
なんと私、ベルリン三大観光名所(?)、
チェックポイント・チャーリーを省きました。
落書きに落書きを重ねた有名なイーストサイドギャラリーへも行かず、
そのかわりに 生々しい壁の跡が見られるという
「ベルリンの壁記録センター」を選びました。
ここもガイドブックでは数行の解説しかされていません。
主な情報を拾ったのは旅行者や現地に暮らす方のブログです。
もう「ガイドブック」の存在すら危ういですよね。
最寄りの地下鉄の駅をおりてしばらく歩くと↓「壁」が見えてきます。

壁の上部が丸くなっているのは
乗り越えようとする手を掛けにくくするため、
下部、壁が地面に沿って手前まで延長されているのは
西側へ抜けるトンネルを掘りにくくするためです。

断面が見えました↑
思ったよりも壁が薄い、と感じる方が多い様です。
「ベルリンの壁」というイメージからしたら確かに薄いかもしれません。
けれど、かつてここで暮らしていた人々にとって
それが決して薄いモノではなかったことを伝えられたら....と思います。

壁の向こう側に見えた十字架。
記録センターの位置するBernauer Str.は 壁の建設が始まった頃
壁に面した建物の窓から飛び降りた人が多かったことで知られています。
連邦議会議事堂付近にもチェックポイント・チャーリー跡にも
十字架がありますが これらは壁を越えようとして
銃殺された人達のモニュメントです。
写真の中央 奥は明らかに墓地ですが(お墓参りらしき人の姿がありました)
手前の十字架はおそらく、ご想像して頂ける通りではないでしょうか。
壁記録センターの外壁に掲げられた写真↓です。
私はこの写真を見て本当に泣きそうになりました。

このブロック塀↑は鉄条網に継ぐ初期段階の「壁」だと思います。
壁はそこに暮らす普通の市民が
すぐ後ろで銃を構える兵士に監視されながら
作ることを余儀なくされた、という状況だと思います。
左上に写っている「Bernauer」の文字から
今 自分が立っているこの通りで撮られたものだと分かります。
私が今までに得た知識で想像できる全てです。
間違っていたら是非、教えてください。
センター内は撮影が出来ません。
壁が築かれる様子、窓という窓が全て塞がれた建物、
東西に分断されてしまった人々の生活、
乗り越えようとする人達などが、写真と映像で紹介されています。
ショッキングなものも多いです。
建物の窓から飛び降りて西側へ逃げようとする高齢の女性の手を
部屋の中から連れ戻そうとする東側の監視兵。
すぐ下の階では落ちそうな女性を受け止めようとしている人。
やがて 女性はそのまま落ちて画面から消えてしまいます。
(帰国後に行き当たったサイトによると この女性、無事だった様です)
↓このセンター内で見た映像を日本で放送したTV番組で見つけました。


記録センターに隣接された階段を上がっていくと↑

二重構造だったのベルリンの壁を 分かりやすく見ることが出来ます。
壁と壁に挟まれたこの空間こそ「死のベルト地帯」、
より監視しやすく、見通しを良くする為に作った空間なのです。
砂が敷かれて綺麗にならされているのは逃亡者の足跡を残すためでしょう。
「薄い」とか「厚い」なんてもんじゃないこと、伝わるでしょうか?
画面右手前の 壁+ベルト地帯と、
左奥の柵↓に囲まれた様な建物の位置関係、ちょっと良く見て下さい。

↓これが、この辺りの壁が建設された頃の写真だと思います。
壁の右側に見える背の高い塔を持つ建物は教会です。
見にくいのですが(何とか)上の写真と比較して見てほしいのです。
教会は、まさに死のベルト地帯の中にありました。

東ドイツは壁を作らせ もともとあった建物を壊して
監視の見通しを良くする為のベルト地帯を作りました。


そして、終にはこのベルト地帯の中にあった教会も破壊します。

壁崩壊から11年目の2000年、
この場所には「和解教会」という小さな教会が建てられました。
これが先程の写真の 柵で囲まれた様な建物。
まわりにはこの教会の神父さんによって麦が植えられていました。
オレンジの花はポピーです。


木と土。
自然素材をそのまま感じる とってもモダンで明るい可愛らしい教会です。
当初コンクリートとガラスを使った教会になる予定でしたが
壁と同じ素材であるコンクリートを使うことに反対の声が多く
現在のような(日本人好みな)やさしい素材になったらしいです。
建築目的でここを訪れる人も多いそうです。
権力を誇示した教会建築にはない平和への祈りを感じました。


正面の十字架はかつてのものでしょうか。

教会の裏手には二次大戦中、
アメリカ軍によって落とされた爆弾が残されています。
「和解教会」という名前の意味を、考えさせられますよね。

チェックポイント・チャーリーを省きました。
落書きに落書きを重ねた有名なイーストサイドギャラリーへも行かず、
そのかわりに 生々しい壁の跡が見られるという
「ベルリンの壁記録センター」を選びました。
ここもガイドブックでは数行の解説しかされていません。
主な情報を拾ったのは旅行者や現地に暮らす方のブログです。
もう「ガイドブック」の存在すら危ういですよね。
最寄りの地下鉄の駅をおりてしばらく歩くと↓「壁」が見えてきます。

壁の上部が丸くなっているのは
乗り越えようとする手を掛けにくくするため、
下部、壁が地面に沿って手前まで延長されているのは
西側へ抜けるトンネルを掘りにくくするためです。

断面が見えました↑
思ったよりも壁が薄い、と感じる方が多い様です。
「ベルリンの壁」というイメージからしたら確かに薄いかもしれません。
けれど、かつてここで暮らしていた人々にとって
それが決して薄いモノではなかったことを伝えられたら....と思います。

壁の向こう側に見えた十字架。
記録センターの位置するBernauer Str.は 壁の建設が始まった頃
壁に面した建物の窓から飛び降りた人が多かったことで知られています。
連邦議会議事堂付近にもチェックポイント・チャーリー跡にも
十字架がありますが これらは壁を越えようとして
銃殺された人達のモニュメントです。
写真の中央 奥は明らかに墓地ですが(お墓参りらしき人の姿がありました)
手前の十字架はおそらく、ご想像して頂ける通りではないでしょうか。
壁記録センターの外壁に掲げられた写真↓です。
私はこの写真を見て本当に泣きそうになりました。

このブロック塀↑は鉄条網に継ぐ初期段階の「壁」だと思います。
壁はそこに暮らす普通の市民が
すぐ後ろで銃を構える兵士に監視されながら
作ることを余儀なくされた、という状況だと思います。
左上に写っている「Bernauer」の文字から
今 自分が立っているこの通りで撮られたものだと分かります。
私が今までに得た知識で想像できる全てです。
間違っていたら是非、教えてください。
センター内は撮影が出来ません。
壁が築かれる様子、窓という窓が全て塞がれた建物、
東西に分断されてしまった人々の生活、
乗り越えようとする人達などが、写真と映像で紹介されています。
ショッキングなものも多いです。
建物の窓から飛び降りて西側へ逃げようとする高齢の女性の手を
部屋の中から連れ戻そうとする東側の監視兵。
すぐ下の階では落ちそうな女性を受け止めようとしている人。
やがて 女性はそのまま落ちて画面から消えてしまいます。
(帰国後に行き当たったサイトによると この女性、無事だった様です)
↓このセンター内で見た映像を日本で放送したTV番組で見つけました。


記録センターに隣接された階段を上がっていくと↑

二重構造だったのベルリンの壁を 分かりやすく見ることが出来ます。
壁と壁に挟まれたこの空間こそ「死のベルト地帯」、
より監視しやすく、見通しを良くする為に作った空間なのです。
砂が敷かれて綺麗にならされているのは逃亡者の足跡を残すためでしょう。
「薄い」とか「厚い」なんてもんじゃないこと、伝わるでしょうか?
画面右手前の 壁+ベルト地帯と、
左奥の柵↓に囲まれた様な建物の位置関係、ちょっと良く見て下さい。

↓これが、この辺りの壁が建設された頃の写真だと思います。
壁の右側に見える背の高い塔を持つ建物は教会です。
見にくいのですが(何とか)上の写真と比較して見てほしいのです。
教会は、まさに死のベルト地帯の中にありました。

東ドイツは壁を作らせ もともとあった建物を壊して
監視の見通しを良くする為のベルト地帯を作りました。


そして、終にはこのベルト地帯の中にあった教会も破壊します。

壁崩壊から11年目の2000年、
この場所には「和解教会」という小さな教会が建てられました。
これが先程の写真の 柵で囲まれた様な建物。
まわりにはこの教会の神父さんによって麦が植えられていました。
オレンジの花はポピーです。


木と土。
自然素材をそのまま感じる とってもモダンで明るい可愛らしい教会です。
当初コンクリートとガラスを使った教会になる予定でしたが
壁と同じ素材であるコンクリートを使うことに反対の声が多く
現在のような(日本人好みな)やさしい素材になったらしいです。
建築目的でここを訪れる人も多いそうです。
権力を誇示した教会建築にはない平和への祈りを感じました。


正面の十字架はかつてのものでしょうか。

教会の裏手には二次大戦中、
アメリカ軍によって落とされた爆弾が残されています。
「和解教会」という名前の意味を、考えさせられますよね。
