820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

本領発揮の季節です。

2007-09-30 | 稽古。
劇界の広瀬香美と呼ばれている俺だから、寒くなると足取り軽く、シャツ一枚で家を出ます。
シャツ一枚に冷たい風と聞くと、白シャツを着た宮澤賢治が土いじりをしているイメージが浮かぶのは、どんな刷り込みによるものだかわかりませんが、小学校の頃からそうです。

10月の初稽古。
朝、目が覚めたらとても寒くて、気分がいい。午前中は何していたか覚えてないが、ああ台本の整理だ、きっとうずうずしてたと思う。わくわくわくわくしながら雨の中、稽古場へと向かった。
とても素敵な、粒よりの、信頼する役者さんたちと芝居をはじめることの出来ることのできる幸せを、ふつふつと感じながら歩いてたよ、俺は。そんな自分に人見知りするよね。
台本書いたり制作業務したり、一人の作業が続いていたから人に飢えてる。

稽古場で、みんなで台本を読んでいると、机の前でうんうん唸っている時とは比べものにならないほど強く、次々と世界が拓けていくのを感じられる。やっぱりな、稽古場は偉大だよ。煮詰まったら稽古場を。
今回はリーディングということで稽古日数も少ない。かなりガツガツ進めないと間に合わない。
それぞれがそれぞれのチャームを溢れんばかりに提示してくれている。うまく引き出してうまく抑えて、八人で調和を。

楽しい芝居にしよう。


手のひらで蝶を羽ばたかせる方法。

2007-09-25 | 生活の周辺。
マルセル・マルソーが死んでしまった。
来日公演も、幾度か機会はあったはずなのに、観れなかった。
子どもたちに、マルソーがマイムを教えるという番組を昔テレビでやっていて、彼ら彼女らの好奇心が押し寄せてくるのを、心底から楽しむように、軽快に語りかける姿が印象的だった。合掌。

久しぶりに大学に来たら、ラウンジで女子大生たちが、

「フェロモンは脇から出てるんだから!!」
「じゃああんた嗅いでみ! 嗅いでみ、ほら!」

激論を闘わせてた。

鈴木志保の『ちむちむ☆パレード』を繰り返し読んでいる。読めば読むほど細部の書き込みや、線や余白の在り方がストンと腑に落ちてくる。ゆっくりと読む。ラム太はなんでこんなにかわいいんだ。ああラム太。俺のコン太はまだ生きてるのか。きつねのコン太。こっちは元気。会いたいねコン太。忘れてないよ。
何年か前に『スロウ』で描こうとしたのは、いや、描いていたのは、こういうこと。何せパレードだし。もちろん、足りなかったものは激しく激しく激しくあるけれど。ああ、あれをもう一度やりたい。ぜったいにやろう。決めてるんだ。あれは必ず再演しよう。できる限り多くの人に観てもらおう。あれを自分の思うように、思い通りに演って、受け入れられなかったなら、それは決定的に駄目なんだろう。方向性を変えるしかない。

鍛え直し。

2007-09-21 | 生活の周辺。
三日目。

結局、ネタは思い浮かばない。
午前中は引き続きハッピィさんのマイム練習。体のあちこちが痛い。

昼ご飯を食べ、作品発表へ。

やー、レベルが高かった。
たった一つの体から、ここまで世界を広げられるのか。逆立ちしても出てこない発想の連続に感動。頭をゆるめることとやわらかに保つことはまるで違う。

僕もきちんと後輩に自分の死に様を見せつけました。

『グラビアアイドル殺人事件Ⅱ』

ごめんなさい。

いつも合宿に来る度に楽しみにしてるのが、帰りのバスから見える木島平の風景。
一年目に見た、少し傾いて明るみを増す日差しに注がれた田んぼの景色が、本当にきれいだった。
今年も晴れて、あの時ほどでは無かったけど、見渡す限り一面の田園風景に喜ぶ。

舞☆夢☆踏の懐の深さに感謝。
この場所で鍛えられたことから、僕の舞台の表現が始まっていることを再確認。
怠けてはいけない。甘えてはいけない。とどまるな。遊べ。本物を見ろ。べたつくな。一人で立て。

お腹いっぱい。

2007-09-20 | 生活の周辺。
二日目。

タイムスケジュールに余裕があるので嬉しい。
台本の整理。二度寝。

午前中はハッピィさんによる大腰筋を使ってのマイム練習。目から鱗の連続です。なぜか爪先立ちをすると足の甲が痛い。これはきっと体重を支えきれずに骨がひび割れたとみた。立ち方が悪かったのかもしれないけどそれにしてもなんてやわな体なんだ。そのうち、うんこの力みで疲労骨折とかするんじゃないの。
午後はペッパーゼロさんのクラウン講座、サンキュー手塚さんの作品づくり講座を目一杯。贅沢すぎる。自由であること。観る者と観られる者の間に関係を打ち立てること。話しかけ続けること。

まるで蟹のようなガチムチ系の蜘蛛がベランダに巣を張っている。

夕食後、散歩。足下が見えない真っ暗闇の山道を、何だかもう意地で、がむしゃらに歩く。汗だらだら。涼しいのに。眠い。怖い。暗い。自然にはかなわないよ。結構下にまで降りたつもりなのに、よしみさんの高らかな笑い声が伝わってきてずっこけた。

台本の整理。ただ、今夜は明日の作品発表のためにネタを一つ考えなくてはならない。

同室の敬愛する先輩が今、携帯電話を片手にドラマティックな展開を引っ提げて部屋に戻り、ふとんの上で大変な一言を発したかと思えば、すぐにまた何かを振り切るように部屋を出た。

野武士のような潔さ。

あと後輩たちが、なんか、あれだ。あれがあーなってこうだ、と網谷君から階下の練習場で繰り広げられているストロベリータイムについての報告。

OK.
叫ぶよ。
まったくどこもかしこも恋ばっかりだなちくしょう!
こうなったら俺も黙っていられない。伊丹さん、あなたのフレーズ借りるね。

女たちよ!

思いやりと想像力があり、
相手の労苦を自分のこととして捉え、
世界をひっくり返す笑顔を持ち、
いつも厳しく闘いながら、
どこかしら吹石一恵に似てるかもしれない、
涼しい声をした女の子よ、

その正反対の男がここにいます。世の中は凸と凹だからね。年なんてどうでもいい。男でもいい。動物は勘弁な。一緒に散歩しよう。町を歩こう。知らない町のお祭りへ行こう。それから人混みではぐれよう。探しに行く。

霧を払いたい。

2007-09-19 | 生活の周辺。
パントマイム舞☆夢☆踏の合宿に参加。
長野の木島平へ。
天気がぐずついて、高速が山の辺りに差し掛かると霧が立ちこめた。
このあいだ松谷みよ子の『現代民話考』を読んでいたら、ちょうど山についての様々な習俗が載っかっていて(山の神様は女性だから山で失くし物をした時には若くてきれいな男が裸を見せればすぐに見つかるとか、山に入ることを忌む日があるとか)、それがめちゃくちゃ面白かったのだけど、どうなんだろうか、山にトンネルを開ける時とか高速道路を架ける時にはやはりそれなりの大きな儀式を執り行っているのだろうか。未だに僕たちは建物を立てる前に土地のお祓いをきちんとしているものね。なんてことを長いトンネルの中でぼーっと考えていたら急に快晴。青空。秋の光。

ペンション「ちきちきばんばん」にはダンス用の素敵な練習スペースがあるので一息ついたらすぐに準備。僕は舞☆夢☆踏に出るのが一年半ぶりだ。舞☆夢☆踏とはハッピィ吉沢氏が主宰するパントマイムのサークル。体は怠け放題で思うように動かない。ぷるぷる震えながら練習の場へ。

きついのなんの。

でも、からだが解放されたような感じ。気持ちいい。生き返った気分。
名物の大盛りご飯をたいらげた後は星を見に行く。
長野の山奥なので、さすがにたくさんの星が散らばっているし、遠くの寂しい夜景がうるうると瞬いてきれい。ぜんぜん派手な光じゃないのが良い。月の光が目に眩むほどまぶしかったのには驚く。月光浴は何に効くのでしたか。

風呂桶に男4人で入った。

飲み会の席を抜けて、台本の整理。


毒を落とす意志の持続。

2007-09-11 | 生活の周辺。
うさぎおじさんと言うのはどこの町にもいるものなんだろうか。
駅前や公園で、たくさんのうさぎを放して、遊ばせているおじさんが時々いる。
あれは売り物のうさぎを人に慣れさせるためにやっているのだと聞いたけど、今日見たおじさんのうさぎは、もうずいぶんと大きくて、売り物にするには遅いのではないかと思った。
自転車に乗って前を行くおじさんの肩にうさぎがちょこんと乗っていて、よく見ると籠にもぎゅうぎゅうに詰まっているのだ。
でもすれ違う誰もおじさんのことに気づかない。
駅前の広場に自転車を停めた。肩のうさぎをひょいとつかんで籠に押し込んだ。見ていたら睨まれた。眼光は鋭い。おじさんは寡黙だ。しゃべらない。たぶん子どもたちが集まりだしても口を開くことはないだろうし帰るときもそうだろう。できることなら営利目的でない行為であってほしい。わけのわからないものが町には必要だよ。

戸塚が今、再開発の名目であらゆる店舗が取り壊されていて、駅前が終戦後の焦土のようになっている。こんなに狭い土地だったのかとホームに立つ度に驚く。

写真展を見に行って、併設された講演会場でポストカードをいただいた。DAYSJAPAN編集長の広河隆一さんの写真。
『封鎖された検問所で、イスラエル兵に向かってVサインを掲げ続けるパレスチナ人女性 2002年4月』
そうだ、ピースマークってのはVICTORYのサインでもあったんだ。
立ち向かう意志をたたえた女性の横顔。
うんざりした顔の兵士。
群集。

横浜は良いな。みなとみらいの辺りってただそこにいるだけで気持ちがいいもんな。

帰り道はひどい雨。

頭が痛い。このところ言葉がまとまらないのは風邪をひいているからに違いない。
腹いせに『ハックルベリィ・フィンの冒険』を読む。

あーんあんあんあん。

2007-09-01 | 本を読んだ。
《ただ一つ、自分をごまかしてはいけません。また、ごまかされてもいけません。不幸にあったら、それをまともに見つめることを学んでください。うまくいかないことがあっても、あわてないことです。不幸にあっても、くじけないことです。へこたれてはいけません。不死身にならなくては。
ボクサーの言葉を借りれば、防御をかたくしなければいけません。ぶんなぐられてもそれにたえ、それをがまんすることを学ぶのです。でないと、みなさんは人生のくらわす最初の一撃で、もうグロッキーになってしまいます。なにしろ、人生というやつは、ものすごくでかいグローブをはめていますからね。みなさん、それにたいする覚悟なしに、そういう一発をくらうと、あとはもう、ちっぽけな蠅のせきばらい一つで十分、それだけでもう、うつぶせにのびてしまいます。》
(エーリッヒ・ケストナー『飛ぶ教室』山口四郎訳)

僕はドラマを停滞させるよりは必死に切れ端を寄せ集める体質の演出家だと思う。
どちらにせよ自分らのしていることに説得力があるかないか、あなたに伝わるかどうかが問題だ。

ケストナーの『飛ぶ教室』を読んで滂沱の涙を流した。
人生は捨てたもんじゃないぜと、俺はマチアス、君から教わった。