820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

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とりあえずのメモ。

2019-06-19 | メモ。
先週末、ある人から面と向かって「死ね」と言われた。
どういうわけか、僕の右隣やや後方にいた加藤くんが、とても悲痛な顔をしていたのを覚えている。主観的には「死ね」と言われてそのまま固まってしまったような気がするのだけれど、周囲がどういう反応をしているか、きょろきょろと視線を走らせたようだ。

その人が何か僕の人生にとって特別な位置にいるわけではないし、「死ね」という言葉もありきたりな、それ自体としてはつまらないものだ。しかし、それから何度も、何度も、吐き捨てるようなその語調が、脳裏によみがえってくる。
その人が、その言葉にどういう意味を込めて発したかは、どうでもいい。関係がない。重要なことは、僕にとって、その言葉がどのような意味を帯びてしまったかだ。なぜ何度も、何度も繰り返されるのだ。考え続けてわかった。単純なことだった。

僕はいま、自分にたいして、死ねばいいと思っているのだ。

奥の、奥の、根源的な部分にはしっかり「生きたい」という気持ちがあるわけだが、表面的な意識は、自分に向かって死ねと訴え続けている。
だから、話者の意図に関わらず、あのときその人が放った「死ね」という言葉は、僕が僕に放った言葉として、僕のからだが受け止めた。僕の内的な世界で起こっていることが、いよいよ可視化されたというわけだ。

なるほどな。病気だ。

死にたいとは思わない。けれど「死ね」という言葉はつねにどこかで発せられ続ける。だとすれば僕はその言葉とたたかわなければいけない。「……君の心のなかにひろがった他人の毒は、理性の力で解毒しなければならない」(金子光晴)。
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メモ。

2019-01-11 | メモ。
文学の最終的な目的――錯乱の中からこうした健康の創造を、あるいはこうした民衆=人民(ピープル)の創出を、つまりは生の可能性を、解き放つこと。欠如しているあの民衆=人民(ピープル)のために書くこと……
(G・ドゥルーズ/守中高明訳「文学と生」『批評と臨床』所収)

我々の地下には長いトンネルがめぐらされていて、僕らは真剣にそうしようと思えば、そして幸運に恵まれれば、どこかで巡り会うことができるのです。
(村上春樹「世界でいちばん気に入った三つの都市」『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』所収)



年末、横浜で、川村さんに短編の戯曲を読んでいただく機会があった。
「わかりやすさより、背後にゴーストが詰まっていることを予感させるのがよい戯曲」と述べておられて、いたく痺れた。



年末年始は胃腸炎で死んでいた。



おととい、7度の演出家の伊藤全記氏と会って、渋谷の街を歩いた。
パスタとピザ。古書店。クリームたっぷりのコーヒーとハーブティー。

工事用フェンスに『AKIRA』の絵が、東京が破壊されるコマが大きく描かれているのを二人で見る。ぼくのリテラシーの問題かもしれないが、フィクションの力が無害化されているようにも感じる。

全記さんの話にいつも揺さぶられる。揺さぶられてばかりではしょうがないと思いながらも、しかし遥か前方を歩いている全記さんの声に励まされる。
彼はとてもシンプルな、もっとも核心である部分を、大切にする。あまりにシンプルだから、人がつい忘れてしまう部分を、厳しく守る。それはむずかしいことだ。ぼくはすぐ流されてしまう。

今度、神保町に行く約束をしてうれしい。
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2018-01-19 | メモ。
一昨日の夢は、久しぶりに夢らしい夢だった。内容はすっかり忘れてしまったけれど、ビルの屋上の桃色の大きな目玉の看板から、滝のような水が流れ落ちていた気がする。夢のなかにきみがいたが、いったいどういうつもりで現れているのか。
福岡入りまで時間がない。二年前の夏よりも力強い芝居を僕たちは生みだせているだろうか。おまえはこのところ、救いの手をあたりまえに思っていないか。救われる結末を。人は、世界は、おまえを何ほどにも思っていない。あらためて心しろ。「世界とおまえのたたかいにおいては、世界のほうに味方せよ」。すべてがおまえによそよそしく、おまえの無垢はどんな恩寵にも結ばれず、紙屑のようにカサコソと笑うおまえを気に留める者はいない。そのような場所で発せられる言葉だ。必要なものは。

などと、たましいの領域ではカフカの『城』のKの精神を生きるべきだが、実際には仲間に、先輩諸氏に助けられてばかりいる。
このあいだ、のっちがねねさんを連れて稽古場に遊びに来てくれて、うれしかった。ねねさん、お芝居をしたいっていつ言いだすかな。
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2018-01-17 | メモ。
小村雪岱の絵がうつくしい。何というさみしさか。今週末から川越市立美術館で特別展が開催されるらしい。いいなあ。いきたいなあ。この人はどんな風に世界が見えていたのか。

泉鏡花との思い出を綴った文章があった。鏡花は文字をとても大切にし、それは想像以上のもので、少しでも文字の印刷されたものは捨てることができず、また「誰でも良くやる指先で、こんな字ですと畳の上などに書きますと、後を手で消す真似をしておかないといかんと仰言る」という。言霊に対する畏敬の深さに、奈落をのぞいたような思いがする。
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2018-01-16 | メモ。
お互いに信頼することができないなら、同じ作品に関わる必要はない。自分の正しさに固執して、閉ざされた世界を守りたいなら、演劇をおこなう意味もない。

信じることは、無責任だ。
信頼することには、力が必要だ。

祈り。やわらかな部分をきりひらく痛み。
勇気。みっともなさ。ひた隠しにしたい部分。

嗤われ、馬鹿にされても、途方もなくすれ違っても。
腹を据えること。自分を勘定の外に置き、強く、強く願う。

おまえにそれができるのか、と問われているんだぞ。わかったぞ。ひきうける。
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裏庭のこと。

2017-12-19 | メモ。
東宮さんがつねづね口にしていた、「他人と過去は変えられない。変えられるのは自分と未来」という言葉を思いだす。東宮さんもまた、中嶋さんから聞いたのだと言っていた。

自分が変わるしかないのだ。呼吸をゆっくり、深くしていくのだ。弱さに負けている瞬間を、頻々に人に見せてはいけないのだ。
「ただ毅然たれ」。そのことのいかに難しいか。



大文字の困難に向き合っている友人が、とても多い。
ひとりはそれを“異次元の”と形容した。本当にそうだ。うまく想像ができない。

友人がしかし耐えて、微笑んで話してくれるのはなぜなのか、おれはそのことをよく考えなければいけないのだ。



友人のひとりが城戸賞の佳作を受賞した。知らせを受けて、稽古場で叫んだ。本当におめでとう。



読みたい本がどんどん溜まっていくのだけど、本当に読みたいのか、わからない。



見えない場所に、自分自身の裏庭が存在しているのだとしたら、その裏庭はとても荒廃していると思う。
手入れがされず、土は乾き、くったりと葉がしおれている。みみずに手足の生えたような、ぬめぬめとした生き物がこっちを見ている。

ぼくは無表情のまま、何もせず、状況の好転をただ待っている。

手入れが必要だ。枯れて、萎れてしまった裏庭に、鮮やかな息づきを取り戻したい。それにはまず、誰のためにもならない、誰かのためではない、ただおれにだけ必要な水や、種や、石や、巣や、言葉を思いだすことだ。



ずっと寝ぼけているようだ。疲れた。



疲れたよ、むがちゃん、おれ。メールありがとう。あす、返信をするよ。
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2017-07-12 | 生活の周辺。
暑い。駅までの道で大量の汗をかく。真昼に、用事があって横浜橋通商店街へ行く。生鮮三品のお店がたくさん。祖母の家が南区にあるから、街と人の手触りのようなものがなつかしい。下校中の小学生たちがおおぜい、通りを横断していった。まんまるの男の子がひとり、本を読みながら、まっすぐに鳥居をくぐって人気のない神社の境内に入り、手水の前で足を止めて、ふと「おれは何をしているんだろう」というような表情であたりを見まわしているのを見た。頭がまわらない。湿気に殺されそうになる。
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2017-07-11 | 生活の周辺。
霞ヶ関へ。東京地方・高等裁判所で、裁判の傍聴をする。中学生のとき、横浜の地裁に行って以来のことだ。現地に行ってはじめてわかることばかり。徹底して言葉のために設えられた場所なのだ、と感じた。形骸化しているかもしれないが、これは人が人であるための、ある領域を守るための厳粛な儀式なのだ。動揺した。しんとした気持ちで、帰りの地下鉄に揺られる。自由が丘で書き物をして、玉堤の稽古場へ。ほとんど何も書かれていない台本を皆で読む。エチュード。立ってみる。帰宅して、立ち上がれないほど疲弊する。
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2017-07-11 | メモ。
調子を崩している。
自分がどういうときにどういうことを考え、どういうことを感じ、どういうことを願う人間だったか。

先日は川崎で劇団会議をおこなった。
薄田さんから、僕たちの芝居をどう人に説明するか、問われた。

悲劇をずっと僕は書こうとしている。
自らを飲みこむ大きな力に、抗って立つ人の姿に触れたい。
それから、目に見える現実の向こう側の、われわれの意識下で生じている物語を舞台に乗せたい。

出会うはずのないもの同士が出会う場所が舞台だ。
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2017-06-15 | メモ。
政治的奴隷を生みだす手順は「孤立化」、「無力化」、「透明化」(中井久夫「いじめの政治学」)。

自分の言葉を持てず、弱みを握られた人間の顔は、悲しいが死体よりも死んでいる。

「治安維持法」は希代の悪法とぼくは認識してきた。“「治安維持法」は「適法」だった”という認識のもとに「共謀罪」を立法しようというなら、それはもう、そういうことなんだろう。

歴史の二度目は喜劇として、というが、悲劇だろう。

侍と町民の心性。人当たりがよく、仕事がよくできて、現実をクールに吟味し(皮肉さえよく口にする)、何かにじっと耐えている。侍は主君に仕えることを責務とする。町人はお上のオオトリテエに従う。人治国家の美学。

しかしながら、わたしたちの社会の主君はわたしたち自身だ。一国の首相ではない。今上天皇は人格者だと思うが、天皇でもない。

「孤立化」と「無力化」の過程を経た者は、反撃と脱出のための力を奪われ(“なにをしてもむだ”という学習)、自尊心を失う、と。自らの一挙手一投足が「彼/女」の意に適うものかを必死に窺う。「彼/女」の目が内在し、遍在し、もう身動きがとれない。

仕事を辞めさせられて、どうやって生きていけばよいのか、家族を路頭に迷わせるわけにはいかない、という恐怖。
あの人と、友達とわたしが、分断されることへの苦慮。

でも、銃殺される社会のなかでも、反撃を人はする。恥をさらしても。爪を剥がされても。家族を監禁されても。
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