先週末、ある人から面と向かって「死ね」と言われた。
どういうわけか、僕の右隣やや後方にいた加藤くんが、とても悲痛な顔をしていたのを覚えている。主観的には「死ね」と言われてそのまま固まってしまったような気がするのだけれど、周囲がどういう反応をしているか、きょろきょろと視線を走らせたようだ。
その人が何か僕の人生にとって特別な位置にいるわけではないし、「死ね」という言葉もありきたりな、それ自体としてはつまらないものだ。しかし、それから何度も、何度も、吐き捨てるようなその語調が、脳裏によみがえってくる。
その人が、その言葉にどういう意味を込めて発したかは、どうでもいい。関係がない。重要なことは、僕にとって、その言葉がどのような意味を帯びてしまったかだ。なぜ何度も、何度も繰り返されるのだ。考え続けてわかった。単純なことだった。
僕はいま、自分にたいして、死ねばいいと思っているのだ。
奥の、奥の、根源的な部分にはしっかり「生きたい」という気持ちがあるわけだが、表面的な意識は、自分に向かって死ねと訴え続けている。
だから、話者の意図に関わらず、あのときその人が放った「死ね」という言葉は、僕が僕に放った言葉として、僕のからだが受け止めた。僕の内的な世界で起こっていることが、いよいよ可視化されたというわけだ。
なるほどな。病気だ。
死にたいとは思わない。けれど「死ね」という言葉はつねにどこかで発せられ続ける。だとすれば僕はその言葉とたたかわなければいけない。「……君の心のなかにひろがった他人の毒は、理性の力で解毒しなければならない」(金子光晴)。
どういうわけか、僕の右隣やや後方にいた加藤くんが、とても悲痛な顔をしていたのを覚えている。主観的には「死ね」と言われてそのまま固まってしまったような気がするのだけれど、周囲がどういう反応をしているか、きょろきょろと視線を走らせたようだ。
その人が何か僕の人生にとって特別な位置にいるわけではないし、「死ね」という言葉もありきたりな、それ自体としてはつまらないものだ。しかし、それから何度も、何度も、吐き捨てるようなその語調が、脳裏によみがえってくる。
その人が、その言葉にどういう意味を込めて発したかは、どうでもいい。関係がない。重要なことは、僕にとって、その言葉がどのような意味を帯びてしまったかだ。なぜ何度も、何度も繰り返されるのだ。考え続けてわかった。単純なことだった。
僕はいま、自分にたいして、死ねばいいと思っているのだ。
奥の、奥の、根源的な部分にはしっかり「生きたい」という気持ちがあるわけだが、表面的な意識は、自分に向かって死ねと訴え続けている。
だから、話者の意図に関わらず、あのときその人が放った「死ね」という言葉は、僕が僕に放った言葉として、僕のからだが受け止めた。僕の内的な世界で起こっていることが、いよいよ可視化されたというわけだ。
なるほどな。病気だ。
死にたいとは思わない。けれど「死ね」という言葉はつねにどこかで発せられ続ける。だとすれば僕はその言葉とたたかわなければいけない。「……君の心のなかにひろがった他人の毒は、理性の力で解毒しなければならない」(金子光晴)。