最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●9月11日・朝

2009-09-11 08:43:35 | 日記
●9月11日

++++++++++++++++++

リバウンドが始まった?
旅行先で、ごちそうを食べたのが悪かった?
……おととい、恐る恐る体重計に乗ったら、
何と、62・5キロ!
2・5キロのオーバー。
たった、1日か2日で、2・5キロもオーバーとは!

あわてて食事制限+運動。
昨夜は、1時間ほど、汗をかいてサイクリングした。
で、今朝は、……60・1キロ。
ホ~~ッ!

++++++++++++++++++

●バカな人

そこにバカな人がいても、相手にしてはいけない。
そこにバカな人がいるということを、知るだけでよい。
そういうバカな人が、この世にいることを知るだけでよい。
つまりそういうバカな人もいることを前提で、ものを考え、行動する。

そこにいるバカな人を、1人や2人、相手にしても、世の中は何も変わらない。
相手にすればするほど、無駄なエネルギーを消耗する。
不愉快な思いをする。

無視して、あとは遠ざかる。
そしてその分、社会全体、日本全体をながめる。
自分の行動を決める。
その中でものを考え、ものを書く。
それが賢い生き方。

(注)「バカなことする人をバカという。頭じゃないのよ」(映画「フォレスト・ガンプ」)。

●妄想

(こだわり)と(妄想)。
密接に関連している。
こだわりが強くなればなるほど、妄想が生まれる。
さらに(うつ病)と(こだわり)。
密接に関連している。
うつ病がひどくなると、こだわりもひどくなる。
そのことばかりに、こだわり、悶々とした気分になる。(……らしい。)

うつ病というと、当人の問題だけと考える人は多い。
しかし周りの人たちに与える影響も、大きい。
その人がうつ病とわかっていれば、それでよい。
が、わからないと、周りの人たちが、それによって振り回される。
もちろんうつ病といっても、症状はさまざまだが……。

さらに高齢者になると、(うつ病)と(認知症)の問題が起きる。
うつ病から認知症になる人もいれば、反対に認知症からうつ病になる人もいる。
同時進行の形で、その両方になる人もいる。
そうした区別は、専門家でも、むずかしいそうだ。

要するに、(こだわり)をもつようになったら、要注意。
ただひたすら、気分転換、あるのみ。
何でもよい。
それぞれが自分に合った方法で、気分転換をする。
私のばあいは、映画を観に行ったり、温泉に入ったりする。
パソコンショップを歩き回るのもよい。
いちばん効果的なのは、運動。
それに買い物。
音楽をつづけて聴くのもよい。
草刈り機で雑草を刈ったり、畑を耕すのも楽しい。

言い忘れたが、もうひとつ効果的な方法がある。
気分がクシャクシャしたら、こうしてパソコン相手に文章を叩き出す。
それも楽しい。
読んでくれる人には、迷惑なことかもしれないが……。

(補記)

今、ふと、こんなことを思った。
こうしてパソコン相手に、文章を書けるのも、あと何年かな?、と。
頭の働きが鈍くなってきているのが、自分でもわかる。
集中力と根気が、つづかない。
それに油断すると、パソコンの使い方そのもので、迷うことがある。
アルツハイマー病でいう、(手続き記憶の喪失)というのかもしれない。
昨日までできたことが、今日になって、できなくなる、など。

この先、そういうことがふえてくるかもしれない。
あるいは本当に、認知症か何かになってしまうかもしれない。

今のところだいじょうぶとは思うが、……というのも、昨夜も中学生を相手に、
方程式の問題で、競争をしてみた。
私の完勝だった。
ほっとした。
が、発症したら最後。
そのあと数年で、頭は使い物にならなくなるという。
(アルツハイマー病については、前兆症状があり、さらに前兆の前兆症状というのも、
あるそうだ。)

今の私は、だいじょうぶかな?、と、何度も頭の中をさぐってみる。

「昨日の昼は、回転寿司屋で、3皿、食べた」
「昨日の夜は、きのこ弁当を食べた」
「中学生と解きあった方程式の問題は……」と。

若いころは、こんなこと、心配したこともなかった。
が、今は、そんな心配ばかりしている。
ああ、これも(こだわり)のひとつか?

これから居間へおりていって、ワイフとバカ話をしてこよう。

みなさん、おはようございます。
今日は、9月11日。
あの「9・11」の9月11日。
「9・11」という数字を見て、何も思い出さないようなら、あなたもあぶない?

●「家」という監獄(1)

2009-09-11 08:32:13 | 日記
【家という、監獄】

+++++++++++++++

私の兄は、生涯、「家」という監獄に
閉じ込められた。
みなは、兄のことを、バカだと思っていた。
またそういう前提で、兄を見ていた。
「だから、しかたなかった」と。
しかしこれはまったくの誤解。

兄の感受性は私のそれよりも、鋭かった。
知的能力にしても、少なくとも姉よりは、
ずっと高かった。
そんな兄が、「家」という監獄に閉じ込められた
まま、昨年(08年)、他界した。

そう、兄にとっては、たしかに「家」は
監獄だった。
私にとっても、そうだった。
だから兄の苦しみが、私には、痛いほど、
今、よくわかる。

+++++++++++++++

●兄

 みなさんは、「家制度」というものを、知っているだろうか?
知っているといっても、その中身を知っているだろうか?
「家」に縛られる、あの苦しみを知っているだろうか?

恐らく、今の若い人たちは、それを知らないだろう。
理解することもできないだろう。
自由であることが当たり前だし、自由というのは、自分が自由でなく
なったときはじめて、わかる。
それは空気のようなもの。
空気がなくなって、はじめて、そのありがたさがわかる。
自由も、また同じ。

●家制度

 「家」に縛られる。
「家」あっての、「私」と考える。
江戸時代の昔には、「家」あっての「私」ということになる。
「家」から離れれば、無宿者(むしゅくもの)と呼ばれた。
街角で見つかれば、そのまま佐渡の金山送りとなった時代もある。
あるいは無頼(ぶらい)とか、風来坊(ふうらいぼう)という言葉もある。
少し意味はちがうが、「家」がなければ、定職につくのも、むずかしかった。

そのため(私)は、「家」を守ることを、何よりも大切にした。
「家」のために(私)が犠牲になることは、当然のことのように考えた。

 ずいぶんと乱暴な書き方をしたが、大筋では、まちがっていない。
そういう前置きをした上で、私は、私の兄について書く。

●江戸時代

 こう書くからといって、母を責めているのではない。
というのも、母が生きた時代には、まだすぐそこに江戸時代が残っていた。
私はそのことを、満60歳になったときに知った。

 大政奉還によって江戸時代は終わったが、今から130年前のこと。
「130年」というと、若い人たちは、遠い昔に思うかもしれないが、
60歳になった私には、そうではなかった。
私の年齢の約2倍。
「2倍」と言えば、たったの2倍。
私の年齢のたった2倍昔には、そこにはまだ江戸時代が残っていた!

 去年(08年)、私の母は、92歳で他界したが、母にしてみれば、
母が子どものころは、江戸時代はいたるところに残っていた!
江戸時代、そのものといってもよい。

●実家意識

 そのため母がもつ、実家意識と、私たちがもつ、実家意識には、
大きなちがいがあった。
実家意識イコール、先祖意識と考えてよい。

 母は容赦なく、私からお金を奪っていったが、母にすれば、
それは当然の行為ということになる。
あるとき私が、あることで泣きながら抗議すると母は、ためらうことなく
こう言った。

 「親が実家を守るため、子(=私)の金(=マネー)を使って
何が悪い!」と。

 母は、私から言葉巧みに土地の権利書を取り上げると、その土地を
転売してしまった。
土地を母名義のままにしておいたのが、悪かった。

●栄養不足

 兄は、母の言葉を借りるなら、「生まれながらにして体が弱かった」。
母がそう思った背景には、母なりの理由がある。
長男の健一は、生まれるとまもなく、小児麻痺になった。
そして私が3歳のとき、日本脳炎で、死んでしまった。
そのあと、もう1人、兄がいたが、死産だった。
そのあと、もう一人の兄、準二が生まれた。
戦時中の貧しい時代のことで、栄養失調などというものは、あたりまえ。
国民病のようにもなっていた。

 私が子どものころでさえ、砂糖水がミルクの代わりに使われていた。
私もよく飲まされた。
兄は、恐らくもっと多量に飲まされていたにちがいない。
それだけが原因だったとは言えないが、たしかに兄は、弱かった。
今で言う脳水腫のようなものを起こしたのではなかったか。
背も低かった。
おとなになってからも、身長は、150センチ前後しかなかった。

●長子相続

 「家制度」は、「長子相続」が基本。
「長男が家を継ぐ」というのが、原則だった。
そのため父母はもちろんのこと、祖父母も、兄に大きな期待を寄せた。
同時に、兄に、スパルタ教育を試みた。

 アルバムを見るかぎり、中学を卒業するころまでは、兄は、どこにでも
いるような、ごくふつうの子どもだった。
明るい笑顔も残っていた。
その兄がおかしくなり始めたのは、兄が17、8歳くらいからのこと
ではなかったか。

 兄は、(跡取り息子)というよりは、(奴隷)に近かった。
もともと静かで、穏やかな性質だったが、それが父や母には気に入らなかった。
毎日のように兄は、父や母に叱られた。
怒鳴られた。
加えてやがて、家族からも孤立し始めた。
私とは9歳、年が離れていたこともある。
私は、兄といっしょに遊んだ記憶が、まったく、ない。
私は、父や母の関心が兄に集中する一方で、放任された。
私にとっては、それがよかった。
兄とは正反対の立場で、毎日、父や母の目を感ずることなく、遊んでばかりいた。

●心の監獄

 今になって江戸時代の、あの封建主義時代を美化する人は多い。
悪い面ばかりではなかったかもしれないが、しかし封建主義時代がもつ(負の遺産)に
目を向けることなく、一方的に、あの時代を礼賛してはいけない。

 家制度のもつ重圧感は、それを経験したものでないとわからない。
説明のしようがないというか、それは10年単位、20年単位でつづく。
いつ晴れるともわからない、悶々とした重圧感。

が、あえて言うなら、本能に近い部分にまで刷り込まれた、監獄意識に近い。
良好な家族関係、人間関係があるならまだしも、それすらないと、そこは
まさに監獄。
心の内側から、肉体を束縛する監獄意識。

 この私ですら、そうだったのだから、兄が感じたであろう重圧感には、
相当なものがあるはず。
監獄から逃げる勇気もなかった。
その能力もなかった。
それ以上に、兄の精神は、20歳になるころには、すでに萎縮していた。
父は、親絶対教の信者。
母は、口答えすら許さない権威主義者。
そういう環境の中で、兄は、なるべくして、あのような兄になっていった。

●意識

 が、意識というのは、おかしなもの。
私自身は戦後の生まれで、戦後の教育を受けた。
にもかかわらず、はじめてオーストラリアへ渡ったとき、そこで受けたのは、
ショックの連続だった。

 日本でいう上下意識がなかった。
 日本でいう家父長意識がなかった。
 日本でいう男尊女卑思想がなかった。
 もちろん長子存続意識もなかった。
 さらにこんなことにも驚いた。

 友人の家族だったが、年に2度も引っ越した。
オーストラリア人は今でもそうだが、収入が増えると、それに見合った
家に移り住んでいく。
「家を売り買いする」という意識そのものが、私の理解を超えていた。
「家」を売り買いするという意識そのものが、私には理解できなかった。
今から思うと、あのとき、その話を聞いて驚いたということは、それだけ
私の意識が、オーストラリア人のそれと、ズレていたことを示す。

●兄

 兄は、自分で考える力すら、失っていた。
してよいことと、悪いことの判断すら、できなかった。
そのため常識はずれな行動が目立った。
こんなことがあった。

 私が30歳のときのこと。
高校の同窓会があった。
私は恩師へのみやげということで、ジョニ黒(ウィスキー)を
用意して、もっていた。
が、その日の朝、見ると、フタが開けられ、上から3~4センチくらい、
ウィスキーが減っていた。

 兄の仕業ということはすぐわかった。
で、兄にそれを叱ると、悪びれた様子もなく、兄は、こう言った。
「ちょっと飲んでみたかっただけや」と。

 一事が万事、万事が一事だった。

●マザコン

 それで母の過干渉が終わったわけではない。
今にして思うと、ほかに類をみない、異常なまでの過干渉だった。
たとえば兄を、自転車屋という店に縛りつけたまま、一歩も、外に出さなかった。
友人も作らせなかった。
「おかしな連中とつきあうと、だまされるから」というのが、母の言い分だった。

 兄は、そんなわけで生涯にわたって、給料なるものを手にしたことはない。
ときどき小遣いという名目の小銭をもらい、そのお金でパチンコをしたり、
レコードを買ったりしていた。

 そんな母だったが、兄は、母の言いなりだった。
嫌われても、嫌われても、兄は母の言いなりだった。
何かあるたびに、兄は、こう言った。
「(そんなことをすれば)、母ちゃんが怒るで……」と。
母の機嫌をそこねるのを、何よりも、こわがっていた。

●母との確執

 私が30歳を過ぎたころ。
兄は40歳になりかけていた。
そのころ、私は兄を、浜松へ呼びつける覚悟をした。
祖父が他界し、父も他界していた。
「母と兄を切り離さなくてはいけない」と、私は決心した。

 すでに兄は、うつ病を繰り返していたし、持病の胃潰瘍も悪化していた。
内科の医師はこう言った。
「潰瘍の上に潰瘍ができ、胃全体が、まるでサルノコシカケのように、
なっています」と。

 血を吐いたことも、たびたびある。
そういう兄を知っていたから、私は母と言い争った。
「兄を浜松へ、よこせ!」
「やらない!」と。

 母は、兄を自分の支配化に置き、自分の奴隷として使うことしか考えていなかった。
心理学で言う、「代償的過保護」というのである。
「過保護」というときは、その裏に、親の愛情がある。
その過保護に似ているが、代償的過保護というときには、その愛情がない。

 一時は、1週間にわたって、母と怒鳴りあいの喧嘩をしたこともある。
はげしい喧嘩だった。
が、母には勝てなかった。
兄は兄で、母の呪縛を解くことができなかった。
私は引き下がるしかなかった。

●母の愛

 「愛」という言葉がある。
しかしこと私の母に関して言うかぎり、「愛」という言葉ほど、白々しい
言葉はない。

 もっとも母は、「愛」という言葉は使わなかった。
「かわいい」という言葉を使った。
「準ちゃん(=兄)は、かわいい」
「私は準ちゃんを、かわいがっている」というような言い方をした。

 母は、自分に従順で、口答えしない子どもが、「かわいい子」と言った。
そういう観点から見れば、私は、「鬼っ子」ということになる。
私は、ことあるごとに母に逆らった。
私のほうが生活の主導権を握っていたということもある。
母にはもちろん、兄にも、生活能力は、ほとんどなかった。
生活費は、すべて私が出した。
税金はもちろん、近親の人の香典まで……。

●泣き落とし

 そこで母が私に使った手は、泣き落としだった。
母は、いつも貧しく、弱々しい母を演じた。
そういう話になると、いつも涙声だった。
(涙は、ほんとうは一滴も出ていなかったと思うが……。)

 「母ちゃんは、近所の人が分けてくれる野菜で、生きていくから
心配しなくていい」というのが、母の口癖だった。
が、そう言われて、「はい、わかりました」と言う息子はいない。

 私はこうして母に、お金を貢いだ。
実家へ帰るたびに、20万円とか30万円(当時の金額)という現金を、母に渡した。

●家族自我群

 それでも私は自由だった。
浜松という土地で、好き勝手なことができた。
結婚し、3人の子どもをもうけることもできた。
そんな私でも、心が晴れたことは、一日もなかった。
本当になかった。

 心理学の世界には、「家族自我群」という言葉がある。
無数の「私」が、家族という束縛の中で、がんじがらめになっている状態をさす。
それから生まれる呪縛感には、相当なものがある。
「幻惑」という言葉を使って、それを説明する学者もいる。

 切るに切れない。
無視することもできない。
「私は知らない」と、放り出すこともできない。
それは悶々と、真綿で首を絞めるような苦しみと表現してもよい。
そんな中、母が私をだますという事件が起きた。
それについては、先にも書いた。

●家の犠牲

 私は「家」の犠牲になった。
兄は、さらに犠牲になった。
生涯、「女」も知らず、結婚もせず、一生を終えた。
一度だけだが、兄にも結婚の話があった。
しかし母がそれを許さなかった。
「結婚すれば、嫁に財産を奪われてしまう」と。

 で、ある日、私は兄を、浜松へ遊びに来たついでに、トルコ風呂へ連れて
いったことがある。
兄に「女」を経験させてやりたかった。
しかし入り口のところで兄は、固まってしまった。
「さあ、いいから、中へ入れ」と何度も促したが、兄は入らなかった。
そこがどういうところかも理解できなかった。

 そう、そのころから、兄は、私の兄というよりは、私の弟という
存在になった。
さらに私の息子という存在になった。

●兄の死

 こうして兄は、2008年の8月、持病を悪化させ、最後は胃に穴をあけられ、
肺炎で他界した。
作った財産は、何もない。
残した財産も、何もない。
あの「林家」という「家」に縛れられたまま、そこで生涯を終えた。

 冒頭の話に戻るが、だからといって、母にすべての責任があるわけではない。
母は母として、当時……というより、自分が生まれ育った時代の常識に従った。
ここでいう「家制度」というのも、そのひとつ。

 今でも、この「家制度」は、あちこちに残っている。
地方の田舎へ行けば行くほど、色濃く残っている。
そういう意識のない人たちからみれば、おかしな制度だが、そういう意識を
かたくなに守っている人も少なくない。

●「家」という監獄(2)

2009-09-11 08:31:42 | 日記


●家に縛られる人たち

 私の知人に、D氏(50歳)という男性がいる。
父親との折り合いが悪く、同居しながらも、子どものころから、たがいに口を
きいたこともない。

 父親は、きわめて封建的な人で、家父長意識がその村の中でも、特異とも
言えるほど、強い。
母親は、穏やかでやさしい人である。
そのため、一歩退いた世界から見ると、母親は、父親の奴隷そのものといった
感じがする。

 が、D氏は、その「家」を離れることができない。
なぜか?
ここに(意識)の問題がある。
D氏をその家に縛っているのは、もちろんD氏の意識ではない。
D氏自身は、一日でもよいから、父親のもとを離れたいと願っている。
が、それができない。

 それが家族自我群ということになる。
深層心理の奥深くから、その人を操る。
理性や知性の範囲を超えているから、自分でそれをコントロールすることは、
ほぼ不可能と考えてよい。

 私も何度か、「親と別れて住んだらいい」とアドバイスしたことがあるが、
そういう発想というか、意識そのものがない。
ないというより、もてない。
「何十代もつづいた家だから」というのが、その理由である。

 しかしはっきり言おう。
そういうくだらない考えは、私たちの時代で終わりにしたい。
「家」が大切か、「私」が大切かということになれば、「私」に決まっている。
「家を継ぐ」とか、「継がない」という発想そのものが、時代錯誤。
バカげている。
が、それがわからない人には、それがわからない。

 D氏は死ぬまで、結局は、「家」に縛られるのだろう。
しかし先日、古里と決別した、私から一言。

 「家意識なんて、棄ててしまえ!」。
「『私』を、鎖から解き放て!」。

 そこは自由で、どこまでもおおらかな世界。
D氏よ、何を恐れているのか?
何を失うことを、心配しているのか?

 あなたが自由になったところで、あなたは何も失わない。
あれこれと言う連中はいるだろうが、そういうバカな連中は相手にしなくてもよい。
相手にしてはいけない。
どうせ化石となって、消えていく運命にある連中なのだから……。

●兄へ
 
 兄は、死ぬことで、「家」から解放された。
運命と言えば、それが運命だった。
またそれ以外、方法はなかった。
運命と闘い、それを切り開く能力もなかった。
本来なら、いちばんそばにいて、兄を助けるべき母が、それをはばんでしまった。

 私のワイフは、よくこう言った。
「あなたの兄さんは、気の毒な人ね」と。
最近になって、つまり兄が死んでから、近所の人たちも、そう言うように
なった。
「あなたの兄さんは、気の毒な人だった」と。

 その「気の毒」という言葉の中に、兄の人生のすべてが集約されている。
それが兄の人生だった。

(補記)

 こうして兄のことを、包み隠しなく書くのは、兄のためである。
もしこのままだれも兄についての記録を残さなかったら、兄は、本当に
ただの墓石になってしまう。

 兄だって、懸命に生きた。
苦しみながら生きた。
その記録を残すのは、私という弟の義務と考える。
今、同じような境遇で苦しんでいる人のために、一助になればうれしい。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep・09++++++++++はやし浩司

●ジョーク

「世界おもしろジョーク集」(PHP判)の中の1つを、
編集させてもらう。

+++++++++++++++

あるとき、釈迦が、ある村にやってきた。
家制度がしっかりと残っている村だった。
釈迦は、その村で、3日間、説法をすることになった。

(第一日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、みなは、こう言った。
「知っていま~す」と。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、何も話すことはない。今日の説法はおしまい」と。

村の人たちは、みな、顔を見合わせた。
そこでこう決めた。
「明日、釈迦が同じ質問をしたら、みな、知らないと答えよう」と。

(第2日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、みなは、こう言った。
「知りませ~ん」と。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、何を話しても無駄だ。今日の説法はおしまい」と。

村の人たちは、みな、顔を見合わせた。
そこでこう決めた。
「明日、釈迦が同じ質問をしたら、右半分の人は、『知っている』と
答え、左半分の人は、『知らない』と答えよう」と。

(第3日目)

釈迦がこう言った。
「みなさんは、家制度というものを知っているか?」と。
すると、右半分の人たちは、「知っていま~す」と答えた。
左半分の人たちは、「知りませ~ん」と答えた。
すると釈迦は、こう言った。
「そうか、それなら、右半分の人が、左半分の人に、家制度がどういう
ものか、話してあげてください。今日の説法はおしまい」と。

釈迦の3日間の説法は、それで終わった。

(以上、「世界おもしろジョーク集」を改変、編集。)

++++++++++++++++

●自己否定

 少し不謹慎なジョークに仕立ててしまったが、そこは許してほしい。
こうした意識の奥深くに潜む意識の問題について書くのは、たいへんむずかしい。

 本人自身にその自覚があれば、まだよい。
さらにそれに対する問題意識があれば、まだよい。
が、それすらないとなると、その説明すらできない。
「家制度」そのものが、その人の哲学(?)や、ものの考え方の基本になって
いることもある。
へたにそれを否定すると、その人にとっては、自己否定そのものにつながって
しまう。
「あなたの人生はまちがっていました」「あなたは無駄なものを大切なものと
思い込んでいただけです」と。

 だからこのタイプの人は、抵抗する。
命がけで抵抗する。
そういうとき、決まって、「先祖」という言葉をよく使う。
「先祖あっての、あなたではないか」「その先祖を粗末にするとは何事か」と。
中に、「先祖を否定するあなたは、教育者として失格だ。
即刻、教育者としての看板をさげろ」と言ってきた女性(当時、35歳くらい)
がいた。
(この話は、ホントだぞ!)

 私は何も、先祖を否定しているわけではない。
「教育者」を名乗っているわけでもない。

●D氏のばあい

 先に書いた、D氏のばあい、盆供養のときは、位牌だけでも、
100個近く並ぶという。
昔からの家柄である。
そういう伝統を、D君の代で断ち切るというのは、D君自身にもできない。
できないというより、それをするには、大きな勇気がいる。
親戚の承諾も必要かもしれない。

 が、こういうケースのばあい、不要な波風を立てるよりは、安易な道を選ぶ。
選んで、現状維持を保つ。
こうしてD氏自身も、やがて「家制度」の中に組み込まれていく。

 そこで大切なことは、「私の代で、こうした愚劣な制度はやめにする」と
決意すること。
宣言すること。
子どもたちにそれを伝えて、よいことは何もない。
今度は、その子どもたちが苦しむことになる。

 が、実際には、高齢になればなるほど、それができなくなる。
家制度そのものは、高齢者にとっては、けっこう、居心地のよい世界である。
家父長として、みなの上に、君臨できる。
そのためものの考え方も、どうしても保守的になる。
こうして再び、ズルズルと、家制度をそのままつぎの世代へと残してしまう。
つぎの世代はつぎの世代で、同じようなプロセスを経て、同じように考える。

●周りの人たち

 そんなわけで周りの人たちが、その渦中で苦しんでいる人を、励まして
やらねばならない。
私も今回、古里と決別するについて、周りの人たちの励ましが、何よりも
大きな力となった。
ある友人は、こう言った。
「檀家なんて、やめてしまえよ」と。
また別の友人はこう言った。
「親が子どもを育てるのは当たり前のことだろ。感謝するとかしないとかいう
問題ではないだろ」と。
うれしかった。

 また長野県のある地方では、自治体ぐるみで、そういった悪習と闘って
いるところもある。
香典の額を、一律、1000円と決めたり、葬儀での僧侶への布施の額を、
一律、5万円と決めるなど。
戒名もひとつにしているという(長野県S市)。

 今、そういう動きが全国的に広がっている。
またその動きは、今後加速することはあっても、後退することはない。
あとは、私たちの勇気だけということになる。

 みなが、一斉に声をあげれば、こうした愚劣な制度は滅びる。
それにしても、21世紀にもなった今、どうして長子相続制度なのか?
家制度なのか?
人間にどうして上下意識があるのか?
バカげていて、話にならない!

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 長子相続 家制度 家意識 家父長意識 封建制度 はやし浩司 私の兄 先祖意識 親絶対教)

●9月11日(1)人間性

2009-09-11 06:37:26 | 日記
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子育て最前線の育児論byはやし浩司   09年 9月 11日
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●恩着せがましい子育て法

++++++++++++++++

恩着せがましい子育てをする人は多い。
「産んでやった」「育ててやった」と。
しかしこうした言葉を口にすればするほど、
親子関係は、さみしくなる。
心もさみしくなる。

++++++++++++++++

●一貫性

 一事が万事、万事が一事。
子育てには一貫性が重要だが、しかしそれには条件がある。
大切なのは、哲学。
スジ。
一本のスジ(筋)が通っていれば、よい。
スジが通っていないと、話がおかしくなる。
子育てが混乱する。
中には、こんな一貫性(?)もある。

●恩着せ

 ある母親(現在、60歳)が、あるとき私にこう言った。
「私は、子育てで、どれだけ苦労したかわからない」と。
話を聞くと、こうだ。

 2人の息子がいたのだが、「塾の送り迎えで、苦労した」「友だちのいじめに
あって、苦労した」「部屋を散らかすので、掃除で苦労した」「卵アレルギーで
苦労した」と。

 こういった話が、つぎからつぎへとつづく。
が、最後は、いつもこうだ。
「でも、みんな、無駄でした」「子育てなんか、するもんじゃない」「息子たちは
今では、どこに住んでいるかさえ、わからない」「損をした」と。

●いやみ

 その女性の話し方には、もうひとつの特徴があった。
それとなく、子どもたちの心を操るという方法である。
が、それがその女性にとっては、ごくふつうの言い方だったようだ。
当の本人は、それに気づいていなかった。
たとえばこういう言い方をする。

 「あの家の息子さんは、立派なもんです。今度、親のために、離れを建ててやった
そうです」「あの家の嫁さんは、すばらしい。親を温泉に連れていって、背中を流して
やったそうです」とか。

 そういうことを、息子たちが聞こえるところで、わざと言う。
私も聞いたことがある。
そのときは、こう言った。
「Nさん(女性の友人)は、幸せや。息子さんがすばらしいから、老後の心配は、
何もしなくていい」と。

 こういうのを私たちの世界では、「イヤミ」という。
が、ふだんからそうした言い方をしている人には、それがわからない。

●おかしな世界

 こうした言い方は、一度身につくと、クセになる。
何かにつけて、そういう言い方をするようになる。
が、世の中には、そういう女性のような言い方を支持する人もいる。
イヤミはイヤミなのだが、同じような言い方をする人には、それがイヤミには
聞こえなくなる。……らしい。

 ある男性(60歳くらい)は、こう言った。
「あの女性は、いい人ですよ」「子どもたちのために、どれほど苦労したかわからない」
「親のカガミです」「頭がさがります」と。
そういう女性を高く評価(?)する人もいる。

●私のばあい

 私自身は、そういう言い方を、3人の息子たちにしたことはない。
ときに口から出そうになったこともあるが、そこはぐいとがまんした。
息子たちが、生意気な口をきいたときのことだ。

 だから余計に、そういう言い方をする人が、私には目立つ。
違和感を覚える。
へんに感心することもある。
「世の中には、そういうものの考え方をする人もいるんだナ」と。

 子育てというのは、(そのとき)を楽しむためにある。
そこから始まって、そこで終わる。
そういう点では、私にとっては、子育ては楽しかった。
息子たちが、私に生きがいを与えてくれた。
毎日、仕事が終わると、何らかのおもちゃを買って帰った。
子どもたちの喜ぶ顔が、楽しみだった。
子どもたちがいなかったら、私はああまでがんばらなかっただろう。
現に今が、そうだ。
子どもたちが巣立ってしまった今、生活そのものから、ハリ(緊張感)が消えてしまった。

 だから息子たちには、感謝することはあっても、恩を着せることはない。
息子たちがみな、それぞれの生活をしているのを見て、それでよかったと思っている。

●人、それぞれ

 が、私が正しくて、その女性がまちがっているというのではない。
人それぞれだし、みな、それぞれの思いの中で、子育てをする。
子育てには、その人の人生観、哲学、価値観、それにその人の生い立ち、過去、
すべてが凝縮されている。

 その人が懸命に子育てをしているなら、「おかしい」とか、「まちがっている」とか、
そういう失礼なことを言ってはいけない。
それがたとえあなた自身の親であっても、だ。

 事実、私の母も、恩着せがましいことを、よく口にした。
うるさいほど、よく口にした。

●分析

 が、こうした恩着せがましい子育てをする人の心を分析することは、許される。
というのも、こういう恩着せがましい、言うなれば、イヤミたっぷりの子育てを
つづけていれば、親子断絶は、時間の問題、……というより、確実。

 先の女性にしても、「子育ては損」と言った。
しかし「損」ではなく、そういう結果を、その女性自身が招いたと考えるのが正しい。
2人の息子は、社会へ出るとすぐ、ともに暴力事件を引き起こし、警察に逮捕されている。
今は、職業と住居を転々としながら、どこで暮らしているかさえ、わからない。

 そこで分析ということになるが、こうした恩着せがましい子育てをしている人には
共通点がある。

(1)家族観の欠落、(2)不幸な夫婦生活、(3)不平、不満の多い生活、それに(4)強度の依存性。

不幸にして不幸な家庭で育った可能性がある。
そのため(家族像)が、育っていない。 

望まない結婚であった可能性も高い。
それが不幸な結婚生活の基本になっている。

また性格もわがまま。
それが不平、不満の原因になっている。

が、何といっても、最大の原因は、精神的な未熟性と考えてよい。
親になっても、ひとり立ちできない。
それが転じて、強度の依存性を生む。

●では、どうすればよいか

 こうした子育てにまつわる問題は、それを自分の中に感じたら、まず、それに気がつく
こと。
まずいのは、それに気がつかないまま、同じパターンを繰り返すこと。
気がつけば、あとは時間が解決してくれる。
すぐには改まらないかもしれないが、時間が解決してくれる。

 恩着せがましい子育てにしても、そうだ。
まず、それに気がつくとこと。
「ここに書いてあるのは、私のことだ」と思うだけでよい。
それだけで、あなたの子育て方が、客観的に浮かび上がってくる。

 つぎに大切なことは、別の新しい子育て観をもつこと。
「~~してやっている」という意識を捨て、「子どもと今の人生を楽しむ」「楽しんで
やる」と思いなおすこと。
大切なのは、「今」であって、「過去」でも「未来」でもない。

 ……とまあ、大上段に構えたような書き方をしてしまったが、これは私の
考え方。
あくまでも参考に。

●終わりに

 それぞれの親は、それぞれの子育て観、子育て法をもっている。
それに基づいて、子育てをする。
そしてそれが多くのばあい、「一事が万事」「万事が一事」となる。

子育てには一貫性が重要。
が、同じ一貫性でも、確固たる子育て観に基づかない一貫性ほど、こわいものはない。
世俗に流されるまま、自分を見失ってしまう。
子どもの心を見失ってしまう。
ここに書いた、「恩着せがましい子育て法」も、そのひとつと考えてよい。

 話が繰り返しになったので、このエッセーは、ここまで!


【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●人間性

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目の前に札束が積まれる。
電話一本で、自分のものになる。
相手の男は、こう言った。
「領収書はいりません」と。

部屋の中にはだれもいない。
あなたが迷っていると、さらに相手の男は
こう言った。

「このお金は、裏帳簿でねん出したものです」と。

そんなときあなたは、その申し出を断ることが
できるだろうか。
言い忘れたが、金額は、3000万円!
電話といっても、配下の役人に電話するだけ。
「よろしく、頼む」と。

++++++++++++++++++

●背伸び

 私たちは他人の悪事や不正を知ると、まるで鬼の首でも取ったかのように騒ぐ。
「私たちは善人です」と。
朝のワイドショーが、そのひとつ。
このところ芸能界では、立てつづけにいろいろな事件が重なっている。
しかしそういう報道を見ながら、私は、ふとこう思う。
「何を偉そうに!」と。

 キャスターにしても、コメンテイターにしても、どこかインチキ臭い。
そういう人たちが、いっぱしの正義を説くから、おかしい。
いや正義を説いてはいけないと言っているのではない。
どこかチグハグだから、おかしいと、私は言っている。
たとえて言うなら、まるで知性を感じさせない俳優が、映画の中で科学者や哲学者を
演ずるようなもの。
背伸びして、力んでいるだけ。

●自問

 そこで冒頭の話。
もしあなたがそれなりの政治家で、目の前に大金を積まれたら、あなたはどうする
だろうか。
「私は、そういうお金はいりません!」と、きっぱりと断ることができるだろうか。

 政治家が収賄罪で逮捕されるたびに、私は、自問する。
「お前なら、どうする?」と。
で、答えはいつも同じ。
「私なら、もらってしまうだろうな」と。
お金は嫌いではない。
何もあえて嫌う必要もない。

 だから私は政治家には向かない。
政治家にはなれない。
仮に断ったとしても、多分(?)、そのあと後悔するだろう。
「もらっておけばよかった」と。
つまり私の人間性も、その程度。
だからこと収賄罪については、私は偉そうなことは言えない。
事実、偉そうなことを書いたことはない。

●平和宣言

 で、再び、子どもたちによる平和宣言。
今年も、あのH市で、子どもたちによる平和宣言がなされた。
今年は、「議論をしつくして、平和を守ろう」というようなことを、子どもたちは言った。
まさに正論だが、正論すぎるという点で、私は顔をそむけた。
相手が、ワイドショーのコメンテイターなら、すかさずこう思っただろう。
「何を偉そうに!」と。

 少なくとも、私にはできない。
近親者や近隣者とのトラブルは、無数に経験してきたが、私にはできない。
いわんや、そこらの小学生にできるはずもない。
期待もしていない。
そういう子どもたちが、堂々と(?)、こう言う。
「話し合いで、問題を解決しよう」と。
 
 このおかしさ。
 このこっけいさ。

 だれかが言わせているのだろうが、子どもに、そんなことをさせてはいけない。
何なら、こんな宣言をさせてみたらどうだろう。
「私たちは、おとなになり、政治家になっても、賄賂は受け取りません!」と。

●教育の世界でも

 人はだれしも、人間的な(弱さ)をもっている。
「人」というより、「人間」と言った方がよいかもしれない。
私ももっているし、あなたももっている。

 その(弱さ)を克服するとなると、並大抵の努力ではできない。
それに時間がかかる。
苦しんだり、悩んだりしながら、少しずつ克服していく。
まさに日々の精進(しょうじん)あるのみ。
日々の精進こそが、それを可能にする。
たとえば子どもの教育にしても、そうだ。

 教育というのは、手をかけようと思えば、いくらでもかけられる。
が、その一方で、手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
それこそプリントだけをやらせて、それで終わることもできる。
(世の親たちは、プリント教材を多く与える教師を、よい先生と誤解している
ようだが……。
プリント学習ほど、教師にとって、楽な指導法はない!)

 子どもたちにしても、もともと勉強などしたくない。
教師がへたにがんばると、かえって子どもたちには嫌われる。

 そういうとき自分にムチを打って、手をかけるというのは、実のところ、
たいへんなことである。
その心は、目の前に積まれた大金を断る(心)と、どこか相通ずる。
金額の桁(けた)はちがうが、心は同じ。

 手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。
子どもたちもそれを望んでいる。
今日、一日、楽に終わったところで、子どもたちへの影響は微々たるもの。
給料は、ちゃんともらえる……。

 そんなときあなたは、手をかけて、子どもたちを指導するだろうか。
それができるだろうか。

●哲学

 話を戻すが、自分の人間的な(弱さ)を克服するのは、簡単なことではない。
先にも書いたように、「その(弱さ)を克服するとなると、並大抵の努力ではできない」。

 では、どうするか?

 ひとつの例として、私はダイエットをあげる。
私は今まで、何十回となく、肥満→ダイエット→リバウンドを繰り返してきた。
数か月ごとの定例行事になっていた。

 その私は、こんなことに気づいた。
「哲学のないダイエットは、意味がない」と。
言い換えると、それなりの哲学を構築するのが先。
それがないままダイエットを始めても、長つづきしない。
結局は(ダイエット→リバウンド)の繰り返しで終わってしまう。

 たとえばダイエットするにしても、運動と食事制限だけでは、無理。
美容目的なら、さらに無理。
そこで私は、「食べたら損(そこ)ねるのか、食べなければ損なのか」を自問する
ようになった。
そして最終的には、「損とは何か」というところまで、考えるようになった。

●政治家としての哲学

 冒頭にあげた、賄賂の問題にしても、最終的には、哲学の問題ということになる。
たとえばその賄賂を、そのまま懐(ふところ)に入れてしまえば、一時的には、得を
したことになる。
しかしもう少し長い目で見れば、自分の人間性を損(そこ)ねる。
人生を無駄にすることになる。
つまり損(そん)をすることになる。

 その(人間性を損ねる)部分を、はっきりと(損)と自覚するためには、それなりの
哲学、つまり生きざまが必要。
その生きざまの確立なくして、この問題を解決することはできない。

 政治について言えば、政治家というのは、国のリーダーである。
そのため無私無欲の公僕でなければならない。
日本全体、世界全体の共通した「善」の達成のためにこそ、力を注ぐ。
……こうした哲学を、一歩、一歩と完成させていく。
その結果として、政治家は政治家でありうる。
かなりきびしいことを書いたが、それができないようなら、またその努力をしない
ようであるなら、偉そうに、政治家などになるべきではない。

 いわんや、自己の名聞名利(みょうもんみょうり)の達成のために政治を利用する
などということは、あってはならない。

●精進あるのみ

 ……といっても、ほとんどの人にとっては、政治家という職業は無縁のもの。
目の前に大金を積まれるということも、ない。

 しかし自分の人間性を試されるということは、日常的によくある。
あるいは私たちは、常に試されながら、生きている。

道路でサイフ拾ったとき。
どこかの店で、駐車場の空きがないとき。
並んで順番を待っているとき。
混雑したバスや電車に乗ったとき。
買い物をするとき。
ゴミを捨てるとき、などなど。

 そのつど私たちは、自問する。
「損(そこ)ねるのか、それとも損(そん)なのか」と。
自問しながら、自分を高めていく。
その緊張感を緩めたとたん、元の木阿弥。
とくに私のような、もともと素姓のよくない人間ほど、そうなる。

 で、やはり答えは、同じ。
「私なら、もらってしまうだろうな」と。
私には、そんな高邁な人間性は、ない。
だから今日も、精進あるのみ。
がんばろう!

 2009年8月10日、朝記。


【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●今朝は、5時7分起き

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今朝は、午前5時7分に目が覚めた。
強い地震が、静岡県地方を襲った。
この浜松市でも、震度4~5前後もあったという。

私はそのとき、山荘にいた。
床の中で眠っていた。
ズシン、ドドドド……と、はげしい揺れを感じた。
瞬間、自分がどこにいるか、わからなかった。
ワイフが隣のふとんから、手を延ばしてきた。
こわかったらしい。
いつもは姉さん女房のようなワイフだが、こういうときは
気が小さい。

私は震源地を計算していた。
縦揺れから、横揺れに移るまでの時間を思い出していた。
数秒か、あるいはもう少しか……。

「震源地は結構、近いな」と思った。
それに山荘でこの程度だから、浜松市内は、もっと揺れたはず。

このあたりは、山全体が大きな岩盤のようになっている。
一方、浜松市内は、もとはと言えば砂浜。
「被害はどれくらいだろう?」と思った。
思いながら、床から起き上がった。
テレビにスイッチを入れた。

 で、そのあとのこと。
私はこうして起きて、パソコンに電源を入れた。
ワイフは、そのまま再び眠ってしまった。
ああいう性格は、ほんとうにうらやましい。


++++++++++++++++++++++++++

●超徳の人

 昨日、ウォーキングをしながら、こんなことを考えた。
1人の男がジョギングをしながら、私を追い抜いた。
そのときのこと。
その男が、2度、3度と、たてつづけに道路に痰を吐いた。
薄緑色の、汚い痰だった。

 それを見たとき、私は、人間は、いくつかのタイプに分かれることを知った。

(1)それを見て、怒るタイプ。これを「タイプA」とする。
「A」は、「angry(怒り)」の頭文字。

(2)それを見て、平気なタイプ。これを「タイプI」とする。
「I」は、「indifferent(無関心)」の頭文字。

 さらに「Aタイプ」は、自分も同じようなことを平気でしているタイプと、
そういうことはしていないタイプに分かれる。
前者は、「A・身勝手タイプ」ということになる。
後者は、「A・超自我タイプ」ということになる。

 「Iタイプ」も、自分も同じようなことを平気でしているタイプと、
そういうことはしないタイプに分かれる。
前者は、「I・無責任タイプ」ということになる。
後者は、「I・厭世(えんせい)タイプ」ということになる。

 で、「私は、どのタイプか」と。

●善人論

 私は道路に痰を吐いたことはない。
少なくとも20歳以後は、一度もない。
19歳のときに、一度、大失態をしてから、痰はもちろん、ツバを吐くことすら、
やめた。

 だからというわけでもないが、そういう光景を見ると、かなり強い怒りを覚える。
そのため私は「タイプA・超自我タイプ」ということになる。
ほとんどの人が、このタイプに属する。
問題は、そのつぎ。

 そういう光景を見たとき、相手を注意すべきかどうかということ。
私はもともと法科出身だから、すぐ法律的なものの考え方をしてしまう。
「まだ浜松市には、そういう条例はなかったはず」と。
つまり私の(怒り)を後ろから支えてくれる、条例がない。
とたん、口が勝手に閉じてしまった。
相手が男だったから、遠慮したわけではない。
健康のためにジョギングするような人だから、それなりの人物のはず。
が、それを注意することができなかった。

 では、無視すればよいかというと、そうでもない。
善をなすから、善人ということにはならない。
悪をしないから、善人ということにもならない。
善人が善人であるためには、積極的に悪と闘わねばならない。
積極的に悪と闘ってはじめて、人は、善人になれる。
これは私の持論でもある。

 そのばあい、その男の行為を積極的に制止してこそ、私は善人ということになる。


●9月11日(2)人間性

2009-09-11 06:36:48 | 日記
●高徳の人

 「たかが痰くらいで、目くじらを立てることもないだろ」と思う人もいるかもしれない。
しかしこうした論法には、しっかりと釘を刺しておきたい。

 日々の積み重ねが、月となり、それがさらに積み重なって、年となる。
それが10年、20年とつづいて、その人の人格になる。
日々のささいな行為、言動こそが、その人の人格を決める。

 先に書いた、「I・無責任タイプ」「I・厭世タイプ」の人が、長い年月を経て、
どんな人間になっていくかは、容易に察しがつく。

 ……ところが、そのときは、ちがった。
私は痰を吐きながら走るその男のうしろ姿を見ながら、こう思った。
「もうひとつ、別のタイプの人間もいるのではないか」と。
世俗のもろもろの(悪)を超越して生きる生き方も、あるのではないか、と。
(怒りを通り越した、その向こうの生き方)といってもよい。

 というのも、まわりは、世俗のかたまり。
排気ガスをボンボンと出しながら走る車。
くもの巣のように、天をおおう電線。
交通ルールを守らないドライバーたち。
緑のない、殺風景な道路。
満足な歩道すら、ない。
いちいち(怒り)を感じていたら、それこそ身が持たない。

 そういう(世俗社会)を見ながら、「これが人間の世界」と受け入れてしまう。
道路に痰を吐く男も、その一部にすぎない。
それよりも重要なことは、私も、その男も、この世俗社会で懸命に生きている
という事実。
その(尊さ)に比べたら、道路に痰を吐くことなど、なんでもない。
(だからといって、容認してよいということではない。誤解のないように!)

 だからもし私が怒りを感ずることもなく、ニコリと笑いながら、
「それはいけませんね」と軽く注意することができたら……。
それに応えて、その男もやはり、ニコリと笑って、「すみません」と言うことが
できたら……。
たがいに不愉快に思うことはない。
 
 それができる人のことを、「高徳の人」という。
心を乱すことなく、相手の非をとがめ、相手がどんな反応を示しても、これまた
心を乱すこともない。

 が、残念ながら、私は、(怒り)の段階で、自分を収めてしまった。
(どういうわけか、相手が白人だと、私はできるのだが……。)
不快感だけをどこかに残しながら、私はそのままウォーキングをつづけた。

 見るとその男は、道を途中で左に曲がり、路地の向こうに消えるところだった。
そのときも、ペッペッと痰を道路に吐いていた。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●Wait a minute! (ちょっと、待ってください)

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英語には、「Wait a minute!(ちょっと待ってください)」
という言い方がある。

その「minute」には、「ちょっと」という意味と、「1分、2分というときの
「分」という意味もある。

「世界おもしろジョーク集」(PHP)のほうには、その解説が載っていなかったので、
私のほうで先に解説しておく。
その上で、つぎのジョークを読むと、さらに深く(?)、意味がわかるのでは……。

その本に、こんなジョークが載っていた。
(内容は、私の方で編集。)

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●「1分だけ、待ってほしい」

 ある若い女の子が、神様にこう聞いた。
「神様、天国には時間というものがあるのですか」と。
それに答えて、神様は、こう言った。

「ないよ。地球上の数十万年が、天国のこちらでは1分だよ」

すると女の子は、つづけて、こう聞いた。

「神様、お金(マネー)には、意味があるのですか」と。
それに答えて、神様は、こう言った。

「ないよ。お金には、まったく意味がないよ。価値もないよ」と。

で、女の子は、それを聞いて、つづけてこう言った。
「だったら、神様、私に数十万ドルをくれない?」と。

すると神様は、こう言った。

「Wait a minute!」(ちょっとだけ、待ってほしい)と。

●解説

 わかるかな?
神様は、掛け言葉を使った。
「ちょっと」と「1分」を,掛けた。

 天国では、地球上の数十万年が、1分に相当する。
つまり「Wait a minute!」というのは、神様にしてみれば
1分かもしれないが、地球に住むその女の子には、数十万年を意味する。
つまり「数十万年、待ってほしい」と。

●反応

 で、こうしたジョークを子どもたちに話していて、ひとつ気がついたことがある。
私はときどき、レッスンの合間に、ジョークをはさむ。
が、である。

 日本の子どもたち……というより、日本人は、こうしたジョークを楽しむという
習慣そのものがない。
先日も、小学5、6年生のクラスで、いくつかのジョークを話してやったのだが、
だれも笑わない。
「どうしてそんな話がおもしろいの?」と。

 そこであれこれ解説してやるのだが、反応がイマイチ、弱い。
鈍い。
中には、「くだらネ~」とはき捨てる子どももいる。

 どうしてだろう?
おもしろい現象なので、ついでに、ここに書きとめておくことにする。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●買い物依存症

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買い物依存症の人は多い。
私も、その1人。

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 が、買い物依存症の人は、それを必要とするから、
それを買うのではない。

買った瞬間、自分のものになったという快感を
味わうために、買う。
だからある程度、時間が過ぎると、また別の
ものが、ほしくなる。
(あるいは同じものでも、ほしくなる。)

 線条体に、そうした受容体ができていて、
視床下部の指令を受けて分泌されたドーパミンが、
その受容体を刺激する。

 言うなれば、条件反射。
並みの努力では、その条件反射と闘うのは、難しい。

 「アルコール中毒、ニコチン中毒と同じに考えていい」と言うと、
ワイフが、すかさず反論した。

「買い物依存症とはちがうわよ」と。

 ところが、どっこい!
人間の脳みそは、一見複雑だが、こと「反応」ということになると、単純。
線条体そのものには、知的判断力はない。
「これはアルコール用のドーパミン」「これはニコチン用のドーパミン」というふうには、
区別しない。
ドーパミンが分泌されると、その区別なく、脳は、自動的に反応してしまう。

 で、その買い物依存症。

 今日、これから近くのパソコンショップで、パソコンを買ってくる。
ねらっているのは、T社製の、「ダイナブック」。
性能はまあまあ。
値段は。9万9800円。
16インチの大型画面。

半年ほどから、ミニノートを3台使ってみたが、どうも使い勝手が悪い。
文字が打ちにくい。
文字が見づらい。
反応が遅い、などなど。

ワイフにねだったら、「しかたないわねエ~」と。
それで買うことにした。

 ときどきこういう刺激を与えないと、脳みそがしぼんでしまう。
言うなれば、脳みそのレッスン料。

で、今は、ワクワク。
手元にあるチラシは、すでにクシャクシャになっている。

「待ってろよ、ダイ子! 今、買ってやるからな!」と。

 言い忘れたが、私はパソコンには、それぞれに、すべて女性名をつけている。
「ダイナブック」だから、「ダイ子」。
真っ白で、スベスベした肌の女の子。
体は大きいが、抱きごこちは、よさそう。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●風邪の菌

+++++++++++++++++++++++

風邪の菌にせよ、ウィルスにせよ、大人用、子ども用、
ひきかけ用、治りかけ用というのは、ない。
みな、同じ。

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ほとんどの人は誤解している。

風邪にせよ、インフルエンザにせよ、菌やウィルスには、
大人用もなければ、子ども用もない。
なり始め用もなければ、治りかけ用もない。

「子どものひいた風邪だから、おとなには移らない」と
考えるのは、誤解というより、まちがい。
むしろ子どものもっている菌やウィルスのほうが、強力と
考えてよい。

またよく誤解されるのが、「治りかけの風邪」。
先日も、ほぼ1週間ぶりに風邪が治って、教室へやってきた
女の子(小5)がいた。
ときどき、痰がのどにからむような、深い咳をする。
そこで私が、「マスクをするように!」と何度も促したのだが、
「私はもう治った」と言って、私の言うことを聞かない。

だから、私は説明してやった。

「あのね、治ったのではないよ。
君の体の抵抗力が、風邪の菌に勝っただけだよ。
菌はそのまま、君の体の中に残っている。
その菌というのはね、君が病気で寝ていたときと同じ菌だよ。
君が治ったからといっても、菌はそのまま。
感染力も、そのまま。
弱くなったということではない。
君が咳をすれば、その菌は、みなに移るんだよ」と。

 しかしその女の子は納得しなかった。
「菌が弱くなったから、私は治った」と。
そればかりを言い張った。

で、私は、本気で叱った。
ほかの子どもたちのほうを向いて、平気で咳をしていたからだ。

「マスクをしないなら、出て行け。
ほかの人に咳を吐きかけるというのは、暴力と同じだ」と。

女「暴力とはちがう!」
私「暴力だ」
女「どうして暴力なのよ!」
私「それで風邪を移されたら、その相手は、数日間苦しむことになる」
女「私の菌とはかぎらないわよ」
私「だれの菌かは、特定できない。潜伏期間というのもあるから。
しかし君から移されたのではないと、だれが証明できる!」と。

 その会話を聞いていたほかの子どもたちが、私の味方についてくれた。

「そうだ、そうだ。来週、ぼくが風邪をひいたら、お前のせいだ。
損害賠償を請求するからな」と。

 それでその女の子は黙った。
が、マスクは最後までしなかった。
咳を懸命にこらえたまま、終わりまで、勉強していた。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●ジェット水流風呂

 このところ毎週のように、近くの温泉に足を運んでいる。
そこで、こんなことが気になった。

 大浴場の脇に、人が並んで入れるほどの小浴場がある。
その中では猛烈な勢いで、ジェット水流が噴出している。
ザーザーというよりは、ゴーゴーといった感じ。
まるで大きな滝の中に身を落としたよう。
それが背中側からと、ちょうど尻の下側からと、それと足の裏が当たるあたりの
3方から、噴出している。

 はじめてそれに当たったときには、しばらくすると激痛が走るようになった。
あとで見たら、背中の皮が赤むけていた。
つまりそれくらい、水流は強力。

 それはそれでよいのだが、こんなこともある。

 シャワートイレというのがある。
そのシャワートイレを使っていると、水流が肛門から腸のほうへ、逆流して入って
くることがある。
で、そのあと腹に力を入れると、腸を洗浄するかのように、ザーッと汚れた水が
出てくる。
(きたない話でごめん。しかしこれは重要なことだから……。)

 で、温泉で、そのジェット水流風呂につかっているときのこと。
水流は、先にも書いたように、3方から同時に噴出してくる。
で、その中でも問題なのは、尻の下から噴き上げてくる水流。
それがちょうど肛門あたりに、当たる。

 その感触が、シャワートイレと同じ(?)。
よく見ると、自分の肛門あたりを、わざとその水流に当てている人もいる!
で、それに気がついたとき、体中を戦りつが走った。
ゾーッ。

 風呂の水の汚れは、ゴーゴーと噴出する水流の泡でわからない。
しかし中には、その水流を、肛門を通して、腸の中に取り入れている人も
いるはず。
その気はなくても、水流のほうが、勝手に入ってくる。
ということは、……?????

 このあとのことは、読者のみなさんが、勝手に想像してほしい。
想像するだけでも、ゾーッ!
それにしても、汚い。
だから私は、それからは、温泉を出るときは、必ずシャワーで体を流すように
している。
つまり、あれほど、恐ろしいものはない。
みなさんも、あのジェット水流風呂なるものに入るときは、じゅうぶん、気を遣って
ほしい。

 あれは、どうも、……?
ゾーッを、20回くらい繰り返して、この話は、おしまい。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++++はやし浩司

●新しいパソコン

 今、この文章を、新しいパソコンを使って書いている。
T社製のダイナブック、TX66、2009年の夏モデル。
純白の美しいパソコンである。
その設定に、2時間ほど、かかった。

 ウィルス対策ソフトをインストール、スパイボットをインストール、
いろいろな常用ソフトをインストールなど、など。
ほかにワードの辞書、さらにはお気に入りの引っ越しなど。
ついでに私のメインHPの更新も試してみた。
みんなサクサクと、うまくいった。

 ノートパソコンだから・・・とバカにしていたが、それはまちがいだった。
この数年で、パソコンは、またまた進化!
プラス、驚いた。
使いながら、何度も「フ~~ン」と感心した。

手元の仕様書によれば、「インテルCore2DuoプロセッサーP8600、
2・40GHz」とある。
悔しいが、2年前に買った、デスクトップのパソコンより、頭がよい。
ただしグラフィックボードは搭載していないので、ゲームなどはどうか?
(ゲームをすることは、めったにないが・・・。)
あとでそれも試してみる。

 で、何か気のきいた文章を打ってみたいが、まだ指のほうが、慣れていない。
どこかぎこちない。
脳みそと文章の間に、厚い壁があるような感じ。
キーボードのキーが磨滅して、テカテカになるまでに、数か月はかかる。
そのころになると、その壁が消える。
考えたことがそのまま、文章になる。

 ところで設定のとき、「どうしてこのパソコンを選びましたか」という
質問項目があった。
私は「美しかったから」と書いた。
「このパソコンで主に何をしますか」という質問項目については、「今夜は、
抱きしめて寝ます」と書いた。




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