820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

あるたたかいの記録。

2010-07-25 | 生活の周辺。
あるいはエンドロールのない世界で、訪れる明日を祝福すること。
なによりもそれはことばのたたかいだ。

小野さやか監督の『アヒルの子』がいまジャック&ベティで上映されている。
ひとりの女の子が自らの家族を「壊す」過程を描いたドキュメンタリーだ。

僕たちはだれひとり同じことばを使ってはいない。どんなに長い時間をともに過ごした家族でも、恋人でも、まったく別個のそれぞれにかみ合わないことばを手に世界を生きている。ときには奇跡のように合致することもある。互いに浸食し合い、ついにはそれぞれをつなぐ岸辺の地形を変えてしまうこともある。互いを削ぎあう衝突の連続に、擦り切れるような痛みを抱えるはめになることも、やがて磨耗してのっぺりとした目鼻のないことばだけを手に疲れはててしまうことも、当然ある。

親密で調和した世界があり、そこからはみ出してしまうことばがある。響きの合わないことばは連中の朗らかな笑いを引き攣らせるだろう。親密で調和した世界があり、そこに違和と嫌悪しか感じない者がいる。連中は連中のことばできみを寸断し、錘をあちこちにつけるだろう。ことばには重力があり、きみを巻きこみ、その内部に縛りつける。親密で調和した世界があり、きみはそこでは口をつぐむしかない。たたかいがはじまる。

このことを口にしたら世界が凍ってしまう。
きっと世界が終わってしまう。

僕たちはそんなことばを持っている。嘘じゃない。「ほんとうのこと」を持たない者などひとりもいない。
このフィルムのなかにはそんなことばを抱えて震えてる女の子が映っている。

たたかいに赴くとき、彼女の足がぶるぶると震えてしまう。からだを流れる血が鼻水の筋となってとどめようもなく垂れてしまう。世界を映す瞳がきゅっと縮まる。ため息が幾度もからだを駆け巡る。

それは比喩ではなくほんとうに世界を砕くことばだ。投げつける自らも無傷では決していられない、そのような類の。
だから、その女の子はもう片方の手に映画を握りしめたんだろう。ことばを届ける砲台として。

人を殺すためでも自分を殺すためでもなく、それは象徴的には「殺す/壊す」ための行いかもしれなくても、彼女は生き延びるために、端的に言えば「仲直り」をするために、くそったれの世界にあたらしい調和をもたらすために、たたかう。包丁ではなくハサミでもなく、ことばとカメラと映画の文法で立ちむかう。

とても個人的なたたかいであり、その記録であり、あるいはそれは「作者の吐瀉物」と呼ばれる危険もあるし、映像のレベルとは別のところで「その程度の暗闇なんか」という批判が生じる可能性もあるが、そう、俺だって映像のレベルとは別のところで映画を語っているんだからこれは批評でも何でもない感想文だが、よかったんだ、とっても。すれ違いつづけることばでも、どんなにかみ合わなくても、たがいにそれを許し合うことができるということ。そのとき、彼らを包もうとするもっともっと大きなことばが生じる予感。

映画は終わるがこの世界にエンドロールはなくて、だから解決されない様々なものごとは自ら抱きしめにいくしかないんだな、とか。
7月30日まで横浜のジャック&ベティで、そのあとは西日本で順次公開とのこと。

先日上演した『青い鳥の群れ/靴』がまさに「家/ホーム」と「ことば」をめぐる物語だった。

ふつう表現をする者は誰でも自らの表現を見つめる怜悧なまなざしを持っていて、作品を生みだすこと、他の作品に触れること、日々を生きること、他の生と交わること、そのくり返しのなかで少しずつまなざしの数は増え、鋭さは磨かれていく。大勢の人間に愛される作品を創る者は、自分のなかに大勢のまなざしを持っている。

芝居を上演したあと、誰かから「意味がわからない(から、だめ)」とか「爆睡」とか「死ね」とか言われるたび、僕のなかにきみがいなくてごめん、と心から思う。
そんなことも映画を観ながら考えていたのさ。

修行が足りないがもういい。

2010-07-24 | 生活の周辺。
だんご虫がいっぱい玄関先を這っていた。あかるい月が浮かんでいた。泥沼をずぶずぶとすすんでいるような日々だった。ストレスや怒りがからだから出ていかない。そういう状態でいると、自分のやることなすことのすべてが信じられない。たぶん関わっている人たちに、よくないものを波及させているんだろう。ごめんな。はっちゃん疲れちゃったよ。京都へいきたい。しゅうちゃんは元気だろうか。

五年前に上演した『スロウ』の古いデータが出てきた。本番の一週間前にいろいろあり、できあがっていた台本を改編しなくちゃいけないかもという事態になったとき、まあそれは結局必要なくなったんだけども、とにかく前半の一部をむりやりに書き改めた幻のデータ。そんなものがあるなんてすっかり忘れていたのだけど、改編の仕方がとてもけなげで、時間のない中よくやったなと思う。いまと書き方がぜんぜんちがう。書くべきことを書く。それだけじゃん、っていうシンプルな。

再演が続くことに理由はべつになくて、たまたまそういう流れになっているだけなのだけど、その流れももちろん必然で、よりあたらしい劇のことばを自分のなかに確かめたいと、無意識に思ってのことだろう。

お、こんなことを書いているうちにメールが入った。あしべが一つ、劇団の仕事を仕上げた。うん、仲間が頑張っている。いちばん頑張らなくちゃいけないのは俺だ。もうすこし泥沼の深みにはまるべきだ。口をつぐむときはつぐむ。語りたいことを語る。センチメンタル上等だろ。どうしようと俺の勝手だ。ガキの面倒見ている暇はないんだ。演劇はだって、その時間に、あるいはその時間をこえていつか結実する祈りのようなものじゃないのか?

書きつけた言葉は、かならず自分に還ってくる。それなら本当に腑に落ちる言葉だけ俺は探そう。
むこう一年くらいの820製作所の裏テーマはこちら。

≪ハマのおしゃれ劇団、ぶち切れます≫

ぶち切れていく。そういう時期なんだ。

きらきら。

2010-07-20 | 生活の周辺。
ふるちゃんのことを考えると、あの稽古場のことを思いだすんだ。

ふるちゃん自身が通っていた小学校のコミュニティルームが、地域の活動に開放されていて、僕たちはそこを借りて芝居の稽古をした。アップと称して、校庭で鬼ごっこをしたりもした。全力で走りまわった。十代のはしっこにいて僕は、女の子にタッチしていいのかな、え、あんな無防備な背中にこの手を? ってドキドキするような男の子だった。

ほかにもたくさんの稽古場を借りて、いそがしくあちこちをまわっていたはずなのに、あの夏は、ほとんどがその稽古場の印象で埋められている。動きが多く、五人とも汗だくになりながら、くもった甘いにおいのする音楽室のような教室で、僕たちは芝居を創った。

ふるちゃんはとても厳しい演出家で、頭のめぐりの良くない僕は、うまく芝居を動かせずまごまごしていた。
ほかの誰かがうまくいかず、泣きだしたとき、僕だけはなにも言えなかった。その芝居のぜんたいを見る目を持たず、ただ言われたことをやるのに必死だった。
ふるちゃんは呆れて苛立っていたに違いないが、それでも僕がそこにいることを許してくれた。

ふるちゃんを抱きしめるシーンがあった。
女の子にタッチすることにさえ怖気づく男子だ。うまくいくわけがない。腰がひけてる、とか、ガバッといけガバッと、とか、なんか面白くなっちゃうよねー、とか、みんなをさんざんガッカリさせた。ほんとごめん、と思いながら演じていたある日、そのシーンの手前で、うーわーあたし今日めっちゃ汗くさいかも、ほんとごめん、とふるちゃんが言った。厳しく張りつめた演出家の顔が、一瞬、かわいい女の子の顔に戻った。しまった俺はなにをしていたんだ超大好きふるちゃんと思いながら抱きしめたよもちろん。ぜんぜん汗くさくなかったよ。そのあとでやっぱりみんなから腰がひけてるって突っ込まれたけど。

ほら、ね。きらきらするエピソード。

きらきら、という名前の芝居だった。
大好き、という祈り。

あの曲がり角を曲がったら、車にひかれて死んじゃうかもしれない。
千匹のカエルが降ってきて、悲鳴をあげてしまうかも。ああ、バナナの皮に滑って打ちどころが悪くて、あなたを二度と思いだせないかも。

それでもわたしたちを前にすすめるのは、大好き、という祈り。
たったひとつ、大好きという祈り。

ふるちゃんが結婚した。
純白のウエディングドレスを着て、きらきらと笑っていた。スライドで映された、新郎新婦のいままでをたどる写真は、どれも美しく、優しく、そしてお酒がたくさん、たくさん。二人でごいごい飲んでいる。それだけでもう、完璧な二人の絆を僕たちは知る。
みんなが新郎新婦のことが大好きで、みんながこの二人なら大丈夫、と思った。とても幸せな時間だった。

おめでとう、ふるちゃん。いつかまた芝居をしようね。一年後でも、五年後でも、十年後でも、いつか晴れた日の祈りのような芝居を。
僕も少しは厳しい演出家になったんだ。いまだに怒られてばかりだけれど。

だからズンズンと、果敢にきらきらしていこう。

少しくすんだ窓の向こう。

2010-07-17 | 生活の周辺。
頭が働かない。からだが動かない。夏バテのようだ。毎日こんなにきれいな青空なのにな。
青い光の下にいるだけで、たしかに力が降りそそぐような気はするのだけど。

いろいろと、握りしめてきたものを、放してしまいそうだ。たぶんそれは、必要ではなくなったものたちだから。
ひと一倍、ものを捨てることができない子どもだった。

小さな頃からずっと部屋の片隅にあったおもちゃたちを、中学生になって捨てたとき、捨てなければならなかったとき、捨てると決心したとき、とても具体的に世界が変わった。世界を構成する色味の幾つかの層がうしなわれた。部屋にさしこむ陽光の色が一段落ちたのがはっきりとわかった。それまでこの目に見えていたものとは違う風景がそのあとに広がっていた。こういうことなのか、と思った。

これからはじまる夏は、青空がとてもやわらかい。とても優しい、なつかしい色に目に映る。
仕方がないことはあっていいんだ。そういうことですら愛せるんだ。僕たちはもう大人だもんね。だから、それを守り抜いたら死んだっていいと思うものだけを手のひらの上に。

いいやそんな表現は暑苦しい。次にむかうために必要なものだけをこの手に。そんなことのくり返し。

『青い鳥の群れ/靴』公演終了しました。

2010-07-14 | ごあいさつ。
『青い鳥の群れ/靴』、大きな怪我もなく、ぶじに幕を閉じることができました。
お越しいただいたみなさま、応援していただいたみなさま、本当にありがとうございました。

とても素敵な座組みでした。
高いところへ、もっともっと遠くへ、みんなで向かおうという意志のある仲間たちでした。

作品について、その受け取られ方については、まだうまく言葉にできません。よい芝居ができました、とか、その点は胸を張りますけども。
もっともっとたくさんのお客様へ届けたかった悔しさは残ります。
もっともっと高いところへ向かえるはずだった、その歯がゆさは残ります。

でも三年前にできなかったことを、ようやくかたちにすることができました。
役者のでこぼこや本の破綻具合、演出の徹底不足、そんなものも全部ひっくるめて、820製作所のベストを生みだせたと信じます。

きょう、僕の住む場所では、とても青いきれいな空が広がっていました。
まぶしいほどの、きめの細かな炭酸水のような発光する夏の空が、目に飛びこんできました。

あらゆる悲劇や喜劇をその身に抱えて、でも「うるせえよ、関係ねえよ」と笑ってるような青い空。
劇場で僕は、仲間たちと、観客たちと、つまりあなたと、こんなふうな青い空を、いっしょに眺めたかったのです。

いまだに稽古したり、本番したりの夢をみます。
いろいろありましたし、ありますし、きっとまだいろいろと起こり続けますが、ゴキゲンな顔で乗り切ろうと思います。
芝居をすることを、芝居をする日々のあることを楽しみ味わいながら、次へと向かいます。

かなうことならどうか、その時にもまたあなたと手をつなげるとよいのですが。

『青い鳥の群れ/靴』は、820製作所の「鳥を探すシリーズ」の第一弾でした。第二弾は昨年の『聖者の行進/reprise』。
上演の時期は未定ですが、第三弾のタイトルをなんとなく決めたんだよベイビー聴いてくれ。

『つばめ/鳥を探す旅の終わり』

ほら、わくわくしてきた。逃走する子どもたちのものがたり。
ねえ、ドキドキだけしていたいよね、ほんとはね、恋するみたいに、できるよね、ほんとはね。まったくもう。

『青い鳥の群れ/靴』公演情報。

2010-07-11 | アナウンス。
◆820製作所第9回公演
 /東京バビロン演劇フェスタ♯02参加
『青い鳥の群れ/靴』
作・演出:波田野淳紘

◇Player
佐々木覚
印田彩希子
加藤好昭
大谷由梨佳
山田麻子(asakoletters)
波田野淳紘
和田透(トルバドール音楽事務所
アモTYPE-R(劇団八町荒し
村岡あす香 

※出演を予定しておりました平田悦史は体調不良のため降板することになりました。かわって波田野淳紘が出演いたします。

◆2010.7.7wed-11sun
pit北/区域
(JR京浜東北線「王子駅」北口徒歩2分/東京メトロ南北線「王子駅」5番出口徒歩0.5分)

-公演日程-
7日(水)19:30
8日(木)14:00/19:30
9日(金)19:30
10日(土)14:00/19:00
11日(日)14:00/18:00

※開場は開演の30分前、受付開始は45分前。

◆チケット
前売・当日共 2,500円
学生 2,000円(要学生証)

◇ご予約は劇団ホームページの「ticket欄」およびメールにて承っております。
 予約フォームへ。
TEL:090-6476-8200
MAIL:info@820-haniwa.com
※メールでのご予約の際は、[1]お名前、[2]希望観劇日、[3]枚数、[4]電話番号を明記の上、件名を「チケット予約」にしてお送りください。折り返し確認メールを返信いたします。

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◇Note

あさ、めをさますこと。
夢をおぼえていること。

ひとりでトイレにいくこと。
のこさないでたべること。

パパとチュウをすること。
ママにさようならをいうこと。

晴れた日にふとんをほすこと。
くつをはくこと。
かけだすこと。

なんども、なんどもあいさつをすること。

なかないでがんばってみること。
ひとをわらわせること。
やくそくをまもること。

わたしたちは日々をたたかう。

ハロー、ハロー。

2010-07-11 | 生活の周辺。
青い鳥の群れ/靴、最終日です。820製作所史上、もっともイカレていて、もっとも優しい芝居です。
18:00より、最後の回がはじまります。

☆090-6476-8200

当日券も多数ご用意しております。そのまま劇場にお越しいただいても大丈夫。どうか、あなたにご覧いただきたいのです。

劇場でお待ちしています。

ロックンロール。

2010-07-09 | 生活の周辺。
ぶじに初日が開け、二日目も終了した。
ご来場いただいたみなさま、ありがとうございました。
観ていただいた方の感想が笑ってしまうほどバラバラで、でもそんなのあたりまえのことで、人によってこんなにも見えている世界は違うんだなぁ、人の数ほどの世界があるんだなぁ、とあらためて。
あとは、そんな無数の世界と世界を溶解させ、通路をひらく力が演劇にはあるんだよなぁ、とかね。

今回の『青い鳥の群れ/靴』は、不安になるほど、こんなに直接で大丈夫だろうかと思うほど、わかりやすい芝居に仕上がった。これで「わからない」「小難しい」「難解」という感想が出るのなら、よほど俺に才能がないか、そもそも人にわからないものを俺が描こうとしているかのどちらかだ。
安心してくれ、才能のない人間はすぐ潰れるから、ほんのささいな力で。
なんてことを公演中にわざわざ書くのも、俺の若さのあらわれさ。青春。

……。

書きたいことはいくらでもある。

のっちと話したこととか、のっちの差し入れのこととか、洗濯物はためく舞台でののっちのダンスとか。

誰に向かって演劇を上演しているのかとか。

今日で前半戦が終わる。
精度を高めていこう。しっかりとその場所で生きよう。顔色を窺うのはやめだ。恐れない。ロックンロール、それだけだ。

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本日19:30より上演がございます。
まだ、お席に余裕がございます。10年代最初の820製作所、ほかのどこにもない演劇を、物語をお届けします。どうかぜひ、あなたにご覧いただきたいのです。

☆090-6476-8200

この世界が、今日もあなたと手をつなげますように。
劇場でお待ちしております。

そうだった。

2010-07-07 | メモ。
間にあわせる、と決めるだけだ。あとはそんなふうに動いていく。
決めるだけだ。難しいことじゃないんだ。

世界は素晴らしい。
加藤くんのブログを読み、『青い鳥の群れ/靴』は、そのひとことを口にするための芝居だということを思いだした。

ことば。

2010-07-05 | 生活の周辺。
小屋入り初日だ。いまは明かりづくりの真っ最中。しずかな劇場のなか、ちゃくちゃくと光が生まれようとしている。音響の丸さんはすでにサウンドチェックを終え、ナイスな音のデザインを施してくれた。役者たちみんなで美術の仕込み。劇場に世界がひろがっていく。僕は当日パンフレットに載せるための、ごあいさつを書こうとしている。でもぜんぜん書けない。こんなに書けないのはどうしたことだ。

はったりでもいいから毅然と立っていてほしかったと、その人は言った。役者やスタッフを束ねる人間として、カンパニーのコアとして、あなたは胸を張らなくちゃ、と。

三年と少し前、『青い鳥の群れ/靴』の終演後、ごあいさつをしたとき、加藤さんからいただいた言葉だ。
あれから公演をするたびごと、その言葉を思いだしてきた。

僕は加藤さんが大好きなんだ。
加藤さんと言っても、あの加藤くんじゃない。あの加藤くんも大好きだけれども、いまは加藤さんの話だ。
三年前までSTスポットの館長をつとめていらした加藤さんのことだ。

『青い鳥の群れ/靴』は820製作所がはじめて単独で劇場との提携を結んで上演した作品だった。
そしてはじめて、ひとりでは立ち直ることのできないような、あきれるほどの苦しみに心打ちのめされた公演だった。

あの頃、加藤さんの優しさを、僕はいい気に「天使のようだ」なんて思っていた。それはその通りだ。加藤さんは天使のようだ。
まだ自分たちの表現を手にしていない、方向すらも定まっていない未熟な若造に、甘ったれた馬鹿者に、それでも微笑んで手を差しのべることに、どれほどの忍耐が必要だったか、いまならわかる。

やがて加藤さんは横浜を離れ、別のあたらしい場所へ赴き、僕たちもSTスポットの外へ、アウェーでの冒険を志すようになった。
またお会いするときには、きっと胸を張って、僕は僕の100%の芝居を加藤さんに観ていただこうと思っていた。どうか観ていただきたいと思っていた。

今回、ラストの一週間は、急な坂スタジオでの稽古となった。僕は加藤さんが横浜に戻ってきていることも、急な坂のディレクターに就任されていたことも知らず、アシベからそのことを聞き、急いで受付まで走っていき、久しぶりにお会いしたとき、なんて言えばいいのかわからず、胸を張るどころか僕は、なんか、へにょへにょしてしまった。

稽古最終日のちょうどその日、スタジオの外でバーベキューが開かれたらしく、僕たちはそれどころではなかったけれど、なじみのアーティストやスタッフが入り混じって、ロビーや玄関口で談笑していた。
加藤さんはにこにことその光景を眺めていた。スタジオがあたたかなにおいに包まれていた。

加藤さんはいつも、口もとに笑みを浮かべていた。スタッフやアーティストが居心地良くいられる場所を、そのありようを、愉悦をもって真剣に模索していた。
二十代の半ばで劇場の館長をつとめることは、どれほどの重圧になるんだろう。たとえば僕にいま、それをよろこびに変える力はあるか。二十代の半ばで劇団を主宰することは、芝居を創る日々のあることは、どれほどしあわせなことだろう。

コアとなるべき者の立ち居振るまいを、僕はいまだに加藤さんに教わっている。
はったりでもなく、空元気でもなく、どうかあなたに観てほしいと思う。