最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●危機と道徳の完成度

2009-09-14 11:02:17 | 日記
●危機感vs道徳の完成度

+++++++++++++++

巨大な危機が人類というより、
地球全体を襲いつつある。
そうした危機に直面したとき、
それがあまりにも巨大すぎるためか、
危機感そのものがわいてこない。

どうしてだろう?

+++++++++++++++

●海面上昇

まず、つぎの毎日JPのニュースを読んでみてほしい。
この記事を読んで、あなたはそこにある危機を、どの程度強く感じ取ることが
できるだろうか。

『WWF:今世紀末、1メートル超の海面上昇 北極圏、温暖化で……報告書

北極圏での温暖化の影響で、今世紀末には1メートルを超える海面上昇が起こるとの報告書を、環境保護団体の世界自然保護基金(WWF)がまとめた。「気候変動に関する政府間パネル(IPCC)」が07年に予測した18~59センチの海面上昇を大きく上回る。グリーンランドなどの氷床や各地の氷河の減少が、世界的な影響を及ぼすと分析している。

 報告書によると、北極圏の気温は過去20年で、世界平均の2倍のペースで上昇し、氷床や氷河の消失を招いた。また、永久凍土が溶けることにより温室効果ガスのメタンの放出に拍車がかかり、温暖化を促進させているとしている』(09年9月13日)。

 要点をまとめると、こうなる。

(1) IPCCは、今世紀末(2100年ごろ)には、海面上昇は、18~59センチと
予想していた。

(2) しかしWWFがまとめた報告書によれば、1メートル近くになるという。

(3)北極圏の気温上昇は、世界平均の2倍のペースで上昇しつづけている、と。

 韓国の海運業者(?)は、さっそく北極海経由の韓国→ドイツ航路を開始した。
インド洋→アフリカ経由の航路より、はるかに短時間で物資を輸送できる。

●危機感の喪失

 もし海面が1メートルも上昇すれば、東京都全体が水没することになる。
この浜松市にしても、中心街の大半が、水没することになる。
「北極や南極の氷が溶けてしまえば、海面上昇は止まる」と考えている人も
いるかもしれない。
しかし海面上昇は、その後もつづく。
気温上昇によって、海水が膨張するからである。
海面上昇は、氷が溶けることによってではなく、海水の膨張によって起こる。

 また「1メートルくらいなら、何とかなる」と考えてはいけない。
下水管などの生活インフラは、そのまま役に立たなくなってしまう。
台風などの高潮時には、さらに大きな被害が出るようになる。
それに、ここが重要だが、仮に予定通り排出ガスが規制されたとしても、
それで気温上昇(地球温暖化)が止まるわけではない。
仮に今世紀末は、何とかなっても、2200年には、どうなっているか
わからない。

 不測の事態が、さらに不測の事態を引き起こし、二次曲線的に気温が上昇
するということも考えられている。
もしそうなれば、この地球の気温は、100年(たった100年だぞ!)を
待たずして、400度C近くにまで上昇するかもしれない。
もしそうなれば、「地球温暖化」ではなく、「地球火星化」ということになる。

●能力的欠陥

 怖ろしいことを書いた。
読者のみなさんを不安にさせたかもしれない。
しかし私がここで書きたいのは、そのとき、ほんの少しでよいから、あなた自身の
心の中をのぞいてみてほしいということ。
あなたは(そこにある危機)を、どの程度深刻に感ずることができただろうか。

 が、書いている私でさえ、ある種の不安感は覚えるが、そこまで。
それ以上の深刻さが、生まれてこない。
これはどうしたことなのか?
それとも私にだけ起こる、おかしな現象なのか?
深刻になる前に、「どうしようもない」とあきらめてしまうせいなのか?
 
 つまり人は、そこにある小さな危機には、敏感に反応する。
しかし遠くにある巨大な危機に対しては、鈍感に反応する。
もし(危機の大きさ)(危機への距離感)によって、危機感が変化するとするなら、
それは人の、どういう能力的な欠陥によるものなのか。
またその能力的欠陥を克服するためには、どうしたらよいのか。

 つまりこのあたりの能力的欠陥を克服しないかぎり、地球温暖化の問題は、
根本的には解決しない。
「北極海の航路が使えるようになった」と喜んでいる海運業者を、例にあげる
までもない。

 さらに言えば、こうした問題に取り組んでいる研究者や、政府関係者にしても、
「形」だけの心配で終わってしまう可能性もある。
「立場上、地球温暖化を問題にしているだけ」と。

●触角

 こう考えていくと、危機感の問題は、つまるところその人のもつ触角の長さに
よって決まるということになる。
触角が長ければ長いほど、より遠くにある危機を、自分のものとして実感できる。
そうでなければ、そうでない。

 では、触角を長くするためには、どうしたらよいのか。
その前に、触角は長い方がよいのか、それとも短い方がよいのかという問題もある。
しかし道徳論でも、より視野の広い人ほど、道徳の完成度の高い人とみる(コールバーグ)。

 それについては、こんな原稿を書いたことがある。

++++++++++++++

【子どもの道徳・道徳の完成度】

●地球温暖化

+++++++++++++

子どもたちほど、地球温暖化の
問題を真剣に考えているという
のは、興味深い。

他方、おとなほど、この問題に
関して言えば、無責任(?)。

「何とかなるさ」という言い方をする
おとな。「だれかが何とかしてくれ
る」とか、「私ひとりが、がんばって
も、どうしようもない」とか。

そんなふうに考えているおとなは、
多い。

+++++++++++++

 道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)。

 いかに公正であるか……相手が知人であるとか友人であるとか、あるいは自分がその立
場にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、公正に判断して行動できるかどうか
で、その人の道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児が見せる原始的な自己中心性を原点とする
なら、いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的であるかによって、その人の道徳的
完成度は決まる。

 たとえばひとつの例で考えてみよう。

 あなたはショッピングセンターで働いている。そのとき1人の男性が、万引きをしたと
する。男性は品物をカートではなく、自分のポケットに入れた。あなたはそれを目撃した。

 そこであなたはその男性がレジを通さないで外へ出たのを見計らって、その男性に声を
かけた。が、あなたは驚いた。他人だと思っていたが、その男性は、あなたの叔父だった。

 こういうケースのばあい、あなたなら、どう判断し、どう行動するだろうか。「叔父だか
ら、そのまま見過ごす」という意見もあるだろう。反対に、「いくら叔父でも、不正は不正
と判断して、事務所までいっしょに来てもらう」という意見もあるだろう。

 つまりここであなたの公正さが、試される。「叔父だから、見過ごす」という人は、それ
だけ道徳の完成度が低い人ということになる。

 またこんな例で考えてみよう。

 今、地球温暖化が問題になっている。その地球温暖化の問題について、いろいろな考え
方がある。コールバークが考えた、「道徳的発達段階」を参考に、考え方をまとめてみた。

(第1段階)……自分だけが助かればばいいとか、自分に被害が及ばなければ、それでい
いと考える。被害が及んだときには、自分は、まっさきに逃げる。

(第2段階)……仕事とか、何か報酬を得られるときだけ、この問題を考える。またその
ときだけ、それらしい意見を発表したりする。

(第3段階)……他人の目を意識し、そういう問題にかかわっていることで、自分の立場
をつくったりする。自分に尊敬の念を集めようとする。

(第4段階)……みなでこの問題を考えることが重要と考え、この問題について、みなで
考えたり、行動しようとしたりする。

(第5段階)……みなの安全と幸福を最優先に考え、そのために犠牲的になって活動する
ことを、いとわない。日夜、そのための活動を繰りかえす。

(第6段階)……地球的規模、宇宙的規模で、この問題を考える。さらに、人類のみなら
ず生物全体のことを念頭において、この問題を考え、その考えに沿って、行動する。

 この段階論は、子どもたちの意見を聞いていると、よくわかる。「ぼくには関係ない」と
逃げてしまう子どももいれば、とたん、深刻な顔つきになる子どももいる。さらに興味深
いことは、幼少の子どもほど、真剣にこの問題を考えるということ。

 子どもも中学生や高校生になると、「何とかなる」「だれかが何とかしてくれる」という
意見が目立つようになる。つまり道徳の完成度というのは、年齢とかならずしも比例しな
いということ。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
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道徳完成度 完成度段階説)


Hiroshi Hayashi+++++++++++はやし浩司

●道徳の完成度(2)

+++++++++++++++++++

道徳の完成度は、(1)いかに公正であるか、
(2)いかに自分を超えたものであるか、
その2点で判断される(コールバーク)という。

 いかに公正であるか……相手が知人である
とか友人であるとか、あるいは自分がその立場
にいるとかいないとか、そういうことに関係なく、
公正に判断して行動できるかどうかで、その人の
道徳的完成度は決まる。

 いかに自分を超えたものであるか……乳幼児
が見せる原始的な自己中心性を原点とするなら、
いかにその人の視点が、地球的であり、宇宙的
であるかによって、その人の道徳的完成度は決
まる。

+++++++++++++++++++

 この2日間、「道徳の完成度」について、考えてきた。「言うは易(やす)し」とは、よ
く言う。しかし実際に、どうすれば自己の道徳を完成させるかということになると、これ
はまったく別の問題と考えてよい。

 たとえば公正性についても、そのつど心の中で揺れ動く。情に動かされる。相手によっ
て、白を黒と言ってみせたり、黒を白と言ってみせたりする。しかしそれでは、とても公
正性のある人間とは言えない。

 またその視野の広さについても、ふと油断すると、身近なささいな問題で、思い悩んだ
り、自分を取り乱したりする。天下国家を論じながら、他方で、近隣の人たちとのトラブ
ルで、醜態をさらけだしたりする。

 コールバークの道徳論を、もう一度、おさらいしてみよう。

(1)「時、場所、そして人のいかんにかかわらず、公正に適応されるという原則」
(2)「個人的な欲求や好みを超えて、個人の行為を支配する能力」(引用文献:「発達心理
学」ナツメ社)。

 そこで重要なことは、日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要、ということになる。常
に公正さを保ち、常に視野を広くもつということ。が、それがむずかしい。ときとして問
題は、向こうから飛びこんでくる。こんな話を聞いた。

 よくある嫁―姑(しゅうとめ)戦争だが、嫁の武器は、子ども。「孫がかわいい」「孫に
会いたい」という姑の心を逆手にとって、その嫁は、姑を自分のよいように操っていた。
具体的には、姑のもつ財産をねらっていた。

 いつしか姑が、息子夫婦の生活費を援助するようになっていた。嫁の夫(=姑の息子)
の給料だけでは、生活が苦しかった。質素に生活すれば、できなくはなかったが、嫁には、
それができなかった。嫁は、派手好きだった。

 そのうち、姑は、孫(=嫁の息子、娘)の学費、教育費まで負担するようになった。し
かし土地などの財産はともかくも、現金となると、いつまでもつづくわけではない。そこ
で姑が、支出を断り始めた。「お金がつづかない」とこぼした。とたん、嫁は、姑と息子と
娘(=姑の孫)が会うのを禁止した。

息子(小4)と娘(小1)は、「おばあちゃんに会いたい」と言った。
嫁は、「会ってはだめ」「電話をしてもだめ」と、自分の子どもにきつく言った。
姑は「孫たちに会いたいから、連れてきてほしい」と、嫁に懇願した。
嫁は間接的ながら、「お金がなかったら、土地を売ってお金をつくってほしい」と迫った。

 ……という話を書くのが、ここでの目的ではない。こういう話は、あまりにも低レベル
というか、あさましい。できるなら、こういう話は聞きたくない。話題にしたくもない。
が、現実の世界では、こうした問題が、つぎからつぎへと起きてくる。いくら道徳的に高
邁(こうまい)でいようとしても、ふと気がつくと、こうした問題のウズの中に巻き込ま
れてしまう。

 言いかえると、道徳の問題は、頭の中だけで論じても、意味はないということ。この私
だって、偉そうなことなら、いくらでも言える。それらしい顔をして、それらしい言葉を
口にしていれば、それでよい。それなりの道徳家に見える。

 しかし実際には、中身はガタガタ。私はその嫁とはちがうと思いたいが、それほどちが
わない。そこで繰りかえすが、「日々の生活の中での心の鍛錬こそが重要」ということにな
る。

 私たちは常に試される。この瞬間においても、またつぎの瞬間においても、だ。何か大
きな問題が起きれば、なおさら。そういうときこそ、日々の鍛錬が、試される。つまりそ
の人の道徳性は、そういう形で、昇華していくしかない。

(道徳性について、付記)

 高邁な道徳性をもったからといって、どうなのか……という問題が残る。たとえばこん
な例で考えてみよう。最近、実際、あった事例である。

 あなたは所轄官庁の担当部長である。今度、遠縁にあたる親類の1人が、介護施設を開
設した。あなたは自分の地位を利用して、その親類に、多額の補助金を交付した。その額、
数億円以上。

 そのあなたが、ある日、その親類から、高級車の提供をもちかけられた。別荘の提供も
もちかけられた。飲食して帰ろうとすると、みやげを渡された。みやげの中には、現金数
百万円が入っていた。
(お気づきの人もいるかと思うが、これは実際にあった事件である。)

 こういうケースのばあい、あなたならどう判断し、どう行動するだろうか?

 「私はそういう不正なことは、しません」と、それを断るだろうか。その勇気はあるだ
ろうか。また断ったところで、何か得るものは、あるだろうか。

 私はそういう場に立たされたことがないので、ここでは何とも言えない。しかし私なら、
かなり迷うと思う。今の私なら、なおさらそうだ。いまだに道路にサイフが落ちているの
を見かけただけで、迷う。

不運にも(?)、この事件は発覚し、マスコミなどによって報道されるところとなった。
しかしこうした事例は、小さなものまで含めると、その世界では、日常茶飯事。それこ
そ、どこでも起きている。

 つまり道徳性の高さで得られるものは、何かということ。それがこの世界では、たいへ
んわかりにくくなっている。へたをすれば、「正直者がバカをみる」ということにもなりか
ねない。

 ところで、少し前、中央教育審議会は、道徳の教科化を見送ることにしたという。当然
である。
 道徳などというものは、(上)から教えて、教えられるものではない。だいたい道徳を教
える、長の長ですら、あの程度の人物。公平性、ゼロ、普遍性、ゼロ。どうしてそんな人
物が、道徳を口にすることができるのか。

 「学習指導要領の見直しを進めている中央教育審議会は、18日、道徳の授業を教科と
しない方針を固めた。政府の教育再生会議は、規範意識の向上を目的に、第二次報告で道
徳を『徳育』としたうえで、教科化するよう求めていた。もともと中教審の内部では、教
科化に慎重な意見も強かったが、安倍首相の辞任後、『教育再生』路線との距離の置き方も、
明確になった格好だ」(中日新聞)とある。

 わかりやすく言えば、安倍総理大臣が辞任したこともあり、安倍総理大臣が看板にして
いた徳育教育(?)が、腰砕けしたということ。

 閣僚による数々の不祥事。加えて、安倍総理自身も、3億円の脱税問題がもちあがって
きている。「何が、道徳か!」、ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 
道徳 道徳教育 徳育 徳育教育 教育再生会議 中央教育審議会)

++++++++++++++++++++

●危機感について

 触角の長さというのは、つまるところ、その人の道徳性の完成度と関係がある
ということになる(コールバーグ)。

 道徳性の完成度の高い人ほど、触角が長くなり、遠くにある危機をも、そこに
ある危機として認識できる。
そうでなければ、そうでない。
日常のささいな問題に心を奪われ、その先を見ることができない。
加齢とともに、さらにこの傾向は強くなり、やがてそこらのオジチャン、オバチャンへと
変身していく。

 そのひとつのバロメーターが、地球温暖化の問題ということになる。
私たちがこの問題に対して、いかに深く危機感をもちうるかによって、その一方で
自分の道徳の完成度を知ることができる。

 私のように、「それがあまりにも巨大すぎるためか、危機感そのものがわいてこない」
というようであれば、道徳の完成度はまだまだ低いということになる。

(ついでに、補記)

●実家からの解放

 話はぐんと私的になるが、私は60年を経て、やっと「実家」から解放された。
実に重苦しい、60年間だった。
実家を売り飛ばし、家財のほとんどを、近所の人たちに無料で配った。
そのあとのこと。
とたん、毎朝見る、夢の内容まで変わってしまった。
これには驚いた。
それをワイフに話すと、ワイフも驚いた。

 私のこうした行為に対して、中には不満に思っている人もいるらしい。
すでにそういう話が、漏れ伝わってきている。
が、私が今感じている爽快感は、何物にも、替えがたい。

 で、私はそれまで、(そこにある現実)に、毎日のように惑わされた。
心は地球、人類、教育へと、自由に駆け回るのだが、ふと気がつくと、そこに(実家)
がある。
あまりにも生々しく、毒々しい。
いくら自分では高邁(こうまい)であろうとしても、ふと油断すると、そこにある
(現実)に振り回されてしまう。
あの夏目漱石も、同じようなギャップに悩んだ。
小説『こゝろ』(こころ)が、それである。

 最終的には、『こゝろ』の中の先生は、友人Kの自殺の罪悪感を克服することが
できず、明治天皇の崩御、乃木希典の殉死を契機に、自殺を決行する。

 もちろん私は自殺などしないが、(実家)から解放されてはじめて、私の人生を
私のものにすることができた。
それはあまりにも生々しく、毒々しい自分との決別できた瞬間でもあった。

 実家を、超安値の、破格価格で売り飛ばした。
が、価格など問題ではない。
私はそうすることで、実家そのものを、爆破したかのような爽快感を味わった。
事実、その翌朝、死んだ実兄が夢の中に現れた。
実兄は、私と腕を組みながら、うれしそうに笑っていた。
で、私が、「準ちゃん(=兄)、仇(かたき)は取ってやったぞ」と言うと、
実兄は、さらにうれしそうに笑った。

 夢は夢だが、その夢が、私の深層心理にあったすべてを表現している。

●触角を長くするために

 触角を長くするためには、いつも心を遠大な、宇宙の果てに置く。
そこにあまりにも生々しく、毒々しい世界があるなら、できるだけ早く、決別する。
自分の心から切り離す。

 同時に2つの世界を経験すると、それこそ魂を切り裂かれるような苦痛を覚える。
自分の人格がバラバラになっていくように感じることさえある。
そうでなくても、おかしな緊張感が、じわじわと精神をむしばむ。
これは精神の健康にとっても、よくない。
私のばあいは、実家のことが頭の中を横切るたびに、情緒そのものが不安定になった。
ワイフに八つ当たりしたとことも、多い。

 道徳の完成度を論ずるときの、ひとつの参考になれば、うれしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司

●そこに見えない危機

2009-09-14 10:27:28 | 日記
●ショッピングセンターで

 ワイフと散歩をしながら、ショッピングセンターへ行ってきた。
その電気店に、ランニングマシン(ルームランナー)が置いてあった。
試してみた。
時間、もしくは距離をインプットすると、それを表示しながら、床が回転する。
それに合わせて、歩いたり、ランニングしたりする。

 値段は、6万円弱。
買うか、買わないか、迷った。
このところ紫外線を避けるため、散歩は、日没後と決めている。
しかしそのマシンがあれば、いつでも運動ができる。

 で、ふと見ると、そのマシンの前に、こんな宣伝文句が張ってあった。
「リハビリに最適」と。

 それを読んで、私はこう考えた。
「リハビリが必要になったら買った方が得なのか、それともそうならないよう、
予防のために買った方が得なのか」と。

 たとえば事故や病気などで、リハビリが必要になったとする。
そのときこうしたマシンは、役に立つ。
それはわかる。
しかし同時に、同じマシンを使えば、健康を増進でき、その類の病気になるのを
未然に防ぐことができるかもしれない。

 だから「どちらが得か」と。

 ・・・そのときのこと。
私の頭の中に、今まで考えたことがないことが、思い浮かんだ。
(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)というのが、それ。

 「リハビリに最適」という文句は、(そこに見える危機)を言ったもの。
しかし私だっていつ、そのリハビリを必要とする体になるかもしれない。
そうしたマシンを否応なしに、買わなければならない立場になるかもしれない。
今はかろうじて健康だから、それ、つまり(リハビリをするという危機)が見えないだけ。
つまりそれが、(そこに見えない危機)ということになる。

 少し長い前置きになったが、(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)に
ついて書いてみたい。
うまく自分の考えをまとめられるかどうか、自信はないが、書いてみる。

●そこに見える危機

+++++++++++++++++

何か不幸なできごとが起きたとする。
事故、病気、災難、何でもよい。
すると人は、そこを起点にものを考え始める。
しかしその不幸なできごとが、本来なら
起こったであろう、さらに大きくて、
不幸なできごとを防いでくれたかも
しれない。

禅問答のような話だが、未来はいつも、
その起点を基準に、プラスの方向か、
マイナスの方向のどちらかに向かう。
確率論的には、50%vs50%とみる。
つまり「フィフティ・フィフティ」。

たとえばあなたの息子が、学校へでかける
とき、玄関先で足をすべらせ、転倒したとする。
足の骨を骨折したとする。
するとあなたは息子の不注意をなじり、
学校へ行けなくなったことを、叱るかも
しれない。

しかしもしそのとき、いつものように
学校へでかけていたら、途中で、交通事故に
あって、障害が残るような大きなけがを
していたかもしれない。
そう考えれば、玄関先で転倒したことは、
むしろ幸運なできごとだったということになる。

するとあなたは、こう反論するかもしれない。
交通事故にあう確率は、ぐんと小さい。
そんなありえない話を前提に、玄関先で
転倒したことを幸運だったと思えと言われても、
それはできない、と。

++++++++++++++++++++

●そこに見える危機

 私たちは常に、(そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)の間で生きている。
(そこに見える危機)というのは、たいていはすでに起きた危機と考えてよい。
先の例で言うなら、息子が玄関先で転倒したような事故をいう。

 が、もしそのとき、息子がいつもの時刻どおりに目をさましていたら、その事故は
起きなかったかもしれない。
たまたまその朝は、寝坊をしてしまった。
そのままでは遅刻してしまう。
そこで息子はあわてて玄関を飛び出した。
転倒した。

 つまりすでに事故は、息子が寝坊をした段階で、(そこに見える危機)に向かって、
まっしぐらに進んでいたということになる。
が、そのときは、それがわからない。
つまりまだ(そこに見えない危機)だったということになる。

●健康論

 このことは、健康論についても言える。
つぎのような例は、多い。

 胃の調子が悪いと思って、たまたま病院で検査をしてもらったら、まったく
別のところに悪性腫瘍が見つかった、など。
このばあいは、胃の調子が悪いというのは、(そこに見える危機)ということになる。
が、そのときは、別のところに悪性腫瘍があるなどとは思っていない。
それが(そこに見えない危機)ということになる。

 もっともこのばあいも、いつも(そこに見えない危機)があるわけではない。
たいていは胃薬を処方してもらい、それで胃の調子は、もとにもどる。
悪性腫瘍が見つかる・・・というより、悪性腫瘍がある確率は、ぐんと低い。
つまり(そこに見える危機)の向こうに、いつも(そこに見えない危機)が
潜んでいるわけではない。

●賢人と愚人

 (そこに見える危機)と、(そこに見えない危機)。
賢者は、いつも(そこに見える危機)の向こうに、(そこに見えない危機)があること
を知る。
愚者は、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になってから、あわてふた
めく。

 たとえば「今」というこのとき、あなたの身のまわりを静かに観察してみよう。
一見、平和でなにごともなく過ぎていく毎日だが、よくよく考えれば、身のまわりは、
(そこに見えない危機)だらけということがわかるはず。
それがわかると、(今の状態)が、きわめて恵まれた状況であることがわかってくる。

 もう少し具体的に考えてみよう。

●二番底、三番底

 子どもが非行化するときというのは、きわめて短時間でそうなる。
たとえばある夜、あなたの娘が、門限を破って、夜遅く帰宅したとする。
それが(そこに見える危機)ということになる。

 そこであなたは娘を叱る。
「二度と門限を破ってはいけない」と強く、諭(さと)す。
が、その向こうには、(そこに見えない危機)が待ち受けている。
つぎにあなたの娘は、門限を破ったとき、叱られるのがいやで、そのまま外泊
してしまうかもしれない。
それが(そこに見えない危機)ということになる。

 つまりこうしてあなたの娘は、あっという間に、二番底、三番底へと落ちていく。
(外泊)→(連泊)→(家出)と。
さらに進んで、異性と同棲、子どもの出産と進むかもしれない。

●では、どうするか

 大切なことは、いつも(そこに見える危機)を、受け入れていくということ。
受け入れてしまうと、(そこに見えない危機)まで、見えてくるようになる。
冒頭の話について言えば、こうなる。

 玄関先で転倒した子どもについて、「あわてて飛びだしたから、転倒した」と。
そしてなぜあわてて飛びだしたかについては、「寝坊をしたから」と。
もし同じような状態で、道路を横切っていたら、交通事故にあっていたかもしれない。
つまりそのとき、(そこに見えない危機)が、見えてくる。

 門限を破ったあなたの娘についても、そうだ。
たぶんあなたは、「うちの娘にかぎって」とか、「まさか」と思っているかもしれない。
しかし対処の仕方によっては、最終的には、「家出」ということにもなりかねない。
つまりそこまで、(そこに見えない危機)が見えてくる。

●ランニングマシン

 リハビリを必要とするようになってから買うよりも、それ以前から、つまりそうした
病気になる前から、予防のために買う方が、得。
そのほうが長く使える。
それに遅かれ早かれ、そういう時期は、やってくる。
70歳かもしれない。
80歳かもしれない。

 やがて外の道路を歩くのも、つらくなる。
それがここでいう(そこに見えない危機)ということになる。
が、私は、ショッピングセンターで、ランニングマシンを見たとき、(そこに見えない
危機)を、見ることができた。
つまりこの段階で、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になった。

 家に帰ってきてから、私はワイフにこう言った。
「あのマシンを買おう」「どうせ必要になるから」と。

 で、ひとつの教訓を得た。
それが先に書いた教訓である。

賢者は、いつも(そこに見える危機)の向こうに、(そこに見えない危機)があること
を知る。
愚者は、(そこに見えない危機)が、(そこに見える危機)になってから、あわてふた
めく。

●終わりに

 何ともまとまりのない、つまり焦点のボケたエッセーになってしまった。
要するに、私たちは、日常的に、(そこに見えない危機)に囲まれているということ。
そうした危機が、そこにあることを忘れてはいけないということ。
その上で、今、(そこに見える危機)を、見直してみるということ。
あるいは(そこに見えない危機)を基準に、現在の(そこに見える危機)を考える。
賢く生きるための、これはひとつの原則ではないだろうか。


●マガジン(1)

2009-09-14 07:52:23 | 日記
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 14日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮面(ペルソナ)人間

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どこか、へん?
どこかちぐはぐ?
妙に、(できた人間)を演ずる。
穏やかな表情に、もの知り顔。
話し方も、ていねい。
しかしやはり、おかしい。
不自然。

+++++++++++++++++++++

●錯覚

 仮面をかぶりながら、それを仮面と気がつかないまま、その仮面を
取り外すことさえ忘れてしまう・・・。
このタイプの人を、「仮面(ペルソナ)人間」という。

 よくある例が、どこかのカルト教団の信者たち。
さも「私は、よくできた人間でございます」というような表情をしてみせる。
思想といっても、自分の思想など、どこにもない。
他人に注入された思想でもって、それを自分の思想と、錯覚する。

 何度も書くが、人格の完成というのは、日々の生活の中で鍛錬されてこそ、
はじめて身につく。
しかも10年とか、20年とか、長い年月がかかる。
しかも絶え間ない精進こそが、重要。
前に進むのをやめたとたん、そのときから、人格は後退する。
それは健康論と似ている。
日々の運動のみが、その人を健康にする。
運動をやめたとたん、そのときから、健康は下降する。

そこらのオジチャンやオバチャンが、1年や2年程度、修行(?)したからと
いって、身につくようなものではない。

●ちぐはぐさ

 ペルソナ人間を見分ける方法は、簡単。
慣れてくると、直感でわかるようになる。
どこか、へん?
どこか、ちぐはぐ?

 (外に見せる様子=外見的自己)と、(実際にしていること=現実自己)が、
分離してくる。
一方で、ケチでケチで、どうしようもない人が、他方で、毎日読経をしているとか。
あるいは、自分では1冊も本を読んだこともないような人が、説話会などで、
釈迦の話をするとか、など。

 西洋でよく話題になる仮面(ペルソナ)人間といえば、牧師がいる。
教会では神のような人間を演じながら、裏では児童虐待を繰り返すなど。
そういう点では、教職者もあぶない。
「先生、先生」と呼ばれているうちに、自分の本当の姿を見失ってしまう。

●シャドウ

 仮面(ペルソナ)人間のこわいところは、実は仮面ではない。
たいていは仮面をかぶりながら、善人を演ずるわけだが、その裏で心の
別室を作り、そこへ邪悪な自分を押し込んでしまう。
それがこわい。

 その程度がある限度を超えると、その人は多重人格性をおびてくる。
あるいは(邪悪な自分)が、たとえばそっくりそのまま子どもに移植されたり
する(ユングの「シャドウ論」)。

●ありのまま生きる

 こうした仮面をかぶるのは、しかたのないことかもしれない。
人は、だれしも、仕事上、仮面をかぶる。
私もかぶる。
あなたもかぶる。

 が、大切なことは、(1)それが仮面であると、しっかりと認識すること。
つぎに(2)日常生活のどこかで、その仮面をしっかりとはずすこと。
ありのままの自分に、もどること。
自分をさらけ出すこと。
その操作を繰り返すこと。

 (その人らしさ)とは何かといえば、(自然なふるまい)の中にある。
逆に言うと、その(自然ぽさ)が消えたとき、その人は仮面をかぶったまま、
自分を見失ってしまう。

 それに・・・仮面をかぶって生きるというのは、それだけでたいへんなこと。
エネルギーを消耗する。
疲れる。
実のところ私もそうだった。

とくに生徒や親たちを前にした、「教室」という場では、そうだった。
それもあって、30歳になるころまで、今でいう偏頭痛との闘いがつづいた。
だからある日から、それまでの仮面をかなぐり捨てた。
ありのままをさらけ出して生きるようにした。
とたん、気が楽になった。

 ・・・といっても、それができるようになるまでに、何年もかかったような
気がする。
だからこそよけいに、仮面(ペルソナ)人間が、よくわかる。
直感として、よくわかる。
で、そのたびに、こう思う。
「かわいそうだな」と。

【仮面(ペルソナ)人間・診断法】

●つぎの質問項目のうち、いくつかが当てはまれば、あなたは仮面(ペルソナ)
人間とみてよい。

( )他人の目を意識すると、緊張し、無理をすることが多い(初期)
( )精神疲労を起こしやすく、不平、不満、愚痴が多い(初期)
( )他人の前で自分をさらけ出すことができない。苦手。(初期)
( )本当の自分と、外の世界での自分が別人のように感ずる。(中期)
( )ときどき自分が何を望み、何をしたいかが、わからなくなる。(中期)
( )他人に批判されることを好まず、とりつくろい、弁解が多い。(中期)
( )自分はよい人間に思われることに満足することがある。(後期)
( )他人に、したり顔で、説教したり、相談にのったりする。(後期)
( )話し方、表情が、(よくできた人)のように穏やかで、静か。(後期)

 かなり大ざっぱに書いたので、不正確かもしれないが、自分(私)を
知るためのひとつの手がかりにはなる。
 
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hirosh
i Hayashi 林浩司 BW ペルソナ人間 仮面人間 はやし浩司 自己診断法)


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●運命は受け入れる

++++++++++++++++++++

それが運命なら、受け入れる。
受け入れてしまえば、なんでもない。
が、それに逆らうと、運命というのは、
牙(きば)をむいて、
あなたに襲いかかってくる。

++++++++++++++++++++

●犬の糞(うんち)

 私は犬のハナ(ポインター種)を、庭で放し飼いにしている。
家に来た時から、ずっと、そうしている。
今年で13歳になるが、そのこともあって(?)、今でも元気。

 しつけらしいしつけは、何もしていない。
食事の前に、いちど、きちんとお座りをさせることはある。
ワイフが、そうさせている。
それ以外は、芸らしい芸もしない。
ただ人間の言葉は、かなり理解できるよう。
「散歩に行こうか?」と声をかけると、シッポを振る。
「水をかけてやろうか?」と声をかけると、そのまま小屋へ逃げ込んでしまう。

 そのハナだが、大便、小便は、そのつど庭のあちこちでする。
そのため便の始末が、私たちの日課になっている。
小便にしても、小便をしたところだけ、芝生が丸く枯れたりする。
そのため庭の芝生は、円形脱毛症のように、あちこちが枯れている。

 そういうハナだが、私たちにとっては、家族。
ハナのおかげで、安心して私たちは家を留守にすることができる。

 で、今日、ハナの便を始末しながら、ふとこんなことを考えた。
「もしこの便がハナのものでなく、近所の他人の飼っている犬のものだったら、
どうだろうか」と。
「私は平気でいられるだろうか」と。
犬でなくても、ときどきやってくる、どこかの猫のものでもよい。
たぶん私は、その糞を見るたびに、激怒するだろう。
犬や猫の飼い主がわかっていれば、その家に抗議に行くかもしれない。

●同じ糞でも・・・

 同じ犬の糞である。
ハナのものだったら、・・・というより、そのことでハナを叱ったことは一度もない。
始末するのは、たしかに面倒なことだが、それをいやだと思ったことはない。
ハナの糞は、一度集めて、肥料として再利用(?)している。

 これが「運命を受け入れる」ということになる。

 一方、他人の飼っている犬や猫だったら、どうだろうか。
それがたった一度でも、たぶん、許せないだろう。
便の始末をしながら、ブツブツと愚痴を言うかもしれない。

 このばあいは、「運命を受け入れていない」ということになる。
あまりよいたとえでないかもしれないが、(受け入れるか、受け入れないか)で、
同じ(犬の糞)に対する反応が、180度、ちがう。

●プラス反応vsマイナス反応

 運命を受け入れたときの心理的反応を、「プラス反応」という。
運命に逆らったときの心理的反応を、「マイナス反応」という。
プラス反応を示すときは、なにごとにつけ、ものの考え方が、前向きになる。
肯定的になり、積極的になる。
マイナス反応を示す時は、なにごとにつけ、ものの考え方が、後ろ向きになる。
否定的になり、消極的になる。

 私はこのことを、母の介護をしていて学んだ。

 同じころ、私の知人(女性、64歳)で、彼女の母の介護をしている人がいた。
それで知り合いになり、よく情報を交換した。
その女性を。Nさんとしておく。

 Nさんの口から出てくるのは、愚痴ばかり。
「家が臭くなった」「食べ物をみんな食べてしまった」「夜中じゅう、起きている」
「徘徊するようになった」「町内会の仕事ができなくなった」「コンロの火がつけっぱなし
だった」などなど。
私は聞き役に回ることが多かった。
へたに反論すると、Nさんは、それだけでパニック状態になってしまった。

 たとえば臭いがひどいということについて、「換気扇をつけたら?」と提案すると、
「私の家は、夫のものです。「壁に穴をあけるなんて、とんでもないことです」と。
火の消し忘れについても、「コンロを、過熱防止装置付きのものにしたら?」と
提案すると、「そんな高価なものはうちでは買えません」と。

 Nさんは、明らかにマイナス反応を示していた。
が、一度こうしたマイナス反応を示すようになると、すべてを否定的にとらえ、
悪いほうに、悪いほうにと、ものごとを考えるようになる。
取り越し苦労に、ヌカ喜び・・・これを繰り返しながら、やがては精神を病むこともある。

 事実、Nさんは、うつ病薬を心療内科で処方してもらい、それを服用していた。
「ときどき、車ごと、どこかにぶつかって死にたいと思うことがあります」というような
ことを言ったこともある。

●同じ運命でも・・・

 が、運命というのは、一度受け入れてしまうと、様子は一変する。
先に書いた、犬の糞の話を思い出してほしい。
それを当り前のこととしてしまうと、あるいはその意識すらもたないでいると、
何も考えないで、犬の糞を始末できるようになる。
そうでなければ、そうでない。

 たとえば親の介護にしても、「たいへんだ」「たいへんだ」と思って、する人もいる。
しかし「なんでもない」と思って、する人もいる。

 山荘の近くに住む、S氏(男性・66歳)もそうだ。
一度、私にこう言ったことがある。
「林さん、老人なんてものはね、家のそこらに、ころがしておけばいいのですよ」と。

 ずいぶんと乱暴な言い方に聞こえるかもしれないが、S氏の人間的な温もりを知って
いる人は、そうは思わない。
「自由に、やりたいように、させておくのが、老人にとっては、いちばんいい」という
意味で、S氏は、そう言った。

 が、親の介護は、たいへん。
重労働。
それは事実。
このあたりでも、『親の介護を3年すれば、兄弟関係は、破壊される』と言う。
たとえ兄弟でも、(介護する人)と、(介護しない人)とに分かれると、大きな亀裂が
入ることをいう。
ある看護師の女性が、そう教えてくれた。

●運命

 それぞれの人には、それぞれ、無数の(糸)がからんでいる。
家族の糸、親類、知人の糸、過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸などなど。
その糸が、ときとして、その人の進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」と呼んでいる。

 が、その運命というのは、そのときは、わからない。
が、自分の人生を振り返ってみたとき、結果としてそこにあることがわかる。
どこかの頭のおかしい人たちが説く、スピリチュアル的な運命をいうのではない。

 だからそのときはそのときで、懸命に、あがく、もがく。
ときに苦しむ。
が、心のどこかで、その最中に、運命をふと感ずるときがある。
「ああ、これが私の人生だ」と。

 そのとき、それが戦うべきものあれば、戦う。
最後の最後まで、ふんばる。
人間の生きる意味や、美しさは、そこから生まれる。

 しかしそれがどうしようもないものであれば、受け入れる。
受け入れてしまう。
とたん、気が楽になる。
そこにあった運命が、向こうのほうから、シッポを巻いて、逃げていく。

 要するに「いやだ、いやだ」と思っていると、それはますます(いやなもの)になる。
が、反対に、「こういうもの」と割り切ってしまうと、(なんでもないもの)になる。
私も母の介護をしているとき、こう感じたことがある。
「息子たちの世話より、楽だ」と。
私のばあい、そこまで割り切ることができた。
私の家に2年間いたが、私もワイフも、ただの一度も、愚痴を言ったことはない。

●教訓

 で、介護の問題でなくても、私たちは日々に、生活を通して、(運命)を
感ずることがある。
夫婦の問題、親子の問題、子どもの問題、近隣の人たちとの問題などなど。
そういうとき大切なことは、その運命を、(プラス反応)に変えていくということ。

 たとえば今、私は山荘で、この原稿を書いている。
その途中の道が、長さ200~300メートルにわたって、夏草におおわれる
ようになった。
地主のKさん(今年80歳くらい)が、このところ元気がない。
いつもなら、毎年、数回、草を刈っている。

 で、もう少し太陽が高くなったら、草刈り機で私は草を刈るつもり。
誤解がないように書いておきたいが、私は草刈り機で草を刈るのが好き。
楽しい。
ドサッと生えた夏草を、草刈り機でバリバリと刈ることによる爽快感は、
なにごとにも、代えがたい。
運動にもなる。
それに私は、Kさんを尊敬している。
この山荘の土地を分けてくれたのも、そのKさんである。

 ただ変数がひとつ生まれた。
実は風邪気味で、昨夜は、自分の咳で、1~2時間ごとに目が覚めた。
そのためどこか熱っぽい。
体がふわふわする。
無事、草刈りができるかどうか、今のところ、自信はない。
が、予定では、つまり気持の上では、草刈りをすることになっている。

 これが(プラス反応)ということになる。
ひとつの例として、書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 運命 プラス反応 マイナス反応 はやし浩司 運命論)

●マガジン(2)

2009-09-14 07:51:59 | 日記



【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●バカげた珍報道(地震報道について)

++++++++++++++++++

昨日(8月11日)、午前5時7分、
静岡県地方を、大きな地震が襲った。
かなり大きな地震だった。
静岡市周辺で、震度6~。
床から出て、テレビにスイッチを入れると、
地震報道を繰り返していた。

「津波の心配があります。
海岸には近づかないでください」と。

それを何十回も繰り返していた。

しかしそのまったく同じとき、静岡県沖を、
台風9号が通過しつつあった。
静岡県にもっとも接近したのは、同じ日の
午前9時ごろ(気象庁)。
そのとき台風9号は、御前崎の真南、約100キロ
前後のところを通過しつつあった。

が、これからが、ジョークにもならない珍報道。

「津波の高さは、50センチが予想されます。
どうか海岸地域にいる人は、海岸に近づかない
でください」と。

このジョーク、わかるか?

そのとき海岸には、5~6メートルを超える、
高波が打ち寄せていた。
これは台風9号によるもの。
その海岸に、50センチの高さの津波が来るから、
「近づかないでください」は、ない。

言うとしたら、「台風による高波に警戒してください」だ。

世の中には、常識というものがある。
どこのバカが、5~6メートルもの高さの波が
打ち寄せている海岸に、近づくというのか。
(高波を見物に行く人もいないわけではないが……。)
その高波の中にあって、50センチの高さの
津波など、誤差の範囲。

スタジオで、伝えられた数字だけを見て報道
していると、こういう珍報道になる。
私とワイフは、それを聞いて、ゲラゲラと
笑った。

ついでにアメリカに住む二男夫婦に
そのことを知らせると、こんな返事が来た。

「ヒロシさん、あなたにはユーモアの
センスがあります」(二男の嫁)と。
(Denise Hayashi
Haha! A math quiz...it's good to see that you still have your sense of humor despite all of
this! The tidal wave is shorter; did I pass? :) Please tell Akiko and Shuichi that we send
our best to you all.)

私は何もジョークを書いたつもりはなかったのだが……。

Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

風邪

+++++++++++++++++++

 8日の夜からだから、もう4日目になる。
どうも風邪が抜けない。
昨夜は、肺の下のほうから咳が出た。
そのたびに痛かった。 
そこで大きな中国製の湿布薬を張った。
これが効いた。
三男がシンガポールで買ってきてくれたものだ。

朝までには、かなり楽になっていた。
あとは「柴胡桂枝湯(さいこけいしとう)」(漢方薬)
と、ビタミンCで治るはず。
今は、その柴胡桂枝湯の粉末を口の中でなめながら、
この文章を書いている。

+++++++++++++++++++

●慇懃無礼(いんぎんぶれい)

 「慇懃無礼(いんぎんぶれい)」という言葉がある。
漢字で書けと言われても、私には書けない。
「慇懃」は、「殷」と「勤」の下に、「心」がつく。
覚えるとしたら、そういう覚え方をする。
で、「殷勤」なら、「いんきん」と読める。

慇懃無礼というのは、バカていねいな対応をしながら、相手を煙に巻くという
方法である。
が、「無礼」は「無礼」。
それをされると、かえって不愉快になる。
ときにカチンと頭にくる。

が、敵もさるもの。
自分に非を向けさせないようにして、相手を不愉快にさせる。
それが目的で、わざと慇懃無礼な言い方をする。
そういう場面に出くわすことは、多い。

●ストーカー

 ストーカーというと、男女の間だけで起こる問題と考えている人は多い。
ゆがんだ恋愛感情がもつれて、人は、ストーカー行為を繰り返すようになる。
が、実際には、それに似たような行為となると、ほかにもある。

 もう10年になるだろうか。
そのつど電話をかけてきたり、ちょっとしたモノを送り届けてくる人がいた。
最初のうちは、そのつどていねいに返事を書いたり、電話をかけたりしていた。
が、どうも様子がおかしい。
それに気づいたのは、その人が、私が話したことを、あちこちで言いふらして
いるのを知ったときのことだった。

 つまりその人は、そういう形で、私の家にさぐりを入れていた。
理由はわからない。
競争心からか?
それとも嫉妬心からか?
何かにつけ、その人は、私の家の内情が気になるらしい。

 一度、夫婦喧嘩の話をした。
そのとき私が、「うちなんか、明日、離婚してもおかしくないですよ」と話したことがある。
たまたまワイフと言い争いをしていたときでもあった。
その人はさも同情したかのような様子をしてみせ、あれこれと相談にのってくれた。
が、驚いたのは、その数日後のこと。
別の人から心配して、電話がかかってきた。
そしていきなり、こう言った。
「林さん、離婚するって、本当ですか?」と。

●矛盾

 さらにそれを確信させるようなことがあった。

その人がたいへん嫌っている人がいた。
名前をX氏としておく。
いろいろあったらしい。
その嫌っている人について、こう言った。

「私ね、弟と2人で、先日、見舞いに行ってきました」と。

 これには驚いた。
ここにも書いたように、その人はX氏を嫌っていたはず。
そのX氏を見舞ったというのだ。
あれほど、悪口を言っていた人である。
で、私が「どうでしたか?」と聞くと、こう言った。

 「私が見たところ、それほど、長くはないわね。
すい臓がんだから、もって、あと半年ね」と。

 その人は、X氏を見舞ったのではなく、様子を見に行ったのだ。
が、そういうことを平気でできる人というのは、そうはいない。
かなり心がゆがんだ人でないと、できない。

●地震

 実は、昨日も、電話がかかってきた。
たまたま留守にしていて、留守番電話に伝言が残っていた。
「地震のことを心配しています。無事でしたか」と。
実に、慇懃無礼な言い方だった。
背筋に力を入れ、まるで位の高い女性が、下僕を見下ろすような言い方だった。

 ワイフはそれを聞きながら、「また、かかってきたわね」と。

言い忘れたが、その人というのは、女性。
年齢は6x歳くらい?
私はワイフにこう言った。

 「もうぼくらのことは、放っておいてほしい」と。

 言うなれば、これもストーカー行為ということになるのではないか。
事件になるような行為ではないが、相手に与える不快感は同じ。

私「本当に心配して、電話をかけてくるんじゃ、ないんだよ」
ワ「わかっているわ」
私「今度電話がかかってきたら、地震で屋根が壊れたとでも言ってやろうか」
ワ「よしなさいよ。まともな人じゃ、ないから」
私「そうだね。無視するのが一番」と。

●無視

 慇懃無礼な言い方をするため、こちらもそれに応じて、ていねいな(?)言い方を
しなければならない。
相手は、「私には悪意はありません」という立場を、一応保っている。
つまりとぼけている。
「うちの心配は無用ですから、どうかこれからは電話など、かけてこないでください」
と言いたいが、その寸前の、スレスレのところで、電話をかけてくる。
またそういう言い方をする。

 が、しつこい。

 実は、先ほども電話がかかってきた。
ナンバーディスプレイを見ると、その番号だった。
こちらが無視すれば、かえって相手は、ムキになる。
電話をかけてくる。
以前にも、そういうことがあった。

私「うるさいね、ホント!」
ワ「何が目的なのかしら?」
私「何かの下心があるのだろうが、ぼくにはわからない」
ワ「やはり、無視するしかないわね」
私「そうだね」と。

●結論
 
 こうした行為を繰り返す人というのは、現実検証能力というか、自分を
客観的に見ることができない人ということになる。
あるいは脳の一部に、別室を作り、そこへ邪悪な心を押し込んでしまう。
そして自分は、善人であると、思い込んでしまう。
「私は、本当に心配しているから、電話をかけたのだ」と。

 ストーカー行為を繰り返す人にしても、そうだ。
「私こそが、相手を本当に愛しているのだ」とか、「相手は私の愛を理解
できないだけ」とか、勝手にそう思い込んでしまう。

 相手の迷惑など、まったく考えない。
迷惑しているということさえ、理解できない。
自分勝手でわがまま。
自己中心的で独善的。
心がゆがんでいるのは、乳幼児期の不幸な体験が原因になっていることが
多い。
つまり「根」が深い。

 このタイプの人は、他人との良好な人間関係を築くことができない。
小さなカプセルの中に閉じこもったまま、自分だけの世界を肥大化させて
しまう。
ストーカー行為を繰り返す人にしても、同じように考えてよい。
精神的に未熟というか、幼稚。
IQ論によれば、(1)他者との良好な人間関係、(2)共鳴性、(3)より
自己中心的でないことが、人格の完成度をみる、バロメーターになっている。

 そのうちの共鳴性がなくなる・・・つまり相手の苦しみや悲しみが理解でき
なくなる。
はっきり言えば、人格の完成度は低い。

ワ「じゃあ、どうすればいいの?」
私「もう60歳を過ぎているしね。どうしようもないね」
ワ「どうしようもないわね」
私「要するに、触らぬ神に、たたりなし。適当に無視して、遠ざかるしかないね」と。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW ストーカー ストーカー行為 人格の完成度 はやし浩司)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●マガジン(3)

2009-09-14 07:51:26 | 日記
 

●TOSHIBAのダイナブック(TX)

++++++++++++++++++

昨日、TOSHIBAのダイナブック(TX)を買ってきた。
使い勝手は、たいへんよい。
国内メーカーのノートブックを買ったのは、5、6年ぶり。
その間に、この世界も、格段の進化を遂げていた。

++++++++++++++++++

で、その印象。

まず国内メーカーのパソコンは、値段が割高であるという誤解。
実際、今度買ってみて、こんなことに気がついた。

(1)サービスがよい。
(2)こまかいところにまで、配慮がゆき届いている。

 それまでは、ミニノートのパソコンを3台使っていたが、
正直言って、使い勝手がたいへん悪い。
とくに、M社(台湾)の、WNは、たいへん悪い。

 タッチパッドの感度がよすぎて、指が近付いただけで、勝手に
反応してしまう。
そのためワードを使って作業をしているようなときなど、文字が
あちこちに飛んだり、カーソルが勝手にどこかへ行って
しまったりする。

 メーカーに相談しても、打つ手なし。
販売店の店員に相談すると、「紙でも張って使ってください」と。
タッチパッドに紙を張れ?
実に中国の製品らしい?

 ダイナブックでも同じ現象が起きた。
そこで電話をすると、即座につながり、問題は解決した。
方法はこうだ。

(コントロールパネル・クラシック表示)→(マウス)→(拡張)→(拡張機能の設定)
→(ポインタ速度とタッピングの設定)→(タッピングの設定)→(キー入力時の
タッピングを無効にする)

 それ以後は、イライラもなく、こうして作業ができる。
サクサクと文字が打てる快感は、なにものにも代えがたい。
気持よい。

 ついでながら、ミニノートや、安いパソコンには、こうした調整機能はついていない。
だからこう思った。
「値段が高いだけのことはあるなア」と。

 見直したぞ、TOSHIBAさん。
すばらしいパソコンを作ってくれて、ありがとう!


●パソコン

 結論から先に言えば、持ち運び用ということでないなら、
パソコンは、大きければ大きいほど、よい。
キーピッチは、19ミリ。
これをフルサイズという。
それ以上あっても、しかたない。

が、画面(モニター)は、大きければ大きいほど、よい。
12インチより、14インチ、14インチより、16インチ・・・というように。
私は今、それを実感しつつある。

 あとは目的に応じて、スペクを考えればよい。
私のばあいは、こうして文章を書くのが目的だから、それほど高い性能でなくてもよい。
ハードディスクにしても、400GBもあれば、じゅうぶん。
ゲームはしないので、グラフィックボードは、必要ない、など。

 そうそう、キーボードは、自分で実際、叩いてみること。
指の感触が重要。
私のばあい、(ENTER・キー)の右に、ページUP、DOWNのキー、さらには
テン・キーがついているのは、買わない。
打ちミスがどうしても多くなる。
そのため、気になってしかたない。

ついでに言えば、日本語ワープロとして使うときは、ENTER・キーは、大きければ
大きいほど、よい。
そのほかのキーは、めったに使わない。

 あとは相性の問題。
それは男と女の関係に似ている。
たいへんよく似ている。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●熟年・離縁

++++++++++++++++

ワイフからこんな話を聞いた。
ワイフの友人(今年、60歳、女性)が、
父親の三周忌を機に、親族と離縁する
という。
称して、「熟年離婚」ならぬ、「熟年・離縁」。

++++++++++++++++

●Yさんのケース

 ことの発端は、やはり父親の介護。
いろいろあったらしい。
その女性を、Yさんとしておく。
Yさんには、2人の兄と、1人の妹がいる。
父親の世話(?)をしていたのは、長男氏だったが、その長男氏は、毎月のように、
Yさんに、介護費用を請求してきたという。
(あとの兄弟たちにも、同じように請求していたらしい。)

 Yさんの夫は、外車販売を手掛けている。
日々に扱う金額も多い。
他人には、リッチに見える。

 Yさんは、こう言った。

「兄弟たちは、みな、私のお金をアテにしていました。
兄には、毎年、数10万円程度を渡していました。
が、それでも足りないというのです。
で、あるとき、何度も自問してみました。
『私が困ったとき、兄弟たちは助けてくれるか』とです。
が、兄弟たちはみな、口がうまいだけ。
そのつど『何も助けてくれない』と、確信しました。

 が、それでも・・・と思って、つまり自分がまちがっているのではないかと
思い、兄弟たちを観察してみました。
が、結論は、やはり同じでした。

 で、父は2年前に死に、50坪足らずの土地と、古い家を残しました。
それについて兄(長男)が、『親のめんどうをみたのは私だ』といって、
すべて自分のものにしてしまいました。

 夫の扱っている金額からすれば、車1~2台分のささいな遺産です。
それをほかの兄弟たちと、喧嘩もんかで、取り合っている・・・。
あさましいというか、情けないというか・・・。

 さらに父の死後も、兄は、私の夫に借金を申し込んできました。
私たちの財産を、まだアテにしているのですね。
それで覚悟を決めました。
三周忌を機に、兄弟たちとは、縁を切る、と。
ついでに親戚づきあいも、やめる、と。

●身辺の整理

 『遠くの親類より、近くの友』という。
それはそのとおりで、兄弟、姉妹の縁というのも、時の流れの中で、薄れていく。
子どもの世界でも、弟や妹に、はげしい憎悪の念をもっている兄や姉は多い。
「兄弟だから仲がいいはず」と考えるのは、幻想以外のなにものでもない。
みんなそのフリをしているだけ。
(もちろん仲がよい兄弟、姉妹も、多いが・・・。)

 私のばあいも、親戚づきあいをしながら、「ここまでしなければならないのか?」と
思うことがたびたび、あった。
人づきあいは大切だが、自分の主義主張、さらには哲学を捻じ曲げてまでつきあう
必要はない。
そういうことをするのも、疲れた。
「時間の無駄」と思うようになった。

 たとえば近く、実兄と実母の一周忌の法要をする。
私自身は、内々で、質素にすませたいと願っている。
が、前回の四九日法要のときもそうだったが、たがいに連絡を取り合い、
結構派手なものになってしまった。
またそういうことをすれば、この(私)が喜ぶとでも思っているのかも
しれない。

 しかし私には、意味がない。
だからといって、死者を軽んじているわけではないが、カルトもよいところ。
あるいはこれをカルト(迷信と言ってもよいが)と言わずして、なんという。

 あえて擁護するなら、「家」制度のあった江戸時代には、それなりの意味が
あったのかもしれない。
親類が「家」を中心の結束し、自分の社会的立場を、固定した。
そのために、一周忌があり、三周忌があった。
あるいはそれをうまく、利用した。
だから私が子どものころには、こうした法要は、どこかの料亭を借りて、
派手にやるのが、ひとつの習わしになっていた。

 しかし今は、時代が変わった。
冠婚葬祭という(儀式)に、疑問を感ずる人が、より多くなった。
またその流れは加速しつつある。

●再び、Yさん

 私はYさんの生きざまに、興味をもった。
私と同じ年齢ということもある。

私「そういうのを熟年・離縁というよ」
ワ「だれが言い出したの?」
私「このぼくだよ」
ワ「フ~~ン?」

私「Yさんの兄は、黙っていないだろうね」
ワ「それも覚悟の上みたいよ。
介護費用を負担していたという話にしても、Yさんの兄は、だれにも
話していなかったみたい」
私「それはずるいね」
ワ「でしょ。だから縁を切ると決めたらしいわ」と。

 熟年離婚もこわいが、熟年・離縁もこわい。
兄弟、姉妹といっても、基本的には、人間と人間のつきあい。
壊れるときには、壊れる。
幻想にしがみつくのは、よくない。
幻想にしばられるのは、もっとよくない。
だから結論は、こうなる。

『遠くの親類より、近くの友』と。

 そうそうYさんは、こういう言葉を使ったという。
「腐れ縁」と。
「腐れ縁ですから」と。
兄弟、姉妹、親戚づきあいも、その仕方によっては、「腐れ縁」になるということらしい。

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Hayashi 林浩司 BW 熟年離縁 熟年・離縁 熟年離婚 兄弟の縁 姉妹の縁 縁を切
る はやし浩司 腐れ縁)

(補記)

 このYさんの話には、つづきがある。

 最近、Yさんの長男氏からYさんに、電話がかかってきたという。
(Yさんは、この浜松市に住んでいる。
長男氏は、富山市の郊外の町に住んでいる。)

 「私が怒っているのを百も承知の上で、『元気か?』といって電話をかけてくるのね。
兄の(とぼけ)には、もううんざりです」と。

 この話を聞いて、私は私の兄のことを思い出していた。
私の兄も、とぼけがうまかった。
兄は、グループホームへ入る前、3か月間、私の家にいた。
その兄は、ワイフがひとりで風呂に入っていたりすると、風呂のドアをあけて、いつも
こう言った。
「トイレは、こっちやったかなも(=こちらでしたか)」と。

 認知症にもなっていたが、あちらのほうだけは、達者だった。
私がそれを叱ると、「まちがえただけや」と、いつも弁解していた。
今となってみると、それも笑い話のひとつになっているが・・・。

 そこに不幸な家庭があるなら、そっとしておいてやろう。
あれこれ詮索したり、内情をさぐるような、醜い行為はやめよう。
もちろん相手が助けを求めてきたら、そのときは、ていねいに応えてやればよい。

 それぞれの人は、それぞれの立場で、懸命にがんばっている。
その(懸命さ)を、少しでも感じたら、そっとしておいてやろう。
不必要な介入をしたり、説教したりするのは、もってのほか。
あなたがどんな立場にあっても、それはしてはいけない。
それはこの世を生きている人間が守るべき、最低限のマナーと考えてよい。


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