820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

新宿の夜。

2011-03-31 | 生活の周辺。
次回公演のための契約を劇場さんと交わす。オーナーの太田篤哉さんが穏やかな声で、どんな芝居するの、とお尋ねになる。言い淀んでしまう。
椎名誠さんや沢野ひとしさんの文庫本をむさぼるように読んでいた中学生の頃、その名前にたびたびお目にかかった。ご本人とこうして会話していることがふしぎでならない。フェリーニのような芝居を、と答えると、ああフェリーニかあ、と笑ってくださった。

ぶじに契約終了。敏腕プロデューサーのあっかさんがてきぱきと進行してくれた。こういう場では波田野はもう借りてきた猫の状態になる。もたれかかりっぱなしである。申込書に記入しながら、「旅」の漢字を思いだせないとか、ハンコがうまく押せないとか、日付を間違えるとか、静かにパニックに陥っていた。新宿の夜。
ホッとしてコロッケを頬張りながら通りを歩く。加藤くんからもらったのだった。冷めてしまっていたけどカリカリでとても美味しかった。



おやすみ、すべての邪悪なものたち。あしたへいくんだよ。

くまがたたかう。

2011-03-24 | 生活の周辺。
ずいぶん久しぶりに横浜西口を歩いた。くまのぬいぐるみのようなものを頭にかぶった男がリコーダーを吹いていた。太った若い女が男を指さして「すげえ、テレビで見たもん、これ、すげえ」と叫んだ。用事を済ませてその場所に戻ると、くまがぶん殴られていた。しりもちをつく。若い男女のカップルがくまをおしのける。笛がぷーと鳴る。かたわらで威勢のいい男が三人、小さなゴムボールを蹴りあっている。人混みで、横浜で、駅前で。くまが蹴りあう男たちのあいだに立つ。だからてめえは引っ込んでろって。笛を吹く。てめえは……。にやにやと笑う男たちの目の前でくまが笛を吹く。いかれた街だぜ。

それでね。

2011-03-19 | 生活の周辺。
きのうの月はほんとうに優しかった。だれにも内緒にしてる場所にしんしんと光があたるようだった。それでね、きょうは月が地球にいちばん近づく日なんだって。遠い日とくらべると、地上から見える分には30%もあかるくて、14%もおおきいんだって。夜の散歩ができるなら見てみて。優しい月だよ、でもきのうより少し生真面目な感じ。人見知りしそうなやつだ。きみにどんな顔を見せるかわからないけど、もし同じ月がいるなら、微笑みかけてみておくれ。

後輩たちの舞台を観た。
「ほんとに面白かった」とか「その発想は無理」とか「きみはまじで天才だと思う完敗だ悔しい」とか、およそ実際的なことを一言も言えないたいへんざんねんな先輩だけど、別に才能を曇らせようとして甘いことばを吐いたわけではなくて、心から打ちのめされた挙句の賛辞だった。
磨きつづけなくちゃ、学びつづけなくちゃ、考えつづけなくちゃと焦るだけ焦り、がつんと前を向かされた。そう、なにより上演してくれて、ありがとう。ありがとうと言いたかった。

じゃあぼくはいまからシノプシスを書くよ。ちからの限りに書く。

帰り道。

2011-03-17 | 生活の周辺。
停電した街を歩く。考えながら歩く。
大きな交叉点にはきちんと信号がついている。脇に控えたおまわりさんがひとり、寒そうにして、何度か小さく跳ねている。
工事現場の自家発電の光が強烈にあかるい。

団地を突っ切って歩く。懐中電灯のまるい光がいくつか揺れているのが見える。月がおおきくて光がすっきりと降りかかる。建物に影をつくる。
中学生くらいのこどもたちが十人弱でかたまり、自転車を手押しして歩いている。暗闇に沈んだ公園から笑い声が響く。
大通りを行き交う自動車のライトがとてもまぶしい。バスはすし詰め。乗客がいっせいにこちらを見る。

セブンイレブンが開いていた。蛍光灯はすべて消え、予備灯のようなものがついている。中には何人かの男性客。
コーヒーを買う。あたたかい。「ゲームの予約したんですけど、届いていますか、きょう」とフルフェイスのメットをかぶった男性が入って来て言う。店長が「発売日なんですか。少々お待ちくださいね」と対応しているのを聞く。

そこかしこで人が歩いている。ゆっくりと歩いている。犬の散歩をしている人もいる。身がちぎれるほどつめたい風。くしゃみがとまらない。タクシーにひかれそうになる。さくらさんとメール。返信を読み笑う。自分が消耗していたことに気づき、なんかもう、だははと笑う。

えんげき。

2011-03-16 | メモ。
演劇を要請するもの、いま、ここで必要とされていることば。たとえば仮面ライダー(DECADE_1105)やプリキュア(melody_PRECURE)、サザエさん(sazae_f)、その他大勢の、ぼく達のよく知る「彼ら」のことばと、それに呼応する無数のことばを読み、こころが深く動かされる。演劇ってこれじゃないのか。ドラえもん(draemon2112)のやわらかな、おおらかなこの存在感。



具体的な情報を求め続けている。なるべく正確で、できることなら揺るぎのない情報を。
その一方で、友だちのブログや、Twitterを読み続けている。そのことばの端々に宿る、その人本人の癖のようなもの、ことばの連なりの色彩、センスなど、それぞれの話法を感じるたび、息遣いが聞こえるたび、こころが安らぐ。

「俺だけが文学だ」と、まっすぐに最前線でことばを発しつづけるいとうせいこう氏を、ほんとうにかっこうよく思う。
でもいまぼくの持ち場はそこじゃない。



魔法使いがいる。彼がなにか唱える。空中に炎が浮かぶ。

どんなことばも、あらゆることばはすべて呪文だ。ぼく達の使いこなすもっとも基本的な奇跡のひとつがことばなのだ。
呪文を唱えるとき必要なものがひとつある。そのことばに耳をすまし、そのことばを理解する/受け取る者の存在である。

彼がなにか唱える。彼と空中のあいだにある何ものかが、その場所に火を灯す。ぼくがおはようと言う。あなたがおはようと返す。彼がなにか唱える。何ものかがその場所に雨を降らす。ぼくがおやすみと言う。あなたが深く眠る。
もしも魔法使いと何ものかのあいだにある種の関係が築かれているなら、「死ね」ということばが生きるためのとても強い力として世界に響くこともある。

ぼくとあなたがこうしていまここにいる。ぼくは想像する。あなたがいまそこにいて、ぼくたちはとても親密で、お互いのもっとも弱い部分を隠さずに向きあっている。でもだから、もしかしたら、すこしでも文法を、語順を、句読点の位置を、発音を、ブレスのタイミングを、選ぶ言葉を間違えたら、たいへんな傷を与えることになるかもしれない。でもそんなことは考えない、考える必要がない。ぼく達はまっすぐに向き合っている。どんなことばも言える。ぼくは祈る。複雑な呪文だ。一度きりしか口にできない、いまここで、あなたの前で。だから慎重にやる。真剣にやる。ストロークが長くなる。きっと即効性はない。だけどいま『グスコーブドリの伝記』を思いだすように。千年近く前の随筆が大切なことを伝えているように。ゆっくりと。ゆっくりとやる。すまん。

自分自身のために。

2011-03-12 | 生活の周辺。
《さつき火事だとさわぎましたのは虹でございました/もう一時間もつづいてりんと張つて居ります》
(「報告」宮沢賢治『春と修羅』)

どうか、すこしでも、とぼけた笑いがそこにあるように、笑う心の封じられていないように、立ちむかう意志と力が残されているように。

ぷりぷりするぜ。

2011-03-04 | メモ。
あしべが高校生におばさん呼ばわりされた件について、なぜかおれまで腹が立っている。ふざけんな。高校生なんて17年前は精子(from稲中)じゃねえか。820製作所の蒼井優をばかにするな。ぷんぷん。どちらかといえばおやじだろうが、あしべは。

さて、いよいよ時間が迫ってきた。頭から血を噴きだしてでも創りたいものがある。がむばる。しばらくは「気高さ」について考える。貧しさと、幼稚さと、錯乱のほかに、踏み板となるものを探している。まあ、どこから出発するにせよ、行き着く場所をしっかりと見はるかそう。きょうはたくさん歩いたので足がくさい。春である。