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たまに富士山を撮影しています。「富士山と乗り物のコラボ」を撮ることが多いです。他のネタはほんの少し。

悲運の電車、余生は岡山で

2006-11-29 00:40:55 | ニュースから

 最近電車ネタが多いんだけど、こういうニュースって好きなんだよね~。新聞社もよくぞ丹念に取材した!・・って感じ。

 元サイトでも消えている可能性が大なので、全文引用します。太字は私がやりました。asahi.com9月24日の記事です。

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「悲運の電車」琴電760号、余生は岡山で

 鉄道ファンに「悲運の電車」と呼ばれた「琴電760号」が、高松市での最後の定期運行を終え、23日夜、岡山県玉野市に移送された。製造から55年。資金難の地方鉄道を転々とした切ないサラリーマンのような歴史を持つ電車に「せめて穏やかな老後を過ごさせてやりたい」というファンの願いが実った。

 琴電760号は同型の750号、770号とともに51年製造。もとは山形県の蔵王高速電鉄が発注したが、資金難で計画が中断したため走ることなく53年、岡山県の備南電気鉄道に売られたとされる。同鉄道も経営難に陥り、56年に玉野市へ営業譲渡したため、しばらく市電として親しまれたが、コストの安い気動車の導入で、65年に3両は高松琴平電気鉄道に売り渡された。

 当初は利用客の多い琴平線の準急列車として活躍したが、サイズの大きな新型車両の台頭で長尾線の普通列車に転換。その後、770号は78年にダンプカーと衝突して大破してしまい、750号は新型車両との交代で99年に引退した。「3兄弟」で唯一残った760号も冷房車両の導入で、今年8月25日の定期運転が最後となった。

 玉野市の鉄道ファン、垣内雄一さん(42)は「あちこちに飛ばされ、まるでサラリーマンの悲運を絵にしたような電車。ずっと日陰を走ってきた。そこがいいんです」と話す。

 垣内さんらは05年、760号を借り切って「讃岐うどんツアー」を開いた。参加した玉野市民や鉄道ファン約30人が、子どものころ乗った思い出や、760号の悲運を語るうち、「引退後はぜひ、かつて活躍した岡山で過ごさせてやりたい」と盛り上がった。保存会を発足させ、インターネットや会報で募金を募ることになった。

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 35年間にわたり760号の整備を担当した琴電の山下良吉さん(62)も、テレビに出て760号の歴史や魅力を語るなど、会の活動に協力した。「760号の人生は私と似ているんです」

 70年に入社し、裏方として車両の安全運転を支えたが、50代になって責任ある仕事を任せられたころ、琴電は経営危機に。01年、高松地裁に民事再生法を申し立てた。家族のように思っていた同期や後輩が次々と去っていったが、山下さんは給料が激減しても会社に残り、定年後の今もアドバイザーとして後輩の指導を続ける。「スターになれず、不幸もあったが、240万キロ走り続けた760号に尊敬と愛着を感じます」

 ファンの熱意が実り、琴電は760号を保存会へ無料譲渡し、玉野市も同市奥玉1丁目の総合保健福祉センターのグラウンドを760号の保管場として無料で提供することに。専用の屋根や観覧用のホームなども備える予定だ。費用約700万円は、地元企業や市民、全国の鉄道ファンからの寄付でまかなうという。

 垣内さんは「本当にお疲れ様、と言ってあげたい。これまで悲運な歴史を歩んできた分、大切に保管して幸せな余生を送らせてやりたい」。

 (写真は岡山県玉野市に移送するため、トレーラーに乗せられた琴電760号。香川で見る最後の姿を写真に残そうと、ファンが集まった)
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 華々しい新幹線や特急と違ってトコトコと、それでも行く先行く先で市民に親しまれた電車。悲運でもあり、“転勤”が多かったりしたけれど、それでも「オファー」があってわざわざ運ばれていったというのはそれはそれは「優秀」だったのかも。

 保存する場所が見つかったのもラッキー。都会じゃその場所すら見つからないだろう。博物館に入るほどの名車でもないだろうし。四国と岡山の人々の暖かさかもしれない。


 最初に読んだときはその悲運さに驚いたけれど、「じゃぁ自分はボロボロになるまでどこかで請われて働けるか?」と考えたりもした。それと最後に支えてくれた仲間に看取られるのか?・・・ってね。ファンってありがたいね。オレには別にファンなんかいないけど、年取ったらのんびり過ごしたいなぁ~。

 ただ、性格からして絶対に(お金が続く限り)のんびりなんかしてないだろうな。車の運転が厳しくなっても電車で動き回るだろうし、オレ。

コメント
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