820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

世界中のすべての戦車をバンドワゴンに。

2010-01-31 | 生活の周辺。
それでも俺は演劇を選んだわけだから、どんなに孤独な作業であろうと、一瞬一瞬を燃え立たせながら、言葉を恃んで、言葉を削って、言葉で踊るしかないんじゃないか、アクチュアリティはとてもだいじだ、とてもだいじだ、ある一面ではとてもだいじだ、穴のあいた靴下をはいた足をさしだしながらそれで人のからだをつつきながらおまえらの劇にはアクチュアリティがないと言いのけた男にとってアクチュアリティはとてもだいじだ、でもアクチュアリティっていったいなんだ、あれから何年もたつけどわからないんだ、俺は演劇を選んだのだから、言葉をたたいて、想像力を叫ばせて、言葉をかき鳴らして、想像力をうねらせて、踊るんだ、踊らせるんだ、それだけなんだ。僕がしたいことは単純なんだ。それだけなんだ。それだけできれば死んでいいよ。ぜんぜん大丈夫だよ。

昼間に劇団の主宰をされている方と、とてもとても長い年月を演劇とともに生きてきた方と話をさせていただいた。とてもハードボイルドな方だ。ひとりで、カンパニーをまとめる存在として、この世界で、歩みを続けるということは、とてもすごいことなんだ。ほんとだよ、きみの世界だってそうだろ。とても大きい人だ。

夜に別の場所で、また別の劇団の主宰をされている方々と、ミーティングをした。二十代から六十代までのすべての世代の演出家がそろっていた。みんな演劇が好きなんだと思って優しい気持ちになった。

とりあえず歩こう。

2010-01-26 | 生活の周辺。
新年会へ。
今年の幹事は印田さんで、抜群の幹事力を発揮し、ほうぼうで活躍中の大好きな人たちが、たくさんたくさんお集りになった。
すばらしいぞアシベ。いつでも主宰の座を明け渡すぞ。あと誕生日おめでとう。

酒は飲まないと固く誓っていた波田野だが、和田くんがビールをじゃーっとジンジャーエールに入れてくれちゃって、ぐでんぐでんに酔っぱらった。

網谷くんとあたらしい劇団「あみちゃんはっちゃん」を結成したり。
二分後に解散したり。
誕生日の近いみんなのことをお祝いしたり。
現実に入門したり。
丸池家の伝説を拝聴したり。
はじめて出会った同士がエロティシズムについて喧々諤々議論したり。
まさかというところで大好きな劇団の創設メンバーの方と巡りあったり。
青春の祭典を開くことに決まったり。

会いたかった人がたくさんいる。
返す返すも、のっちが来れなかったのが悔しくて仕方ない。
だって僕は、すっかりのっちと会えるつもりでいたんだ。
もういちど小さな新年会をやりましょう。やるよ、淵野辺で。のんびりと。
丸さんからのお年玉もあるからさ。

ヒロくんと二人、最終の東海道線に乗り、戸塚にたどりつく。
地下鉄はもうおしまい。

とりあえずお腹が減っていたので、踊場まで歩いて、ラーメンを食べた。
ヒロくんは意地でもタクシーを止めてやる、と奮闘していたが、うまい具合に空車と巡りあえず、結局、凍天の星空の下を、ぐんぐんと歩くことに。

二時間近く、白い息を吐きながら、適当なことを話した。
くだらなすぎて、誰にも話していなかったこととか、誰に話したらいいかわからないのに言葉にしたくて仕方なかったこととか、聞いてもらった。僕もヒロくんのそれを聞いた。

家に帰り着く頃には、二人とも眠たくて仕方なくて、完璧に十代の頃のふざける気持ちで、畑を荒らしたり電柱にのぼったり歌をうたったり夜の校庭で寝そべったり星を盗むふりをしたりパイプのけむりに思い出を溶かしたりしながら歩いてた。
こんなふうに付き合ってくれて、ありがとう。それから誕生日おめでとう。

お会いできた人も、これから会う人も、遠くで手をふる人も。
それぞれの道を歩みながら、みんなで力を合わせて、楽しくしていけますように。
どうかどうか今年もよろしくお願いします、と、あらためて。

水を飲む。

2010-01-24 | 生活の周辺。
あたたかな一週間だった。いろんな場所で汗をだらだらかいてしまった。

この三年くらいずっと、小学校の頃の同級生であるいしやまくんに散髪をお願いしていて、久しぶりだね、とお店に向かったら、五か月ぶりだよ、と怒られる。ふつうはみんな一月に一度は散髪をするのだと聞いて驚いた。驚いてる僕にいしやまくんは驚いた。ちゃきちゃきと切ってもらう。相当短くなった。次は春先に、と約束して別れる。

今年になって、のどが異常に渇く。水をぐいぐい飲む。
詩人であり劇作家の荒木傑さんが、かつて絶叫して「生きるとは/むせかえっても/水を飲むこと」と詠じていたのを思いだす。

前々から一緒に芝居をやりたいと思っていた方とお話をさせていただいた。演劇への、あるいは日々を生きることの、大げさではない、ささやかな抗いの姿勢に共感。ただ、僕が話をうまく展開できず、上手に舞台の説明ができず、結局、台本をその場で読んでもらうことに。冷静に考えて、これは双方ともに落ち着かない事態。必要のない緊張感が流れる。申し訳ないことをしてしまった。

理由もなく心が蒸発してしまいそうなとき、枕もとに並べる本のひとつに、森巣博の『神はダイスを遊ばない』がある。
描写や筋の運びに、ミドルエイジの男性がよろこびそうな、男の夢を書きなぐったような、ある種の無邪気なしたたかさを感じさせるものの、「打たれ越せ」というシンプルな言葉は、とても強烈に胸に響く。

静かに水を飲もう。

しゃららん、らん。

2010-01-20 | 生活の周辺。
小学6年生の男の子が「シャラポワなんておばさんだ」と言ったので「シャラポワはおばさんではない」ときつく注意した。

嘘かというほどあたたかい一日。
このまま春がきて夏がくるんだなあと思うと、一年ってほんと短い。
もう少し頑張ったっていいんだぜ。冬。

戯曲を書く。
たどり着きたい世界を無数に抱えているこの宙ぶらりんの状態は何に例えられるんだ。おれは何に足止めされているんだ。何であろうと書きゃいいんだ。

古本屋で見つけた「rockin'on」の2007年3月号の巻頭に「ロック名詞選100」という特集が組まれていた。
いつか立ち読みした記憶がある。

デヴィッド・ボウイからは「ロックンロールの自殺者」が選ばれていて、その日本語訳がまるまる掲載されていた。
僕はこの詩と、この歌をうたうボウイの声が大好きで、大好きで、大好きで、何度も繰り返し聴いて、あの芝居の、終幕近くの場面を作った。
ああ、Time takes a cigarette…、と歌い出すその声の切ないほどの痛み!

山崎洋一郎に「ロック史上最強のリリック」と評されたラストの14行を。

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Oh no love! you're not alone
You're watching yourself but you're too unfair
You got your head all tangled up but if I could only make you care

Oh no love! you're not alone
No matter what or who you've been
No matter when or where you've seen

All the knives seem to lacerate your brain
I've had my share so I'll help you with the pain

You're not alone
Just turn on with me

You're not alone gimme your hands
You're not alone gimme your hands
You're wonderful gimme your hands
You're wonderful gimme your hands

違うんだ愛する人よ! あなたはひとりじゃない
あなたは自分ばかりを見ている、頭がこんがらがってるんだ
どうにかして、僕にそれがほどけたら

愛する人よ、あなたはひとりじゃない
たとえ何であろうと、誰であろうと、あなたはここにいたんだ
それがいつだろうと、どこだろうと、ぼくはあなたを見ていた

あらゆるナイフがあなたの頭をずたずたに引き裂いてしまった
ぼくにもそんなことがあった、わかるんだ、どうにかして、どうにかしてあなたを

あなたはひとりじゃない
いかないで、戻っておいで、ぼくを見て

あなたはひとりじゃない、その手を伸ばすんだ
あなたはひとりじゃない、ぼくはここにいる
あなたは素晴らしい、その手を差し出して
あなたは素晴らしい、その手をぼくに

(ほんのり誤意訳)

しんみりと胸を。

2010-01-17 | 生活の周辺。
ある演出家の思い出を。

彼の紹介で皿洗いのバイトをしたことがある。多くの人にとって特別な日だった。ひっきりなしに皿が運ばれてきた。休む暇もなく僕たちは動きまわった。その帰途のこと。真夜中過ぎ、いつもは駅の明かりも落ちる時間に運行している特別な電車に乗り込み、やっとのことで吊革につかまると、彼はおもむろに鞄の中からくたくたの文庫本を取り出した。中国の歴史書だ。夢中になって読んでいた。食べるように、疲れたからだに栄養を補給するように、前のめりに読書する彼の姿を見て僕は打ちのめされた。彼の演出する舞台にいつも充満している、あの奔放なエネルギーの秘密を見たような気がした。無駄を埋めるための読書ではなく、つねに渇望するこころの状態を保つこと。いかにその場所に自分を追い込むか。

一昨日、昨日と、ごく少人数でのささやかな、しかし力強い稽古を。

一昨日は、探り探り動きながら、遊び場の広さを確かめる。
この二人だからできること。
この二人だから生まれるもの。チューニングを合わせる時間。

昨日は、過去に上演した戯曲の読み合わせ。
僕たちが「浜のアングラ劇団」と呼ばれていた時代の掉尾を飾る作品。
書いていた頃のことを思いだす。正々堂々と立てなかったことを。

自分自身の現在を冷静に見つめようとするとき、いつも僕はこの頃の自分のまなざしを取り戻す。

芝居を創ること、芝居の話をできる人がいることの幸せ。

バレエを観た。
もしかすると寝入ってしまうのではないかと心配したが、とんでもない。猛烈に刺激を受けた。次から次へとごちそうが訪れる、めまいがするような幸福な時間。
見ることの音楽。「舞台は夢」という言葉がしんみりと胸をみたす。

『ライムライト』が観たくなる。

とりとめもない。

2010-01-15 | 生活の周辺。
まるで知らない街に降り立ったかのような肌を刺す寒さ。いいぞ、冬。友人の息子が男前に笑ってる写真を見て嬉しくなる。もうそんなに大きくなっていたんだね。きちんと時間は流れてるんだな。次の芝居のための音楽を探す。なかなか見つからない。心地の良い音楽がたくさん街にあふれてるのに。踊りたい。ダンスについてもっともっと手がかりを集めたい。どこから乗り込んできたのか覚えてないが、それは真夜中の東海道線で、僕の真向かいの席に座ったおじさんが、隣の席の人に、いつまでも、いつまでも話しつづけていて、最初の女性は耐えきれずに席を立ち、隣の車両に移動し、次に座った男性は無視を決め込み携帯電話から一度も目を離さず、おじさんはしかしいつまでも、いつまでも話しつづけていて、もしも僕の作る芝居も、あんなふうに見当違いな場所で見当違いな相手にたいして自らの「さみしさ」に任せて垂れ流されているものだとしたら、というようなことを思ってひとしきり悩む。もしそんな状態なのだとしたら、誰か突っ込みを入れてくれるだろうか。劇団員は気づくだろうか。いやそもそもこんな設問の仕方はまちがっているのか。おじさんは返答をよこさない周囲の世界に苛立ち、それでもなお話しつづけ、どんどんと声が大きくなり、目が険しくなり、むきだしのさみしさがこじれて、赤黒く変色していくようだった。目を落として次の芝居の台本を読む。この春にはじめて、他の作家の書いた作品を演出させていただく。「愛」という名のついた戯曲。その初演を僕は観ている。だから、こういってよいなら、この作品を演出するにあたり僕はわりと緊張している。奇をてらったことはしないと決めた。ふいに笑い声が響いた。あたらしく乗り込んできた初老の男性と、おじさんが握手をしていた。顔をくしゃくしゃに笑わせて、おじさんはその男性を「先生」と呼び、男性は最初戸惑っていたものの、おじさんの投げかける言葉のひとつひとつをしっかりと受け止め、あたたかく投げ返した。おじさんは男性に、自分の座る席を譲ろうとした。「さみしさ」は自分を気遣う存在と出会い、ようやく何事かを与えるだけの余裕を得た。どうしようもなくひとりよがりであるとしてもだ。地元の駅について僕が電車を降りるときも、二人はずっと親密に話を続けていて、少しだけ耳に届いた会話の切れ端によれば、どうやらおじさんは去年還暦を迎え、この社会における自分の役目は既に終わっておりだから望むべき未来はもうないと思っている。そんなおじさんを一生懸命男性が励ましていた。ホームに降り立つと、一瞬、知らない街かと思うような寒気に包まれる。あのおじさんは僕のなかにもいる。どっしりと存在している。おじさんと別れずおじさんを連れておじさんと対話を重ねて歩くこと。明日は今年の初稽古。たとえ僕が何もしなくても演出家の体温は作品に宿ってしまうだろう。そういうものだ。何をもって奇とするかわからないけれど、ああ、奇をねらったんだな、と感じさせるほど興ざめなことはない。要は切実であればどれだけ奇形でもいいのだ。慎重に、大胆に、「愛」をみえるかたちに。

末広がれ。

2010-01-11 | 生活の周辺。
初映画は『2001年宇宙の旅』。初小説は『若かった日々』。初芝居はないしょ。初詣は鶴岡八幡宮。四年連続で末吉。ありがたい言葉が書かれていた。《世は刻々新しく変って行くと思う中(うち)は、その玉(叡知の玉)の磨き方が足りない。》切り立つ崖のそばで、暮れていく海を眺めながら、ひとりジャンベを叩く男性がいた。人の情けに泣きそうになりながら過ごしてる。

なんとなく走る。

2010-01-03 | 生活の周辺。
喪中のため年頭のあいさつをできないのですが、ともあれ、820製作所を今年もよろしくお願いいたします。

初夢は小鳥と友達になるというものでした。

野良猫会の仲間たち(今日はボスは来れなかった)と箱根駅伝を見にいった。沿道で見るのは十数年ぶり。駅をおりて、その場所に近づくにつれ、どうしたことか、周りの人々が急にそわそわしはじめ、何か不可解な力が働いたように、いっせいに走りだしたのでギョッとする。小さな子どもから妙齢の婦人、ご年配のご夫妻、中学生、おとっつぁんもおっかさんも、そこに居合わせた者がみな必死に走っているのだ。何が何やらわからず、四捨五入すれば齢三十の野良猫たちも、ついつい走りだしてしまった。走りだしたからにはぐんぐんと抜く。負けてたまるか。で、人であふれかえる、国道のガードレール沿いへたどりつく。汗、だらだら。新年早々、こみあげる吐き気。朦朧としながら見た。目のまえを次々と走り去る選手の姿に胸が痛くなる。ランナーとは孤独な職業だ。走るという行為は、走り続けるということは、とても孤独さ。だから好きだよ、陸上は。

そのあと、箱根へ。
黒たまご食べて、温泉入って、ゆっくりした。齢三十だからな。ゆっくりしたいんだよ。あわてなくていい。もういろんなものを手放したい。しがみつくことなんて、いま、ひとつもないのだ。去年の終わり、久しぶりに役者をやって、つくづくと思った。風を通すには無私であること。役者も作家も驚くほどおんなじことでだめになる。
抱負もなんとなく決まる。できるかもわからないけど、できるといいな。なんとなくという祈り。今年は土いじりに丹精をこめよう。やわらかな芽吹きを待とう。ああ、ようやく年が変わったという思いだ。誰も彼もが走り去るなかを牛歩のリズムで。いったん走りだしたらすごく速い。そんなのがいい。