最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

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2009-09-14 07:52:23 | 日記
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 14日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●仮面(ペルソナ)人間

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どこか、へん?
どこかちぐはぐ?
妙に、(できた人間)を演ずる。
穏やかな表情に、もの知り顔。
話し方も、ていねい。
しかしやはり、おかしい。
不自然。

+++++++++++++++++++++

●錯覚

 仮面をかぶりながら、それを仮面と気がつかないまま、その仮面を
取り外すことさえ忘れてしまう・・・。
このタイプの人を、「仮面(ペルソナ)人間」という。

 よくある例が、どこかのカルト教団の信者たち。
さも「私は、よくできた人間でございます」というような表情をしてみせる。
思想といっても、自分の思想など、どこにもない。
他人に注入された思想でもって、それを自分の思想と、錯覚する。

 何度も書くが、人格の完成というのは、日々の生活の中で鍛錬されてこそ、
はじめて身につく。
しかも10年とか、20年とか、長い年月がかかる。
しかも絶え間ない精進こそが、重要。
前に進むのをやめたとたん、そのときから、人格は後退する。
それは健康論と似ている。
日々の運動のみが、その人を健康にする。
運動をやめたとたん、そのときから、健康は下降する。

そこらのオジチャンやオバチャンが、1年や2年程度、修行(?)したからと
いって、身につくようなものではない。

●ちぐはぐさ

 ペルソナ人間を見分ける方法は、簡単。
慣れてくると、直感でわかるようになる。
どこか、へん?
どこか、ちぐはぐ?

 (外に見せる様子=外見的自己)と、(実際にしていること=現実自己)が、
分離してくる。
一方で、ケチでケチで、どうしようもない人が、他方で、毎日読経をしているとか。
あるいは、自分では1冊も本を読んだこともないような人が、説話会などで、
釈迦の話をするとか、など。

 西洋でよく話題になる仮面(ペルソナ)人間といえば、牧師がいる。
教会では神のような人間を演じながら、裏では児童虐待を繰り返すなど。
そういう点では、教職者もあぶない。
「先生、先生」と呼ばれているうちに、自分の本当の姿を見失ってしまう。

●シャドウ

 仮面(ペルソナ)人間のこわいところは、実は仮面ではない。
たいていは仮面をかぶりながら、善人を演ずるわけだが、その裏で心の
別室を作り、そこへ邪悪な自分を押し込んでしまう。
それがこわい。

 その程度がある限度を超えると、その人は多重人格性をおびてくる。
あるいは(邪悪な自分)が、たとえばそっくりそのまま子どもに移植されたり
する(ユングの「シャドウ論」)。

●ありのまま生きる

 こうした仮面をかぶるのは、しかたのないことかもしれない。
人は、だれしも、仕事上、仮面をかぶる。
私もかぶる。
あなたもかぶる。

 が、大切なことは、(1)それが仮面であると、しっかりと認識すること。
つぎに(2)日常生活のどこかで、その仮面をしっかりとはずすこと。
ありのままの自分に、もどること。
自分をさらけ出すこと。
その操作を繰り返すこと。

 (その人らしさ)とは何かといえば、(自然なふるまい)の中にある。
逆に言うと、その(自然ぽさ)が消えたとき、その人は仮面をかぶったまま、
自分を見失ってしまう。

 それに・・・仮面をかぶって生きるというのは、それだけでたいへんなこと。
エネルギーを消耗する。
疲れる。
実のところ私もそうだった。

とくに生徒や親たちを前にした、「教室」という場では、そうだった。
それもあって、30歳になるころまで、今でいう偏頭痛との闘いがつづいた。
だからある日から、それまでの仮面をかなぐり捨てた。
ありのままをさらけ出して生きるようにした。
とたん、気が楽になった。

 ・・・といっても、それができるようになるまでに、何年もかかったような
気がする。
だからこそよけいに、仮面(ペルソナ)人間が、よくわかる。
直感として、よくわかる。
で、そのたびに、こう思う。
「かわいそうだな」と。

【仮面(ペルソナ)人間・診断法】

●つぎの質問項目のうち、いくつかが当てはまれば、あなたは仮面(ペルソナ)
人間とみてよい。

( )他人の目を意識すると、緊張し、無理をすることが多い(初期)
( )精神疲労を起こしやすく、不平、不満、愚痴が多い(初期)
( )他人の前で自分をさらけ出すことができない。苦手。(初期)
( )本当の自分と、外の世界での自分が別人のように感ずる。(中期)
( )ときどき自分が何を望み、何をしたいかが、わからなくなる。(中期)
( )他人に批判されることを好まず、とりつくろい、弁解が多い。(中期)
( )自分はよい人間に思われることに満足することがある。(後期)
( )他人に、したり顔で、説教したり、相談にのったりする。(後期)
( )話し方、表情が、(よくできた人)のように穏やかで、静か。(後期)

 かなり大ざっぱに書いたので、不正確かもしれないが、自分(私)を
知るためのひとつの手がかりにはなる。
 
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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●運命は受け入れる

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それが運命なら、受け入れる。
受け入れてしまえば、なんでもない。
が、それに逆らうと、運命というのは、
牙(きば)をむいて、
あなたに襲いかかってくる。

++++++++++++++++++++

●犬の糞(うんち)

 私は犬のハナ(ポインター種)を、庭で放し飼いにしている。
家に来た時から、ずっと、そうしている。
今年で13歳になるが、そのこともあって(?)、今でも元気。

 しつけらしいしつけは、何もしていない。
食事の前に、いちど、きちんとお座りをさせることはある。
ワイフが、そうさせている。
それ以外は、芸らしい芸もしない。
ただ人間の言葉は、かなり理解できるよう。
「散歩に行こうか?」と声をかけると、シッポを振る。
「水をかけてやろうか?」と声をかけると、そのまま小屋へ逃げ込んでしまう。

 そのハナだが、大便、小便は、そのつど庭のあちこちでする。
そのため便の始末が、私たちの日課になっている。
小便にしても、小便をしたところだけ、芝生が丸く枯れたりする。
そのため庭の芝生は、円形脱毛症のように、あちこちが枯れている。

 そういうハナだが、私たちにとっては、家族。
ハナのおかげで、安心して私たちは家を留守にすることができる。

 で、今日、ハナの便を始末しながら、ふとこんなことを考えた。
「もしこの便がハナのものでなく、近所の他人の飼っている犬のものだったら、
どうだろうか」と。
「私は平気でいられるだろうか」と。
犬でなくても、ときどきやってくる、どこかの猫のものでもよい。
たぶん私は、その糞を見るたびに、激怒するだろう。
犬や猫の飼い主がわかっていれば、その家に抗議に行くかもしれない。

●同じ糞でも・・・

 同じ犬の糞である。
ハナのものだったら、・・・というより、そのことでハナを叱ったことは一度もない。
始末するのは、たしかに面倒なことだが、それをいやだと思ったことはない。
ハナの糞は、一度集めて、肥料として再利用(?)している。

 これが「運命を受け入れる」ということになる。

 一方、他人の飼っている犬や猫だったら、どうだろうか。
それがたった一度でも、たぶん、許せないだろう。
便の始末をしながら、ブツブツと愚痴を言うかもしれない。

 このばあいは、「運命を受け入れていない」ということになる。
あまりよいたとえでないかもしれないが、(受け入れるか、受け入れないか)で、
同じ(犬の糞)に対する反応が、180度、ちがう。

●プラス反応vsマイナス反応

 運命を受け入れたときの心理的反応を、「プラス反応」という。
運命に逆らったときの心理的反応を、「マイナス反応」という。
プラス反応を示すときは、なにごとにつけ、ものの考え方が、前向きになる。
肯定的になり、積極的になる。
マイナス反応を示す時は、なにごとにつけ、ものの考え方が、後ろ向きになる。
否定的になり、消極的になる。

 私はこのことを、母の介護をしていて学んだ。

 同じころ、私の知人(女性、64歳)で、彼女の母の介護をしている人がいた。
それで知り合いになり、よく情報を交換した。
その女性を。Nさんとしておく。

 Nさんの口から出てくるのは、愚痴ばかり。
「家が臭くなった」「食べ物をみんな食べてしまった」「夜中じゅう、起きている」
「徘徊するようになった」「町内会の仕事ができなくなった」「コンロの火がつけっぱなし
だった」などなど。
私は聞き役に回ることが多かった。
へたに反論すると、Nさんは、それだけでパニック状態になってしまった。

 たとえば臭いがひどいということについて、「換気扇をつけたら?」と提案すると、
「私の家は、夫のものです。「壁に穴をあけるなんて、とんでもないことです」と。
火の消し忘れについても、「コンロを、過熱防止装置付きのものにしたら?」と
提案すると、「そんな高価なものはうちでは買えません」と。

 Nさんは、明らかにマイナス反応を示していた。
が、一度こうしたマイナス反応を示すようになると、すべてを否定的にとらえ、
悪いほうに、悪いほうにと、ものごとを考えるようになる。
取り越し苦労に、ヌカ喜び・・・これを繰り返しながら、やがては精神を病むこともある。

 事実、Nさんは、うつ病薬を心療内科で処方してもらい、それを服用していた。
「ときどき、車ごと、どこかにぶつかって死にたいと思うことがあります」というような
ことを言ったこともある。

●同じ運命でも・・・

 が、運命というのは、一度受け入れてしまうと、様子は一変する。
先に書いた、犬の糞の話を思い出してほしい。
それを当り前のこととしてしまうと、あるいはその意識すらもたないでいると、
何も考えないで、犬の糞を始末できるようになる。
そうでなければ、そうでない。

 たとえば親の介護にしても、「たいへんだ」「たいへんだ」と思って、する人もいる。
しかし「なんでもない」と思って、する人もいる。

 山荘の近くに住む、S氏(男性・66歳)もそうだ。
一度、私にこう言ったことがある。
「林さん、老人なんてものはね、家のそこらに、ころがしておけばいいのですよ」と。

 ずいぶんと乱暴な言い方に聞こえるかもしれないが、S氏の人間的な温もりを知って
いる人は、そうは思わない。
「自由に、やりたいように、させておくのが、老人にとっては、いちばんいい」という
意味で、S氏は、そう言った。

 が、親の介護は、たいへん。
重労働。
それは事実。
このあたりでも、『親の介護を3年すれば、兄弟関係は、破壊される』と言う。
たとえ兄弟でも、(介護する人)と、(介護しない人)とに分かれると、大きな亀裂が
入ることをいう。
ある看護師の女性が、そう教えてくれた。

●運命

 それぞれの人には、それぞれ、無数の(糸)がからんでいる。
家族の糸、親類、知人の糸、過去の糸、生い立ちの糸、環境の糸などなど。
その糸が、ときとして、その人の進むべき道を決めてしまう。
それを私は、「運命」と呼んでいる。

 が、その運命というのは、そのときは、わからない。
が、自分の人生を振り返ってみたとき、結果としてそこにあることがわかる。
どこかの頭のおかしい人たちが説く、スピリチュアル的な運命をいうのではない。

 だからそのときはそのときで、懸命に、あがく、もがく。
ときに苦しむ。
が、心のどこかで、その最中に、運命をふと感ずるときがある。
「ああ、これが私の人生だ」と。

 そのとき、それが戦うべきものあれば、戦う。
最後の最後まで、ふんばる。
人間の生きる意味や、美しさは、そこから生まれる。

 しかしそれがどうしようもないものであれば、受け入れる。
受け入れてしまう。
とたん、気が楽になる。
そこにあった運命が、向こうのほうから、シッポを巻いて、逃げていく。

 要するに「いやだ、いやだ」と思っていると、それはますます(いやなもの)になる。
が、反対に、「こういうもの」と割り切ってしまうと、(なんでもないもの)になる。
私も母の介護をしているとき、こう感じたことがある。
「息子たちの世話より、楽だ」と。
私のばあい、そこまで割り切ることができた。
私の家に2年間いたが、私もワイフも、ただの一度も、愚痴を言ったことはない。

●教訓

 で、介護の問題でなくても、私たちは日々に、生活を通して、(運命)を
感ずることがある。
夫婦の問題、親子の問題、子どもの問題、近隣の人たちとの問題などなど。
そういうとき大切なことは、その運命を、(プラス反応)に変えていくということ。

 たとえば今、私は山荘で、この原稿を書いている。
その途中の道が、長さ200~300メートルにわたって、夏草におおわれる
ようになった。
地主のKさん(今年80歳くらい)が、このところ元気がない。
いつもなら、毎年、数回、草を刈っている。

 で、もう少し太陽が高くなったら、草刈り機で私は草を刈るつもり。
誤解がないように書いておきたいが、私は草刈り機で草を刈るのが好き。
楽しい。
ドサッと生えた夏草を、草刈り機でバリバリと刈ることによる爽快感は、
なにごとにも、代えがたい。
運動にもなる。
それに私は、Kさんを尊敬している。
この山荘の土地を分けてくれたのも、そのKさんである。

 ただ変数がひとつ生まれた。
実は風邪気味で、昨夜は、自分の咳で、1~2時間ごとに目が覚めた。
そのためどこか熱っぽい。
体がふわふわする。
無事、草刈りができるかどうか、今のところ、自信はない。
が、予定では、つまり気持の上では、草刈りをすることになっている。

 これが(プラス反応)ということになる。
ひとつの例として、書いてみた。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW 運命 プラス反応 マイナス反応 はやし浩司 運命論)

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