最前線の子育て論byはやし浩司(2)

子育て最前線で活躍する、お父さん、お母さんのためのBLOG

●さようなら、古里(1)

2009-09-06 13:32:29 | 日記
●9月4日

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古里と決別した。
実家を売り払い、家財を処分した。
かなりのモノが残ったが、それはそのままにしておいた。
つぎに入居する人のための、置き土産。
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●損論

 わずかな財産だった。
モノは山のようにあったが、お金にはならなかった。
数十枚もあった着物が、全部で、たったの2万円。
漆(ウルシ)塗りの食器も、10数箱もあったが、一部を除いて、近所の人に
分けてやった。
「ほしい方はどうぞ!」と書いたら、みなが、もち帰っていった。
中には、大きな袋に入れて、もち帰っていった人もいた。
 損?
損といえば、損。
が、私がした損は、そんなものではない。
たとえて言うなら、数千万円も損をした人が、10万円や20万円の損に
こだわるようなもの。
それよりも私は、実家のことで、自分の人生そのものを、犠牲にしてしまった。
失われた時間は、戻ってこない。
その「損」と比べたら、10万円や20万円の損など、なんでもない。
それよりも私は、こうして実家から解放された。
その解放感のほうが、うれしい。

金銭的な価値で計算することはできないが、今から20年も前だったら、
1億円でも高くない。
つまりあのとき、だれかが、「1億円出してくれたら、お前の重荷を代わりに担いで
やる」と言ったら、私は1億円を出しただろう。
そのときすでに私は、合計すれば、それ以上のお金を、実家に貢いでいた。

●財産

 私はそうした財産を処分しながら、何度もこう思った。
祖父の時代から、父の時代。
そして兄の時代へと、3代つづいた自転車店だったが、その「3代」で、残ったものは、
何だったのか?、と。
ときどき、祖父や父や兄たちが、必死になって守ろうとしてきたものは、
何だったのか?、と。

35坪足らずの土地に、古い家屋。
私はその家で生まれ育ったが、その私だって、何だったのか?、と。
わかりきったことだが、モノ、つまり財産のもつ虚しさを、改めて感じた。

●未練

 ワイフも、私の意見とまったく同じだった。
故郷を自分の中から消すということは、一度、自分自身を、(無)に
しなければならない。
未練が残ったら、故郷を消すことはできない。
そのときもし、実家に残っているモノを見ながら、そこに自分の過去を
重ねるようなことをすれば、故郷を去ることはできない。
何もかも棄てるというのは、そういう意味。

「惜しい」と思ったとたん、それは未練に変わる。
未練が残れば、前に向かって歩けない。
未練は、心を、うしろ向きに引っ張る。
だから心の中を、一度、無にする。

ある女性は、漆の食器を、大きな袋に詰めながら、私にこう聞いた。
「本当にいいのですか?」と。
つまり「本当に、もらってもいいのですか?」と。
私はそのつど、笑みを浮かべながら、「どうぞ」「どうぞ」を、繰り返した。
買えば、一個、1万円はくだらない。
お椀の模様にしても、手彫りで、その溝に、金箔が埋め込んである。
それがつぎつぎと消えていくのを見ながら、私はある種の快感を覚えていた。
言うなれば、古里を蹴飛ばすような快感だった。

●夢

 その翌朝。
つまり今日、私は兄の夢を見た。
私は実家のあるゆるい坂道を、実家に向かって歩いていた。
そのときふと横を見ると、兄がいっしょに歩いていた。
ニコニコと笑っていた。
うれしそうな顔だった。
黄色いTシャツを着ていた。
私は、兄を、右手で抱いた。
兄といっても、いつからか、私の弟のようになっていた。
小さな体に、頼りない顔をしていた。

 私は兄に、こう言った。
「仇(かたき)は、取ってやったぞ」と。
それを聞いて、兄は、さらにうれしそうに笑った。
私は夢の中だったが、涙で目がうるんだ。

●家の奴隷
 
 兄は、一家の主人というよりは、家の奴隷だった。
母にしばられ、家にしばられ、社会を知ることもなく、この世を去った。
生涯において、母は、兄を、内科以外の病院へは連れていかなかった。
無知というよりは、兄を「家の恥」と考えていた。

 晩年、母の認知症が進んだこともあり、(実際には、老人性のうつ病だったかも
しれない)、兄は母の虐待を受けるようになった。
一度、ワイフと2人で実家を見舞うと、兄は、何が悲しかったのか、
私の顔を見るやいなや、ポロポロと、大粒の涙をこぼした。
私はその涙を、私のハンカチで拭いてやった。

 今にしてみれば、唯一の、それが、心残りということになる。
どうしてあのとき、私は兄を浜松へ連れてこなかったのか。
その気になれば、それができたはず。
あのときを思い出すたびに、胸が痛くなる。

が、迷ったのには、それなりの理由がある。
兄には、おかしな性癖があった。
私の目を盗んでワイフに抱きついたり、ワイフの入浴中に、風呂の中に、
勝手に入ってきたりした。
その性癖を、兄は、自分ではコントロールできなかった。

●総決算

 その兄の夢が、私の人生の総決算かもしれない。
実家への思いを、それで断ち切ることができた。
兄も、それで断ち切ることができた。
一抹のさみしさがないと言えば、ウソになる。
しかしそれ以上に、実家から解放されたという(ゆるみ)のほうが、
大きい。
長い旅が終わって、気が抜けたような状態。
緊張感そのものが、消えた。
私はその陶酔感に浸りながら、何度も何度も、肩の力が抜けていくのを覚えた。

●世間体

 母は母で苦しんだ。
それはわかる。
しかし母の人生観が、ほんの少しちがっていたら、その(苦しみ)の
中身もちがっていたことだろう。
私たちの人生も、大きく変わっていたことだろう。
母が悪いというよりは、母はあまりにも通俗的だった。
自分の人生というよりは、「世間体」の中で生きていた。
いつもそこに他人の目を気にしていた。
その通俗性の中で、母は、自分を見失ってしまっていた。

 通俗的になればなるほど、何が大切で、何がそうでないか、それがわからなくなる。
晩年の母は、仏具ばかり磨いていたが、私はそこに、哀れさというよりは、
もの悲しさを感じていた。

●「まんじゅう……1個、80円」

 実家を整理しているとき、兄の残したノートが出てきた。
その1ページに、「まんじゅう……1個、80円」とあった。
その日、どこかでまんじゅうを1個買って、食べたらしい。
それが80円、と。

 それを見たとき、ぐいと胸がふさがれるのを感じた。
貧しい生活。
慎ましやかな生活。
1個80円のまんじゅうまで、ノートに書きとめていた。

 それをワイフに話しながら、ふと、こう漏らした。
「ぼくたちのしたことは、まちがっていなかったね」と。

 母は、そのつど、私から、お金を(まきあげていった)。
額は計算できないが、相当な額である。
そういったお金は、実家の生活費だけではなく、母の実家へと流れていった。
もう一か所、別のところへ流れていき、残ったお金は、母の通帳の中へと消えた。
10数年ほど前だが、現金だけで、母は、3000~4000万円程度は
もっていたはず。
 
 その一部を、兄は母からもらいうけ、それでまんじゅうを買って食べていた。
兄は生涯にわたって、給料らしい給料を手にしたことはなかった。
いつも「小遣い」と称して、小額のお金を、母から受け取っていた。
それだけ。

 兄は、自閉傾向(自閉症ではない)はあったかもしれないが、頭はよかった。
65歳で私の家に来たときも、小学3~4年生の算数の問題を、スラスラと
解いてみせた。

●のろわれた家系

 母が守ったものは、何だったのか。
守ろうとしたものは、何だったのか。
よくわからないというより、あまり考えたくない。
母は母で、自分の人生を懸命に生きた。
それが正しいとか、正しくないとか、そういう判断をくだすこと自体、まちがっている。
母は母でよい。

 が、全体としてみれば、「林家」は、(「家(け)」と家付けで呼ぶのも、
おこがましいが)、(のろわれた家系)である。
ひとつの例外もなく、どの家族も、深い不幸を背負っている。
みな、それぞれ、必死にそれを隠し、ごまかしている。
が、人の口には戸は立てられない。
他人は気づいていないと思っているのは、本人たちだけ。
みな、知っている。
知って、知らぬフリをしている。

●象徴

私には、その象徴が、兄だったように思う。
いつしか兄が、そうした不幸を、一身に背負っているように感じるようになった。
だから兄が死んだときも、その通夜のときも、私はうれしかった。
兄が死んだことを喜んだのではない。
私以上に、重い苦しみを背負い、兄は、もがいた。
健康でそれなりの仕事をしている私だって、苦しんだ。
兄の感じた苦しみは、私のそれとは比較にならなかっただろう。
「家」という呪縛感。
重圧感。
母の異常なまでの過干渉と過関心。
それでいて、それに抵抗する力さえなかった。
つまり兄は、死ぬことで、その苦しみから解放された。
自分の運命に翻弄されるまま、またその運命と闘う力もないまま、この
世を去っていった。

最後は、やらなくてもよいような治療を受け、体中がズタズタにされていた。
食道や胃に穴をあけ、そこから流動食を流し込まれていた。
動くといけないからと、体は、ベッドに固定されたままだった。

 一度、見舞いに行くと、私の声とわかったのか、目だけをギョロギョロと
左右に振った。
三角形の小さな目だった。

 兄は死ぬことで、その苦しみからも解放された。
私はそれがうれしかった。

が、それだけではない。

●犠牲になった兄

兄は、林家にまつわる(のろい)を、一身に背負っていた。
いや、私が兄だったとしても、何も不思議ではない。
兄が、私であったとしても、何も不思議ではない。
たまたま生まれた順序がちがっていただけ。

で、もし反対の立場になっていたら……。
あの兄なら、私のめんどうをみてくれたことだろう。
収入の半分を、私に分け与えてくれただろう。
兄は、私より、ずっと心の温かい、やさしい人間だった。
その兄が(のろい)のすべて背負って、あの世へ旅立ってくれた。
私はそれがうれしかった。
だから祭壇に手を合わせながら、私はこうつぶやいた。
「準ちゃん(=兄名)、ありがとう」と。

●礼の言葉

 葬儀が終わったとき、私は参列者にこう言った。
「今ごろ、兄は、鼻歌でも歌いながら、金の橋を、軽やかに渡っているはずです」と。
それについて、その直後に、寺の住職が、「そういうことはまだです。
四九日の法要が終わってから決まることです」と言った。
つまり「まだ、極楽へ渡ってはいない」と。

 もともと『地蔵十王経』という偽経を根拠にした意見だが、何が四九日だ!
私の人生は61年。
兄の人生は69年。
アホな「十王」どもに、人生の重みがわかってたまるか!

 兄は、あの夜、まちがいなく、金の橋を渡って、極楽へと旅立った。

●終焉

 こうしてあの「林家」は、終わった。
が、すべてがハッピーエンドというわけではない。
問題は残っている。
残っているが、これからはそのつど、蹴飛ばしていけばよい。
私の知ったことではない。
いまさら誤解を解きたいなどとは思わない。

●運命

最後に、これだけは、ここで自信をもって言える。
もしあなたが運命に逆らえば、運命は、キバをむいてあなたに
襲いかかってくる。
しかし運命というのは、一度受け入れてしまえば、向こうから尻尾を
巻いて逃げていく。
もともと気が小さくて、臆病。
そこに運命を感じても、おびえてはいけない。
逃げてはいけない。
受け入れる。
そしてあとはやるべきことをやりながら、時の流れに身を任す。
あとは必ず、時間が解決してくれる。

 つまりこうして今まで、おびただしい数の人の人生が流れた。
あたかも何ごともなかったかのように……。

 準ちゃん、ぼくももうすぐそちらへ行くからな。
またそこで会おう!

(補記)(のろい論)

 私はここで(のろい)という言葉を使った。
しかしスピリチュアル(=霊的)な、のろいをいうのではない。
ひとつの大きな運命が、つぎつぎと別の運命の糸を引き、ときとして
それぞれの家族を、翻弄する。
それを私は、(のろい)という。
ふつうの不幸ではない。
ふつうの不幸ではないから、(のろい)という。
が、それは偶然によるものかもしれない。
たまたまそうなっただけかもしれない。
しかし私はそうした(不幸)に間に、一本の糸でつながれた、
運命を感ずる。

 それについて書くのは、ここではさしひかえたい。
まだ生きている人も多いし、みな、それぞれの運命を引きずりながら、
懸命に生きている。
私とて例外ではない。
ある時期、私は、心底、そっとしてほしいと願ったときもあった。
けっして、問題から逃げようとしたわけではない。
どうにもならない袋小路に入ってしまい、身動きできなくなってしまった
ときのことだった。

 しかしそういうときにかぎって、事情も知らないノー天気な人たちが、
あれこれと世話を焼いてくる。
わずか数歳、年上というだけで、年長風を吹かしてくる。
その苦痛には、相当なものがある。
私はそれを身をみって、体験した。

 だから、……というわけでもないが、もしその人が、今、苦しんで
いるなら、そっとしておいてやることこそ、重要ではないか。
もちろん相手が求めてくれば、話は別。
そうでないなら、そっとしておいてやる。
それも気配りのひとつ。
思いやりのひとつ、ということになる。

 
Hiroshi Hayashi++++++++AUG 09++++++++はやし浩司

●伊豆・熱川(あたがわ)温泉にて

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今日は、講演のつづきで、伊豆の熱川温泉に泊まった。
きびしい海岸線にへばりついたような温泉街で、いたるところから白い蒸気が立ち上って
いるのがわかった。
ホテルに着くと私たちはすぐ、海岸へ出てみた。
やや荒い波が、黒っぽい砂浜に絶え間なく、打ち寄せていた。
何組のかの若い男女が、波と戯れていた。
私は、DVDカメラを回しつづけた。

泊まったホテルは、「ホテル・セタスロイヤル」。
「セタス」というのは、「クジラ座」という意味だそうだ。
駅からホテルまで運んでくれた運転手が、そう教えてくれた。
この地域は、何かのことでクジラと縁があるらしい。
9階の私たちの部屋から、そのまま太平洋が一望できた。
すばらしい!
ワイフは、「私は海が好き」と、子どものようにはしゃいでいた。

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●セタスロイヤル
 
 実名を出してしまったので、評価することはできない。
しかし熱川温泉では、海に面した、見晴らしのよさでは、最高のホテル。
各部屋から、太平洋が、視界が届く限り、端から端まで、一望できる。
加えて6階にある露天風呂がすばらしい。
広くて、美しい。

ただ露天風呂までの通路が長いのが、やや気になる。
寒い冬などは、それだけで体が冷えてしまうだろう。
が、長い通路を通りぬけて行くだけの価値はじゅうぶん、ある。
私たちはそのホテルの最上階、つまり9階に部屋にあてがわれた。

 で、このところ私たちは、ほかにホテルがあっても、その土地へ行ったら、
できるだけ同じホテルに泊まるようにしている。
新しいところで冒険するより、勝手がよくわかったホテルのほうが、落ち着く。
2度目より3度目。
3度目より4度目のほうが、落ち着く。
次回、何かの機会で熱川温泉へ来るようなことがあれば、まちがいなくセタスロイヤルに
泊まるだろう。

●旅のよさ

 人生を旅に例える人は、多い。
たしかに旅だ。
もう少し詳しく表現すれば、人生は、(時の旅)。
旅は、(位置の旅)。
時間と空間のちがいということになるが、今では、時間と空間は、物理学の世界では、
「同じ」と考える。
たとえば時間が止まれば、物体の移動も止まる。
時間が動き出せば、物体もまた動き出す。
見た目には静止していても、分子レベルでは、猛烈な勢いで動き出す。

 私たちは位置を移動することによって、そこに時間の動きを感ずることができる。
わかりやすく言えば、(変化)を感ずることができる。
(時間の変化)を感ずることができる。
その時間の変化を感ずるために、旅をする。

●時間の変化

 わかりにくいことを書いた。
理屈っぽくすぎて、「?」と思った人も多いことだろう。
つまり旅をすることによって、それまで止まっていた時計が、
再び動き出す。
時間の変化を感ずることができる。
もし旅をしなかったら、今日は昨日のまま過ぎ、明日は今日のまま過ぎる。
「マンネリ」という言葉も、そういうときの状態を表現するためにある。
わかりやすく言えば、そういうこと。

 が、旅は、その時の流れに、ひとつの区切りを入れてくれる。
今日と昨日の間に、区切りを入れてくれる。
今日と明日の間に、区切りを入れてくれる。
今度の旅は、確実に、その区切りを入れてくれた。

●朝、5時に起床

 朝、5時に目が覚めた。
昨夜は、午後9時半ごろ、それまでの疲れがどっと出たのか、そのまま眠ってしまった。
それで5時。

 静かにカーテンをあけると、そこに再び、太平洋が現れた。
窓を開けると、潮騒の音が、部屋中に響いた。
空はほんのりと、ピンク色。
紫色の雲が、左から右へと、ゆっくりと流れているのがわかる。
その下を細いひだになった波が、手前へと流れている。
壮大な景色である。
水平線だけの、壮大な景色である。

 私はDVDを回し、つづいてカメラのシャッターを切る。
午前5時26分。
日の出。
真っ赤な、小さな光点が、水平線から顔を出す。

●さようなら、古里(2)

2009-09-06 13:32:02 | 日記


●リバウンド?

 伊東もよい。
稲取もよい。
しかしここ熱川もよい。
伊豆半島の東岸には、すばらしい温泉地が並ぶ。
近く、下田の市民文化会館で、講演をすることになっている。
そのときは、下田市に一泊するつもり。
楽しみ。

 そうそう昨夜は料理で、一夜にして、3日分を食べた。
量的には、それくらいあった。
あとで体重計に乗るのがこわい。
おそらく63キロ台に戻っているはず。
私は食べたら、食べた分だけ太る。
今日は、がまんして、絶食。

(浴場にあった体重計に乗ってみたら、意外や意外!
体重は、60キロを切っていた!
「?」と思いながら、数回、量りなおしてみる。
私は講演期間中は、食事の量を極端に減らしている。
講演中に眠くなってしまう。
今日も、口にしたのは、稲荷寿司、数個だけだった。
リバウンドしていなかったことを、喜んだ。)

●心の整理

 ワイフが楽しそうなのが、うれしい。
家の中で見るワイフと、旅先で見るワイフは、別人のよう。
昔から、「電車に乗っているだけで、楽しい」と、口癖のように言う。

 一方、私は実家の問題が、解決した。
実家から解放された。
ついでに姉夫婦とも、xxした。
いろいろあった。
ありすぎて、ここには書けない。
それに書けば、いろいろと問題になる。
姉の娘が、ときどき私のHPをのぞいている。
のぞいては、内容を、あちこちに知らせている。

ただできるなら、もう私たちのことは、放っておいてほしい。
気になるのはわかるが、あなたがたはあなたがたの人生を生きればよい。
私の家の心配をするよりも、あなたがたの家の心配をしたほうがよいのでは・・・?
このままでは・・・?
この先のことは、あなたがたが、いちばん、よく知っているはず。
私が何も知らないと思っているのは、あなたたちだけ。
(わかりましたか、SRさん、それにMSさん!)

 ともかくも、今は病気に例えるなら、病後の養生期。
ゆっくりと静養して、つぎの人生に備える。

●新しい人生

 こうして私の新しい人生は、始まった。
太平洋に昇る朝日を見ながら、それを感じた。
老後なんて、私には関係ない。
これからが私の人生。
今まで苦しんだ分だけ、自由に、この大空をはばたいてみたい。
今日が、その第一歩。

 2009年9月6日、日曜日。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司【別記】

●M町を去る(別記)

古い家だった。
家全体が、骨董品の倉庫のよう。
昔の人は、冠婚葬祭を自宅で、した。
そのときの道具が、一そろい、残っている。
奥の戸棚を開けると、古い木箱に入った道具類が、
山のように出てきた。

浜松へ持ち帰るとしても、たいへんな作業になる。
「どうしようか?」と考えているうち、GOOD IDEA!

道路脇並べて、近所の人たちに無料で、分けてやることにした。

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●モノを分ける

 現在の貨幣価値になおして、時の祖父は、そうした道具類を
現在の価値で、何百万円も出して買ったのだろう。
茶碗といっても、本ウルシを塗った高価なもの。
金沢市の駅前のみやげもの店なら、1個、1万円前後で
売っているはず。

 そういうものをビニールシートに並べる。
ほかに焼き物、花瓶、置物などなど。
「どうぞ自由にお持ち帰りください」という張り紙を張ったとたん、
4、5人の人たちが、そこに集まった。
最初は遠慮がちだったが、やがて大きな袋をもってくる人もいた。

 うれしかった。

 私からのプレゼントというよりは、私の祖父母、両親からのプレゼント。
祖父母や両親が、「気前のいい話やなあ」と、どこかで笑っているような
気がした。

●モノ

 モノとは、所詮、そんなもの。
価値があるようで、ない。
あるとしても、思い出。
私の過去は、そうしたモンと、深くからんでいる。
それぞれのものを手に取ってみては、「ああ、これはあのときの
もの」と。

 しかし時間的にも感傷に浸っている時間はない。
11時半から、実家の売買契約。
2時から、法事。
3時から、古物商との商談。
そして5時には、運送会社がやってくる。

●価値

 古物の価値が、さがってきている。
たとえば切手にしても、古銭にしても、売り先を見つけるのさえ難しい。
ネットでオークションに出すという方法もあるが、そのための
時間がない。
ということで、そのまま宝の持ち腐れ?

 そこで改めて、ふと考える。

 私は先日、古いパソコンを、6~7台、処分した。
「古い」といっても、10年ほど前のもの。
当時でもパソコンは、1台20万円前後はした。
ことパソコンに関して言えば、骨董的価値はない。
そのままゴミ。

 となると、祖父が買った茶器類と、私の買ったパソコン類と、
どちらが(価値)があるか、と。
あるいは(価値)を考えること自体、まちがっているのか。

 たとえば茶器にしても、プラスチック製のものよりは、ウルシ塗りの
もののほうが、作るのに手間がかかる分だけ、値段が高い。
値段が高いから、価値があるということになる。
しかしそこでハタと考えてしまう。

「だから、それがどうしたの?」と。

●見るモノと、使うモノ

 一方、パソコンのほうは、それなりの(仕事)をした。
言うなれば骨董品のほうは、(見る)もの。
パソコンのほうは、(使う)もの。
(使う)という視点で価値を判断するなら、数年の1度しか
使わない茶器より、毎日使うパソコンのほうが価値がある。
(価値といっても、金銭的価値だが……。)

 だから10年を経て、それが20万円で買ったものであったと
としても、棄てても悔いはない。
が、ウルシの茶器は、そうでない。
棄てることはできない。
が、骨董屋に売るとなると、二束三文。
だったら、近所の人たちに、無料で分ける。
そのほうが、ずっと気持ちがよい。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司
 
●9月X日、運命の日

+++++++++++++++++

現在の心境。
たいへん軽い。
刻一刻と、時が流れていく。
その音が、やさしいせせらぎのように、
心地よく心に響く。
うれしい。
9月X日。
私は、古里と決別する。
待ちに待った、その瞬間。
それがやってくる。

もちろん不安がないわけではない。
どんな別れにせよ、(別れ)というのは
そういうもの。
いつも不安がともなう。
あえて言うなら、『モヤのかかった
山の頂上に、朝日を見るような』
(シェークスピア)のような心境。

++++++++++++++++

●実家を売る

 結局、間に立ってくれた人が、「自分でほしい」と言ってくれた。
譲渡価格は、問題ではない。
いくらでもよい。
とにかく買ってくれる人がいたら、それでよい。
そう思って、その人に、売買を一任した。
で、その人自身が、買ってくれることになった。
その人の言い値で売ることにした。
母に直接渡した現金の10分の1にもならない。
しかしそれで(過去)から解放されるなら、文句はない。
いうなれば、人生の(おまけ)。
バンザーイ!

●貧乏

 私が実家を(重荷)に感じ始めたのは、小学5、6年生くらいの
ことではなかったか。
記憶は確かではないが、中学生になるころには、はっきりとそれを
自覚するようになった。
今にして思えば、そういう重圧感を作ったのは、母自身ということになる。
母は私に生まれながらにして、「産んでやった」「育ててやった」「親のめんどう
みるのはお前」と、言いつづけた。
それが母の教育の基本法だった。

 加えてそのころから、稼業の自転車店は、ほとんど開店休業状態。
パンク張りの日銭で、何とかその日をしのいでいるという状態だった。
今になって実家は、町の「伝統的建造物」に指定されている。
大正時代の商家そのままという。

 しかし何も好き好んで、伝統的建造物を守ったわけではない。
改築するお金もないまま、ズルズルと今に至っただけ。
言うなれば、慢性的貧乏。
その象徴が、私の実家。
わかりやすく言えば、そういうことになる。

●保護と依存

(この間、半日が過ぎた。
私は今、実家へ向かう電車の中にいる。
時は9月2日、午前7時40分。)

 要するに保護と依存の関係。
それができてしまった。
保護する側はいつも保護の側に回る。
依存する側は、いつも依存する側に回る。
最初は感謝されることはあっても、それは一時的。
やがてそれが当たり前になり、さらに時間がたつと、相手、つまり
依存する側が、保護する側に請求するようになる。
「何とかしろ」と。

 さらに時間がたつと、保護する側は、今度は、それを義務に感ずる
ようになる。
こうしてつながりそのものが、保護と依存の関係が結ばれたまま、
固定化する。

●解放

 今の私の立場を一言で表現すれば、「何もかも私」という状況。
だれというわけではないが、みな、そう思っている。
私自身もそう思っている。
そういう中で、みなは、ジワジワと私に迫ってくる。
私はそれにジワジワと苦しめられる。

 が、それが今日という日を境に、終わる。
私は何もかもから解放されたい。
何もかもから、解放される。
法事の問題、墓の問題も、あるにはある。
あるが、いくらでも先延ばしにできる。

●ドラマ

 ところで昨日、郷里住むいとこと、2回、電話で話した。
どちらも1時間以上の長電話になった。
「明日、M町とは縁を切ってきます」と告げると、「それはよかったね」と。

 で、私は自分の心にけじめをつけるつもりで、今までの心境を語った。
弁解とか、言い訳とか、悪口とか、そういうのではない。
今さら私が苦しんだ話など、だれも聞きたがらない。
話しても意味はない。
いとこはいとこで、自分の経験を、あれこれとしてくれた。
それが参考になった。
心に染み入った。
懸命に生きてきた人には、懸命に生きてきた人のドラマがある。
私にもある。
そのドラマが、今、光り輝く。

●社会的重圧感

 金銭的負担感というよりは、社会的負担感。
負担感というよりは、重圧感。
40歳を過ぎるころから、私はそれに苦しんだ。
貪欲なまでに、私のお金(マネー)を求める母。
といっても、そのころになると、そのつど母は、私を泣き落とした。
一方、私は私で、いつしか、そういう母のやり方に疑念をもつようになった。

 疑念をもちながら、それでも仕送りを止めるわけにはいかない。
それが社会的負担感を増大させた。
実家へ向かうたび、私はどこかで覚えた経文を唱えずして、帰る
ことができなかった。

●不安

 が、不安がないわけではない。
親類がもつ濃密な人間関係は、ほかのものには換えがたい。
それを断ち切るには、それ自体、たいへんな勇気が必要。
断ち切ったとたん、そこに待っているのは、孤立感。
「私にはその孤立感と闘う力はあるのか」と、何度も自問する。
……というより、この10年をかけて、少しずつ、親類との縁を
切ってきた。

幸い、その分だけ、ワイフの兄弟たちとは、親しくさせてもらっている。
心の穏やかな、やさしい人たちである。
息子たちの結婚式など、そのつど、みな協力してくれた。
その温もりが、こういうときこそ、私を横から支えてくれる。

●真理

 そう言えば、今朝、目を覚ましたときのこと。
私の心がいつもになく、穏やかなことを知った。
たいてい……というより、ほとんど毎朝、私は旅行の夢で目が覚める。
が、今朝はちがった。
夢の内容は忘れたが、あのハラハラした気持ちはなかった。
そのかわりに、郷里の人たちが、みな、小さな、どこまでも
小さな人間に思われた。

 つい昨夜まで、心を包んでいたあの緊張感が、消えた。
「どういうことだろう?」と、自分に問いかけた。
いや、ときどき、そういうことはある。

 あるひとつのことで、緊張感が頂点に達したとき、突然、
目の前に、別の世界が広がる。
ひとつの(山)を乗り越えたような気分である。

 たとえば人を恨むことは、よくない。
しかし恨みも頂点に達すると、やがて心の水が枯れる。
枯れたとたん、その人を、別の心で包み込むことができる。
あマザーテレサも、同じようなことを言っている。

『愛して、愛して、愛し疲れるまで、相手を愛せよ』と。

 私はそこまで高邁な心境になることはできないが、マザーテレサの
言葉には、いつも真理が隠されている。


●さようなら、古里(3)

2009-09-06 13:31:35 | 日記
●運命

 そんなわけで、今、苦しみのどん底にいる人たちに、こんなことは
伝えられる。
 どんな問題でも、相手が人間なら、時間がかならず解決してくれる、と。
解決してくれるだけではない。
『時間は心の癒し人』。
心も癒してくれる。

 だからそこに運命を感じたら、あとは静かに身を負かす。
(運命)というのは、それに逆らえば、牙をむいて、その人に襲いかかってくる。
しかしひとたび受け入れてしまえば、尻尾を巻いて逃げていく。
もともと気が小さい。
臆病。
 
 私もある時期、母を恨んだ。
心底、恨んだ。
しかし私の家に住むようになった直後のこと。
下痢で汚れた母の尻を拭いたとたん、その恨みが消えた。
「こんなバーさんを、本気で相手にしていたのか」と。

 と、そのとき母は私にこう言った。
「お前にこんなことをしてもらうようになるとは思わないんだ」と。
それに答えて、私も、「ぼくも、あんたにこんなことをしてやるように
なるとは、思っていなかった」と。

 まだ正月気分も抜けやらない、1月のはじめの日のことだった。
 
●こうして人生は過ぎていく

 こうして人はやってきて、またどこかへと去っていく。
M町にしてみれば、私はただの通行人。
店先をのぞいて、そのまま通り過ぎる、通行人。
あの実家にしても、明日からは別の人が住み、別の生活が始まる。
みやげもの屋、もしくは町の案内所としては、最適。
実家は実家で、また別の人生を生きる。
あたかも何ごともなかったかのように……。

私「M町へ、再び行くようなことはあるだろうか」
ワ「……何か、あればね。今のあなたの気持ちとしては、もう
ないでしょうね」
私「何もなければいいけどね。行くとしても、素通りするよ」
ワ「そうね」と。

 電車は、豊橋を過ぎると、少しずつ混み始めた。
ちょうどラッシュアワーに重なった。
「名古屋を過ぎれば、またすいてくるよ」と私。
不思議なほど、心は静かなまま。
フ~~~ッと。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep 09++++++++はやし浩司

●本音と建前

+++++++++++++++++++

学生時代、オーストラリアの人たちはみな、
私に親切だった。
あの人口300万人と言われたメルボルン市でさえ、
日本人の留学生は、私、1人だけ。
もの珍しさもあったのかもしれない。

が、あるとき、どういうきっかけかは覚えていないが、
こう感じたことがある。
「友人としてつきあう分については、そうかもしれないが、
一線を越えたらそうではないだろうな」と。

++++++++++++++++++++++

●社会的距離尺度(ボガーダス)

 たとえば(結婚)。
(友人)としての範囲なら、親しく接してくれるオーストラリアの人たち。
しかしその範囲を越えて、たとえば(結婚)となったら、どうだろうか。
当時の状況からして、それはありえないことだった。

 1970年当時、白豪主義は、残っていた。
日本人は、まだ第二級人種と位置づけられていた。 
仮に相手がオーストラリア人であっても、第二級人種と結婚したばあい、
そのオーストラリア人も、第二級人種に格下げされた。

 こうした距離感を、「社会的距離尺度」(ボガーダス)という。
つまり表面的には受容的であっても、内面では、否定的。
その距離感のことをいう。
日本的に考えれば、(本音)と(建前)ということになる。

●心の遊び

 日本人には、うつ病の人は少ないと言われている。
その理由のひとつに、日本人の精神構造がダブルになっていることが
あげられる。
(本音)と(建前)というのが、それ。
表と裏を、うまく使い分ける。
それが心に穴をあける。
風通しをよくする。
悪く言えば、平気でウソをつく。
ウソをつきながら、自分をとがめない。

 一方、それに比較して、欧米人は、なにごとにつけ、ストレート。
日本的に本音と建前を使い分けると、「うそつき」というレッテルを
張られる。
その分だけ、心の(遊び)がない。
だからうつ病になりやすい。

●本音で生きる

 が、できれば、日本人の私たちも、できるだけ本音で生きるように
したい。
本音と建前を分ければ分けるほど、外から見ると、訳の分からない民族
ということになる。
その典型的な例というわけでもないが、よく話題になるのが、日本人の
(笑い)。

 よく電車に乗り遅れたような人が、プラットフォームで苦笑いするような
ことがある。
ああした(笑い)は、欧米人には理解できない。
最近ではぐんと少なくなったが、デッドボールを当てたピッチャーが苦笑いを
するのもそれ。

 内心と表情が、別々の反応を示す。
いやなヤツと思っていても、ニコニコと笑いながら接する。
そういう場面は多い。
しかしそういう生き様は、時分自身を見苦しくする。
あとで振り返っても、後味が悪い。

●「自分の心を偽るな!」

 平たく言えば、「どうすれば社会的距離尺度を、短くすることが
できるか」ということ。
で、私はここ1年ほど、子どもたちを指導しながら、こんなことに
注意している。

 幼稚園の年中児でも、「君たちは、おっぱいが好きか?」と聞くと、
みな、恥ずかしそうな顔をして、こう言う。
「嫌いだよ~」「いやだよ~」と。

 そこですかさず私は、真顔で、子どもたちを叱る。

「ウソをつくな!」「好きだったら、好きと言え!」
「自分の心を偽るな!」と。

 2、3度、真剣にそう叱ると、子どもたちはみな、
「好きだよ~」と、小さな声で答える。
つまり日本人独特の、本音と建前は、こうして生まれ、
子どもたちの心に根付く。
(少し大げさかな?)

●本音で生きよう

 本音で生きるということは、勇気がいる。
しかしその分だけ、人生がわかりやすくなる。
すがすがしくなる。

 自分を飾ったり、ごまかしても、意味がない。
後味が悪いだけ。
どうせ一回しかない人生。
だったら、思う存分、本音で生きてみる。
ものを書く立場で言うなら、ありのままをありのままに書く。
こう書くからといって、誤解しないでほしい。
読者あっての(文章)だが、このところ読者の目は、ほとんど
気にしていない。
読んでくれる人がいるなら、それでよし。
読んでくれなくても、それでもよい、と。

 どう判断されようが、私の知ったことではない。
(自分の力では、どうしようもないが・・・。)
大切なことは、こうして懸命に生きている人間がいること、
……過去にいたことを、何らかの形で、だれかに伝えること。
それができれば、御の字。
それ以上、何を望むことができるというのか?

(つい先週も、40年来の友人から、こんなメールが届いた。
「君はプライベートなことを書いているが、気にしないのか」と。)

 話はそれたが、本音で生きるということには、そういう意味も
含まれる。
余計なことかもしれないが……。


Hiroshi Hayashi++++++++SEP.09+++++++++はやし浩司

●夢判断

++++++++++++++++++++

夢判断というのは、たしかにある。
私にとっては、2009年9月2日は、心の大きな転機になった。
そのせいだろうと思うが、その日を境に、夢の内容が、がらりと変わった。

それまでは夢といえば、旅行先の夢ばかりだった。
どこかの旅館やホテルにいて、帰りのバスや飛行機の時刻を心配する
そんな夢ばかりだった。

おかしなことに、夢の、こまかい部分については、そのつど、ちがった。
同じ内容の夢を見ることは、ほとんどない。

が、9月3日は、忘れたが、旅行の夢ではなかった。
9月4日は、兄の夢。
9月5日も忘れたが、旅行の夢ではなかった。
9月6日、つまり今朝は、浜松の自宅に、生徒たちが遊びに来た夢。

夢の内容を判断するかぎり、私の心境は、大きく変化した。

++++++++++++++++++++

●深層心理

 心の奥底にあって、人間の意思や意識をコントロールする。
それが深層心理ということになる。
人間のばあい、(人間だけにかぎらないのだろうが)、深層心理のほうが分量的にも、
はるかに大きい。

 一説によれば、脳の中で意識として活動している部分は、脳全体の20万分の1
程度という。
何かの本でそう読んだ。

 つまり私たちの意識は、その20万倍もの無意識や潜在意識によって支配
されている。
私が毎晩、ちがった夢を20年間見たとしても、365x20=7300。
20万倍には、遠く及ばない。

 わかりやすく言えば、私たちの意識は、常に、無意識や潜在意識によって
支配され、コントロールされている。
私が旅行先の夢を見るのは、焦燥感、不安感、心配、不信感などが、ベース
になっているからと考えてよい。
が、それが消えた。

●墓参り

 そのうち心境が変化するかもしれない。
しかし今の私には、墓参りをするという意識そのものがない。
祖父も、父も、墓参りだけは、したことがない。
墓参りした姿さえ、記憶にない。
理由はわからない。

 が、墓参りを大切にしている人もいる。
人は、人それぞれだし、それぞれの思いの中で、墓参りをする。
私がしないからといって、それでもって他人のことをとやかく言っては
いけない。
が、同時に、自分が墓参りするからといって、私のことをとやかく言って
ほしくはない。
私は、私。
それでバチ(?)なるものが当たるとしたら、それは私のバチ。
あなたには関係のないこと。

 ただ言えることは、合理的に考えれば、遺骨に霊(スピリチュアル)が
宿るということは、ありえない。
人間の肉体は、骨も含めて、常に新しく生まれ、そして死ぬ。
もし魂が宿るとしたら、むしろ脳みそということになる。
心臓でもよい。
しかし脳みそや心臓は、保存には適さない。
だから「骨」あるいは「髪の毛」ということになった。

 言うなれば、人間のご都合主義が、「骨」にした。

●それぞれの思い

 話はそれたが、墓参りを熱心にする人というのは、何かしらの
(わだかまり)が、心の奥にあるためではないか。
罪滅ぼし?
懺悔?
後悔?
うしろめたさ?
何でもよい。

 こう決めてかかると、墓参りを熱心にしている人に対して失礼な
言い方になるかもしれない。
多くの人は、故人をしのび、故人を供養するために、墓参りをする。
「先祖を祭り、大切にするため」と主張する人もいる。
それはそれでわかる。

 しかし私は墓参りも、自然体でよいのではないかと考える。
参りたいと思うときに、参ればよい。
もちろんそれぞれの思いに従えばよい。
罪滅ぼしであっても、また故人の供養でもよい。

ただ遺骨に、必要以上の意味をもたせることは、好ましいことではない。
もっと言えば、墓参りをすることによって、「今」そのものを見失って
しまう。
こんな女性(60歳くらい、当時)がいた。

 その女性の母親が生きている間は、虐待に近い虐待を繰り返していた。
で、その母親は、ある寒い冬の夜、「ふとんの中で眠ったまま」(その
女性の言葉)、死んでしまった。

 その女性の墓参りがつづくようになったのは、しばらくしてからのこと
だった。
一説によると、夜な夜な、母の亡霊が枕元に立ったからという。
あるいはその女性は、罪の意識に苛(さいな)まれたのかもしれない。
それで墓参りをするようになった(?)。

 よくある話である。

●今が大切

 死者を弔うことも大切だが、それ以上に、はるかに大切なことは、
「今」を大切にすること。
これは私の人生観とも深くからんでいるが、母を介護しているときにも、
それを強く感じた。

 介護といっても、そのつど、多額の介護費用などがかかる。
救急車で病院へ一度運んでもらえば、救急車代は別としても、1回につき、
10万円前後の検査費、入院費、治療費がかかった。

 しかしそういう費用が、惜しいとか、そういうふうに考えたことは一度も
ない。
「高額だな」と反感を覚えたことはあるが、それは医療体制に対しての
ものであって、母に対してではない。

 しかし今、法事に、読経をしてもらうだけで、1回5万円ということに
ついては、矛盾というより、バカらしさを覚える。
信仰心のあるなしとは、関係ない。
まただからといって、母の死を軽んじているわけでもない。
この落差というか、(心の変化)を、どう私は理解したらよいのか。

 同じように、私は、「今」を生きている。
懸命に生きている。
もし息子たちに、私やワイフを大切にしてくれる気持ちが少しでもあるなら、
今の私たちを大切にしてほしい。
死んでから、墓参りに来てくれても、うれしくはないし、またそんな
ことをしてくれても、私には意味はない。
またそれで私が地獄へ落ちるとしたら、仏教のほうがまちがっている。
カルト以下のカルト。

 供養するかしないかは、あくまでも(心)の問題。
心があれば、毎日だって墓参りをすればよい。
また心があるなら、墓参りなどしなくても、どこにいても、供養はできる。

 この3日間、いろいろと考えた。
私には、収穫の多い、3日間だった。