820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

ざんざんざん。

2009-08-30 | 生活の周辺。
夜、谷中へいく。
『もののけカフェ@谷中ボッサ』を観に。
駅の改札を抜けて歩きだしたとたん、ざんざん振りの雨。
はじめての谷中はとても情緒にあふれていて、小路のひとつひとつに迷い込みたいと思う町だった。またゆっくり、ハートが追いつめられたとき、散策しにいきたいな。

小さく、お洒落で涼しい喫茶店で、心地のいい時間。
たったひとりでひとつの物語を、ぎゅうぎゅうのお客さんに届けることの幸福。
三者三様のかたりくちを楽しむ。

帰りの京浜東北線で、いっしょに観にいった島田さんと密談。
島田さんは舞☆夢☆踏の同期で、パワフルでほんのり臆病であかるく激しく元気よくたまに元気なくでもやっぱりめげることなくミュージカルが好きでキャピキャピした演技が苦手でそのわりに普段はテンションの振り切れたアンニュイフッフーな女優だが、しかも今日は昼に『RENT』を観てきたとのことでいまにも踊りださんばかりの勢いだったが、じぶんの在籍する場所で制作業務に携わっていた経験があり、820の今後の戦略について思うところを聞かせてもらう、というか相談する、というかむりやり考えてもらう。なにせ旗揚げからほとんどの芝居を観てもらっているのだ。頼もしい友人である。同期だから戦友だな。芝居をやってりゃ、いろいろ苦しむこともあるわけさ。悩んで迷って小さくもなるさ。でも同期には負けられないのである。負けてほしくもない。エールを交換。同期といえば網谷くんの就活の調子はいかがだろうか。残念パーティの準備はいつでもできているのだが。同期といえば、小川くんのオフィスラブはいかがなものか。涙なしでは語れない結末だ。

まあ、よそさまと同じことをしても仕方がない、だからといって奇をてらうわけじゃない、僕たちが面白がれる方法。そのための創意工夫。ご機嫌に考えつづける。

A perfect day.

2009-08-26 | メモ。


空の色とか、気温とか、風の向きとか、雲の湿り気とか、光線の加減とか、この世界のありようは、そのまんま心に伝わってしまうのだなあ。
ここにいることに感謝したくなるような一日。

ヒグラシの澄んだ鳴き声。対向車線を走るトラックの運転手がほお張るあずきバー。ヴァニラによく似た古くてやわらかな木材のにおい。変な音を立てて止まってしまった僕のスクーター。
パーフェクト。

コーデリア・グレイへ伝言、再び。

2009-08-26 | 生活の周辺。
久しぶりだな。

どうだい、あいかわらずあんたの友達は、ノートを前にうんうん呻いたり、真夜中に床をたたいて叫んだり、突発的に海に出かけたり、あるいは湖に向かう途中の狭い道路で車をこすったり、むだな買い物をくり返したり、悪い夢にうなされたりしてるのかい。

そうかい、羽根が破れちまったんだね。

物語が見つからなくて、心の内を誰もかれもが出発して、一人ぼっちで取り残されて、そんな時間が永遠に続くんじゃないかと気をもんでるんだね。

ばかだな、おれに言わせりゃ、そいつはいまようやくスタートラインに立てたってところさ。

まるで手に負えない厄介な事件を抱えこんだ探偵だ。
この大きな街から、たったひとつの物語を探し出さなきゃいけない。
手がかりはない。お人好しに街はつめたい。
すでに銃床で頭をなぐられた。裏切りも味わった。追い詰めたつもりが寸前で逃げられた。
もう時間がない。

そうなればもう賭けるしかないんだ。
同じだけの時間が残されているなら、怯えた心で誰かの顔色をうかがうように使うのと、それともすべてを飲みこんだ上で腹をきめて心のままに思いっきり使うのと、あんたならどちらがいい。

一分でも時間が残っていればすべては変わる。信じてみるんだ。それはほかの誰にもできないこと。駆けずり回った一日を持つ者にしかできないこと。
町じゅうを尋ねまわって、汗みずくで、血へどを吐いて、小便を漏らすような恐怖とたたかって、それでも今日という日がまだ終わってないのなら、運の悪さに呆れつつ、砂袋のようなからだをベッドに横たえ、いつまでも待つんだ。探した相手がドアをノックする音を。重い眠りを覚ます響きのあることを。

賭けてみるんだ。
たどった足どりを信じてみるんだ。

大丈夫、大丈夫、きっとそいつは運がいいさ。
あんたっていう友達がいるんだからな。

じゃあな、あばよ、伝えたぜ。それでだめなら、あしたがあるさ。

なにせ俺はいま夏のなかにいる。

2009-08-22 | 生活の周辺。
じぶんのからだの奥にある炉が鎮まったまま、なにも生み出せない日々。

なにせ俺はいま夏のなかにいる。
ぐったりと確かなものをつかめず生きている。

それでも暑さは和らいできた。これからが気持のよい季節だ。
少し前に横浜で、和田くんと、ホームページ管理をしてくれている野村さんと、ちょっとした打ち合わせというか、のんびりご飯を食べた。
こうした時間を持てることに、ゆるやかなリズムを伝えてくれることに、友人として笑いあえることに、さまざまな手がかりを与えてくれた二人に感謝しつつ、考えることはむすうにあり、なかなかうまく燃え広がってはくれない。

まあ要は面白がれるかどうかだ。ご機嫌に考えてみればいい。
細かく砕いて整理していこう。あらわれるものはシンプルだろう。

あかるい歌を聴こう。
わいわい歌って、わいわい踊って、芝居をつくろう。

偶景のセッション!

2009-08-19 | 生活の周辺。
たくさんのことばが渦巻く場所で、きりきりと音がする。
それぞれの弦がひきしめられたり、ゆるんだり、その響きがとてもきれいで、申し訳ないような情けないような気持ち。

で、大好きな女の子が、じぶんの日記に、大好きな詩人のことば/リリックを引いていて、そのことば/リリックに僕はいま、頬をはたかれたような気分だ。頬をはたかれて、なにも取り繕うことができなくて、ただ顔を赤くしているのさ。

なんでそんなに本当のことを言えるんだろう。

金子光晴という詩人になんど僕は救われたかわからない。
「女への弁」と名づけられたそのことば/リリックを、すべての男は読むべきだ。
じぶんの性の、深い深い底のほうでもつれていた鍵を、あっけなく簡単にほどいてくれる。ゆるされる。

大好きな詩はいくつもあるけど、あなたの並べたことばにふれて、思いだした詩があるよ。
いつか必要なとき、なんべんも、なんべんもしがみつくように読み返した。

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「もう一篇の詩」

恋人よ。
たうとう僕は
あなたのうんこになりました。

そして狭い糞壺のなかで
ほかのうんこといっしょに
蠅がうみつけた幼虫どもに
くすぐられてゐる。

あなたにのこりなく消化され、
あなたの滓になって
あなたからおし出されたことに
つゆほどの怨みもありません。

うきながら、しづみながら
あなたをみあげてよびかけても
恋人よ。あなたは、もはや
うんことなった僕に気づくよしなく
ぎい、ばたんと出ていってしまった。

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身もふたもなく、正直に生きるのさ!

ハッピーな歌を響かせろ。
イエー、イエー。

数を数える。

2009-08-15 | アナウンス。
敗戦の日。
想像力と語り部の仕事について考える。

立ち寄った喫茶店の隣席にいた数名の男女が離婚の相談をしていた。
むずかしい顔をした大人たちのなかに一人、小さなおんなのこが終始笑顔で、数を数えていた。
100まで数えることができてとても得意そうだった。

お墓参り。
線香に火がどうしてもつかなくて、かなり長いあいだ格闘する。
こんなだめな末裔があらわれて、あなたたちがお墓の下で肩身の狭い思いをしてるんじゃないかと心配だ。
見あげると抜けるような青空。
鎌倉の山の上に飛行船が浮かんでいた。

いつになったら820の人々と鎌倉に行けるのかな。

佐々木覚は8月19日~23日まで「こちらKGB」の『斬(斬らず)』という舞台に客演することが決まり、来週には横浜の相鉄本多劇場にて本番を迎えるのだし、その後も、まだ情報をアナウンスしてよいのかわからないので具体的には書かないが、秋に上演予定の、ある舞台に客演として呼んでいただき、本番が終わったとたんにそちらの稽古が始まるので鎌倉どころではなく、

加藤好昭は10月初旬に「CASETTE」という団体に客演するためただいま稽古真っ盛りの上、夏の終わりには海外へ出立することが決まっていて、

印田彩希子は充電と修行に励みながら酒と泪とチョコミントアイスと流れ星の日々を送っているのだ、と思う、たぶん。

いったい僕たちのどこに鎌倉にいく余裕があるというのか。

いや、あるけどね。
大人になれば、時間なんてあるわけないんだから、じぶんで作らなきゃいけないよ。そんなの中学生だって知ってるよ。

このあいだ「どうせ事態が変わらないなら、深刻な顔してるよりも笑っているほうがいいね」と呟いたら「はっちゃん、それ、幼稚園で習うことだよ」と加藤くんに言われたよ。

そうなんだよね。

なんということだ。

2009-08-14 | メモ。
ゴダールの『気狂いピエロ』は「きちがい」と読ませるのだということを今日はじめて知った。『スロウ』の稽古のとき、のっちが「きちがいピエロ」とくり返すのを「きぐるい」だよと教え諭すように言ったじぶんが猛烈に恥ずかしいや。ごめんね、のっち。

旅人のまなざしのこと。

2009-08-14 | 生活の周辺。
ある大学の広告に『20世紀の日本は、マンガだった。』というコピーが踊っていて、夏のこのくそ暑い時期に、ずいぶん大胆なことを言うなぁと思った。

ズゴゴゴゴ、グッシャーン、ガラガラガラ、ピカッ、シーン。

本屋で市橋織江というひとの『Gift』という写真集を長いこと眺めていた。
静けさは何よりもまず距離の感覚であること。ここにはいくつもの《遠さ》が閉じこめられている。対象が点となるほどの距離に立つ写真家の視線。《わたし》こそが《彼ら》にとっての遠景に退いて、たまたますれ違う人や夜や生き物や水辺や影によってつながれた世界を、やわらかな光で慰撫する。

湖畔に立つ男たちの背の遠さ。
荒野に建つ一軒の家屋の遠さ。
あるいは漆喰の壁のなんでもない傷に写された時の移ろいの遠さ。
異国の午後に降る光の名づけようのない遠さ。

ページをめくるうち、じぶんの身から言葉が生まれたがっているのを感じて、腰を落ち着けて一つ一つの写真を眺めたかったのだけど、僕にはお金がない。おそろしいほど金がない。これはまずい、生きていけない。

舞台の上に立つと人は丸裸にされることをつくづく思う。

僕は神奈川県の秦野市という場所で生まれ、数年をそこで過ごしたのだけど、このあいだ、たまたまそこに行く機会を得た。
20年ぶりに町を歩いた。
どこもかしこも「はたの」とか「はだの」と書きつけられていて、ドキドキしてしまう。
いざ町のなかに降り立つと、ずいぶん触っていなかったような、持っていたことすら忘れていた断片的な記憶が次々と噴きだしてきた。夢のなかで何度かあらわれた光景がそこにあってびっくりした。
駅前のすぐそばを水無川が流れている。
川のむこうに病院がある。
なだらかな上り坂の商店街がつづく。
生まれて初めて入った本屋で本を買う。
音楽は流れていたし、客も何人かいたのに、まるきり物音のしない、静かすぎる本屋だった。寺院や聖堂のようなひそやかさ。

ピストルゴースト。

2009-08-09 | 生活の周辺。
《場所と思い出Ⅲ》について『ピストルゴースト』ってタイトルはどうだろう。パンチが弱い? あれ、ベンジーの歌にあったっけ、こんなタイトル? なんか、でも、短編って感じかなあ…。例によってラストシーンは書き終えた。楽しんで書こう。書くことは楽しいよ。苦しいけれど結局は楽しい。気は狂うけどさ。

公演が終わって一週間。からだはまだ空っぽのまま。夜の公園で花火をした。何年ぶりだろう、手持ち花火なんて。きれいだった。和田くんが問屋さんからまとめて買ってきてくれたんだ。きれいな色で光った。あっけなく燃え尽きる。夜の歌姫が酒瓶を片手に熱唱していた。空が広くて月があかるかった。まどろむ猫と話をした。騒いでいたらお巡りさんがやってきた。小さな音で歌を流した。朝焼けがはじまって、だんだんまわりが青くなっていくころ、残っていた花火の束を、覚さんがまとめて燃やした。

夏はすぐ思い出に変わる。

五年前の夏、同じ舞台で騒いでいた。泣いたり、笑ったり、悔しかったり、わからなかったり、大変だった。もうずいぶん遠いような気がする。いまだって、ぜんぜん若くて、苦しくて楽しくて瀬戸際で、大変だ。

朝になって町が動きだして、長椅子に横たわるみんなの顔を木漏れ日がじりじりと灼いて、蝉が鳴いていて、とても暑くて、少しずつ、少しずつだけれども、体力が回復していくのを感じたんだ。僕の今年の抱負は『元気を出す』だった。まだまだこれから。空回らないように、抑えすぎないように、自然に。

いつのまにか覚さんがいなくなっていて、けっこう待ったのだけど、連絡もつかないから、五人で先に帰った。そのすぐあとに《眠ってた、滑り台のなかで…》というメールが届いた。

僕たちはそんな感じ。

『聖者の行進/reprise』 終了しました。

2009-08-06 | ごあいさつ。
『聖者の行進/reprise』が、ぶじ終了しました。
いやはや、たいへんな公演でした。

隠してもしょうがないので言ってしまえば、たいへんな公演だったいちばんの理由は、台本の遅れによるものでした。
なんども「公演中止」という言葉が頭をよぎったのですが、しかし稽古場でともにたたかった役者たち、スタッフたちが、物語に力を与え、動かし、世界をひろげ、そのなかを生き、みなさまの前にまで、行進をたどりつかせることができました。
あきらめや皮肉は一つもなく、最初から最後まで胸を張って、行進は続きました。
820製作所にしか生みだせない、たしかに僕たちの光を宿した芝居が、そこにありました。

お越しいただいたみなさま、応援してくださったみなさまに深く感謝いたします。
いつになく激しい賛否両論のご意見をいただきました。すべての言葉が糧になります。
過度に絶望することなく、空っぽの期待に胸をふくらませることなく、「この現実をひとつの試練と見ることが俺の生き方に必要なだけだ」(by坂口安吾)と覚悟をきめて、ひとつひとつの負債を真摯に乗り越えていこうと思います。

うほー、やっちまったぜ、みたいな文体で書くほうが読むほうも書くほうも健康かなと思ったのですが、まあ、やめておきましょう。

なにより僕はひとりの演劇人である前に、ひとりのロックンローラーであることを忘れていました。そうだ、僕は芝居でロックをやるのだよ、単純で、乾いていて、焦げくさいロックを。一瞬の閃光と、凍るようなリリシズムと、苦り切った哄笑を。あるいは、すべてが空に吸いこまれるような、とめどない解放のうたを。いつだってたった一本のギターがあれば、いえ、永遠に「いま、ここ」を踏み外し続ける決意と楽天があれば、どこにでも僕のロックは響きます。大丈夫、大丈夫。踊りつづけよう。

ああ、まだ言葉に力が入ってるなあ。

タイトルの付け方や、内容(や、公演を打つことの大変さまで)が『青い鳥の群れ/靴』と似通う部分があって、ああきっとこの公演は《鳥を探す》というシリーズなんだと気づいて、それは収穫。転んでもただでは起きないぞ。で、鳥を探す♯3はあるのだろうか。ないかもしれない。わからない。ただ、二度とこんな事態にはしないということを約束して、じっくりと次のことを考えていこうと思います。

この公演に関わってくれたすべての方に感謝します。