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サワノのお気に入りだけで構成するブログ

ベルリン アンダーグラウンド

2009-11-15 | ベルリン旅行 090516~
11月9日、ベルリンの壁崩壊から20年でした。
ベルリンでの記念式典では かつて東西を分断していた壁のあった場所に設置した
巨大ドミノ倒しに盛り上がっていた様ですね。
これに関連したニュースやTV番組、映画の放送も多くありました。
今回は知られざる(?)ベルリンのアンダーグラウンド、
地下の世界を特集した番組から 気になったものを載せてみます。

↑トップの写真は
ベルリンから帰ってきてすぐ記事にしたドイツ連邦議会議事堂の地下。
白一色でまとまったキレイな通路を進んで行くと突如現れるこの石作りのトンネル。
これは1933年の原因不明な火災で議事堂が炎上した際に
(いわゆるナチスの自作自演と呼ばれる放火です)
放火犯が通ったとされる地下通路入口なんだとか。
修復の時、取り壊しも検討された様ですが 一部残したそうです。

↓そしてコチラ。
議事堂内に現在も「見せている」ソ連軍の落書きです!
左側の壁にぎっしり。





ベルリン攻防戦でソ連軍はココを主要攻撃目標に定めていました。
実際、徹底して破壊した様ですが
当時のナチスにとって(自ら放火したと言われる様に)
それほど重要な場所では無かった様です。
ああ、窓の外に見えるのは↓てっぺんのガラスドームです。





二次大戦が終わり、敗戦国ドイツは連合国とソ連によって東西に分断されます。
東ドイツにあった首都ベルリンもまた
壁によって西ベルリンと東ベルリンに分けられてしまいます。
この時、当然 分断されることを想定していない地下鉄には
(地下鉄は西ドイツの所有とされた。一方Sバーンと呼ばれる近郊鉄道は東ドイツ)
路線上の一部、数駅が東側の領域に入ってしまうため
電車が止まることが出来ないといういくつかの駅ができます。
ホームには誰一人いないことから、これを「幽霊駅」と呼んだそうです。

ホームに誰一人いない....というのはウソですね。
電車が止まらない無人の駅にも東ドイツの国境警備兵が置かれました。
↓これはベルリンの壁が崩壊した2ヶ月後の地下鉄構内の写真。
壁が崩壊し東西の往来が自由になったにも関わらず警備兵が居たそうです。
この写真を撮影しようとしたところ、彼らから注意を受けたそうですが
彼ら自身 何を注意していいのかすら分からなくなっていた、とのこと。





社会主義体制の崩壊。
東西統一に向けて めまぐるしく動き出した時代の流れ。
それに翻弄される彼らの表情がなんともリアルでなりません。
壁は1961年から1989年まで 28年間存在したので
まさに彼らは ドイツがふたつに分断されている中で育ってきた世代です。



「ベルリンの壁」は 地下にも存在していました。
↓これは地下下水道の東西を隔てる壁。
柵は切断しにくい作りになっている上
何かあれば すぐに監視兵に知らせるセンサーが取り付けてあったそうです。





↑このレンガの「ベルリンの壁」には中央に壊そうとした跡がありました。
ところがレンガの奥に鉄板が現れ、そこで作業は止まっていました。
ガッカリしてあきらめたのでしょう。
実際にはレンガの奥に分厚い鉄板、その奥にまたレンガ、
異常を知らせるセンサーとモルタルの壁、
コレだけの物を突破しなければならなかった様です。



↓映画のモデルとなったことでも有名なトンネルの入口。
ここはまさに私が訪れたベルナウアー通りの二重構造の壁の地下を掘ったもの!
私の見てきたベルナウアー通りはコチラからベルリンの壁







このトンネルを掘ったハッソ・ヘルシェル氏の言葉が印象的だった。
ドイツの人々に「民族の誇りを持っているか」と聞けば
大抵の人は首をかしげるだろう。
私達は(20世紀の歴史において)ドイツ人であることに誇りを持てない。
同じ民族同士が対立したツケを背負わされ 戦後の再教育で深い傷を負った。
という内容だったと思います。

そんなことない。
アジアの小国、いち日本人から見た限りですが、決してそんなことはない。
ヨーロッパの街を歩いていて戦争に関するモニュメントは
旅行者の私でさえも 必ず見掛けるモノだけれど
ベルリンには他の何処の街よりもそれが多かった。規模も大きかった。
転じて同じ敗戦国 日本はどうなんだ?
この国にはどれだけの慰霊碑が存在するのだろうか?

ドイツの人々には民族の誇りがあるからこそ その傷が深いのです。



ベルリンの街角 10

2009-09-24 | ベルリン旅行 090516~
ベルリンの街角で不思議なモノを見つけました。
トップの写真↑
....フツーの自転車だヨって?

この自転車にデカデカとかかれている「DB」の文字が意味するのは
「Deutsche Bahn」つまり「ドイツ鉄道」のこと。
赤いロゴマークは駅に行くとよく見掛けます。
そのドイツ鉄道が一体何故 自転車に?
その自転車が一体何故 街角に一台ぽつんと放置?
謎が謎を呼びますが、とりあえず気になるのでカメラに収めてきました。







↑ベルリンの観光名所が入ったマンホール





ドイツ鉄道、「DB」自転車の謎が判明したのは思いもよらない所から。
なんとJAF Mate(JAF会員に送られる小冊子)の10月号。
JAFによると「Call a Bike」と呼ばれる
ケイタイを使った乗り捨て自由なレンタサイクルなんだとか。

ドイツ鉄道の子会社DBレンタルが9年前ミュンヘンで初めて以来
今では6都市で約4万5000人が登録する。
手続きは まず事前にインターネットで住所・氏名
携帯電話の番号やクレジットカードの番号を登録。
そして街に乗り捨てられたレンタサイクルを探す。
車体に記されたコールセンターの番号に携帯電話をかけると
折り返し暗証番号が送られてくる。
その番号をキーボックスに入力すると解錠する。
使い終わったら どこでもいいので指定区域内の交差点付近に駐輪し
コールセンターに携帯電話で場所を告げれば終了。
使用料は1時間当たり約1000円。クレジットカードで払う。

ということらしい。
自分にとって都合のいい所で
誰かが乗り捨てた自転車を見つけなければ意味がないよなぁ?
こんなケイタイ一本なシステムで管理できるのかちょっと疑問です。
しかしそこは「真面目なお国柄」?
乗り捨てた近くの交差点をコールセンターに告げるって
どんなに小さくても 全ての通りに名称があるヨーロッパならではでしょうか?
しかも1時間1000円って結構いい値段。
ま、謎が解けただけで満足です。






↑連れて帰りたい衝動に駆られたベルリーナーベア
あぶない、あぶない。
連れて帰ってどーすんだ。


WIR SIND EIN VOLK 追記2

2009-08-10 | ベルリン旅行 090516~
「WIR SIND EIN VOLK 追記」からまだ続きます。
いつもココを見て下さる皆様、
内容が偏り過ぎててゴメンナサイ







↑この写真はベルリンの壁崩壊20周年のイベントで
軍服を着た「軍人」と呼ぶにはあまりに幼い表情が気になって撮ったもの。
撮影した当初、東ドイツの兵士かと思っていました....。
現地にあった英文と独文の解説がほとんど理解出来ないので
この写真が意味する所を知りたいと思い、自分で調べてみました。

まずこの二人の頭上に掲げられた国旗の国を探します。
右側は何の問題もなくドイツの国旗
左の「白・水色・赤」の三色は色のイメージが違ってなかなか確信が持てませんでしたが
「白・青・赤」と解釈して、多くのスラブ系の国々
(中欧・東欧、主にチェコ、スロバキア、セルビア、クロアチア、ロシア等)
で用いられている 「自由と革命の理想を象徴する三色旗」ではないかと考えると
ロシアの国旗である可能性が増します。
そう、ソ連崩壊後、再び復活した「ロシア」の国旗です。
そこから この写真が1991年以降の写真だと考えました。



確信を持ちたくて 彼の軍服や帽章からハッキリ国が判別できないか調べてみました。
帽章は階級等も関係するかもしれない、画像も小さくて ちょっと無理でした。
でもこのあたりこのへんを見ていくと彼は ほぼ間違いなくロシア軍人です。

つまり、旧西ベルリンに駐在していた連合軍(米・英・仏)と共に
1994年8~9月にかけて撤退を完了させたという
旧東ドイツ・旧東ベルリンにいたロシア軍人の写真、ではないでしょうか。
ものすごい遠回りの推測ですが、
これも現地でドイツ語はもちろん、英語さえ読めない為 仕方ありませんかね。





国境が開放され 東西の壁が崩壊し
東側からはひとめ自由な世界を見てみよう と、多くの人々が西側へ向かいました。
TVで見た映像では 西ベルリンにやってきた少女が店頭に並んだリンゴを指差して
「どうしてこの時期にリンゴがあるの?」と両親にきいていました。
彼女の両親は「ここでは一年中あるんだよ」と答えていました。
小さな少女の手にはしっかりと食べかけのバナナが握られていましたが
この、バナナも、国境が開放された際に
それを求める人の長い行列ができたもののひとつ。らしいです。

トラビに貼られた自由の象徴↓
社会主義の終焉と資本主義の到来。
この瞬間をコミカルタッチに撮ったプロの腕を感じます。
カメラマンとはただ被写体の素晴らしさを表現するだけではないんですね。
こういう写真、とても好きです。



資本主義の象徴、コカ・コーラ↓を買い求める人々。







東西ドイツは 東が西に編入されるカタチで統一されました。
西ドイツの通貨に統合された当時、
西ドイツマルクは東ドイツマルクの5倍の価値があったそうです。
モノが豊富な西側に憧れ「生活レベルを向上させたい」という
東ドイツの人達の夢は ここで一気に現実を見ることになりました。
生産コストが5倍にはね上がった工場は経営難に陥り
工場の閉鎖やリストラを余儀なくされます。
かつてホーネッカーが「東ドイツには存在しない」と言った失業者が
町中にあふれ出すことになったのです。
このとき旧東ドイツは工業生産率2/3を失いました。

東西の壁崩壊から20年。
今なお残る東西格差。
統一したことから生まれた「オスタルジー」という言葉は、
単純に「東側の存在した頃を懐かしいと思う気持ち」ではくくれないと思うのです。
ましてやイマドキの「東欧のカワイイ雑貨」に例えるなど論外。



こちらも興味深い写真がいっぱい!ドイツ総領事館 ベルリンの壁写真館



WIR SIND EIN VOLK 追記

2009-08-09 | ベルリン旅行 090516~
WIR SIND EIN VOLK
このキーワードを検索して私のブログに来て下さる方も多い。
ベルリン旅行から帰って来たばかり、興奮の中で書いた記事。
この間にもベルリンの壁崩壊までの出来事を調べたり
関連するTV番組を見たりして得た情報があるので
追記して見ようと思います。




1989年10月7日、DDR建国40周年の式典の様子↓
これが最後の建国記念式典となりました。
ドイツの国旗は黒、赤、金(黄色ではないんです!)の三色。
黒は勤勉、赤は情熱、金は名誉を意味しています。
さらにDDRのシンボル、コンパスは英知を ハンマーは労働を
それを囲む稲穂は実りを表しているのだそうです。



DDRのシンボルの下に
ミハイル・ゴルバチョフエーリッヒ・ホーネッカーの姿が見えます。



「東ドイツには失業者もホームレスもいない」
そう言ってなお体制を自画自賛するホーネッカーに対して
ゴルバチョフは「世の中は動いているということを理解しなければならない」と
これを痛烈に批判し 民主主義を容認する発言をしたそうです。
これは人々の中に社会主義の終焉を感じさせる出来事でした。



さて「WIR SIND EIN VOLK 」、「我々はひとつの民族だ」という言葉。
これは1989年10月9日にライプチヒで7万人を動員した反政府デモで声高に叫ばれた
「WIR SIND DAS VOLK」がのちに変化したものだそうです。
「WIR SIND DAS VOLK」とは「我々こそ人民だ」という意味。



↑ハンガリーの様子です。



↑ポーランドの様子です。

「我々こそ人民だ」という日本語訳がやや堅苦しい気がしていましたが
実はこれ、当時 東ドイツ人民警察が市民に対して威嚇的に使っていた
「我々は人民警察だ」というのを逆手にとったスローガン。
「我々こそが人民だ、あなた達政府ではない」という
強い、強い強い意味が込められています。

7万人のデモに対して政府は8000人のシュタージと軍隊も動員し対抗します。
この際、ホーネッカー↓は「必要なら銃器の使用を」と命じたそうです。
人民警察は同じライプチヒ市民に銃口を向ける様な、
人民警察の夫がデモに参加する妻子を撃つかもしれない様な危機にさらされました。




このハンガリーやポーランドで高まる民主化運動に刺激された
ライプチヒでの度重なるデモは 20万から30万人、最終的には57万人に膨れ上がり
やがて↓ベルリン、アレクサンダー広場での100万人のデモに繋がっていきます。
(しつこい様ですが右の高層ビルが私が宿泊したホテル
その最中、10月19日にホーネッカーが失脚。
この頃の政府には 市民の言論を抑圧する力も、
シュタージに弾圧を命じる力も残っていませんでした。







市民による大きな民主化運動のうねりに負け 国境が開放され
DDRが1961年、有刺鉄線やブロックから作り始めたベルリンの壁が
ついに崩壊します。
このベルリンの壁は西への亡命者が後をたたない理由から
地区によっては更に高く、更に厚く、そして二重構造に、と
1980年までの間に4回もの強化工事が行われました。
一番強化された所の壁は 地上からの高さ3.6メートルを超えていたり、
トンネルを掘られない様に地下2メートルも埋め込んだり、
分厚い所では厚さが1.2メートルにも及んだそうです。
このため壁が崩壊した際の良く見る映像で
ブランデンブルグ門付近の壁には何人もの人が登ることができたのです。





これまたしつこい様ですが、
ベルリンの壁は、ある日突然 崩壊したわけではなく
隣国ハンガリーやポーランドの影響や
1980年代後半からソ連で始まっていたペレストロイカ
そして何よりも、
抑圧の中で勇気ある小さな一歩を踏み出した市民の功績なのだと思います。



ベルリンの街角 9

2009-08-06 | ベルリン旅行 090516~
つい先日まで、ベルリンではBerlin Base Flyingを体験することが出来た様です。

↑舞台になっているのは私が宿泊した高層ホテルPark inn
目の前にはカウフホーフ、アレキサンダー広場、アレキサンダープラッツ駅、
ベルリンのシンボル TV塔と、マリエン教会。
近隣に臨む赤の市庁舎、ベルリン大聖堂、ドイツ連邦議会議事堂。
遠くにポツダム広場も見えます。
文句なしのロケーション。

期間限定、お一人様99ユーロだったとか。
ムシ暑さも吹っ飛ぶね。



ベルリンの街角 8

2009-08-05 | ベルリン旅行 090516~
ベルリンでイチオシの老舗デパート、
KaDeWe(Kaushaus des Westent 西のデパートの意)。
よくロンドンのHarrodsが引き合いに出されますが
Harrodsは広過ぎて目移りばかりして あまり覚えていないのが実情です。

大昔、Harrodsで「長すぎるスパゲティ」を買いました。
こまかいコトは覚えていませんがイメージとしたら600ミリくらいの長さ。
折れない様に細心の注意を払ってスーツケースに入れ
なんとか無事に日本まで持ち帰り
「外国ってのぁな、こんな長いスパゲテイもあんのや」(どこの人?)
と家族や親戚に見せびらかして自慢(?)した後
茹でようとしたら長過ぎて鍋に入らない為、 全てあっさり折るハメに。
てか、逆に短く折る手間が面倒くさかったデス。



KaDeWeの印象も、まさにこんな感じでした。
生活必需品ではないけど 見たこともない様な食材の宝庫。
例えば↑これは珈琲や紅茶に添えるお砂糖。
これ、本気で欲しかったんだけど実用性のなさと価格、量、
ホントにこんなにキレイな形をしているのかという疑いの心に負けました。
写真の記録のみです。
ちょっと変わった(実用ではない?)楽しいモノ探しなら打ってつけ。
そのかわり相当な時間が必要です。



散々 迷って悩んで戻って、それでも迷ったりしながら
最後には疲れきっていたので
旅行者に人気といわれる最上階のセルフレストランへ。
がっつりご飯系もありますがスウィーツにしました

氷の中にザクザク入ったミネラルウォーター↓
なんかこれだけで絵になるー。とてもキレイでした。





イチゴは大好物ですがヨーロッパイチゴは要注意....。
今回はスルー。



この色使いがたまらない↑
この写真は年賀状候補だったけど載せてしまった
ま、私から年賀状が届くその頃には忘れて下さい。
そして私が選んだスウィーツはこれだーっ!↓



一番 左端のチーズケーキ
え?地味?
やっぱり地味??
それがこのチーズケーキ、めちゃめちゃデカイんです。
ものすごく美味しいのに、最終的に飽きがくるほどデカかった



KaDeWe楽しかったなー
全然 実用的じゃない面白さって日本のデパートにはない様な気がする。



ベルリンの街角 7

2009-07-25 | ベルリン旅行 090516~
「ZOO」は英語もドイツ語も「動物園」の意味。
ただ発音は微妙に異なっていて ドイツ語では「ツォー」。

1844年に開園したドイツで初めての動物園、
ベルリン動物園(シロクマのクヌートで有名)の前にある
Zoologischer Garten、「ツォー駅」は
ベルリンの街に中央駅が誕生するまで(西側の)主要駅として使われていました。

その地下鉄ホームの壁が 動物のシルエットモチーフになっていました
ベルリン動物園は水族館や野鳥館なども併設している巨大レジャーランド。
水族館にクジラがいるのか↓と言われればいないと思いますが クジラも混ざってます。
すごく焦っていて2枚しか写真が撮れなかったけど
ながーいホームに何処までも動物シルエットが続く
とっってもカワイイ駅でした



ちょっと郊外に脚を延ばした帰り道、
来た道を帰ろうとしていた所、偶然にも地下鉄の駅より手前に
ツォー駅までのバス停留所を見つけ乗ってみました。
コレがなかったら私はツォー駅を通らなかった....。
旅は偶然の産物。





ちなみに今一番気に入っているお弁当包み↓毎週金曜日に出動中。



動物のシルエット繋がりでした。
参考までにひびのこづえ 動物たちのはんかち



ペルガモン博物館

2009-07-24 | ベルリン旅行 090516~
ベルリン博物館島の5つの美術館・博物館を全て見学するのが不可能で
どこか一カ所だけを選ぶのであれば 間違いなく
「ペルガモン博物館(Pergamonmuseum)」だと言われています。
ペルガモンとは現在のトルコ、ベルガマのこと。

トップの写真は修復工事中でミイラみたいな姿になっていた
威厳のないペルガモン博物館↑がっくし



入館して最初に見るのがいきなりコレ。
ペルガモン博物館と言えばゼウスの大祭壇↓....デカイ!!
この後の展示にもよほど自信があるのだろう、
ココの「売り」を最初から ばあぁぁ....ん!っと見せてしまっている。
階段には座ることが出来るので私も座ってみました。
まるでローマのスペイン階段の様になってました。
上の方に座って見下ろすと、なんか人が小さく見える....。
コイツは そんな大きさデス。



大祭壇を登りきった所に展示室がありました。
床にすごく素敵なモザイク画。





ミレトスの市場門↓
コチラも相当なデカさ!!
しかも細工が本当に繊細でキレイでした。
所々崩れてしまっていたけど その崩れ具合がまた夢みたいに美しかった。
(重要な箇所は修復されている)





うーん....この展示の大きさを見ると
大英博物館に対抗意識を持つのも分かる気がするなぁ。



ミレトスの門と背中合わせになっているイシュタール門↓
突然 目に入ってくる鮮やかなブルー、これは素晴らしい。







ペルガモンのマスコット的な存在になっている動物↓



イシュタール門に続いている行列通りのライオン↓



それぞれの展示にはヨコに模型が置かれていて
どういった町並みにどのように存在していたのか分かる様になっていました。
この模型も手が混んでいて非常にうまく出来ていました。
例えばイシュタール門(奥)と行列通り↓の位置関係がわかりやすい模型。
実際の行列通りの中央に置かれていました。



一番右の柱2本は本当に大きかったー....↓
私の美術館史上最高じゃないかな。



この写真↓を載せて「困ったライオン」と書いているブログ多数、笑。
私もずっと「困ったライオンどこだろー」と言って探していました。
行けばすぐに見つかります....



ひとつひとつの規模が大きいのに細部まで神経が行き届いている。
石も、木も、タイルも、現代の私達が驚いてしまう程の加工技術。
それでいて 触ったらほろっと崩れてしまうんじゃないかと思える 繊細さ。







確かに「他には無いスケール」、
確かに「一カ所だけなら迷わずココ」
そして確かに「ドイツの威信をかけた博物館」。



ドレスデンの街角

2009-07-21 | ベルリン旅行 090516~
工業地帯ではあったものの、目立った軍事拠点もなく
空襲とは無縁だと思われていたドイツ東部の古都 ドレスデンは
二次大戦末期、アメリカ・イギリス軍による壊滅的な爆撃を受けました。
多くの一般市民を巻き添えにしたこのドレスデン大空襲
徹底して破壊された壮麗なバロック建築の街並は
今、ようやくその姿をよみがえらせようとしています。

一部を残して壊滅したフラウエン教会(トップの写真)は
60年の歳月を経て2005年に本来の姿を取り戻しました。
空爆で崩れ落ちた瓦礫をひとつひとつ検証し、また積み重ねて
オリジナルに近い状態で修復したことで有名な教会です。
黒く焼けた石と新しい石が混ざっているのはその為で
この気の遠くなる様な作業は「世界最大のジグソーパズル」とも言われたそうです。

なにか不屈の精神のようなものを感じる....!



Wikipediaにフラウエン教会の廃墟の写真がありました。
ドレスデン大空襲の一番最初の写真でも
よぉぉ....く見ると 中央にフラウエン教会の廃墟が確認できます。
これらの写真を見ると修復がどれほど大変なものであったのか 具体的に想像しやすい。
修復中の様子はその頃にドレスデンを訪れている方のHPなどによく載っています。

現在、教会の塔の上には 空爆を行ったイギリス(空軍兵士の遺族?)から
「和解の印」として贈られた十字架が掲げられています。
反対に、ドイツ軍が攻撃したイギリスの都市コヴェントリーに
ドイツから寄付金がおくられたという話もあるようです。
この二つは、世界的な規模で見ても
二次大戦中の被害が最も大きい都市のひとつ とされています。





以前 書いたアルテ・マイスターと幾つかの博物館からなる
ツヴィンガー宮殿もこの空爆によりほぼ全壊し
市民の熱意によって再建されたもの。
1992年に修復完了↓



ワーグナーの「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」が初演された
ドイツ有数の国立歌劇場 ゼンパーオペラ↓
ここの声楽合唱アカデミーの指導者には
バッハや メンデルスゾーンの名前が並んでいるそうです。
同様に ほぼ全壊に近く、1985年に修復作業が完成しました。



↓ザクセン王の居城、ドレスデン城。
2006年に修復が終了。本当につい最近の出来事なんです。



↓カトリック旧宮廷教会。



↓この辺りでは奇跡的にオリジナルのままの姿を見せてくれる「君主の行列」。
25000枚(!)のマイセンのタイルに描かれていて101メートルも続く。
あ、右下の隅に写る二人組は 全く面白くなかった大道芸人です





「エルベの真珠」「ザクセンの宝石」「北のフィレンツェ」、
いずれもバロック建築の古都 ドレスデンを指す。
再建が進む美しい街並みを見ながら
「本当の意味の国際社会はいつできるんだろうね?」
と言った知人のコトバを思い出した。





↓ドレスデンで買った木製のクマ。
フラウエン教会を目の前に ひと休みしたカフェにて。





ベルリンの街角 5

2009-07-19 | ベルリン旅行 090516~
ベルリン滞在中 一度だけ雨に降られました。
しかも半日はショッピングに当てていたその日、
ドラッグストアもデパートも雑貨屋も、店と言う店が全て閉まっていた....!!
(カフェ等の飲食店はopenしている)

帰国後に調べてみたけど「キリスト昇天の日」でも「大統領選挙の日」でも
「ドイツ設立記念日(連邦共和国の設立、旧西ドイツ基準で考えられている)」
でもない、いまだに謎の木曜日。





ベルリン観光で欠かせないHof(ホーフ、中庭のこと)巡り。
うんうん確かにキレイ。

  

  

質実剛健のドイツはオシャレな人がいないといったブログもあったけど
全否定してくれた可愛さ↓
でも閉まってるんだけどね....

  



気を取り直してHeckmann hofeにあるcafe Orangeへ。



何かマッシュルーム料理が食べたくてオムレツ頼みました↓



ボロネーゼを頼んだのにドイツのヒトにしては珍しく(勝手なイメージ)
オーダーをメモすらしないおばちゃんがやっぱり?間違えてカルボナーラが出てきた。
「違うよ、ボロネーゼだってば!」
と、言ってはみたものの、カルボナーラが大好きな私。
しかも美味しそう。
「....ま、別にいいけど?カルボナーラでも」



そしてとても美味しかったカルボナーラ

というか、どうしてどのお皿にもトマト乗せるの?かな



奥に向かって長くのびた店内や照明、革張りの重たい椅子、
高い天井がとても雰囲気良かったので「写真を撮らせて」と頼んでみたら
一向にポージングをやめない店主のおじさん↓inカウンター、超・カメラ目線!



....違うんだってば



ボーデ美術館

2009-07-16 | ベルリン旅行 090516~
ベルリン博物館島の中でも一番最後にまわしたボーデ美術館。
コチラのトップの写真が→ボーデ美術館外観です。
ベルリンの街の中でも印象に残る建築のひとつだと思います。
時間があったら行こう、と 焦り気味に日程をこなして
閉館数時間前に滑り込みました。

宗教に関連する展示が多いとは聞いていましたが
この美術館は建物だけでも一見の価値がある。
ご覧下さい この大階段↓



これはまさに、幼い頃に夢みた「お姫さま階段」!!でしょう!!

美術品の価値はその国の権威を示すものでもあるので
美術館や博物館は大抵の場合 歴史的な建物を使用しています。
そのため何度となく大理石の大階段を歩いてきましたが
これ程までに美しい階段は滅多にお目にかかれません。



2階にカフェがあったのでのぞいてみました。
中途半端な時間帯のせいかガラガラ。



博物館島の中の美術館のカフェではココが一番よかった。
ココでは飲み物だけで何も食べていないので味は分からないけれど
天井が高く落ち着いていて 居心地のいい空間でした。
ランチもここで取りたかったなー。
カフェの天井、明かり取り部分↓
最高に美しい。



展示室はこんな感じで白が基調。



↓建物の奥にある小階段。
っていうか「小」は「大」との比較からくるものであって
決して「小さな階段」ではありません!!
大階段が「お姫さま階段」ならば
こちら小階段は「大富豪の邸宅階段」みたいな



古い家具の展示もありました。
ここまでくると日頃 修理の仕事で目にしているアンティーク家具、
いわゆるエクレクティックスタイル
(様々な時代のデザインを混ぜ合わせた折衷様式の意味)ではなく
ホンモノのアンティークでしょう。



だって丁番コレ↓だもん。



遠目に見ると悪くなさそうですが
抽き出しはガタガタ、ムシ喰いや割れも好き放題。



↓これに似たタイプの丁番はミッドセンチュリーの家具で見たことあります。
継承されているのだね。



こういった家具を見ると....手に取って、ホコリを払って
なおし始めたくてうずうずする職業病




アルテ・マイスター

2009-07-07 | ベルリン旅行 090516~
ベルリンからドレスデンにやってきた理由はひとつ。
ツヴィンガー宮殿の一角にあるアルテ・マイスターを訪れるためデス。
この宮殿には 陶磁器コレクション、武器博物館、動物学博物館など
幾つかの それぞれ独立した美術館・博物館が入っています。

↓コチラが東側に位置するアルテ・マイスター絵画館!



↓でも、まずはハラゴシラエです
お隣のゼンパーオペラを見ながら食事出来ると言う館内のカフェに行ってみました。
確かに見える、けど「見える!」と言うには少し苦しいロケーション。
外の席に行けば良かったのかな??



ちょっと変わったカルボナーラ出てきました↓
意外とあっさりめ。



改めて美術館見学です。
さっすが宮殿だけあって豪華絢爛
何しろ中庭があれ↑(トップの写真)ですからねー。





アルテ・マイスターはベルリンの絵画系の美術館に比べると
作品の密度が高くいかにもヨーロッパの絵画館って感じがしました。
質も高い。
ドイツに滞在した一週間で
何処よりも日本人遭遇率の高い場所でした。

  

レンブラント&フェルメール
ココのフェルメールは金ぴかの額縁に納まっていました。
やっぱりフェルメールの絵には
描けないはずの空気、風や時間までが描いてある。



何故 日本人がそれほど訪れるのか、
これを見れば誰でも納得してしまうでしょう。
イチバン奥です↓



場所も計算し尽くされています。
随分遠くから見えてはいるのですが 間には
まだまだ所狭しと絵画の飾られた部屋が続いています。
(この壁のピンクが台無しにならない所がいいよね、ヨーロッパって

やっとやってきました!
ラファエロの「システィーナのマドンナ」。
どうしてこの絵がそんなにスゴイかって?



↓このコ達です。



誰でも一度は見たことのあるこの有名な二人は
ラファエロとか、システィーナのマドンナとか、
そういう肩書きすらいらないほど愛らしいワケです。
数々のファンシーグッズになっていました。
それがまた、ラファエロのすごいところでしょう。

模写している方を発見!
通りがかりの人が必ずのぞき込んで見比べていきます。
自信がないと出来ません....



ところで、ココでの私のお目当てはフェルメールでもラファエロでもないのです。
私にとってのヨーロッパイチ、世界一は
やっぱりこのヒト↓



バルトロメ・エステバン・ムリーリョ。
ムリーリョらしい感じの良い一点でした。
このヒトが描く子供達の表情は ラファエロさえ及ばない、と、
個人的にはそう思っています。



↓ひっそりと在ったベラスケスおじさん。
けっこう好き
実はスペイン絵画派なのかもしれない自分。



その他、ルーベンス、ジョルジョーネ、ブリューゲル、デューラーなどを所蔵。
見応えある とても重要な美術館でした。



ドレスデン 電車の旅

2009-07-02 | ベルリン旅行 090516~
ベルリン旅行記、始めてからもう一ヶ月を越えていますが
いましばらくお付き合い下さい




ベルリンから日帰りでドレスデンに行ってきました

旅行前に いろんなベルリン関連ブログを徘徊していた時
「DB(ドイツ国鉄)は自販機で時刻表が閲覧でき、更にプリントも可能」
という情報を得ていたのですが
まさか自分が 現地でそんな高度な技を使えるとは到底思えずに
記憶だけにとどめておきました。
ところが初日、朝早くホテルを出発して
7-Tage-karteを探すついでに見つけちゃったんです
DBの自販機で英語を選択すると簡単に「Time Table」を探すことが出来ます。
(ちなみに7-Tage-karteは自販機では買えず 窓口に行きました)

えっと確か、出発地と目的地、列車の種類(IC、EC等)を選択していくと
幾つか候補があがって 絞り込んでプリント↓したかと思います



ちなみにコレ↑は帰りの電車の時刻表のプリント。
英語力の無さに自信がある私が出来たのだから
おそらくエライ簡単に出来ます。
これを見ながら日程の検討をして
そのままDBのチケットカウンターに持って行けば間違いはありません!

ベルリンでもドレスデンでも チケットカウンターの係員さんは
(見た目はコワイけど)分かりやすい英語で対応してくれて親切・丁寧!
そうして手に入れた↓チケット
2等の指定席をお願いして往復で一人80ユーロでした
(指定席料金 往復一人8ユーロ含む)









さて、いよいよ出発です!
ベルリンからドレスデンまで約2時間の電車の旅!
まずは長距離列車の発着するベルリン中央駅(トップの写真)へ。



わー、大きな駅。そしてキレイ。
大きな駅ですが案内表示がしっかりしているので
迷う事なく目的のホームに向かうことが出来ます。



わー、エレベーターが丸いー!





興奮のあまりドコにもピントが合っていない写真が続きます
朝の8時過ぎ頃の様子ですがお店もたくさん開いていて
サラリーマンらしき人達がパンを買ったりコーヒー飲んだりしてました。



そんな彼らの日常を眺めながら
案内表示に従ってどんどん地下へと潜っていくとDBのホームに出ました↓
上の方に見える赤い電車はSbahn(近郊電車)です。
あそこから降りてきました。





早く到着したので2本程 列車を見送って待ちました。
自転車チームがホームにいる光景も当たり前
車内には自転車を乗せる専用スペースがあります、
これがホントのエコでしょう?

あ、掲示板にドレスデンの文字が!
次の電車です!
わあぁ....プラハ経由でウィーンまで行くのかぁ
この一本前の電車はスキポール(アムステルダムの空港)行きでした
大陸つながりとはこういうことか、と思った瞬間でした。
繋がっている線路。
繋がっていく記憶。



↓余裕が無くて乗り込む直前に撮った後ろ姿....
車内はコンパートメントになっていました。
コンパートメントは初めてでしたが個人的にはなんだか慣れなくて
窮屈な気がしてなりませんでした。
車両も古めかしいせいかちょっとテンション下がった....。



そしてついにドレスデンに到着!!
テンション持ち直しました
こちらも大きな駅です、国際列車がとまるんだから当然か。





ベルリンへの帰り道に↓唯一撮った車内の写真
世界の車窓から
広過ぎるドイツ。
ずっとこんな景色でした。
列車の旅もいいものですね。



ドレスデン観光についてはまた次回



アルプスの少女ハイジ

2009-06-27 | ベルリン旅行 090516~
ベルリン滞在中のある日、
朝ご飯から部屋に帰って天気予報を見ようとTVをつけると
なんと「アルプスの少女ハイジ」やってました。
本場、スイスにも輸出されていると聞いてはいたので
驚きよりも 偶然見ることができた嬉しさの方が大きかった!

アルプスの少女ハイジ公式HP



現地ドイツ語での発音は「ハイジ」ではなく「ハイディ」でした。
随分小さな頃から「フランクフルト」というドイツの都市の名前を聞くと
「クララのおうち」とインプットされていた私の脳みそ。



↑自宅に入るゼーゼマンさん(クララのお父さん)とお出迎えのセバスチャン。
「フランクフルト=クララ」という幼いだけの記憶だと思っていたけど
このTVアニメの制作には史上初と言われる約一ヶ月の海外視察が行われ
実際にクララの家はフランクフルトの「ゲーテハウス」
(あの、ゲーテです!)がモデルになったらしい。



幼い私にヨーロッパを魅せつけたのは
こういう完成度の高いアニメではないかといつも思う。
↓ハイジがゼーゼマンさんの為に訪れるこの水場も
ゲーテハウスの付近に実在しているそうです。



どれだけこのハイジに夢中だったんだろう。
私世代の女のコならみんな ハイジと一緒に泣き、笑い、小高い丘を走って
あのワラのベットが置かれた丸窓のある屋根裏部屋を夢みたはず!
そして おいしそうなとろけるチーズを夢みたはず!



制作には現在のスタジオジブリの宮崎駿さん
場面設定・画面構成で関わっていていました。
スイス政府観光局から届いたパンフレットによると
宮崎さんを含むスタッフ数名でマインフェルト、バート・ラガッツなども取材旅行し
アルプスの地形をいかした独創的な画面構成でみんなを驚かせたハイジの世界は
「卓越した画力とセンスで、現実を大きく変えることなく
さらに魅力的な舞台をつくりだしていた」そうです。

しかもオープニングのヨーデルやストーリー中のベルの音は
現地でロケ中に実録したものを使用した、というから驚きです。






「ペーター聞いて!さっきクララが立ったのよ」



「え!本当かい?そりゃすごいや クララ!」
「近寄ってきた牛に驚いてしまったの」



ついに感動のクライマックス!
「クララ!」
「ハイジ!私、立っているわ!」
「クララー!!」



ひしっと抱き合って涙を流す二人。
「ハイジ!」
「クララが立った!クララが立った!」

ドイツ語の放映なので、アテレコはサワノでお送りしました




「それで?次は何処に行くの?」と、最近良く聞かれます。

こんなん買っちゃいました↓
行けるのか、ベルン!
行くのか、マイエンフェルト!
乞うご期待!




注:ガイドブックは愛読書です。時間をかけて楽しむつもりです。