最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●虚言癖(2)

2010-05-18 09:21:44 | 日記


【空想的虚言vs思い込み】

●思い込み

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私の知り合いに、思い込みのはげしい女性がいる。
年齢は、65歳くらい。
こだわりも強い。
ひとつのことにこだわり始めると、ずっとそのことに
こだわる。
それもあって、最近は、心療内科に通っている。
うつ病薬を常用している。

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●空想的虚言

 空想的虚言と思い込み。
空想的虚言は思い込みによって生まれ、思い込みが強いと、それはしばしば空想的虚言へと変身する。
この2つは、かなりの部分で重なり合う。
その女性について、知っていることをそのまま書くわけにはいかない。
その女性は私のことを、よく知っている。
私もその女性のことを、よく知っている。
ここでは、あくまでも、「例」として、その女性について書く。
名前をMKさん(もちろん仮名)としておく。
またここに書くMKさんは、実在の人物ではない。
いろいろな人をまぜて、1人のMKさんとした。
架空の人物である。

●ウソ

 だれしも、ある程度のウソはつく。
しかしウソはウソ。
ウソと自覚しながら、ウソをつく。

 が、そのウソが、ウソの範囲を超えて、心の別の世界へ入ってしまう。
心の別の世界へ入ってしまい、ウソと現実の区別がつかなくなってしまう。
そういうウソを、空想的虚言という。
「妄言」ともいう。

 イギリスの教育格言にも、こういうのがある。
『空中の楼閣を想像するのは、かまわない。しかし空中の楼閣に住まわせてはいけない』と。
子どもは空想が好き。
が、空想が勝手に肥大化し、現実と空想の区別がつかなくなってしまうことがある。
昔、「私はイタリアの女王」と言い張った女の子(6歳女児、オーストラリア人)がいた。
子どもの世界では、空想的虚言に注意しなければならない。
おとなの世界とて、例外ではない。

●MKさんのケース

 MKさんの近くに、ひとりで住んでいる女性がいる。
年齢は80歳を超えている。
独居老人である。
MKさんは、何らかの形で、その女性を助けたことはあるらしい。
助けたといっても、使い走り程度ではなかったか?

 ところがその後、MKさんの口から出てくる言葉は、はるかに現実離れをしていた。

「見るに見かねて、私、風呂に入れてあげました」
「毎週、そのおばあちゃんを訪問し、夕食を作ってあげています」
「先日は、相続問題で、名古屋市に住む息子さんのところまで、印鑑を取りに行ってあげました」と。

 どんどんと話がふくらんでいく。
他人がしたことまで、自分の話の中に、織り交ぜていく。

●ぜんぶ、ウソ

 MKさんの話は、もちろんぜんぶ、ウソ。
よくよく考えると、矛盾だらけ。
今は介護制度もあり、必要な人は、それなりの公的サービスを受けられる。
入浴サービスもあるし、訪問介護制度もある。
ところが、MKさん自身は、そうは思っていない。
「自分がした」と思い込んでしまっている。
その上で、ウソにウソを塗り重ねていく。

心のどこかでは、ウソということを感じているのかもしれない。
が、自ら、それを打ち消してしまう。
自分の中に別人格を作り上げ、それが本当の自分と思い込んでしまう。

 MKさんの脳の中の様子は、私には、わからない。
が、ひとつだけはっきりしている。
だれかがMKさんの言ったことについて、まちがいや矛盾を指摘したりすると、MKさんは、パニック状態になるということ。
ギャーと叫んで、そのまま混乱状態になる。

●自己愛者

 自己中心性が極端に肥大化した人を、自己愛者という。
「自分を愛する」という意味ではない。
「極端な自己中心主義者」という意味で、「自己愛者」という。

 その自己愛者の特徴のひとつに、「否定(批判)されると、パニック状態になる」というのがある。
自己愛者は、自分の「非」を認めない。
まちがいも、認めない。
だれかがその人を批判したりすると、今度は逆に、その相手を、徹底的に攻撃する。
ふつうの攻撃ではない。
どこまでも激しく、執拗に攻撃する。
ウソにウソを混ぜて、攻撃する。

 MKさんも、そうだ。
「私はぜったい正しい」と思うのは、MKさんの勝手。
が、いつもその返す刀で、自分の意見と合わない人を、「まちがっている」と決めつける。
まさに「ああ言えば、こう言う」式の反論を重ねる。
ときに感情的になり、それを制御できなくなる。

●2人の弟氏

 こんなことがあった。
MKさんには、2人の弟氏がいた。
上の弟氏とは仲がよかった。
しかし下の弟氏とは、ウマが合わなかった。
下の弟氏は、MKさんのことを、ズバリ、「タヌキ」と呼んでいた。
その地方では、「ウソつき」という意味である。

 MKさんと、弟氏が、駅で待ち合わせて会うことになった。
MKさんは、「10時にA駅の前で」と言った。
A駅あたりで、私鉄とJRの2本の路線が交差している。
私鉄は「A駅」、JRは「JR・A」と、そのあたりの人たちは言い分けている。
で、弟氏のほうは、「A駅と言えば、私鉄のほう」と、理解した。
それ以前に一度、そこでたがいに待ち合わせたことがある。
で、弟氏が10時にA駅へ行ってみると、MKさんは、いなかった。
そのため30分以上、たがいに待たされることになった。
が、そのあと、MKさんは、ものすごい剣幕で弟氏を叱った。

 弟氏は、「あなたはA駅と言った。メモまでしたからまちがいない」と言った。
MKさんは、「JRのA駅とちゃんと言った。メモを取ったというウソを言うな」と言った。
「私が言いまちがえるはずはない」と。

 駅前でのできごとで、通りがかった人たちが振り返って見るほど、MKさんは大声で弟氏を怒鳴りつづけた。

●さらに……

 この事件のときも、そうだった。
MKさんの言ったことが本当なのか。
それともMKさんの弟氏の言ったことのほうが、本当なのか。
私は今までのつきあいの中で、弟氏の言っているほうを信用する。
弟氏は、実直な人だった。

 つまりMKさんは、実際には「10時にA駅で」と言っただけだった。
しかし思い込みがはげしく、それが自分では「JRのA駅で」と言ったつもりになってしまった。

 もしこのときMKさんに、正常な(?)判断力があるなら、自分のまちがいをすなおに認めるはず。
認めて、「ごめん」で、すむはず。
が、MKさんには、それができなかった。

●仮面

 空想的虚言と思い込み。
この2つは、かなりの部分で、重なり合う。
ときにどちらが優勢で、どちらがそうでないか、それが、よくわからなくなる。
MKさんのケースがそうである。

 現実とウソの区別がつかなくなってしまい、ウソの世界を正しいと思い込んでしまう。
あるいは思い込みがはげしくなり、現実を見失ってしまう。
加えてMKさんには、自己愛者的な要素があった。
まちがいを認めることは、MKさんには、できなかった。
自分勝手でわがまま。
それに勝気。
一見、やさしくおだやかに見えるが、それは仮面。
人当たりもよく、初対面の人は、みなこう言う。
「すばらしくよくできた人ですね」と。
長い間、仮面をかぶっていると、どれが本当の自分の顔か、わからなくなってしまうことがある。
MKさんは、自分では、「私はすばらしい女性」と思い込んでいた。

●MKさんの人間性

 私がよく覚えている事件にこんなのがある。
ある日、何かの話の拍子に、MKさんは、ふとこう言った。
「弟(=下の弟)の嫁さんは、浮気をしているのよ」と。

 私は弟氏の妻もよく知っているが、とてもそういう女性には見えなかった。
驚いていると、MKさんは、こう言った。
「奥さんがちょっと席を離れたとき、私、バッグの中を見たら、バッグの中に、コンドームが何個か入っていた」と。

 私は奥さんのバッグの中にコンドームがあったということよりも、バッグの中をのぞいたMKさんの行為に仰天した。
私はワイフと結婚して40年になるが、いまだかって、ワイフのバッグの中をのぞいたことがない。
だからその話には、背筋がぞっとするような嫌悪感を覚えた。
一事が万事、万事が一事。
MKさんという女性は、そういう人だった。

●自分を知る

が、最大の問題は、MKさん自身が、自分のそういう姿に気がつくときがくるだろうかということ。
自分の妄想癖、自己中心性、さらには人間性の崩壊などなど。
が、私は65歳前後というMKさんの年齢からして、それはむずかしいと思う。
MKさんによほどの向学心と、自分を見つめる真摯な姿勢でもあれば、それもわかるだろう。
自分を静かに見つめて、それに気づくだろう。
が、その雰囲気は、ない。
むしろ、MKさんは年々、ますます低劣化している。
いつ見ても、セカセカと、せわしなく動き回っている。
それに老人性の痴呆性も加わってきた。
「3桁の数字もまちがえる」と、数年前になるが、MKさんの夫が話していたのを覚えている。

●私の印象

 私が受ける印象では、MKさんのケースでは、ますますウソが多くなってきたように思う。
弟氏も、先日会ったとき、そう言っていた。
最近では、他人がしたボランティア活動ですら、あたかも自分がしたかのように話すこともあるという。
弟氏はこう言う。

「最近は、姉(=MKさん)に会うのが、こわいです。
ささいなミスをとらえては、大げさに騒ぐからです」と。

 弟氏が父親の七回忌に行ったときのこと。
弟氏はタクシーで行き、そのタクシーを寺の外で待たせておいた。
それで寺での法要が終わると、そのまま墓地まで、タクシーで向かった。
それについても、「みなにロクにあいさつもせず、急いで行った」と。
弟氏は、その旨、みなにあいさつをしたつもりだったと言っているが……。

●老齢

 私の母もそのとき90歳を過ぎていた。
脳梗塞で、脳をCTスキャンで検査したが、脳は半分程度に萎縮していた。
ドクターは、「90歳を過ぎると、みなこうなりますよ」と言った。
そうでなくても、私たちの脳神経は、毎日20数万個ずつ死滅している。
10日で、200万個。
100日で、2000万個。
1年で、約7億個。
10年で、約70億個!

 90歳で脳そのものが半分になったところで、何もおかしくない。
つまり私たちの脳みそは、そうでなくても、日々に劣化している。
平たく言えば、底に穴のあいたバケツのようになる。
知恵や知識は、どんどんと、その穴から外へ、こぼれ出て行く。

 MKさん(もちろん架空の女性)についても、そうだ。
補充する前に、それまであった知識や経験、常識や技術、さらには人間性まで、こぼれ出ていく。
だから「精進(しょうじん)」、つまり日々の研鑽あるのみということになる。
が、このタイプの女性にかぎって、それをしない。
極端な自己中心性が、自分の目と耳を、ふさいでしまう。
「私は完成された人間である」という思い込みが、自らを盲目にしてしまう。

●終わりに……

 最近の研究によれば、脳の活動量は、脳の酸素の消費量を見て判断するのだそうだ。
たとえばある特定部分の脳の活動が活発であるからといって、脳全体が活発に活動しているということにはならない。
ほかの部分が眠った状態になることも、ありえる。
よい例が、「ゲーム脳」と呼ばれる脳である。
ある特定部分の脳は、きわめて活発に活動する。
しかしその他の部分は、眠ったような状態になる。

 「こだわり」についても、同じことが言える。
ひとつのことにこだわるあまり、ほかの部分が眠ってしまった状態になる。
よい例が、私が特別擁護老人ホームで出会った女性(90歳前後)である。

 その女性は、一日中、「飯(めし)は、まだかア!」と叫んでいた。
食事に対して異常なこだわりを示していたが、ほかの部分は、眠ったままだった。

 むしろ人間は、リラックスした状態のほうが、脳全体の酸素の消費量がふえるという。
(この部分は、雑誌『サイエンス』の立ち読み情報なので、不正確。)
言い換えると、音楽を聴いたり、映画を観たり、雑誌に目を通したり、あるいは旅行先で窓の外の景色を見たりしたほうが、脳は活発に活動する(?)。
つまり脳の健康ということを考えるなら、(こだわり)は、百害あって一利なし。
へたをすれば、そのままうつ病の世界に、落ち込んでしまう。

 話が脱線したが、空想的虚言と思い込み。
この両者は、同一のものではない。
ないが、ある部分で、大きく重なり合う。
つまり空想的虚言を口にしやすい人は、それだけ思い込みがはげしいということ。
(その反対でもよい。)
だから、ウソにせよ、思い込みにせよ、それを自分の中に感じたら、それと闘う。
それは同時に、脳の老化との闘いであるといってもよい。
放置すればやがていつかあなたも、あのセンターの一室で、「飯はまだかア!」と叫んでいた、あの女性のようになる。(2010-5-16)

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Hiroshi Hayashi++++++はやし浩司

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