、その下にブルーの鳩のイラストがシンボルキャラクターとして添えられている。鳩の中に「みんなでつくろう、みんなの川崎」のスローガンを読み取れる。
白地の多いポスターは公害に苦しむ灰色の町川崎でよく目立ち、そのメッセージは深い共感を呼んだ。ポスターを撤去するなら自宅に飾りたいとの申し出る人もいた。
候補者の写真と名前をこれでもかというばかりに大きく扱うことが当たり前の選挙の中で、伊藤三郎のポスターは、政策訴求であり、コンセプトのアッピールであった。そしてこの表現を通して伊藤三郎の人柄がじわりと伝わっていった。たった一枚のポスターが選挙戦の流れを変えたのである。