820note

820製作所/波田野淳紘のノート。

二度目の風邪。

2009-02-28 | 生活の周辺。
昼に恵比寿にて春からのことの打ち合わせ。
これまで自分がやったことのないことを、試すことのできる機会を得られるのは、それは幸せなことだ。
僕のなかにきっとその文法はないけれど、極力、自分の身に引きよせて、自分の癖をきっちりまぶして、楽しみながら関わっていけたらと思う。

夜は稽古。音響の丸池さんも合流してくださった。仕事の一段落ついたエッジさんとも稽古場で再会。
あしたはついに『パイパー』の長丁場を終え、りんりんとその身にエネルギーを貯えたないんさんが駆けつけてくださる。

風邪をまたひいてしまったらしくて悪寒におそわれる。鼻水がとまらない。ご飯を食べると気持ちが悪い。

帰りの自由が丘のプラットホームで、丸池さんと少しお話をした。丸池さんの教え子であり、いつも音響協力で僕たちを助けてくれている原さんは、820の公演に関わることで、創作の現場に臨む意識が変わったのだという。原さんとは去年のizumiのときにちょうど出会った。人が集まってモノを創る現場にはどうしたって熱が生まれる。衝突もあるし日々の傷も絶えないが、いままでどこにもなかったもの、あるはずのなかったものが、いまここに生まれたときの歓びはかけがえがない。そのときの集中した記憶が次の場所でまた自分を動かすこともあるだろう。820が彼女にとってそのような「場」としてあることができたのだとしたらとても嬉しい。

しかし鼻水が止まらない。病は気から。なんぼのもんじゃい。

運よ、とどまれ。

2009-02-28 | 生活の周辺。
公演中、疲れきってパソコンを開く生活ができなかった。メールボックスをのぞいたら100件以上の未読メッセージ。ひええ、と思いつつ、スクロールしていく。だいじな連絡もあり、なんでもないメルマガもあり、そのなかにエッジさんの「公演感想」もあった。

感じたことをひとつひとつ丁寧につむいでくれ、これからの補正のための、かなり有力な参考となる。和木さんとも電話でたくさんのお話。目からウロコのお話。観る力のある人と話すことは必要だ。和木さんはドラマトゥルクのごとく様々な指摘を与えてくれた。考える事柄が絞られていく。ほかにも観てくれた方から、忌憚のない意見をもらう。ああ、なんて恵まれているのだろうと、じぶんたちと作品の幸福さを思う。

ただ、演出としての技術の足りなさ、視野の狭さ、用意の稚拙さ等々を痛切に思い返しながら、しかし「うるせえ」という自分自身の声を、僕はけっして押しこめてはいけないし、だいじにしなければとも思うのだ。

きっとそれは「若さ」ゆえの頑固さであったり、持って生まれた偏屈さ、疲弊からの保守的な態度とも通じているものだろう。
そのせいで遠くへ伸びようとする可能性の芽をつぶしているのだとしたら、そのことのくだらなさを自覚し、むしろ僕が全力でたたかうべきモノなのかもしれない。

でも僕は「うるせえ」と言わない創り手をいまのところ信じることができない。

いや、いるんだろうけどね、ちゃんと。
超越してコツコツと泰然とじぶんの方法を尖らせていく人。ゆるぎない自信を背負って立っている人。必要なものを冷徹に選び抜ける人。

折り合いをつけるのは難しい。短期間で同じ作品を上演することになるのだから、なおさらのこと。
最後の最後まで、公演が終ってからでも、「うるせえ」と「ああ、そうか」のあいだで、揺れ動きながら、舞台への確信を深めよう。今よりももっと深く、クリアな未来像をもてるように。

たたかいは続く。
そりゃ爪も噛みますよ。指先はボロボロ。

いま頭のなかにガンガンに響いているのは「欽ちゃんがな、寝ない奴は運を逃すと言ってるぞ」というアドバイス。
欽ちゃんが言うならそれは本当だろう。どうしよう、もうすこし僕は寝れない日々がつづきそうだ。

少しでもまどろもう。少しでも運よ、とどまれ、俺たちを守れ。

思いだせない夢のはなし・東京篇、終了しました。

2009-02-27 | ごあいさつ。
『izumi あるいは思いだせない夢のはなし・東京篇』終了いたしました!
お越しいただいたみなさま、ありがとうございました。

企画主催の中嶋英樹さんにも感謝。
学ぶことがたくさんの得難い体験でした。

820製作所としてはいままででいちばん広い空間での公演であり、じぶんたちの芝居がその場所にのったとき、どうなるのだろうとワクワク想像を働かせながら創ることができた。

実際できあがったものを観て、ほへー、なるほどねー、とか思いつつ。
高さ、奥行きがある劇場はやっぱりいいなあ。コンスタントにこの規模の劇場を使えるようになりたい。

作品的なことをいえば、じぶんに必要なものを、じぶんの世界に切実なものを、迷いなく提出することができた。状況はたいへんだったが、役者の力がきちんとあったから、ギリギリまで修正を施しながら、途中で砕けずに、たたかいを続けることができた。
観てくださった方の受け止めかたはいつも以上に様々で、ひさしぶりに激しい蔑みの目で見られたり、あるいは終演後に声をかけていただいたり、物足りなかったという人もいたり、素直に面白かったと伝えてくれたり、古くから観てくれている友人(サブメンバー)に「はじめてちゃんと演出をしたようにみえた」と言われたり、もっともっと多くのかたに観ていただきたかったなと思う。

お客さんを迎えるために必要なことが何一つ用意されていない現場だった。
そういった状況下で、じゅうぶんに対応して乗り越えられたかといえば、ぜんぜんだめだったろう。隠してもしょうがない。はっきりと僕たちは巻き込まれてしまった。結局は予防線の張りかたがうまくないということなのだろうが、どう予防したって、なにがどう転がるかわからない。
不快を感じたお客様もいただろう。劇を観る体勢をととのえられなかったのではないか。向かい合う場所をうまくつくれなかったこと、ほんとうに申し訳ありませんでした。

メディエト・オグ・マスケンのパフォーマンスが素晴らしかった。
舞台の上では、出会うはずのないもの同士が出会うことがゆるされる。
ゆっくりと、人形が目をさまして立ちあがるとき、力尽きてたおれるとき、ひとときの恋を舞うとき、たしかに人形に命が宿って、くるくると表情をかえていく様を見た。
演劇は、舞台芸術は、死者とコミュニケーションを取るためのもっとも有効な手段であるのだと、彼らのパフォーマンスははっきりと示していたのだ。

izumiもまた死と再生をめぐる物語。
醒めることのない祈りの劇。演じることによって遠い時間に届こうと試みる劇。

これからまた3月にむけてizumiのブラッシュアップを続けていく。
さらに力強く自信をもって物語を届けられるように、もうちょい頑張るよ、俺たちは。

この一週間でエネルギーがずいぶんと枯れた。早く回復しなければいけない。胸のつかえをおろしたい。よい芝居を創るのみです。

『izumi あるいは思いだせない夢のはなし』公演情報。

2009-02-26 | アナウンス。
◆Object Theatre 09 in TOKYO 参加公演
『izumi あるいは思いだせない夢のはなし』
作・演出:波田野淳紘

◆出演

印田彩希子
洞口加奈
岡大輔(Gold purge)
加藤好昭
佐々木覚
加納由紀子

※26日のみ
川口茉奈美

◆日時
2009年2月25日(水)~26日(木)
25日(水)①18:00
26日(木)②13:00/③17:00
※開場・受付は開演の30分前。

◆会場
国立オリンピック記念青少年総合センター
カルチャー棟練習室・小ホール
(小田急線「参宮橋駅」下車、徒歩7分)

◆参加団体
◎コペンハーゲン メディエト・オグ・マスケン
◎劇団820製作所

※2団体同時上演。
①820製作所(60分)
休憩(10分)
②メディエト・オグ・マスケン(45分)

◆料金:2,000

☆夢のはなしブログ、うんとこどっこいしょと更新中!(http://izumi-yume.seesaa.net/)

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izumiはずいぶんと恵まれた作品で、今回で四演目の上演となります。
少しずつかたちを変え、変奏を重ねながら、物語はつづくのです。

今回参加させていただく企画公演には「オブジェクトシアター」という通り名が冠せられています。

命のないモノを、命のあるモノと見立てること。その彼らによって演じられ構成される劇のことを、オブジェクトシアターと呼ぶのだとして、それはとても、僕たちの夜ごとに見る夢の世界に似ています。
ありえるはずのない場所で、ありえるはずのない季節に、ありえるはずのない出会いを果たすこと。
飽きもせず、「ここ」から「そこ」へ、「そこ」から「ここ」へと、夜ごとの往還をくりかえす理由は、僕たちがそんな出会いを許してほしいからなのではないかと思うのです。

オブジェクトシアターと銘うちながら、この劇では、あんまりオブジェクトを扱えませんでした。
看板に偽りありです。とほほです。ごめんね、というしかありません。
せめてあなたが、なつかしい再会を果たすような時間をつむぐことを、約束します。

今回の公演の情報を、公式にはほとんど公開しておりません。

直近の情報公開となり、開演時間の問題もあり、お越しいただくことは難しいかとも思いますが、もしも奇跡的にお時間が合うようでしたら、当日でもぜひお立ち寄りください。

よい芝居を創るのみです。
僕たちの芝居が、あなたに届くことを願います。あなたの心を切実に動かすことを願います。

会場でお待ちしております。夢のはじまりに似た、薄暗がりのなかでどうか、めぐりあいましょう。

優しい劇になった。

2009-02-22 | 稽古。
2月22日はおばあちゃんの誕生日。
ことしで90歳になった。

おばあちゃんは先週末に高い熱をだした。
ちょっとびっくりするほどそれは高い熱で、家族の者たちはあわてておばあちゃんのもとに集まった。

ただ、ただ、あわてていた。おろおろと、事態をのみこめずに、おばあちゃんの苦しみが和らぐように、祈るしかなかった。

おばあちゃんはたたかった。
たたかってきちんと奇跡を呼んだ。

きょうの午前、見舞ったとき、おばあちゃんはゆっくりとご飯をたべていた。
なにをしゃべるべきか、わかってはいるのだけれど、遠い沈黙のうちに彼女はいて、言葉は届かないから、たべ終わった彼女の手をにぎる。目をあわせて、うなづきあう。

それから、叫べばよいのだ。
叫べばよいのだけど、だめな孫だ。

だめな孫をしりめに、おばあちゃんはさっきから耳をすませている。
たたかいつかれて、静かに、静かに、息をひそめて、からだの深い場所から、やがて満ちてくるだろうエネルギーを、静かに、待っている。

いまは沈黙のうちにいる彼女だが、ふいにまどろみが覚めるとき、そばにいる者の目をとらえ、夢をみていた、と語るそうだ。

それはどんな夢だろう。その夢でおばあちゃんはだれと会うのだろう。
孫も夢のはなしばっかりしている。早くあなたのはなしを聞きたいと思う。

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午後は稽古。
しあわせな劇になった。優しい劇だ。
役者たちがほんとうにいい。演出しているのを忘れて見入ってしまう。みんなイキイキしてるんだな。ともに舞台に立つよろこびがそこに見える。
中心を背負った二人のシーンなんて、どう演出したらあんなふうに本物の感情をひきだせるのだろうかと、頭を抱えこむほど、役者が自律して、力強い劇をつむいでいる。

まだ詰めるところが残っている。さいごまで引き絞っていこう。このよろこびが届くように。

この一週間はまあ、たいへんだった。ものごとが不条理なすすみかたをした。
今週のほうがもっと、たいへんだろう。あしたが、小屋入り初日がいちばんたいへんかもしれない。

怒りは抱くべき。
しかし不満をならべる時機ではない。

観にきてくださる方のために、ともに過ごす時間のために、全力をつくすしかない。

どうやら心をうしなっているみたいで、稽古中にのっちがいかにハッピーな風を起こそうと、てんで無頓着に、ふき散らしてしまう俺がいる。
そんなつもりはぜんぜんないのだけど。それだからまずいのだな。気づかないうちに心は干からびてしまう。

感じるべきことを感じて。
泣いて笑って。

本番まであと二日。あと二日まだ稽古ができるのだ。

思いだせない夢のはなし稽古場ブログ、じっくりコトコト更新中!

再会。

2009-02-15 | 生活の周辺。
きのう稽古場で大ちゃんにギターを弾かせてもらった。指はもつれたけど、まだいくつかのコードを覚えていて、音が鳴るのがうれしかった。家に帰って、ここ何年かケースにしまいっぱなしのギターを取りだした。黒地に白いピックガードの牛さんギター。

疲れたら楽器を手にして、もういちどがんばりなさい。

何年か前、祖母がそんなふうに言っていた。あたしもそうしてきたんだから、と笑う彼女の、楽器を演奏するすがたを見たことがまだない。音感もなにもないから放りだしていたけれど、爪弾けば音が鳴ることじたいが楽しい。それでじゅうぶん。少しずつまた覚えていこうかな。

べらぼうめ。

2009-02-14 | 生活の周辺。
春の風。窓がふるえて床が鳴る。

今回の『izumi あるいは思いだせない夢のはなし』では作家的な作業をぼくはほとんどしていないといっていい。書きかえで苦労はしているけれど、演出を担当する者がおこなう意味での「構成」とか「脚色」といった面がつよい。そのことに早く気づくべきだった。作家としての意地の張りを放棄。てやんでい。おなかいたい。あいかわらずのかよわい表現であるとはいえ、この小品は、ぼくたちの演劇にたいする宣言になっている。おまえとは、こう付きあっていくぞ、っていう。しあわせにするからよ。

あとは最近生活に音楽が足りないことに気がつく。遊園地跡地が終わってからぱったり聞かなくなっちゃったもんなあ。

no music,no lifeですよ、ほんとに。手あたりしだいに耳にそそいでいる。

風をつかまえるには。

2009-02-13 | メモ。
粘土細工をつくるには、捏ねくるに必要な力と手さばきの繊細さも大事だけれど、その造形のためには、待機する姿勢が重要だろう。かたちが満ちてくるのを待つこと。その訪れを受けいれること。

だれにでも風が吹いていて、ゆがまないように、きみのかたちのままに、きみを通して、むこうへとつなぐこと。

カラダのなかに風の通り道を敷いてあげなければいけない。それは映画をみることだったり、きちんとしたリズムで日々を送ることだったり、人を笑わせることだったり、ただしくほめられることだったり、つとめを果たすことだったり、目をとじてじっとしていることだったり、約束を交わすことだったりするだろう。

そうやって、きみにしかできない、ひとつだけの、粘土細工が予感される。

じめじめナイトメア。

2009-02-11 | 生活の周辺。
3月のカラフル3の舞台打ち合わせ用紙を送る。いまはこれしか送れない。要求がどれほど通ることやら。ひさしぶりにひどい悪夢をみた。しりあいの劇を観ている。すでにはじまっていて、俺が座席にもたれようとすると、天井からぶらさがっているヒモにひっかかり、パチンと舞台の明かりが消えてしまう。オペがいそいで復旧するのだけど、座席にもたれるたびに光がパチンと消えていく。後ろのほうの席に座っていたそこの劇団員のひとが「あんた! 芝居がめちゃくちゃじゃない!」と泣きながら俺を責めだして、けっきょく芝居は上演中止に。起きてからもしばらくどう賠償しようか考えていた。しりあいの劇ってところが生々しくていやだ。ああいやだ。楽しようとするな、よりかかるな、芝居がめちゃくちゃになるぞ、ってことだろうか。

本が読みたい。

2009-02-10 | 生活の周辺。
日に一冊の本を読めたらすてきなことだけど、そんな余裕をもてないでいる。移動の合間とか、時間ができて取り出しても、あたまに入らない。すこしずつ、いつまでもいったりきたりしながら、文字をたどっている。『エックハルト説教集』(岩波文庫、田島照久編訳)を読んでいるのだけど、それによってひどくなつかしい精神の働き、「そのこと」を考えるときいつもぼくがそうであった時期の、迷いのない内臓感覚を思いださせられた。ああ、まだるっこしい。思春期のあまずっぱい気持ちを思いだしたと書けばいいんだ。インプットが正常に働かないときには、アウトプットも同様で。そういうわけだからせっかくそんな貴重なものを思いだしてもすぐにかすんでしまう。なみだってどこから出てくるんだろう。からだのなかに海が満ちていて、こんなにしずかな海なのに、星座も壊れていないのに、ちいさな船のおろした碇に、わずかだけど魚がまよう。