820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

通り雨。

2011-06-30 | 生活の周辺。
それどころではないのだけど、来年に上演予定の場所と思い出シリーズ三作目は、『悲しみ』というタイトルにしようと思う。「海岸線と拳銃」とか「さようなら、ビリィ・ザ・キッド」とか、いろいろと考えていたけど、しっくりこない。だったら直球がいい。悲しみ。「ふつう」からはぐれた人たちの話。男と男、男と女、女と女の別れの話。海の近くで拳銃を拾う話。幽霊の話。恋の話。タイトルとラストシーンがあればぼくは書きだせる。書けなかったらまた考える。ずっと考えつづける。
どんなことが起きようと物語を手放さない。虚構に意味がないのなら生活にも意味はない。こんなことをわざわざ口にするのももどかしい。どうあれ日常はかならず続くのだから。人の生みだした闇は人の手で払うしかないのだから。



毎日が暑すぎる。しんどいぜ。自分の汗臭さに涙がでる。
網谷くんがコントの台本を書いてくれた。声を出して笑った。やっぱりすげえよ、網谷くん。心からそう思う。網谷くんはこんな人こんな人でもある。そして高校時代、こんなホームページを作っていた。さらにいまは芸名でこんな活動も。久しぶりに彼の作家活動に触れたわけだが、嫉妬した。ほんとに書きまくってほしい。そして負けたくない。ちなみにこのコント、だいたいすべての台詞に「おっぱい」って書いてあった。あいつ。




5年前の網谷くん。


4年前の網谷くん、と印田さん。


網谷くんと、ないんさん。ムーディ。


3年前の網谷くん。イケメン。壁紙にどうぞ。


4年前の加藤くん。チャイナ服でこの目線。



こんなことをしてる場合じゃないんだ。

あごひげダッド。

2011-06-22 | 生活の周辺。
カウボーイハットにグラサンをかけ、白髪混じりのあごひげを生やしたヒップな父親に「おかえりなさい」を言う夢を見た。どういうことだ。

小学生の頃の話をしていて思いだした。まだ10歳にも満たない頃、父親といっしょに近所のスーパーでお買い物をしていたとき、「わが人生にいっぺんの悔いなしって、どういう意味?」と尋ねたら、近くにいた知らないおばさんがいきなり声をあげて笑った。「坊や、だいじょうぶよ、まだその意味を知らなくて」ぼくはあんたに聞いたんじゃないんだ。父親が答えなくちゃいけない質問だったんだ。でもそれでうやむやになり、ぼく達は無言で帰途についた。あのとき本当はなんて答えるはずだったんだろう。いまならなんて言うだろう。

リズムをなくす。

2011-06-15 | 生活の周辺。
笑っちゃうような絶不調だよ。もういいや、笑っちゃおう。
「ここだけの話だけどね、ぼくは13才で成長をとめたのさ。でもいろいろと差し障りがあるからそれなりのフリをしているだけさ。もの知らずで臆病のまま、どこまでいけるか楽しみなのさ。おとこなんてみんなそうだろ?」
そんな会話をしようと思って、深夜に友人と会う約束をしていたんだが、会えなくなった。人にはそれぞれ事情がある。
うまく日々とかみあわない。
でも、電話口で聞いた彼の声がとても明るくて(高校時代のようだった!)ほっとした。近所の家の軒先にちいさな、ほんとうにちいさな向日葵のような花がきりりと咲いているのを見て、うれしくなった。

鳥だったその頃の記憶。

2011-06-13 | ノート。
十月の芝居の、『つばめ/鳥を探す旅の終わり』のノートを書いた。
「で、だから?」と言われたらひとたまりもないもの。
でも、これはノート。ただのノート。
心の忙しくないとき、よかったら。

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 青い鳥は、幸せの象徴として語られます。
 象徴とは、隠されたもの、かたちのないものを、かたちあるものに託し、あらわすこと。
 本来、触れることも見ることも、名指すことも難しいそのものを、具体的な事物によって、くっきりと輪郭づけること。それが象徴のはたらきです。

 幸せを、夏の陽射しとして語ることもできます。生きる力そのもののようなきらめく光線に、草木にこぼれる宝石のような輝きに、幸せと通じるなにかをわたしたちは見ます。
 もしかしたら冬、急ぎ駈ける朝の白い吐息とも、見知らぬ異国の夜の舗道とも、それを語ることができるでしょう。あるいは背の高いトウモロコシ畑と、まだあたたかなふかふかのバゲットと。道ばたの花壇と、くたびれたパジャマと、そして青い鳥と。

 鳥は、その声の届くかぎりに歌を運び、ちいさな物音に怯えては、また大空を駈けめぐります。
 やさしく世界を楽しませながら、同時にとてもか弱く、頼りなく、はかない存在でもあります。

 メーテルリンクの著した『青い鳥』はチルチルとミチル、幼い二人の兄妹が、そのながい旅路の果てに青い鳥を見つけるまでの物語で、探していた鳥はけっきょく自分たちの部屋のなかにいました。
 この物語はたくさんの象徴を秘めています。
 探すべき幸せは、もっともそばに最初からあるのだと、そう語ることもできます。本当はいつもそこにあるのに、ただ、人はそのことに気がつかないだけなのだと。
 また、幸せはいつだって一歩先にあるのだから、求めつづけなければ手に入らないのだと、そう語ることもできます。物語の終わりで、鳥が再び空へと飛び去るのを見送り、泣きはじめた恋人の手をとり、もう一度約束を――鳥を探す約束を交わすチルチルのように。

 じつは、チルチルとミチルは、自分達の部屋に青い鳥がいることを、そもそものはじめから知っていました。
 ところが二人に旅をうながす魔女は、それは「ほんとう」には青くないのだと語ります。そしていま、どうしても「ほんとう」に青い鳥が入り用なのだと。そのために二人は旅に出なければならないのだと。
 およそ一年をかけた旅を経て、もといた部屋に帰りついたとき、ようやく、それがたしかに青い鳥だったとわかるのです。

 なぜ、鳥はその羽根を「ほんとう」に青くしたのでしょう。
 いえ、「ほんとう」には青くなかったはずの鳥を、それでも「ほんとう」に青いのだと、彼らはなぜ知ることができたのでしょう?

 魔女が二人の部屋を訪れたのは、クリスマスの前の晩でした。
 そのとき、二人の兄妹は、窓から「向かいの、お金持ちのこどもの家」を眺め、その豪奢なよろこびの夜に、すっかり心を奪われているところでした。食べきれないほどのお菓子、たくさんのおもちゃ、歌とおどりの大騒ぎ。けれどわが家にはツリーもなく、「クリスマスのおじいさん」さえ今年は来られません。
 窓の外で、こどもたちがお菓子を食べはじめます。兄妹が、お菓子を「自分ももらったつもりになって」、想像のそれを分けあうフリをするとき、とつぜん戸がノックされ、魔女が姿をあらわすのです。

 なんという正確な、出発の合図でしょうか。
 「暗くって、小さくって、それにお菓子もない」このうちを出て、二人は様々な国を旅します。
 行く先々で、青い鳥は見つかります。ですが、捕まえたとたんにそれは色をうしない、くたびれて死んでいきます。「ほんとう」ではなかったのです。
 目をこらして、闇をすすみます。闇はときに二人を打ちのめしますが、見るべきものをまっすぐに見るための役にも立ちます。
 見たいものでなく、見えるものを。見えるものではなく、隠されたものを。隠されたものではなく、目のまえにあるそれを。ただ「ほんとう」のことを。
 そうして、みすぼらしかったはずのわが家のうつくしさに息をのみ、もういらなくて「みむきもしない」でいた鳥こそが、ずっと探していた鳥だったのだと知ることになります。

 たとえ、その鳥が青くなくても。弱弱しく、情けなく、頼りない存在であっても。だれからも見捨てられ、かえりみられない存在であっても。
 たとえそうであろうと、二人がその鳥を愛しみ、守ることのできるちからを得たとき、旅は終わりました。

 鳥が、鳥のまま夢を見て、歌うことを許される場所。
 おそらくはそのような場所こそを、わたしたちは家と呼び、家族や家庭と呼び、ホームと名づけたのです。わたしたちはそんな場所をいつも、いつでも日々の内に探しています。探しつづけている。

 青い鳥はどこにもいません。わたしたちが旅を終えない限りは。
 きみを裏切る仲間と、きみに信頼を寄せる仲間とを引き連れて、ときどきはたったひとりで、この世界の深い森を歩きださない限りは。

 兄妹の部屋に最初にいたあの鳥はもしかしたら、チルチルとミチル自身であったのかもしれないと思います。それは、二人の両親にとっての青い鳥であったのだと。
 だとしたら二人の旅は、幼きものを守り、時に縛りつける「かご」から抜けだして、自らが「おとな」となるための大切な試練だったにちがいありません。

 わたしたちは鳥でした。いつか、その羽根を青くしました。
 わたしたちは鳥でした。いつか、その声で世界を楽しませました。

 だれがなんと言おうと、わたしたちは鳥で、いつか、だれかの旅路の果てに、その羽根を青くしました。

 傷つき、声をなくしても。
 記憶の底をまさぐっても、羽根を青くした覚えがなくても。
 無力であることに嫌悪しか感じなくても。

 いま、生きている限り、わたしたちはだれかに、なにかに守られて、いつかひととき、夢を見ました。

 かごの外へ、一歩足を踏みだせば、ときに嵐のように傷つくこともあります。
 たたかいに敗れ、足がもつれ、窓の外へ落下しても、救いの手が差しのべられることは稀です。
 けれど、ただしく落ちつづける者だけが羽ばたくちからを持ち得るのだと、わたしたちは知っています。

 旅を、その終わりを、描きたいと思います。
 象徴的に。
 だから、なによりもあなたの深くにたどり着くように。

 幸せな芝居をします。


『つばめ/鳥を探す旅の終わり』ノート[1]

んなろー。

2011-06-04 | メモ。


きのうの夜、立ちくらみがして、トイレの前でへたりこんだら、戸のむこうのたぶん便器の中の辺りから、小鳥のさえずりがぴよぴよと聞こえてきて、おい真夜中だぜ、とつっこんだ。それから深呼吸をして、しゃがみこんだままドアを開けたら、わずかにあいた窓の隙間から、風がびゅうびゅうくるくると吹きつけて、ぼくの頬にキスをしたのさ。

あせっているのさ。
でもね。

ロックンロールって何。それのもたらす作用ならわかるよ。
誰かを胸の底から自由にするし、愛しいベイビーが深々と呼吸することのできる場所を広げるし、そうである「じくう」を創出する。

楽器がなくても、しゃれた美術がなくても、めまぐるしい光がなくても、野次も嬌声もなくても。
たった二人しかいなくても、まるで動きがなくても、ことばの応酬が続くだけでも。それだけのことさ、関係ないよ。関係ないんだ。

ここから始めてみる。