★
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 9月 2日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
9月2日 第1247号になりました!
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
*
http://bwhayashi2.fc2web.com/page003.html
★★みなさんのご意見をお聞かせください。★★
(→をクリックして、アンケート用紙へ……)http://form1.fc2.com/form/?id=4749
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●子どもの問題
子どもの問題をかかえて、悩んでいる人は多い。
「勉強をしない」
「目標をもってない」
「毎日、だらだらしている」
「自覚がない」
「親子の会話が途絶えた」などなど。
しかしそういうとき、どうして親たちは、自分の姿を見ないのか?
自分のこととして、考えないのか。
つまり「私自身はどうなのか」と、なぜ、考えないのか。
ある母親は、こう言った。
「うちの子(中学3年、男子)は、学校から帰ってきても、受験勉強どころか、
学校の宿題もしません。どうしたらいいですか」と。
私はその質問を聞いて、こう思った。
(思っただけで、言わなかったが……。)
「だったら、お母さん、あなた自身が勉強をすればいい」
あなた自身が、東大へ入ってみせればいい」と。
先に書いた親の悩みについても、同じようなことが言える。
「勉強をしない」(だったら、あなたは勉強をしているのか?)
「目標をもってない」(だったら、あなたは目標をもっているのか?)
「毎日、だらだらしている」(だったら、あなたは、きびきびとしていのか?)
「自覚がない」(だったら、あなたは自覚しているのか?)
「親子の会話が途絶えた」(だったら、あなたは会話をしているのか?)、と。
最近の考え方としては、「子どもは家族の代表にすぎない」とする。
子どもに何かの問題があったとしても、それは子どもだけの問題ではない。
家族全体の問題である。
子どもに現れた症状は、あくまでもその(結果)にすぎない。
そう考えて、対処する。
かなりきびしいことを書いたが、それくらいの心構えをもってこそ、
ちょうどよい。
私たち日本人は、親意識が強い。
子どもだけをみて、子どもを何とかしようと考える。
しかしそういう見方では、問題は解決しない。
子どもも納得しないだろう。
Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司
●愚痴(Complaint or Grumble)
++++++++++++++++++++++++
英語と日本語を一致させることはできない。
微妙にニュアンスがちがうことが多い。
たとえば「愚痴」を、英語では、「complaint(不平・不満)」という。
しかし「愚痴」と、「complaint」は、どこかちがう?
そういうことはあるが、その「complaint」について、アメリカの精神医学会
(American Psychiatric Association)は、「不安神経障害(Anxiety Disorder)」
の主症状のひとつにあげている(DSM-4)。
愚痴をあれこれ言うこと自体、「障害(Disorder)」のひとつというわけである。
なるほど!
だから、愚痴は言わない。
APAのHPには、つぎのようにある(一部抜粋)。
In behavioral health care as in general medicine, when an individual complains of a
subjectively experienced disturbance or unpleasant perception such as pain or anxiety,
we call this a symptom. We distinguish this from a sign such as slurred speech which a
professional can observe.
(苦痛や心配ごとのような混乱や不快感について、不平、不満を訴えることを、「症状」と
いい、たとえばおどおどした態度のような、専門家でないと区別できないような症状を、「兆
候」という。)
+++++++++++++++++++++++++
●日本語
日本語を使っているとき、ときどき、こう感ずることがある。
「日本語って、すぐれているなあ」と。
とくに(心)を表現する用語が、きわめて豊富である。
たとえば10年ほど前から、欧米では、さかんに「attachment(アタッチメント)」
という言葉が使われるようになった。
「愛着行為(行動)」と翻訳されている。
が、これなどは、「赤ちゃん返り」の類義語と考えればよい(反論もあるだろうが……。)
心理学で言う「固着」にしても、日本語には、「わだかまり」とか、「こだわり」とか
いう言葉がある。その類義語と考えればよい。(反論もあるだろうが……。)
さらに日本語には、「取り越し苦労」とか、「ヌカ喜び」という言葉もある。
これなどは、まさに「不安神経障害(Anxiety Disorder)」の主症状のひとつと考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)
精神的に不安定な人ほど、取り越し苦労とヌカ喜びを、いつも繰り返す。
私たちは専門家ではないから、(逃げるわけではないが……)、要するに、心理学と
いっても、よりよく自分の人生を生きるための道具にすぎない。
またそういう目的のために利用すればよい。
(それでお金を稼いでいる人は別だが……。)
冒頭にあげた、愚痴(complaint)にしてもそうだ。
「愚痴を口にしたら、精神状態はふつうでない」と考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)
●K子さん(62歳)の例
当時、私は無料で、電話相談なるものを受け付けていた。
そんなある日、K子さんという女性から、家族の問題について、相談があった。
静かで、落ち着いた女性だった……と感じたのは、最初の1回目のときだけ。
それにつづく相談は、まさに「?」としか思えないようなものだった。
いくつか特徴があった。
(1)一方的にしゃべるだけ。
(2)不平、不満をしゃべるだけ。
(3)「では、どうすればいいのか」という話し合いができない。
(4)ことこまかに、どうでもよいことを、しゃべるだけ。
(5)つぎの相談のときには、前の相談のことを忘れてしまっている(?)。
(6)前回の相談のときの矛盾をつくと、パニックになる。
(7)「私はすばらしい」「まちがっていない」ということを強調する。
(8)私が反論的な意見をそえると、それに猛反発する。
(9)子どもの相談といいながら、ときとして、夫や姑の話になる。
(10)そういう電話が、毎回、ときに1時間以上も、ねちねちとつづく。
当時の私は、「愚痴を聞いてやるだけでもいいのでは」と考えて、K子さんの
言うままにしておいた。
しかしまともに聞いていると、こちらまで気が変になりそう。
そう感じたから、ときには受話器を耳からはずして、「そうですか」「そうですね」だけを
繰り返した。
一度だが、私の方から電話を切ろうとしたことがある。
とたん、K子さんは、パニック。
激怒。
「どうして私の話を聞いてくれないのですかア!」と。
●愚痴
「愚痴は言わない」というのは、さわやかに生きるための大鉄則。
だが、同時に、「他人の愚痴を聞かない」というのも、重要。
愚痴には、恐ろしい魔力がある。
仏教でも、肉体の奴隷になることを、強く戒めている。
もし肉体の命ずるままに、精神が動揺したら、人間はそのまま畜生と化す。
その中でも、とくに警戒すべきものが、『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』。
ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』をいう。
要するに、(愚かさ)が極まった状態を、『痴(ち)』といい、それが愚痴の語源に
なっている。
わかりやすく言えば、愚痴を言うこと自体、その人が愚かであることを意味する。
その(愚かさ)に接していると、接するこちら側まで、愚かになる。
だからある賢人は、こう言った。
「怒っていたら、愚痴を言うな。愚痴を聞いても、怒るな」と。
けだし、明言である。
ともかくも、愚痴を言うということ自体、アメリカでは、精神障害(mental disorder)
を疑われるということ。
日本では、愚痴を軽く考える傾向があるが、アメリカでは、そうでないということ。
気をつけよう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 愚痴 愚痴論 complainment 不安神経障害)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●8月4日(ダイエット、一考)(Dieting)
++++++++++++++++++
私にも夏休みがある。
1週間ほど、それがもらえる。
その夏休みが、近づいてきた。
が、今年の予定は、なし。
実家の売却、法事とつづく。
それが無事すまないことには、
どうも落ち着かない。
+++++++++++++++++++
●こむら返り
おととい、夜中にジョギングしているとき、突然、こむら返りが起きた。
コムラ返りそのものは、すぐ収まったが、そのあと筋肉離れでもしたかのような激痛。
で、あえなく、ジョギングは、中止。
が、それで運動をやめたのでは、(はやし浩司)が泣く。
昨夜は、5キロ前後を歩き、プラス2キロ前後を走った。
おかげで家に帰ったときには、足は棒のようになっていた。
静かにしていれば、何ともないが、歩き始めたとたん、ギギーンと痛む。
●はやし浩司流、ダイエット法
いろいろなダイエット法がある。
いろいろな人が、本を書いている。
が、どれも基本的には、同じ。
運動と食事制限。
この2つが柱になっている。
しかし「はやし浩司流、ダイエット法」は、少しちがう。
生きる哲学そのものを見直そうというのが、それ。
その哲学を変えないかぎり、ダイエットは、成功しない。
●ダイエット哲学
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損なのか」。
すべてはそこから始まり、そこで終わる。
私たちは、あらゆるものを金銭的価値に置き換えて、ものを考える傾向が強い。
たとえばレストランへ入ったとるする。
800円のランチを頼んだとする。
そういうとき私たちはこう考える。
「800円出したのだから、800円分、しっかりと食べなければ、損」と。
しかしこの考え方そのものが、おかしい。
まちがっている。
まず、それに気づく。
●どうして食べなければ、損なのか?
私は子どもたちに、よくこう言う。
「ぼくの車は、ビッツ(トヨタの最安車)だけど、体はベンツ(高級車)だよ」と。
冗談ぽく言うが、冗談ではない。
かなり本気である。
「トヨタのビッツのような車で、ベンツのような体か、それともベンツのような車で、
ビッツのような体か」と、問われれば、私なら、(ベンツのような体)のほうを、選ぶ。
私たちの精神は、ズイのズイまで、金銭的判断に毒されている。
いつも損得を考えて、行動している。
そのことは、食べ放題の店に入ってみると、よくわかる。
どの人も、食べなければ損……といったふうに、食べている。
たとえばケーキでも、パクパクパクの3回で、3個!
が、そういう人ほど、例外なく、太っている。
見た目にはどうであろうとも、体はビッツ(失礼!)ということになる。
●「食べたら、損(そこ)ねる」
「食べたら、損ねる」。
まず、それに気づく。
太っていてよいことは、何もない。
メタボリック症候群を例にあげるまでもない。
が、問題は、なぜ太るか、だ。
こう質問すると、「腹がへるからだ」と、たいていの人は、そう答える。
しかし本当にそうだろうか?
そう考えてよいのだろうか?
実際にはそうではなく、ほとんどの人は、(食べている)のではなく、
(食べさせられている)だけ。
食欲の命ずるがまま、操られているだけ。
まず、それに気づく。
●損得論
繰り返す。
私たちの生活は、金銭的判断によって、あまりに毒されすぎている。
わかりやすく言えば、何を食べるにも、「もったいない」という意識が働く。
「もったいないから、食べる」と。
が、「もったいない」という意識が、たとえば「世界の食糧そのものが不足している
から」と考えて、そこから生まれているのなら問題ない。
あるいは「食べ物を大切にしよう」という意識でもよい。
しかしもしそれが、「食べなければ損」という意識から生まれているとしたら、おおいに
問題あり、ということになる。
つまり健康そのものを、金銭的判断に置き換えて考えること自体、まちがっている。
健康はお金では買えない。
さらに言えば、命は、お金では買えない。
少しおおげさな感じがしないでもないが、しかし、健康を考えるなら、一度自分の
中から、金銭的な損得論を消し去らなければならない。
つまりそれが「はやし浩司流、ダイエット法」の、第一歩ということになる。
●心の実験
レストランへ入る。
私の好物は、その店の五目焼きそば。
一品(いっぴん)である。
値段は1200円。
そのとき、こんな実験をしてみる。
最初に自分で、食べる量を決める。
3分の1なら、3分の1でもよい。
箸で、「ここまで食べて、残りは、捨てる」と。
空腹なとき、この判断をするのは、かなりきびしい。
値段から計算すると、1200円のうちの、800円分を捨てることになる。
(本来なら、料理の量を3分の1にしてもらい、値段も3分の1にしてもらうのが
よいのだが……。)
実際には、3分の1ほどを食べたところで、さらに空腹感が増大してくる。
かなり強烈な空腹感である。
メカニズム的には、アルコール中毒の人や、ニコチン中毒の人が、酒やタバコを
求める作用と同じ。
視床下部あたりの指令を受けて、脳内にドーパミンが充満する。
が、心を鬼にして、残りの3分の2を捨てる。
そのときあの感覚、つまり「もったいない」という思いが、ドドーッと心を襲う。
が、それでも捨てる。
●損の美学
それは生きる美学といってもよい。
そう、それは、まさに「美学」。
私たちは、常に損をしながら生きている。
損をすることを恐れてはいけない。
損は、その人をたくましくするだけではなく、その人の人生を、より豊かにする。
(反対に、「私は損をしたことがない」という人をみてみると、それがわかる。
どこかこじんまりとしていて、おもしろくない。)
以前、二男のBLOGに、こんな話が載っていた。
二男夫婦が、何かの会合に出かけたときのこと。
息子と娘の2人を連れていった。
遅れて行ったこともあり、行ってみると、ケーキの数が残り少なくなっていた。
そのとき、二男の嫁は、息子と娘に、こう言ったという。
「あとで来る人のために、あなたたちは、1個を2人で分けて食べなさい」と。
つまり残りは、あとから来る人のために、残しておきなさい、と。
損か得かということを、金銭的判断だけでするかぎり、二男夫婦は、損をしたことに
なる。
しかしそう判断するのは、まちがっている。
二男は、つづくBLOGにこう書いている。
「妻のすばらしさを、再確認した」と。
●生きざまの問題
つまり私たちのもつ、ものの考え方そのものを改める。
その結果として、ダイエットを遂行する。
それが「はやし浩司流、ダイエット法」ということになる。
が、この哲学は、何も、ダイエットだけに通ずるものではない。
その人の生きざま、そのものにも、関わってくる。
たとえば昔、『おしん』というテレビドラマがあった。
あのおしんは、当初、生きるために働く。
しかし事業が成功してくると、今度は、働くために生きるようになる。
つまりその分だけ、貪欲になる。
とたん、生きざまが見苦しくなった。
が、(見苦しくなった)だけでは、すまされない。
おしんは、より大切なものを見失うことによって、命そのものまで粗末にするように
なった。
わかりやすく言えば、おしんは、働くことによって、自分の心を損(そこ)ねた。
●「食べたら損ねる」
ダイエットを心がけるなら、基本的な部分で、哲学、さらには生きざまそのものを
変える。
食事制限をするにしても、また運動をするにしても、まずその哲学を確立する。
またそれなくして、ダイエットは、成功しない。
この私にしても、そうだ。
過去、何十回もダイエットに挑戦し、そして失敗した。
その繰り返し。
が、それもそのはず。
私には、一本、スジの通った、哲学がなかった。
が、今回は、ちがう。
それがここに書いた方法である。
といっても、方法は簡単。
いつも、自分にこう、問いかける。
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損なのか」と。
私のように、人生観そのものが、金銭的判断に毒されている人ほど、そうしてみたらよい。
答えはいつも、シンプル。
「食べたら損ねる」である。
(付記)
昨夜、こんな経験をした。
ウォーキングを始めて、30~40分ほどしたころのこと。
距離にすれば、4~5キロを歩いていた。
そのとき猛烈な空腹感が、私を襲った。
その空腹感と闘うというよりは、汗の出方がまだ足りないと感じたので、私はその
先、1~2キロを走ることにした。
足は痛かった。
が、がまんした。
歯をくしばって、走った。
で、不思議なことに、1~2キロ走り、サーッと汗をかいたところで、その空腹感
が消えているのを、私は知った。
あれほど強く感じていた空腹感が、どこかへ消えてしまった。
のどは渇いていたが、空腹感は消えていた。
これはどういう作用によるものなのか?
汗をかいたことによって、水分が抜け、血糖値が相対的にあがった?
これはあくまでも私という素人によるものだが、そう考えると、うまく説明ができる。
おもしろい現象だったので、ここに書きとめておくことにする。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●100歳
++++++++++++++++++
昨日、ワイフのテニスのコーチをしていた、
Nさん(男性)という人が、亡くなった。
享年、100歳だったという。
まだ5、6年前まで、自転車に乗っていた。
その自転車で、コートまで通ってきていた。
100歳!
つまり、私が22歳のとき、今の私の年齢の
61歳だったということになる。
100歳!
すごい!
……ふと心のどこかで、私が浜松へ来たころの
ことを思い浮かべる。
あのときが22歳だった、と。
同時に今、22歳の若い人たちのことを思い浮かべる。
みんな、何をしているのだろう、と。
Nさんは、90歳を過ぎても、テニスを
楽しんでいた。
++++++++++++++++++
●享年
享年と書いて、「きょうねん」と読む。
本来は、「行年」と書いたらしい。
あの世へ旅たったときの年齢をいう。
で、昨日、ワイフとこんな会話をした。
「どうせ死ぬなら、早い方がいい」
「しかし長生きするなら、100歳くらいまで生きた方がいい」と。
この先、老人の生活環境について言えば、悪くなることはあっても、
よくなることはない。
介護施設にしても、すでに飽和状態。
寝たきりの状態でも、施設に入居するのは、むずかしい。
だったら、できるだけ早めに入るか、反対に、すいたら、入るかということになる。
レストランと同じ。
ちょうど昼時に行くと、順番待ちになる。
少し時間をずらすと、楽にテーブルに着くことができる。
不謹慎なたとえに聞こえるかもしれないが、私たちの世代にとっては、切実な問題である。
そこで私たち夫婦の結論。
「できるだけがんばって、すいたら、入ろう」「できるだけ長生きしよう」と。
●靴
今日、靴屋で靴を買った。
水色のラインの入った、きれいな靴である。
白の部分は、エナメルが塗ってあり、テカテカ光る。
ワイフが、「老人が履くような靴ではないわ」と言った。
「ぼくは老人ではない」と、私は答えた。
ワ「だって、私たちは老人よ」
私「ぼくは、老人ではない」
ワ「気だけは、ね。でも体がついてこないわ」
私「いや、ぼくはそうでないと思う」と。
私の知人に、TK氏という人がいる。
ある大手のペンキ会社の監査役をしていた人だが、こう話してくれたことがある。
私が、「もうすぐ60歳になります。いやですね」と言ったときのこと。
「林さん(=私)、60代というのは、いちばん仕事ができる年齢ですよ。
私も60代のとき、いちばん仕事ができました」と。
TKさんは、今年、80歳くらいになる。
その人が、そう言った。
で、私はもうすぐ満62歳になる。
「あと10年、現役でがんばる!」と宣言したのは、私がちょうど満60歳のとき。
それからすでに2年、経過したことになる。
その2年。
つまりこの2年。
たしかに体の調子はよい。
頭のほうも、いまのところ、だいじょうぶ。
「このままなら、70歳どころか、75歳までだいじょうぶかな」と思い始めている。
……ということもあって、水色のラインの入った靴を買った。
私の年代というと、茶系のジジ臭い靴と、相場が決まっている。
しかし何も、自ら進んでジジ臭くなることはない。
言うなれば、水色のラインの入った靴は、私の決意の表れということになる。
「75歳まで、がんばってやる!」と。
☆☆☆この電子マガジンは、購読を登録した方のみに、配信しています☆☆☆
. mQQQm
. Q ⌒ ⌒ Q ♪♪♪……
.QQ ∩ ∩ QQ
. m\ ▽ /m 彡彡ミミ
. /~~~\ ⌒ ⌒
. みなさん、 o o β
.こんにちは! (″ ▽ ゛)○
. =∞= //
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 9月 2日
□■□□□□□□□□□□□□□■□ =================
9月2日 第1247号になりました!
★★★HTML版★★★
HTML(カラー・写真版)を用意しました。
どうか、お楽しみください。(↓をクリックしてみてください。)
************************
*
http://bwhayashi2.fc2web.com/page003.html
★★みなさんのご意見をお聞かせください。★★
(→をクリックして、アンケート用紙へ……)http://form1.fc2.com/form/?id=4749
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●子どもの問題
子どもの問題をかかえて、悩んでいる人は多い。
「勉強をしない」
「目標をもってない」
「毎日、だらだらしている」
「自覚がない」
「親子の会話が途絶えた」などなど。
しかしそういうとき、どうして親たちは、自分の姿を見ないのか?
自分のこととして、考えないのか。
つまり「私自身はどうなのか」と、なぜ、考えないのか。
ある母親は、こう言った。
「うちの子(中学3年、男子)は、学校から帰ってきても、受験勉強どころか、
学校の宿題もしません。どうしたらいいですか」と。
私はその質問を聞いて、こう思った。
(思っただけで、言わなかったが……。)
「だったら、お母さん、あなた自身が勉強をすればいい」
あなた自身が、東大へ入ってみせればいい」と。
先に書いた親の悩みについても、同じようなことが言える。
「勉強をしない」(だったら、あなたは勉強をしているのか?)
「目標をもってない」(だったら、あなたは目標をもっているのか?)
「毎日、だらだらしている」(だったら、あなたは、きびきびとしていのか?)
「自覚がない」(だったら、あなたは自覚しているのか?)
「親子の会話が途絶えた」(だったら、あなたは会話をしているのか?)、と。
最近の考え方としては、「子どもは家族の代表にすぎない」とする。
子どもに何かの問題があったとしても、それは子どもだけの問題ではない。
家族全体の問題である。
子どもに現れた症状は、あくまでもその(結果)にすぎない。
そう考えて、対処する。
かなりきびしいことを書いたが、それくらいの心構えをもってこそ、
ちょうどよい。
私たち日本人は、親意識が強い。
子どもだけをみて、子どもを何とかしようと考える。
しかしそういう見方では、問題は解決しない。
子どもも納得しないだろう。
Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司
●愚痴(Complaint or Grumble)
++++++++++++++++++++++++
英語と日本語を一致させることはできない。
微妙にニュアンスがちがうことが多い。
たとえば「愚痴」を、英語では、「complaint(不平・不満)」という。
しかし「愚痴」と、「complaint」は、どこかちがう?
そういうことはあるが、その「complaint」について、アメリカの精神医学会
(American Psychiatric Association)は、「不安神経障害(Anxiety Disorder)」
の主症状のひとつにあげている(DSM-4)。
愚痴をあれこれ言うこと自体、「障害(Disorder)」のひとつというわけである。
なるほど!
だから、愚痴は言わない。
APAのHPには、つぎのようにある(一部抜粋)。
In behavioral health care as in general medicine, when an individual complains of a
subjectively experienced disturbance or unpleasant perception such as pain or anxiety,
we call this a symptom. We distinguish this from a sign such as slurred speech which a
professional can observe.
(苦痛や心配ごとのような混乱や不快感について、不平、不満を訴えることを、「症状」と
いい、たとえばおどおどした態度のような、専門家でないと区別できないような症状を、「兆
候」という。)
+++++++++++++++++++++++++
●日本語
日本語を使っているとき、ときどき、こう感ずることがある。
「日本語って、すぐれているなあ」と。
とくに(心)を表現する用語が、きわめて豊富である。
たとえば10年ほど前から、欧米では、さかんに「attachment(アタッチメント)」
という言葉が使われるようになった。
「愛着行為(行動)」と翻訳されている。
が、これなどは、「赤ちゃん返り」の類義語と考えればよい(反論もあるだろうが……。)
心理学で言う「固着」にしても、日本語には、「わだかまり」とか、「こだわり」とか
いう言葉がある。その類義語と考えればよい。(反論もあるだろうが……。)
さらに日本語には、「取り越し苦労」とか、「ヌカ喜び」という言葉もある。
これなどは、まさに「不安神経障害(Anxiety Disorder)」の主症状のひとつと考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)
精神的に不安定な人ほど、取り越し苦労とヌカ喜びを、いつも繰り返す。
私たちは専門家ではないから、(逃げるわけではないが……)、要するに、心理学と
いっても、よりよく自分の人生を生きるための道具にすぎない。
またそういう目的のために利用すればよい。
(それでお金を稼いでいる人は別だが……。)
冒頭にあげた、愚痴(complaint)にしてもそうだ。
「愚痴を口にしたら、精神状態はふつうでない」と考えてよい。
(反論もあるだろうが……。)
●K子さん(62歳)の例
当時、私は無料で、電話相談なるものを受け付けていた。
そんなある日、K子さんという女性から、家族の問題について、相談があった。
静かで、落ち着いた女性だった……と感じたのは、最初の1回目のときだけ。
それにつづく相談は、まさに「?」としか思えないようなものだった。
いくつか特徴があった。
(1)一方的にしゃべるだけ。
(2)不平、不満をしゃべるだけ。
(3)「では、どうすればいいのか」という話し合いができない。
(4)ことこまかに、どうでもよいことを、しゃべるだけ。
(5)つぎの相談のときには、前の相談のことを忘れてしまっている(?)。
(6)前回の相談のときの矛盾をつくと、パニックになる。
(7)「私はすばらしい」「まちがっていない」ということを強調する。
(8)私が反論的な意見をそえると、それに猛反発する。
(9)子どもの相談といいながら、ときとして、夫や姑の話になる。
(10)そういう電話が、毎回、ときに1時間以上も、ねちねちとつづく。
当時の私は、「愚痴を聞いてやるだけでもいいのでは」と考えて、K子さんの
言うままにしておいた。
しかしまともに聞いていると、こちらまで気が変になりそう。
そう感じたから、ときには受話器を耳からはずして、「そうですか」「そうですね」だけを
繰り返した。
一度だが、私の方から電話を切ろうとしたことがある。
とたん、K子さんは、パニック。
激怒。
「どうして私の話を聞いてくれないのですかア!」と。
●愚痴
「愚痴は言わない」というのは、さわやかに生きるための大鉄則。
だが、同時に、「他人の愚痴を聞かない」というのも、重要。
愚痴には、恐ろしい魔力がある。
仏教でも、肉体の奴隷になることを、強く戒めている。
もし肉体の命ずるままに、精神が動揺したら、人間はそのまま畜生と化す。
その中でも、とくに警戒すべきものが、『貪(どん)』『瞋(しん)』『痴(ち)』。
ここでいう『痴』というのは、仏教でいうところの『愚痴(ぐち)』をいう。
要するに、(愚かさ)が極まった状態を、『痴(ち)』といい、それが愚痴の語源に
なっている。
わかりやすく言えば、愚痴を言うこと自体、その人が愚かであることを意味する。
その(愚かさ)に接していると、接するこちら側まで、愚かになる。
だからある賢人は、こう言った。
「怒っていたら、愚痴を言うな。愚痴を聞いても、怒るな」と。
けだし、明言である。
ともかくも、愚痴を言うということ自体、アメリカでは、精神障害(mental disorder)
を疑われるということ。
日本では、愚痴を軽く考える傾向があるが、アメリカでは、そうでないということ。
気をつけよう。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi
Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 愚痴 愚痴論 complainment 不安神経障害)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●8月4日(ダイエット、一考)(Dieting)
++++++++++++++++++
私にも夏休みがある。
1週間ほど、それがもらえる。
その夏休みが、近づいてきた。
が、今年の予定は、なし。
実家の売却、法事とつづく。
それが無事すまないことには、
どうも落ち着かない。
+++++++++++++++++++
●こむら返り
おととい、夜中にジョギングしているとき、突然、こむら返りが起きた。
コムラ返りそのものは、すぐ収まったが、そのあと筋肉離れでもしたかのような激痛。
で、あえなく、ジョギングは、中止。
が、それで運動をやめたのでは、(はやし浩司)が泣く。
昨夜は、5キロ前後を歩き、プラス2キロ前後を走った。
おかげで家に帰ったときには、足は棒のようになっていた。
静かにしていれば、何ともないが、歩き始めたとたん、ギギーンと痛む。
●はやし浩司流、ダイエット法
いろいろなダイエット法がある。
いろいろな人が、本を書いている。
が、どれも基本的には、同じ。
運動と食事制限。
この2つが柱になっている。
しかし「はやし浩司流、ダイエット法」は、少しちがう。
生きる哲学そのものを見直そうというのが、それ。
その哲学を変えないかぎり、ダイエットは、成功しない。
●ダイエット哲学
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損なのか」。
すべてはそこから始まり、そこで終わる。
私たちは、あらゆるものを金銭的価値に置き換えて、ものを考える傾向が強い。
たとえばレストランへ入ったとるする。
800円のランチを頼んだとする。
そういうとき私たちはこう考える。
「800円出したのだから、800円分、しっかりと食べなければ、損」と。
しかしこの考え方そのものが、おかしい。
まちがっている。
まず、それに気づく。
●どうして食べなければ、損なのか?
私は子どもたちに、よくこう言う。
「ぼくの車は、ビッツ(トヨタの最安車)だけど、体はベンツ(高級車)だよ」と。
冗談ぽく言うが、冗談ではない。
かなり本気である。
「トヨタのビッツのような車で、ベンツのような体か、それともベンツのような車で、
ビッツのような体か」と、問われれば、私なら、(ベンツのような体)のほうを、選ぶ。
私たちの精神は、ズイのズイまで、金銭的判断に毒されている。
いつも損得を考えて、行動している。
そのことは、食べ放題の店に入ってみると、よくわかる。
どの人も、食べなければ損……といったふうに、食べている。
たとえばケーキでも、パクパクパクの3回で、3個!
が、そういう人ほど、例外なく、太っている。
見た目にはどうであろうとも、体はビッツ(失礼!)ということになる。
●「食べたら、損(そこ)ねる」
「食べたら、損ねる」。
まず、それに気づく。
太っていてよいことは、何もない。
メタボリック症候群を例にあげるまでもない。
が、問題は、なぜ太るか、だ。
こう質問すると、「腹がへるからだ」と、たいていの人は、そう答える。
しかし本当にそうだろうか?
そう考えてよいのだろうか?
実際にはそうではなく、ほとんどの人は、(食べている)のではなく、
(食べさせられている)だけ。
食欲の命ずるがまま、操られているだけ。
まず、それに気づく。
●損得論
繰り返す。
私たちの生活は、金銭的判断によって、あまりに毒されすぎている。
わかりやすく言えば、何を食べるにも、「もったいない」という意識が働く。
「もったいないから、食べる」と。
が、「もったいない」という意識が、たとえば「世界の食糧そのものが不足している
から」と考えて、そこから生まれているのなら問題ない。
あるいは「食べ物を大切にしよう」という意識でもよい。
しかしもしそれが、「食べなければ損」という意識から生まれているとしたら、おおいに
問題あり、ということになる。
つまり健康そのものを、金銭的判断に置き換えて考えること自体、まちがっている。
健康はお金では買えない。
さらに言えば、命は、お金では買えない。
少しおおげさな感じがしないでもないが、しかし、健康を考えるなら、一度自分の
中から、金銭的な損得論を消し去らなければならない。
つまりそれが「はやし浩司流、ダイエット法」の、第一歩ということになる。
●心の実験
レストランへ入る。
私の好物は、その店の五目焼きそば。
一品(いっぴん)である。
値段は1200円。
そのとき、こんな実験をしてみる。
最初に自分で、食べる量を決める。
3分の1なら、3分の1でもよい。
箸で、「ここまで食べて、残りは、捨てる」と。
空腹なとき、この判断をするのは、かなりきびしい。
値段から計算すると、1200円のうちの、800円分を捨てることになる。
(本来なら、料理の量を3分の1にしてもらい、値段も3分の1にしてもらうのが
よいのだが……。)
実際には、3分の1ほどを食べたところで、さらに空腹感が増大してくる。
かなり強烈な空腹感である。
メカニズム的には、アルコール中毒の人や、ニコチン中毒の人が、酒やタバコを
求める作用と同じ。
視床下部あたりの指令を受けて、脳内にドーパミンが充満する。
が、心を鬼にして、残りの3分の2を捨てる。
そのときあの感覚、つまり「もったいない」という思いが、ドドーッと心を襲う。
が、それでも捨てる。
●損の美学
それは生きる美学といってもよい。
そう、それは、まさに「美学」。
私たちは、常に損をしながら生きている。
損をすることを恐れてはいけない。
損は、その人をたくましくするだけではなく、その人の人生を、より豊かにする。
(反対に、「私は損をしたことがない」という人をみてみると、それがわかる。
どこかこじんまりとしていて、おもしろくない。)
以前、二男のBLOGに、こんな話が載っていた。
二男夫婦が、何かの会合に出かけたときのこと。
息子と娘の2人を連れていった。
遅れて行ったこともあり、行ってみると、ケーキの数が残り少なくなっていた。
そのとき、二男の嫁は、息子と娘に、こう言ったという。
「あとで来る人のために、あなたたちは、1個を2人で分けて食べなさい」と。
つまり残りは、あとから来る人のために、残しておきなさい、と。
損か得かということを、金銭的判断だけでするかぎり、二男夫婦は、損をしたことに
なる。
しかしそう判断するのは、まちがっている。
二男は、つづくBLOGにこう書いている。
「妻のすばらしさを、再確認した」と。
●生きざまの問題
つまり私たちのもつ、ものの考え方そのものを改める。
その結果として、ダイエットを遂行する。
それが「はやし浩司流、ダイエット法」ということになる。
が、この哲学は、何も、ダイエットだけに通ずるものではない。
その人の生きざま、そのものにも、関わってくる。
たとえば昔、『おしん』というテレビドラマがあった。
あのおしんは、当初、生きるために働く。
しかし事業が成功してくると、今度は、働くために生きるようになる。
つまりその分だけ、貪欲になる。
とたん、生きざまが見苦しくなった。
が、(見苦しくなった)だけでは、すまされない。
おしんは、より大切なものを見失うことによって、命そのものまで粗末にするように
なった。
わかりやすく言えば、おしんは、働くことによって、自分の心を損(そこ)ねた。
●「食べたら損ねる」
ダイエットを心がけるなら、基本的な部分で、哲学、さらには生きざまそのものを
変える。
食事制限をするにしても、また運動をするにしても、まずその哲学を確立する。
またそれなくして、ダイエットは、成功しない。
この私にしても、そうだ。
過去、何十回もダイエットに挑戦し、そして失敗した。
その繰り返し。
が、それもそのはず。
私には、一本、スジの通った、哲学がなかった。
が、今回は、ちがう。
それがここに書いた方法である。
といっても、方法は簡単。
いつも、自分にこう、問いかける。
「食べたら損(そこ)ねるのか、それとも食べなければ損なのか」と。
私のように、人生観そのものが、金銭的判断に毒されている人ほど、そうしてみたらよい。
答えはいつも、シンプル。
「食べたら損ねる」である。
(付記)
昨夜、こんな経験をした。
ウォーキングを始めて、30~40分ほどしたころのこと。
距離にすれば、4~5キロを歩いていた。
そのとき猛烈な空腹感が、私を襲った。
その空腹感と闘うというよりは、汗の出方がまだ足りないと感じたので、私はその
先、1~2キロを走ることにした。
足は痛かった。
が、がまんした。
歯をくしばって、走った。
で、不思議なことに、1~2キロ走り、サーッと汗をかいたところで、その空腹感
が消えているのを、私は知った。
あれほど強く感じていた空腹感が、どこかへ消えてしまった。
のどは渇いていたが、空腹感は消えていた。
これはどういう作用によるものなのか?
汗をかいたことによって、水分が抜け、血糖値が相対的にあがった?
これはあくまでも私という素人によるものだが、そう考えると、うまく説明ができる。
おもしろい現象だったので、ここに書きとめておくことにする。
【3】(近ごろ、あれこれ)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●100歳
++++++++++++++++++
昨日、ワイフのテニスのコーチをしていた、
Nさん(男性)という人が、亡くなった。
享年、100歳だったという。
まだ5、6年前まで、自転車に乗っていた。
その自転車で、コートまで通ってきていた。
100歳!
つまり、私が22歳のとき、今の私の年齢の
61歳だったということになる。
100歳!
すごい!
……ふと心のどこかで、私が浜松へ来たころの
ことを思い浮かべる。
あのときが22歳だった、と。
同時に今、22歳の若い人たちのことを思い浮かべる。
みんな、何をしているのだろう、と。
Nさんは、90歳を過ぎても、テニスを
楽しんでいた。
++++++++++++++++++
●享年
享年と書いて、「きょうねん」と読む。
本来は、「行年」と書いたらしい。
あの世へ旅たったときの年齢をいう。
で、昨日、ワイフとこんな会話をした。
「どうせ死ぬなら、早い方がいい」
「しかし長生きするなら、100歳くらいまで生きた方がいい」と。
この先、老人の生活環境について言えば、悪くなることはあっても、
よくなることはない。
介護施設にしても、すでに飽和状態。
寝たきりの状態でも、施設に入居するのは、むずかしい。
だったら、できるだけ早めに入るか、反対に、すいたら、入るかということになる。
レストランと同じ。
ちょうど昼時に行くと、順番待ちになる。
少し時間をずらすと、楽にテーブルに着くことができる。
不謹慎なたとえに聞こえるかもしれないが、私たちの世代にとっては、切実な問題である。
そこで私たち夫婦の結論。
「できるだけがんばって、すいたら、入ろう」「できるだけ長生きしよう」と。
●靴
今日、靴屋で靴を買った。
水色のラインの入った、きれいな靴である。
白の部分は、エナメルが塗ってあり、テカテカ光る。
ワイフが、「老人が履くような靴ではないわ」と言った。
「ぼくは老人ではない」と、私は答えた。
ワ「だって、私たちは老人よ」
私「ぼくは、老人ではない」
ワ「気だけは、ね。でも体がついてこないわ」
私「いや、ぼくはそうでないと思う」と。
私の知人に、TK氏という人がいる。
ある大手のペンキ会社の監査役をしていた人だが、こう話してくれたことがある。
私が、「もうすぐ60歳になります。いやですね」と言ったときのこと。
「林さん(=私)、60代というのは、いちばん仕事ができる年齢ですよ。
私も60代のとき、いちばん仕事ができました」と。
TKさんは、今年、80歳くらいになる。
その人が、そう言った。
で、私はもうすぐ満62歳になる。
「あと10年、現役でがんばる!」と宣言したのは、私がちょうど満60歳のとき。
それからすでに2年、経過したことになる。
その2年。
つまりこの2年。
たしかに体の調子はよい。
頭のほうも、いまのところ、だいじょうぶ。
「このままなら、70歳どころか、75歳までだいじょうぶかな」と思い始めている。
……ということもあって、水色のラインの入った靴を買った。
私の年代というと、茶系のジジ臭い靴と、相場が決まっている。
しかし何も、自ら進んでジジ臭くなることはない。
言うなれば、水色のラインの入った靴は、私の決意の表れということになる。
「75歳まで、がんばってやる!」と。