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子育て最前線の育児論byはやし浩司 09年 9月 25日
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http://bwhayashi2.fc2web.com/page013.html
メルマガ(6万3000誌)の中で、2008年度、メルマガ・オブ・ザ・イヤーに
選ばれました!
【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
●クレヨンしんちゃん
++++++++++++++++++
ある高校生から、掲示板のほうに、
こんな書きこみがあった。
【Tさんより、はやし浩司へ】
私は、高校2年生の遠山です。
今私は放送部に所属しています。
毎年秋のアナウンス大会では、「自分の住んでいる県または市について」という題で
原稿を書いています。そこで今年は私が住んでいる埼玉県の話ということで春日部市が
舞台になっているクレヨンしんちゃんについて書こうと思っています。
理由は、私自身が昔からしんちゃんが好きだという気持ちもあるのですが、しんちゃんの
育児教育についてテレビで目にしたからです。この大会の原稿というのは、ただ単に地元
話題を書くだけではなく、その話題の内容を含めて日本の社会のありかたなど、誰が聞いてもためになる話であったり、理解され受け入れてくれる話でなければいけないのです。
私は、クレヨンしんちゃんの面白さ以外の意味をこの年になって初めて知りました。この
しんちゃんのもうひとつの意味をみんなに知って欲しい(特に同年代の人に)と思ってい
ます。
もしよければはやし先生にクレヨンしんちゃんの親と子の関係の良さと、現代の日本の教
育との関係などについてお答えいただければと思っております。
せっかくの子供の教育についてのご相談の場所においてこのような質問をし、大変申し訳
ございません。是非ともお答えのほうよろしくお願いいたします。
【はやし浩司より、Tさんへ】
クレヨンしんちゃんについては、大きな誤解があります。
テレビのアニメ番組について、「子どもに見せたくない番組」のワーストワンに
あげられることもしばしばです。
しかしもしあなたが、コミック本のほうの、Vol.1~12前後まで読まれたら、印象は
大きく変わるでしょう。
そういう点では、テレビのアニメ番組のほうは、ギャグ化され、しんのすけ君の悪い面ば
かりが、おもしろおかしく、誇張されすぎています。
とても残念に思っています。
いくつか、よい点をあげてみます。
(1)最近、しんのすけ君のようなたくましい男児が、減っている。(男児の女児化が問題
になって、すでに20年以上になる。母親中心の育児環境が、男児の女児化を促進
してしまった。)
(2)みさえさんの育児観がすばらしい。(夫に対しても、しんのすけ君に対しても、全幅
に心を開いている。基本的信頼関係の構築という点では、世の母親たちは、おおい
にに見習うべき。言い換えると、心を閉ざした育児ほど、子どもに悪影響を与える
ものはない。)
(3)育児のたいへんさをうまく表現している。(育児は、それ自体重労働。たいへんな重
労働。それを世の男性諸君は、知らなさすぎる。『男は仕事、女は家庭、育児』と安
易に考えすぎている。)
(4)みさえさんの生きざまは、新しい母親像の見本。(とくに新潟と九州の父親とのやり
取りが、おもしろい。相手が舅(しゅうと)といっても、遠慮する必要はない。今、
舅、姑との確執問題で悩んでいる若い母親が多い。おおいに参考にしたらよい。)
(5)友だち親子。(みさえやヒロシは、しんのすけを、1人の人間として、その人格を尊
重している。こうした育児観は日本人にはないもの。つまり日本の親たちは、「友」
として子どもの横に立つという習慣をもっていない。そういう点で、野原家の育児
論は、参考になる。
(6)子どもらしい性への疑問と関心。(コミック本のほうでは、しんのすけ君の、性への
疑問と関心が、実にうまく生き生きと描かれている。Vol1~12あたりまでは、臼井
家族の実体験的なコミックと考えてよい。私も幼児を教えて40年以上になるが、
読んでいて、違和感がないのは、そのため。ただし繰り返すが、テレビのアニメ番
組のほうは、たしかによくない。制作を担当しているプロダクションが勝手に料理
しすぎているためでは!)
ほかにもいろいろよい点はたくさんあります。
小生の「野原家の育児論」を参考にしてください。
なおこの文中では、急いで書いたため、固有名詞、名前など、まちがっているところがあ
るかもしれません。
(はやし浩司曰く……)と断りを入れてくださるなら、ここに書いた原稿を、自由に使っ
ていただいて、結構です。
参考……
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page065.html
では、はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 クレヨンしんちゃん・野原家の子育て論)
【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【たぬき村】(改作・追加)
●あいさつ
++++++++++++++++++
ムカ~シ(昔)といっても、今の時代だが、
あるところに、「たぬき村」という村があった。……ある。
そこでは、何が本当で、何がウソか、まったくわからない。
虚々実々。
たとえば村の人たちの交わすあいさつにしても、こうだ。
「よお、うちで、昼飯でも食っていかんけエ?」と声をかける。
これに答えて、声をかけられたほうは、
「悪いのオ、今、食べてきたところでのオ」と。
昼飯を誘う方も、本気で誘っているのではない。
形だけ。
本気で、「昼飯を食っていけ」と言っているのではない。
あくまでもあいさつ。
言われたほうも、それをよく承知している。
いくら空腹でも、そう答える。
「食べてきたところでのオ」と。
そのあたりでは、どこの家も、昼は茶漬けですますという習慣がある。
食事らしい食事を用意している家など、ない。
本当に相手が、「食べていこうか」などとでも答えたら、さあ、たいへん。
上を下をの、大騒ぎになる。
で、たぬき村。
その物語。
始まり、始まり……。
++++++++++++++++++
●村の習慣
うまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
食べ方は同じだが、中身がちがう。
うまいものを食べているのを知られると、「ぜいたく」と叱られる。
まずいものを食べているのを知られると、「貧乏」と笑われる。
だからうまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
それがその村の習慣。
みながそうしているから、ひとりだけ別行動と言うわけにはいかない。
別行動をしたとたん、「変わり者」というレッテルを張られる。
さらにさからえば、あの恐ろしい「村八分」。
村八分が待っている!
●詮索
村の人たちは、詮索しあって生きている。
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と、だれも、口にこそ出しては言わないが、
みな、そう思っている。
で、ひとたび、どこかの家で不幸な話があると、またたく間に、村中に広がる。
「ああ、あわれや、あわれや……。Aさんとこの息子は、傷害事件を起こし、今度
高校を退学になったそうや……。ああ、あわれや。かわいそうや」と。
ときに涙声になるが、もちろん、涙は一滴も出ない。
あるいはよく使う言葉が、これ。
「ここだけの話ですがね……」
「あの人の悪口だけは言いたくないのですがね……」
「私はどちらでもいいと思っているのですが、村の人ほかのたちは、
何と言いますかねエ……」と。
●相対的価値観
だからたぬき村の人たちは、たがいの家の内情を、たいへんよく知っている。
昔から『米櫃(びつ)の中の、米の数まで知っている』というが、それはけっして
おおげさな言い方ではない。
それこそ息子や娘たちの給料の明細まで、知っている。
現金収入、アルバイト収入、副収入……。
すべて知っている。
そしてたぬき村での幸福感は、相対的なもの。
「他人より、よい生活ができれば、リッチ、幸福」
「他人より、悪い生活になれば、プア、不幸」と。
だから隣人の生活が気になる。
気になってしかたない。
そして最後は、こうなる。
『みんなで渡れば怖くない』
『出る釘は打たれる』
『渡る世間は、鬼ばかり』と。
それがたぬき村の処世術。
●ドロドロした人間関係
年功序列、上下意識、権威主義、家父長意識、加えて「家」意識。
たぬき村には、みな、残っている。
封建時代の邑(むら)意識が、そのまま、残っている。
しっかりと残っている。
たぬき村には、「正直」「誠実」という言葉は、ない。
あるとすれば……、
『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『小善をなして、善人ぶる』
『建前で本音を隠す』などなど。
ついでに『面従腹背』というのもある。
表面的にはにこやかにつきあいながら、裏で足を引きあう。
のどかな、のどかな、どこまでも牧歌的な温もりのする世界だが、
その皮を一枚むけば、そこにあるのはドロドロした人関係。
それが底なしに渦巻いている。
●嫉妬と見栄
たぬき村の人は、概して言えば、嫉妬深い。
それが先に書いた、足の引きあいということになる。
驚くなかれ、たぬき村では、「香典抜き」は、日常茶飯事。
だれかが亡くなって葬式になったとする。
で、そういうとき、香典を、ぜったいに村の人に預けてはいけない。
頼んでもいけない。
3万円の香典が、1万円に化けるなどということは、当たり前。
中には、香典そのものをかすめてしまう人もいる。
遠方に住む親類からの送金については、なおさらである。
……こんなことを書くと、「そんなことをすれば、すぐバレてしまうでしょう」
と思う人もいるかもしれない。
しかしそこはたぬき村。
香典抜きをするにしても、たがいの微妙な人間関係を知り尽くした上でする。
たがいに連絡を取り合うことはないだろうということを知り尽くした上で、それを
する。
●口がうまい
たぬき村の人は、口がうまい。
お世辞、へつらい、おじょうずは、日常の会話。
「あなたが今度、祭の役人に加わってくださったら、みんな、喜びますよ。
なんといっても、あなたがこの村の立役者ですから」と。
で、その人がその気になって祭の会合に出ても、その話はいっさい、なし。
どこかみな、シラーとしている。
が、こんな程度のことで、腹を立てていたら、村の人たちとのつきあいはできない。
「そういうもの」と割り切ってつきあうしかない。
だから会合に誘ってくれた人には、こう言って言い返す。
「みんな楽しそうですね。いい雰囲気です。何といっても、祭は祭りですから……」と。
ついでにカラ笑いをしてみせる。
カラカラと豪快に、カラ笑いをしてみせるほど、よい。
●新しく薬局が開店
そんな村に大異変が起きた。
「田舎暮らし」キャンペーンとかなんとかに踊らされた、1人の都会人が、
その村に移住してきた。
村のはずれに、薬局を開いた。
元、薬剤師の男性だった。
その男性は、近所のあちこちを回り、それなりに礼を尽くした。
しかし開店当日から、客はゼロ。
あの手この手で、宣伝に努めたが、(もちろん価格も安くしたが……)、
客はゼロ。
それもそのはず。
その村には、もう一軒、薬局というより、昔からの小さな薬屋があった。
その薬屋の経営者が、その村でも長老格の親分だった。
村の人たちは、無言の圧力を感じて、新しい薬局へ入ることができなかった。
●浜松市
日本もまだまだ、広い。
つまい地域によっては、こうしたウソがまったく通用しない地域もある。
たとえば私が現在住んでいる浜松市の人たちは、ものの考え方がストレート。
もの売買でも、駆け引きをしない。
ものを買うとき、それを値切る人はいない。
口もへただし、おじょうずも言わない。
私もこの町に住んで40年近くになる。
当初はあれこれ、戸惑ったこともあるが、今は、この町が好き。
すがすがしさを覚える。
この町では、なにかにつけ、相手が言った通りのことをすればよい。
私の義兄、義姉にしても、みな、そうだ。
私のワイフなど、とくにそうだ。
また同じ「村」といっても、浜松市周辺の村々は、たいへんわかりやすい。
ときに、それを冷たく感ずることもあるが、そのほうが気が楽。
そんなある日、ワイフと私が、たぬき村にある、一軒の家に一泊することになった。
●タクシー
ある出版社の編集部長の紹介で、M氏という人の家に一泊することになった。
編集部長の母親の実家だった。
「その村のレポートを書いてほしい」と頼まれて、一泊することになった。
が、居心地はよくなかった。
で、朝になって帰る支度をしているときのこと。
私がM氏の妻に、こう頼んだ。
「今なら10時ごろの電車に間に合いますから、タクシーを呼んでくれませんか」と。
たぬき村から、JRのN駅までは、車でちょうど1時間。
帰り支度をしていると、そこでM氏がやってきた。
そして私にこう言った。
「なあ、あんたさん、そのタクシー代、私にくれんかね?
私が駅まで送ってやるに」と。
この言葉には、言いようのない不快感を覚えた。
タクシー代といっても、8000円前後。
そのタクシー代を、「くれんかね?」と。
私は、その申し出を、ていねいに断った。
そうそう、その朝、こんなこともあった。
「電車の時刻もあるから、私は、朝食は結構ですと断った。
しかし、である。
さあ、M氏の家を出ようとすると、そこに朝食が用意してあった。
私が「朝食は食べないと言ったつもりですが……」と言うと、M氏の
妻(50歳くらい)はこう言った。
「まあ、そんなこと言わんでもいいから、食べていきなさい。
また来てもらわねばならなんから」と。
一事が万事というか、たぬき村では、日本語が通じない。
みな、それぞれが、自分流のやり方で動いてしまう。
「この村の人たちは、何を考えているか、さっぱりわからない」と。
私はふと、タクシーの中で、そう漏らした。
そう、まったくわからない。
だから「たぬき村」。
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●クレヨンしんちゃん
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ある高校生から、掲示板のほうに、
こんな書きこみがあった。
【Tさんより、はやし浩司へ】
私は、高校2年生の遠山です。
今私は放送部に所属しています。
毎年秋のアナウンス大会では、「自分の住んでいる県または市について」という題で
原稿を書いています。そこで今年は私が住んでいる埼玉県の話ということで春日部市が
舞台になっているクレヨンしんちゃんについて書こうと思っています。
理由は、私自身が昔からしんちゃんが好きだという気持ちもあるのですが、しんちゃんの
育児教育についてテレビで目にしたからです。この大会の原稿というのは、ただ単に地元
話題を書くだけではなく、その話題の内容を含めて日本の社会のありかたなど、誰が聞いてもためになる話であったり、理解され受け入れてくれる話でなければいけないのです。
私は、クレヨンしんちゃんの面白さ以外の意味をこの年になって初めて知りました。この
しんちゃんのもうひとつの意味をみんなに知って欲しい(特に同年代の人に)と思ってい
ます。
もしよければはやし先生にクレヨンしんちゃんの親と子の関係の良さと、現代の日本の教
育との関係などについてお答えいただければと思っております。
せっかくの子供の教育についてのご相談の場所においてこのような質問をし、大変申し訳
ございません。是非ともお答えのほうよろしくお願いいたします。
【はやし浩司より、Tさんへ】
クレヨンしんちゃんについては、大きな誤解があります。
テレビのアニメ番組について、「子どもに見せたくない番組」のワーストワンに
あげられることもしばしばです。
しかしもしあなたが、コミック本のほうの、Vol.1~12前後まで読まれたら、印象は
大きく変わるでしょう。
そういう点では、テレビのアニメ番組のほうは、ギャグ化され、しんのすけ君の悪い面ば
かりが、おもしろおかしく、誇張されすぎています。
とても残念に思っています。
いくつか、よい点をあげてみます。
(1)最近、しんのすけ君のようなたくましい男児が、減っている。(男児の女児化が問題
になって、すでに20年以上になる。母親中心の育児環境が、男児の女児化を促進
してしまった。)
(2)みさえさんの育児観がすばらしい。(夫に対しても、しんのすけ君に対しても、全幅
に心を開いている。基本的信頼関係の構築という点では、世の母親たちは、おおい
にに見習うべき。言い換えると、心を閉ざした育児ほど、子どもに悪影響を与える
ものはない。)
(3)育児のたいへんさをうまく表現している。(育児は、それ自体重労働。たいへんな重
労働。それを世の男性諸君は、知らなさすぎる。『男は仕事、女は家庭、育児』と安
易に考えすぎている。)
(4)みさえさんの生きざまは、新しい母親像の見本。(とくに新潟と九州の父親とのやり
取りが、おもしろい。相手が舅(しゅうと)といっても、遠慮する必要はない。今、
舅、姑との確執問題で悩んでいる若い母親が多い。おおいに参考にしたらよい。)
(5)友だち親子。(みさえやヒロシは、しんのすけを、1人の人間として、その人格を尊
重している。こうした育児観は日本人にはないもの。つまり日本の親たちは、「友」
として子どもの横に立つという習慣をもっていない。そういう点で、野原家の育児
論は、参考になる。
(6)子どもらしい性への疑問と関心。(コミック本のほうでは、しんのすけ君の、性への
疑問と関心が、実にうまく生き生きと描かれている。Vol1~12あたりまでは、臼井
家族の実体験的なコミックと考えてよい。私も幼児を教えて40年以上になるが、
読んでいて、違和感がないのは、そのため。ただし繰り返すが、テレビのアニメ番
組のほうは、たしかによくない。制作を担当しているプロダクションが勝手に料理
しすぎているためでは!)
ほかにもいろいろよい点はたくさんあります。
小生の「野原家の育児論」を参考にしてください。
なおこの文中では、急いで書いたため、固有名詞、名前など、まちがっているところがあ
るかもしれません。
(はやし浩司曰く……)と断りを入れてくださるなら、ここに書いた原稿を、自由に使っ
ていただいて、結構です。
参考……
http://shizuoka.cool.ne.jp/bwhayashi/page065.html
では、はやし浩司
(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司
BW はやし浩司 クレヨンしんちゃん・野原家の子育て論)
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【たぬき村】(改作・追加)
●あいさつ
++++++++++++++++++
ムカ~シ(昔)といっても、今の時代だが、
あるところに、「たぬき村」という村があった。……ある。
そこでは、何が本当で、何がウソか、まったくわからない。
虚々実々。
たとえば村の人たちの交わすあいさつにしても、こうだ。
「よお、うちで、昼飯でも食っていかんけエ?」と声をかける。
これに答えて、声をかけられたほうは、
「悪いのオ、今、食べてきたところでのオ」と。
昼飯を誘う方も、本気で誘っているのではない。
形だけ。
本気で、「昼飯を食っていけ」と言っているのではない。
あくまでもあいさつ。
言われたほうも、それをよく承知している。
いくら空腹でも、そう答える。
「食べてきたところでのオ」と。
そのあたりでは、どこの家も、昼は茶漬けですますという習慣がある。
食事らしい食事を用意している家など、ない。
本当に相手が、「食べていこうか」などとでも答えたら、さあ、たいへん。
上を下をの、大騒ぎになる。
で、たぬき村。
その物語。
始まり、始まり……。
++++++++++++++++++
●村の習慣
うまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
食べ方は同じだが、中身がちがう。
うまいものを食べているのを知られると、「ぜいたく」と叱られる。
まずいものを食べているのを知られると、「貧乏」と笑われる。
だからうまいものは、隠れて食べる。
まずいものは、隠して食べる。
それがその村の習慣。
みながそうしているから、ひとりだけ別行動と言うわけにはいかない。
別行動をしたとたん、「変わり者」というレッテルを張られる。
さらにさからえば、あの恐ろしい「村八分」。
村八分が待っている!
●詮索
村の人たちは、詮索しあって生きている。
「他人の不幸話ほど、おもしろいものはない」と、だれも、口にこそ出しては言わないが、
みな、そう思っている。
で、ひとたび、どこかの家で不幸な話があると、またたく間に、村中に広がる。
「ああ、あわれや、あわれや……。Aさんとこの息子は、傷害事件を起こし、今度
高校を退学になったそうや……。ああ、あわれや。かわいそうや」と。
ときに涙声になるが、もちろん、涙は一滴も出ない。
あるいはよく使う言葉が、これ。
「ここだけの話ですがね……」
「あの人の悪口だけは言いたくないのですがね……」
「私はどちらでもいいと思っているのですが、村の人ほかのたちは、
何と言いますかねエ……」と。
●相対的価値観
だからたぬき村の人たちは、たがいの家の内情を、たいへんよく知っている。
昔から『米櫃(びつ)の中の、米の数まで知っている』というが、それはけっして
おおげさな言い方ではない。
それこそ息子や娘たちの給料の明細まで、知っている。
現金収入、アルバイト収入、副収入……。
すべて知っている。
そしてたぬき村での幸福感は、相対的なもの。
「他人より、よい生活ができれば、リッチ、幸福」
「他人より、悪い生活になれば、プア、不幸」と。
だから隣人の生活が気になる。
気になってしかたない。
そして最後は、こうなる。
『みんなで渡れば怖くない』
『出る釘は打たれる』
『渡る世間は、鬼ばかり』と。
それがたぬき村の処世術。
●ドロドロした人間関係
年功序列、上下意識、権威主義、家父長意識、加えて「家」意識。
たぬき村には、みな、残っている。
封建時代の邑(むら)意識が、そのまま、残っている。
しっかりと残っている。
たぬき村には、「正直」「誠実」という言葉は、ない。
あるとすれば……、
『小悪を暴露して、大悪を隠す』
『小善をなして、善人ぶる』
『建前で本音を隠す』などなど。
ついでに『面従腹背』というのもある。
表面的にはにこやかにつきあいながら、裏で足を引きあう。
のどかな、のどかな、どこまでも牧歌的な温もりのする世界だが、
その皮を一枚むけば、そこにあるのはドロドロした人関係。
それが底なしに渦巻いている。
●嫉妬と見栄
たぬき村の人は、概して言えば、嫉妬深い。
それが先に書いた、足の引きあいということになる。
驚くなかれ、たぬき村では、「香典抜き」は、日常茶飯事。
だれかが亡くなって葬式になったとする。
で、そういうとき、香典を、ぜったいに村の人に預けてはいけない。
頼んでもいけない。
3万円の香典が、1万円に化けるなどということは、当たり前。
中には、香典そのものをかすめてしまう人もいる。
遠方に住む親類からの送金については、なおさらである。
……こんなことを書くと、「そんなことをすれば、すぐバレてしまうでしょう」
と思う人もいるかもしれない。
しかしそこはたぬき村。
香典抜きをするにしても、たがいの微妙な人間関係を知り尽くした上でする。
たがいに連絡を取り合うことはないだろうということを知り尽くした上で、それを
する。
●口がうまい
たぬき村の人は、口がうまい。
お世辞、へつらい、おじょうずは、日常の会話。
「あなたが今度、祭の役人に加わってくださったら、みんな、喜びますよ。
なんといっても、あなたがこの村の立役者ですから」と。
で、その人がその気になって祭の会合に出ても、その話はいっさい、なし。
どこかみな、シラーとしている。
が、こんな程度のことで、腹を立てていたら、村の人たちとのつきあいはできない。
「そういうもの」と割り切ってつきあうしかない。
だから会合に誘ってくれた人には、こう言って言い返す。
「みんな楽しそうですね。いい雰囲気です。何といっても、祭は祭りですから……」と。
ついでにカラ笑いをしてみせる。
カラカラと豪快に、カラ笑いをしてみせるほど、よい。
●新しく薬局が開店
そんな村に大異変が起きた。
「田舎暮らし」キャンペーンとかなんとかに踊らされた、1人の都会人が、
その村に移住してきた。
村のはずれに、薬局を開いた。
元、薬剤師の男性だった。
その男性は、近所のあちこちを回り、それなりに礼を尽くした。
しかし開店当日から、客はゼロ。
あの手この手で、宣伝に努めたが、(もちろん価格も安くしたが……)、
客はゼロ。
それもそのはず。
その村には、もう一軒、薬局というより、昔からの小さな薬屋があった。
その薬屋の経営者が、その村でも長老格の親分だった。
村の人たちは、無言の圧力を感じて、新しい薬局へ入ることができなかった。
●浜松市
日本もまだまだ、広い。
つまい地域によっては、こうしたウソがまったく通用しない地域もある。
たとえば私が現在住んでいる浜松市の人たちは、ものの考え方がストレート。
もの売買でも、駆け引きをしない。
ものを買うとき、それを値切る人はいない。
口もへただし、おじょうずも言わない。
私もこの町に住んで40年近くになる。
当初はあれこれ、戸惑ったこともあるが、今は、この町が好き。
すがすがしさを覚える。
この町では、なにかにつけ、相手が言った通りのことをすればよい。
私の義兄、義姉にしても、みな、そうだ。
私のワイフなど、とくにそうだ。
また同じ「村」といっても、浜松市周辺の村々は、たいへんわかりやすい。
ときに、それを冷たく感ずることもあるが、そのほうが気が楽。
そんなある日、ワイフと私が、たぬき村にある、一軒の家に一泊することになった。
●タクシー
ある出版社の編集部長の紹介で、M氏という人の家に一泊することになった。
編集部長の母親の実家だった。
「その村のレポートを書いてほしい」と頼まれて、一泊することになった。
が、居心地はよくなかった。
で、朝になって帰る支度をしているときのこと。
私がM氏の妻に、こう頼んだ。
「今なら10時ごろの電車に間に合いますから、タクシーを呼んでくれませんか」と。
たぬき村から、JRのN駅までは、車でちょうど1時間。
帰り支度をしていると、そこでM氏がやってきた。
そして私にこう言った。
「なあ、あんたさん、そのタクシー代、私にくれんかね?
私が駅まで送ってやるに」と。
この言葉には、言いようのない不快感を覚えた。
タクシー代といっても、8000円前後。
そのタクシー代を、「くれんかね?」と。
私は、その申し出を、ていねいに断った。
そうそう、その朝、こんなこともあった。
「電車の時刻もあるから、私は、朝食は結構ですと断った。
しかし、である。
さあ、M氏の家を出ようとすると、そこに朝食が用意してあった。
私が「朝食は食べないと言ったつもりですが……」と言うと、M氏の
妻(50歳くらい)はこう言った。
「まあ、そんなこと言わんでもいいから、食べていきなさい。
また来てもらわねばならなんから」と。
一事が万事というか、たぬき村では、日本語が通じない。
みな、それぞれが、自分流のやり方で動いてしまう。
「この村の人たちは、何を考えているか、さっぱりわからない」と。
私はふと、タクシーの中で、そう漏らした。
そう、まったくわからない。
だから「たぬき村」。